ブログ一覧

iphone購入を機に

 私と同年代の高齢者の場合、スマホを持っているかいないか。使いこなせるかどうか、で、その人が世の流れに沿っているかどうかが分かる、とおもう。

 私は一年前まではスマホを持っていなかった。が、必要にかられて携帯をスマホに変えた。必要にかられたというのは、民宿とキャンプ場を運営するようになって、パソコンだけでは困ることが出てきたからある。

 例えば外出したとき民宿やキャンプの予約が入ってもすぐに対応できない。外国の宿泊予約サイトAirbnbでは対応が遅れると評価が下がってしまうということが分かった。それで、スマホを購入することに決めたのである。

 プロバイダに何がしかの月額料金を払い、宿泊予約サイトからのメールをパソコンだけではなく、スマホにも入るように登録した。これで、外出していてもスマホで確認してリアルタイムに対応することが可能になった。以後しょっちゅうパソコンに張りついている必要がなくなったのだった。

 私と同年代の高齢世代にはスマホは難しいという先入観が壁となって、特に必要性もないというおもいも重なって、導入しないというのが一般的だろう。しかし、時代はスマホの進化とともに移行していて、スマホが使いこなせなければ時代に乗り遅れてしまう。スマホを持ってみて、そう実感した。しかし、スマホを持っていない人にはそのことが分かっていない、とおもう。携帯電話を、要するにガラケーだが、持っていれば不都合はないとおもっているのかもしれないが、ガラケーは2026年には廃止になってしまうのだ。

 私の場合は幸いにもパソコンに親しんできたのでスマホの操作は数日でマスターすることが出来た。

 そして、スマホをそばにおけば、便利なことが多いことが次第に分かってきた。たとえば天気予報などおもいついたときすぐにチェックできる。分からない漢字があればすぐに検索に、例えば「なんかい」と入れれば「何回、何階、難解」と出てくるので、ああそうか、「難解」と書けばいい、と分かるのだ。辞書で調べるよりもずっと早いし、楽だ。調べたいことがあれば、電車の時刻表であれ、郵便番号であれ、目的地への道順であれ、外国のことであれ、調べられることは数限りなくある。小説も読めれば、映画も見られる。だからスマホを使いこなせれば格段に世界が拡がるのである。

 さて、私の同居人である相方がアロエのネットワークを手掛けていて、ここでもスマホがある基準となっている。

――スマホをある程度使いこなせなければ、ネットワークで成功することはむずかしい

 ということは確実に言えるようである。

 彼女が付き合っているネットワークである程度の実績を残している人は、例外なくスマホを使いこなしている。スマホを持っていない人など皆無である。相方のすぐ上のリーダーはスマホに加えてIpadを駆使して、グループの人たちのフォローに余念がないのだ。

 私の周囲のアロエの愛用者を見ると、スマホを持っている人は5人に1人の割合ぐらいしかいない。要するに高齢者が多いのだが、5人中4人はガラケーである。中にはガラケーすら持っていない人もいる。アロエを愛用していない人も同じような傾向だ。

 ガラケーの人と話しても通じないことが多い。ガラケーの人は昔ながらのこと縛られていて、そこから抜け出そうとはしない。だから新しい話題には疎いし、興味を示さない。誘っても新しいことに挑戦する人は少ない。誘うと嫌がる。嫌がるどころかそのことをきっかけに離れていく人すらいる。要するに保守的なのだ。

 しかし、このところ周辺に変化の兆しが見られる。

 相方のネットワークはコロナ感染騒動以来、インターネットでZoomというアプリを使ってのオンライン会議や集会となったのだが、これまではスマホに見向きもしなかった方が、スマホを購入したのである。必要にかられ、また、世の流れに遅れてはいけないと気づいたのだろう。

 相方自身はZoomをより利用しやすくと、iphoneとipadを両方購入した。そして、ネットワーク仲間に、スマホがいかに必要かつ重要かを熱を込めて説いたのだった。その心を込めた説得に、心動かされたに違いない。

 結果、一人の方はこんな世の先端をいく電子機器を使えるようになって嬉しいと嬉々として語り、以来Zoomでの集会に参加するようになったのだった。もう一人の方はまだ十分にはスマホを使いこなせてはいないが、メールやLINEというアプリを使って、相方としょっちゅう連絡を取るようになった。もう二人の方は近いうちにスマホでの集会に参加するようになるに違いない。
 
 ところで、私はというとスマホをAndroidからアップルのiphoneに変えた。

 iphoneで撮影したという映像をYouTubeで見て、こんなにきれいに撮れるのなら、iphoneを購入してもう一度、インターネットで歌の配信をやってみようか、という気になったからである。歌の配信は今はなくなってしまったのだがGoogle+というサイトで、5、6年前にも夢中でやったことがある。合わせて11万回再生されたのだから、結構な実績といえるだろう。

 が、手持ちのデジカメでの動画だったので、当然画質も音質も悪く、また、このサイトの運営に疑問を感じたりして、嫌気がさし1年ぐらいでやめてしまったのである。そのときはDTMつまりコンピーターミュージックのソフトを使ってカラオケを作り歌を吹き込んだのだが、今回は趣向を変え、語りとギター伴奏での歌をやろうということなのである。かくて、現在のところは、最先端を行っているというアップル社のiphone11 pro max という機種を購入した。

 この機種での画像は以前のデジカメとは比べようがないぐらい鮮明で問題はないのだが、音質が内臓マイクでは落ちるという。多くのYouTuberが外付けのマイクを使用していて、YouTubeには内臓マイクと外付けマイクの比較動画も多数アップされている。そこで私も約1万円のマイクを購入したのだが、歌声とギター伴奏は別々のものにしたいという欲が出てきた。ギター用は以前使っていたダイナミックマイクにして、声用にはコンデンサーマイクを購入すべく、現在どのマイクにするか検討中である。ダイナミックマイクの値段はいくらだったのかは覚えていないが、当時かなりの価格だったという記憶はある。

 並行してギター伴奏を練習している。

 そして、単なる弾き語りではなく、前段にエッセイ的な話も入れ、全部で10分前後の動画にしたいと思っているのである。

 ということで、スマホ購入を機に新たな挑戦をすべく、勉強奮闘中なのである。

2020年08月15日

新型コロナウイルス考

 私の母親がこんなことを言ったことをおもい出した。

――わたしの一番上の兄は教員だったが、結核に罹ってしまったの。そのせいで、わたしの家は「肺病まけ」と言われるようになったわ。それで、本来なら周りの村に嫁入りするのに、それができなくなり、この開拓の村に来ることになってしまったのよ

 「肺病まけ」とは肺病の血筋だという意味で、要するに差別用語である。母親が言ったことは、兄が結核になったため家族が結核の血筋というレッテルを張られてしまい、母親はそれ故に貧しい開拓の村の父の元に嫁ぐことになったということである。

 どうしてこんな母親の言葉をおもい出したのかというと、新型コロナウイルス感染者や医療従事者への差別や偏見が広がっているという報道に接したからである。

 先日緊急事態を延長するという安部首相の発言のなかにも、新型コロナウイルス感染者や医療従事者に対する偏見や差別が広がっているが、そういうことがあってはならない、というくだりがあった。つまり、政権レベルで問題視されるぐらい酷い状況といってもいいのだろう。

 今も昔も、感染症に罹った人への差別や偏見は変わらないのだな、というのが私の正直な感想である。

 私が小学生だった頃のこと、集落の外れのある家の離れに、8畳一間ぐらいの小さな小屋があって、そこに結核の患者が隔離されていたものだった。そこには近づいてはいけないと、言われていたが、怖いもの見たさで、近所の遊び仲間と一緒にそこを訪れたことがある。上がり框があったのかどうかは覚えていないが、雨戸や障子戸はあったとおもう。障子戸を開けて、布団に横になっている男と何か言葉を交わしたことは覚えているが、どんな言葉だったのかは記憶にない。

――こんにちは

 とか

――よく来てくれたね

 ぐらいの簡単な短いやりとりだったのかもしれない。

 四十代ぐらいの年齢だったか、男は痩せ細り、頬骨が突き出、頬が窪んで骨が浮き立っていた。手首も枯れた棒切れのように細い。私は瞬時に、学校の理科室にあった人体の骸骨模型をおもい浮かべた。ただ、眼球が微かに動き生きた表情を浮かべているところが、理科室の骸骨とは明らかに違っていた。しかし、異様さは疑いようがなく、私も遊び仲間も二度とそこを訪れることはなかった。その人は半年後ぐらいに亡くなったことを記億している。

 妻帯者だったような微かな記憶があるが、男は結核になったがために世に疎まれ母屋からかなり離れた小屋に隔離され、孤独のうちに世を去ったのである。
 
 さて、新型コロナウイルスであるが、当初はキャンプ場は空間が広く、3密(密閉、密集、密接)にはなりにくいとの判断から営業をつづけたのだが、町の観光課からの電話で、4月30日から営業自粛したのだった。キャンプ場は営業自粛要請の業種には入っていなかったので、町の観光課からの電話は筋違いにおもえたが、今にして営業自粛は正解だったと認識している。なぜかーー

近親の者が、言うには、

――東京神奈川方面からの若いお客さんが多いのだから、無症状でも感染していてコロナウイルスを持っているかもしれない、そういう人から感染しかねない

――もし、感染したら、エライことになってしまう

――たとえキャンプ場ではなくとも、温泉とか、コンビニなどで、キャンプに来た人から感染したとなったら、大問題になることは確実だ

 それはそうだ。周辺では隣の大田原市では八十代の女性が一人感染しただけなのだが、近辺の町まで含めて大騒動に発展した。

 女性は一人暮らしなのだが、近隣に住む家族のプライバシーまで明らさまに暴きたてられる始末である。

 女性が感染したのは私も訪れたこともあるとあるホテル内にあるスポーツジムと温泉なのだが、女性が利用した日の利用者は360名にのぼり、そのすべての利用者に対する追跡調査が行われた。そして、そのホテルも含め、女性がよく訪れるスーパーやホームセンターなど周辺の店全てが消毒を実施するなど、てんわやんわの大騒ぎになったのだった。女性がよく自転車に乗って町なかを行き来していたことや、近隣に住む女性の家族の職業や家族構成なども人々の話題の俎上にのせられた。

 ホームセンターやコンビニに勤める知人に話を聞く機会があったが、どの店でもぴりぴり神経をとがらせて対応しているとのことだった。幸いにもその後感染者は出ていないのだが、広い地域に拡がった感染への恐れや大々的な対応や噂はそのうちに女性やその家族も知ることとなるに違いない。そのときの本人や家族の驚きや衝撃は想像に難くない。今後長いこといたたまれないおもいのまま暮らさなければならないに違いない。

 そういうことを考えると、何事も起こらないうちにキャンプ場を休業してよかったと改めておもうのである。

 さて、今回の新型コロナウイルス襲来によって、もたらせられたものはいろいろあるが、多くの人が言っているように、世は大きく変わるだろうと私もおもう。

 その大きな事の一つに、人が集まることをよしとしない風潮が広がったことが挙げられる。

 相方は手掛けているアロエのネットワーク関連で、月に数回埼玉県や東京などの首都圏に出かけていたのが、新型コロナウイルス感染のリスクを避けるため、集会のほとんどがインターネットでのZoomというオンラインシステムを使うことになったのだった。私と同年代は当初はZoomの使い方に苦労したようだが、やり方をのみこんでしまえばどうということはない。

 我が家から首都圏までは車と電車を乗り継いで、片道約3時間かかる。朝8時ごろ出かけて集会に出席し、帰宅は夜の7時頃になってしまうのが常だった。要するにほぼ丸一日かかったわけだ。

 それがZoomなら家に居ながらの集会出席なのだから、長時間の往復も電車賃もチケット代もいらない。コロナ騒動がなければこうはならなかったのだから、怪我の功名といえるかもしれない。

 私も連れられて埼玉県大宮や横浜市での集会に出席したことがあるが、1000人とか2000人規模の大会だった。今後はそうしたホテルやイベント会場での開催の多くはオンラインに取って代られてしまうに違いない。この流れは後戻りはしないとおもわれる。

 ところで我が民宿であるが、2月に一組入ったのを最後に宿泊客は途絶えた。3月のカナダからの予約はキャンセルされた。4、5月からの小中高生の農泊ツアーも全てキャンセルである。今後も当分宿泊客は見込めないので、これを機に民宿は廃業して、キャンプ場と農業でいこうと話し合ったのだが、先日、「GO TO キャンペーン」なるものを報道で知った。これは、7月下旬から始まるもので、宿泊代の半額を国が補助するという。コロナで落ち込んだ観光業の活性化を促すもので、このため1兆円余の予算が計上されたのである。半額補助されれば旅行に行ってみようという人は増えるに違いない。キャンプ場も宿泊なので、補助がでるものなのかどうか、今の時点では分からない。
 
 そして我が家の生業の柱である農業についてだが、グローバル化で外国から安い農産物が入ってくるということで、農産物自給率がどんどん下がってしまい、私はいざというときには危ういとみていたが、案の定、その危険性の一端が垣間見られることになった。

 相方が買おうとしたが、スーパーの棚に小麦粉がなかったという。それでネットでいろいろ調べてみた。日本の食料自給率は37%であるという。そして、小麦の自給率は12%なのだった。これは相当に低く、品不足はここに原因があったのである。コロナの影響で輸出国が自国を優先して輸出を制限し、物流が滞ってもいて、外国から小麦が入ってこないため品薄に陥っているとのことだった。

大豆に至っては自給率は6%にすぎないから更に酷い。これではコロナに限らず、何かあったら外国から入ってこないではないか。今後豆腐など食べられない事態が考えられる。幸い主食であるコメは自給率が100%近く、備蓄米が相当あるからいいようなものだが、米の最大輸出国であるインドや第三輸出国ベトナムではコロナで輸出を制限し始めたという。店頭で米の値段が上がっている由縁である。

 ということで、自給率が37%しかない日本の食卓が危うい崖っぷちにあるということが、今回のコロナ騒動で明らかになったわけである。安く輸入出来るからといって、自国の農業をないがしろにしてきた日本の政策は非常に危険だということである。

 周囲を見渡すとどこの農家も高齢化がすすみ、私と同年代か上の世代がほとんどで、若い人がいない。農家の後継ぎがいないので、耕作放棄地が増え、それも食料自給率を下げる原因にもなっているのだ。

 ただ、もしかするとコロナなどの感染症に弱いことが明らかになった都会一極集中が見直され、今後は地方や農村に住む人が多少は増えるのかもしれない。オンラインを使えば地方や農村でも都会と変わらない仕事が可能だからである。それに、食料安全保障の観点から、国も今後は農業をこれまでよりも重視して補助金などを増やすのかもしれない。そうすれば、若い人も多少は農業に戻ってくるのではないか、とおもう。

 5月末の時点で、コロナは収束に向かい国の緊急事態宣言は解除されたが、県を跨いでの行き来の自粛はまだ解かれてはいない。感染の第2波、第3波の襲来も予想される。派遣社員の雇止めや、飲食業やホテル旅館などの従業員の解雇などが広がっていると報道されている。

 倒産する会社も相当でているようだ。100年に一度の、リーマンショック以上といわれる不景気風が吹きまくるのかもしれない。

 「カンセキ」というホームセンターで買い物をしたが、ざっと見たところマスクをしていない買い物客が三分の一はいた。マスクをしていない人には自然近づかないようにする自分に気がついた。報道では、外出する人の94%がマスクをしているというから、田舎の我が町では感染者が出ていないので、切実感が乏しい故かもしれない。

 数日前、訪問客と応対する相方の声が二階まで聞こえてきた。

――花売り?

――安くしとくよ、茨城から来たの

――ダメだよ、マスクもしないで

――大丈夫よ、茨城のワタシの町じゃコロナに罹った人なんかいないから

――何言ってんのよ、茨城県は栃木県の3倍もかかっているじゃない、ともかくこのあたりじゃマスクしないと嫌がれるわよ

――マスクはポケットに入ってるわ

 あとで聞くと、五十代ぐらいの浅黒い顔をした女性で、手押し車に紫陽花の花など載せてやってきたという。近くまで何人かで車できて、分かれて売り歩いているようだとのことだった。

 ここまで記してきたことからだけでも、社会の変革の波がきていることは明らかだろう。その波がどの程度の大きさなのかは今のところ分からない。
 

 数ヶ月後、半年後か、一年後かに、やがてその全容が見えてくるに違いない。

 

2020年06月01日

アロエパワーⅡ

 新型コロナウイルス感染が日本中に広がり、報道はこの話題一色の感がある。

 私も感染の広がり具合に注目し、テレビや新聞、インターネットで逐一状況を注視している。
 栃木県の片田舎である那珂川町の外れにある我が家は、「密閉、密集、密接」からは程遠い環境にある。隣家とは200mは離れているし、前を通る道路は、1日10台の車が通るか通らないぐらいである。しかし、コロナ感染の影響をもろに受けている。

 生業である民宿は三月に入っていた予約は全てキャンセルだった。4月から7月にかけて入ることになっていた小中高生の農泊ツアーも全て中止である。キャンプは3月までは順調に入っていたのだが、4月は予約ゼロ、5月の連休は3日と4日は満杯の予約が入っていたのだが、緊急事態宣言で予約のキャンセルが相次いでいる。多分四分の一か五分の一ぐらいになってしまうのかもしれない。

 キャンプ場は空間が広く、人と対するときはマスクをし、人との間を2m以上開ける、手洗いを励行し、ということを守れば感染のリスクは低いとおもわれるが、外出自粛が言われているのだから、キャンセル続出は当然である。

 我が家にとって打撃は大きいが、感染が終息するまでは致し方ないと諦めることにした。

 一ヶ月先になるのか、二ヶ月先なのか分からないが、いつかは終息するだろう。
 そのときを見据えて、お客さんがいない今、キャンプサイトの整備を進めることにした。 

 先日のことである。新設した区画に番号札を立てていると、

――すみません、ちょっとよろしいですか

 と、いう声がする。見ると、中年の夫婦とおぼしき男女が近づいてきた。

――こんなときで失礼とはおもいましたが、お宅様のブログを読ませていただき、トイレを見させていただきたく、埼玉から来ました

 お父さん、ほら、マスクをしなくちゃダメよ、と女性が脇から言う。男性はあわてて手にしていたマスクをするのが見える。

 私は男性との距離が2m以上あることを確かめて、

――どうぞ、見てくださって結構ですよ

 という。

 トイレ便槽用のタンクや微生物配合剤の話をひとしきりした後、二人は丘を降りていった。話したのはものの5分ぐらいの時間だった。

 これまでにも私の手作りトイレをわざわざ見に来た人がかれこれ5人ぐらいいた。キャンプに来た人の中にも、

――ブログにあったトイレを見るのを楽しみにしていました

 というようなことを言う人が何人もあったのである。

 一年ほど前に、素人同然の私が水洗トイレを自作する悪戦苦闘する様を綴った「水洗トイレを自作した」を柿農園のホームページのブログ欄に発表した。この一文は結構読まれて「キャンプ場経営を思いついた」に続いて閲覧数が多いことはグーグルのアナリティクスの閲覧数分析で把握していたのだが、何人もわざわざ、遠いところは和歌山県の方から訪れる方がいるに及んで、検索サイトを調べる気になった。

――水洗トイレ 自作

 と入れてみると、トップに私の「水洗トイレを自作した」が表示されるではないか。

 これで、メールでの問い合わせがあったり、わざわざ訪ねてくる人がいるというわけが分かったものである。

 さて、先の夫婦とおぼしき男女は、しばし水洗トイレのタンクをのぞき込んだりしていたが、そのうち車に乗り込むのが見えた。

 帰り際庭にいた相方とちょっと話し込み、私のブログを隅々まで読んでいることや、キャンプ場の広いことや景色のいいことに驚いたといい、コロナ騒動が終息した後にキャンプにぜひ来たいと言ったという。

 そして、

――お二人はどうしてそんなに元気なのですか

 と言ったとのことである。相方が、手掛けているFLP社のアロエ製品の話をし、

――私たちが高齢なのにキャンプ場をやるぐらい元気なのは、アロエジュースを飲んでいるからなのですよ

 と言ったところ、興味を示し、それを買いたい、と言い、1リットルのアロエジュースを1本持って帰っていったという。

 現在私75才、相方は77才である。

 この年齢だと、早い人は介護施設に入ったり、訪問介護を受けている。

 そういう中で、私は日々軽トラを駆使しキャンプサイトのあちこちに砂利を敷き、竹を切った竹杭を立てたり、枯れ松をチェーンソーで伐採するなどの肉体労働に明け暮れているのだ。相方はというと季節柄畑をうない野菜の種を蒔く作業をつづけているのである。これも鍬を使うなど楽とはいえない肉体労働だ。

 介護を受けないまでも、現役は引退してグランドゴルフなどの趣味に興じている同年代は多い。

 そんな中で、私共二人は、農業、民宿、キャンプ場運営といういわば事業に取り組んでいるのだから、バリバリの現役といっていいだろう。

 かといって二人とも若い頃から健康体だったかというと、決してそうではないのだ。

 私は現役時代は四度に渡る胃十二指腸潰瘍での入院治療を始め、椎間板ヘルニアでの一年に及ぶ通院加療を余儀なくされた。それにしょっちゅう風邪を引き、薬を乱用していたものだ。

 相方にしても、胃に穴が開いたり、痔の手術をしたり、何度も膝を痛めて仕事が出来ない期間があったりと、いろいろな病に冒された経験があるのである。

 それが高齢となった現在、歯科以外の病院には、相方が23年間、私は11年間行ったことがない健康体になったのだから、これは奇跡といっていいようなことかもしれない。

私は、健康は心と身体の両方が健全にならないと本物ではないと考えている。心の健康については別稿に譲ることにし、ここでは身体の健康について述べたい。

 私が幸運だったのは健康について専門家はだしの相方に出会ったことである。
 

私は現在の住居がある那珂川町の隣の大田原市の分譲住宅に住んでいたのだが、私の家の周辺にいた私の同年代の独り者は皆亡くなってしまったことを数年前に知り、愕然としたものである。相方に出会わず、もしそこに住みつづけていたとしたら、私も同じ運命をたどっていたかもしれない、と、ゾッとしたものだった。亡くなった原因を聞くと、脳梗塞、白血病、アル中、などである。

――男やもめに蛆が湧く

 ということわざがあるが、男の独り者は自己管理がおざなりになりがちなことを表していて、万年床で部屋は散らし放題、食事などもカップラーメンなどで済ませてしまい、淋しさをアルコールでまぎらわせる、といった生活になりがちなことをいっているのである。

 これでは病気になって当然だろう。妻が亡くなった後の私を振り返ってみると、おもい当たることばかりだった。

 相方に出会ってからは、三度の食事、それもしっかりと栄養のバランスを配慮して調理されたものを摂るようになったのに加えて、彼女が手掛けているアロエ製品のネットワークの製品の数々を摂取するようになったことは、私の健康にとって大きかった、と改めておもう。もちろん身の回りの整頓もするようになった。

 私は相方の家に移り住んでから、みるみる健康になったのだった。

 相方は言った。

――人には炭水化物、たんぱく質、脂質の三大栄養素の他、46種類の必須微量栄養素というものが必要なのよ
 
 46種類もの栄養素をここに記すことは出来ないが、極々微量だが必須だから絶対に必要な栄養素で、例え1種類でも欠けると身体に何らかの変調をきたし、場合によっては何らかの病気になってしまうのだという。

 これは一般的には流布していない知識で、私も相方に出会う前には全く知らなかった。

 例えば必須栄養素のうちのセレンが不足すると血液不良、細胞酸化、を引き起こす。カリウムが不足すると高血圧、腎臓障害。葉酸が不足すると、悪性貧血、口内炎、下痢などを引き起こす、等々。

 私は現役時代は亡妻の介護もあって、それなりの栄養の知識を持って、栄養のバランスを考えた食事を摂っていたつもりだったが、病気がちだったのは、必須微量栄養素のどれかが欠けていたのだろうとおもい当たった。

――現代の食品では46種類もの微量栄養素をまんべんなく摂るためには相当の量の食べ物を食べる必要があって、それは不可能だわ

――そこでアロエ製品の出番なのよ、たとえばアロエジュースには46種類の必須微量栄養素はもちろんのこと、合わせると約80種類の栄養素が入っているのよ

 私は相方の言うことを素直に信じた。
 
 私が現在摂取しているアロエ製品は多岐にわたる。

 血液にいいといわれるアレルギンと栄養を身体中に行き渡らせる役目をするというQ10を混ぜたアロエジュースをコップ一杯(100mlぐらいか)毎日飲んでいる。

 加えて、食べる抗生物質といわれるプロポリス2錠、食べる精力剤といわれるポーレン3錠、脳を活性化させて痴呆症を予防するといわれるアークテックCを3錠のんでいるのだ。

 その他身体に筋肉をつけるといわれるプロテイン入りのコーヒーを一日5、6杯は飲む。

 キャンプサイトの整備をしているので肉体労働の毎日であるが、飲後ものの30分もするとみるみる疲労が回復するエナジードリンクのブーストも一日一本飲んでいる。

 アロエ製品は決して安い商品ではない。たとえばアロエジュースは1リットル正価5940円である。ただし、相方はマネージャーという資格を持っているのでほぼ半額で買えるのだが。
 私が摂取しているものを月額に換算すると、マネージャー価格で約5万円になる。正価で買うとなると月約10万円なのだから、一般の方は驚かれるだろう。そして、

――とてもそんなお金は出せない

 とおもう方がほとんどかもしれない。

 しかし、例えば癌治療で入院して個室に入れば、部屋代だけで医療福祉大では1日1万5千円である。一か月45万円だ。近親に半年入院した人がいるが、部屋代だけで270万円払ったことになる。医療費を含めれば相当な額だったろう。

 それと比べれば、健康を保てる私のアロエ代月5万円は安いといえる。
 
 ともあれ、私は今自分の身体のパワーが全開しているかんじがしている。

先日のことだが、松の木を4本いっぺんに倒した。4本いっぺんにとはどういうことなのか――、

 キャンプ場の新たな区画を作る過程で直径30cmぐらいの松を切る必要があって、根元をチェーンソーで切ったのだが、倒れなかったのだ。見上げると上の方で蔓が隣の松の枝と絡み合っていて、その隣の松がひっぱる形になって倒れないのだということが分かった。やむなくその松も倒すことにしその根元も切った。

 ところがやはり倒れない。その松も別の松と蔓が絡んでいて同じようにひっぱっているのだった。その木も倒すことにして根元を切ったが、またしても倒れない。子細に観察すると、その松もちょっと離れている松と蔓がからみあっている。要するに、その1本の松の枝に絡みついている蔓が微妙に連結するように3本の松の枝に絡みついて、その3本を支える形になっているのだ。もし、その蔓が3本の松の重みに耐えられなくなって切れたとしたら、3本の松はどっと倒れるだろう。どの方向に倒れるかも分からない。もし、その下敷きになったらお陀仏だとおもうと、冷や汗が出る。

 しかし、いつまでも眺めているわけにもいかない。覚悟を決め、三本の松を支えている松を切ることにした。太さは15cmぐらいで、3本の松よりはぐっと細い。倒れる方向を見定め、倒れる方向の根元にチェーンソーで「く」の字型に切り込みを作る。そして反対側に慎重にチェーンソーの回転するチェーンをいれていく。

 木が倒れ始めたら、素早く逃げなければならない。倒れる途中だけではなく、倒れた後も油断は出来ないのだ。倒れる途中には上から折れた枝が落下してきたり、倒れた後は木が大きくバウンドして、その木に跳ね飛ばされる危険があるのだ。

 チェーンソーの回転歯が松の三分の二ぐらいまで切り込んだところで、松がゆっくりと傾き始めた。私はすぐにチェーンソーを持ったままそこから15mぐらい離れた場所まで避難した。

 メリメリというような音とともにブチッというような鈍い音がして、三本の松の大木がどっと地面に倒れ込むさまが目に入ってきた。

 何十本もの枝が地に激突してバチバチ、ブチブチッと折れ、3本の幹が地で何度かバウンドしてドドーン、バシーン、と大音響をたてる。辺りの空気が揺らぐと同時に足元の地が波打つようだった。ものの二、三秒が、私にはかなり長い時間にかんじられた。3本の大木はおもいおもいの方向を向いて地に横たわった。

 と、私の頭上の松の木の頭が大きく右に左に空を掃くように揺らいでいることに気がついた。その松は倒れた4本の松のどれかと蔓で繋がっていたのだろう。蔓が引っ張られて切れ、その反動で揺れているに違いない。大音響の中でのブチッという音は蔓が切れる音だったのだ。場合によってはその松がどこかで折れることもあり得たとおもうと、ゾッとした。

 現役時代は小学校の教師で、執筆が趣味で、鉛筆ぐらいしか持ったことがなかった私が鉛筆の代わりにチェーンソーで松の大木を伐採するなんて、以前は想像だにしなかったことである。ましてや、倒れた大木が大音響をたててバウンドする醍醐味を味わうことが出来るなんて。

 このとき私は自分の健康や身体のパワーの全開を、ダイナミックに躍動する生の歓びを実感したものである。

 相方に出会い、アロエ製品を摂るようになって、本当によかったと改めておもう次第である。


2020年04月25日

人生の楽園

 亡妻を介護していた初期の頃は、アルツハイマーという不治の病でいずれは死がきて別れなければならないという悲壮感ばかりがあって、先のことは見通せず漠然とした不安におののいたことを覚えている。

 当時ライフワークと位置づけて精魂を傾けていた小説を書くことを諦めた。私にとって小説の文章を書くということは独特の緊張感が必要で、介護しながらではその緊張感の持続は不可能で、無理と判断したからである。ただ、日記を綴る感じのエッセイの文章ならその緊張感はいらないので、気軽に書きつづけることにしたのだった。

 しかし、本当に書きたいのは小説だという思いずっと持ちつづけた。そして、どういう形かは分からないがいつかは小説が書ける日が訪れるに違いないとも思っていた。いずれは確実にくるだろう妻の死ということが念頭にあったことは事実だが、意外な形でその日がやって来た。

 妻が言葉を無くし、自ら動き回ることが出来なくなり、要するに寝たきりに近い状態になったからだった。言葉を無くしても言葉ではない対話は可能なのだが、表情を読み取るというような限られたものでしかない。また、動き回って目が離せないということもなくなった。世話といえば食事や入浴、トイレの介助だけであり、これも介護保険で介護ヘルパーにある程度任せることが出来るのである。要するに、それ以前は妻の世話にかかりきりだったのだが、寝たきりになったことで、すこしだけだが、私は自分の時間が持てるようになったのである。この寝たきり状態は約10年つづいた。

 ある日、ヘルパーに妻を託し近所のスーパーで買い物をしてから本屋に立っ寄った。地方の出版物コーナーを眺めていると、「文芸栃木」という雑誌が目についた。手に取ってぺらぺらめくっていると、「文芸賞募集要項」というページが目にとびこんできた。

 その年はとりあえず原稿用紙7枚以内だったか、エッセイに応募することにし、「涙」という作品を数日かかって書き上げた。選考委員の好みも影響するだろうから、当選は無理でも最終選考に残ればいいとおもったのだが、意外にも1位で当選しエッセイ部門の文芸賞を受賞した。

 次の年には小説に応募すべく原稿用紙100枚以内ということで書き始めた。小説執筆は20年ぐらいの空白で、勘が鈍っていないか不安だったが、筆はとどこおりなく進んだ。二ヶ月ぐらいかかって書き上げたが、エッセイの当選作が掲載された「文芸栃木」を確かめてみると、小説の応募の枚数が変更になっていて50枚以内とある。いくら自分の時間が持てるといっても、新たに50枚の作品を書くには時間が足りなかった。結局次の年に100枚の作品を50枚に短縮して「野火の女」と題して応募した。作品に手応えは感じていたが、これも最終選考に残ることを目標にしたのだが、柳の下に二匹目の泥鰌がいたのである。エッセイにつづいて小説も当選という快挙を達成したのだった。

 しかし、嚥下力が衰えていた妻がヘルパーの介助で食事をとっていたとき、食べ物が喉に詰まってしまったことが原因で亡くなった。23年間の介護だった。小説の授賞式のときには私は独り身になっていた。

 小説が思う存分書ける境遇になったわけだが、配偶者を無くした喪失感は生半可なものではなく、私は精神的に、真っ暗いどん底の泥沼を這いつくばるような日々がつづいた。小説を書くどころの話ではなかった。なんとか立ち直るためには二年の月日が必要だったのだ。

 妻が亡くなって半年たったころ、私の状態をおもんぱかってくれたのだろう、友達がきて盛んに女性がいるところ、要するにスナックとかカラオケとか、趣味の集まりとかだが、出て気晴らしするように促してくれた。

――どこそこにはいい女がいるぞ

 そんな言い方だったのだが、とてもそんな気にはなれなかったが、その言葉は私の脳裏にこびりつくように残った。

 ときに、なんということもないふとした拍子に涙が滲み、そのうちに溢れ出て止まらなくなってしまう、ということがつづいた。更に半年ほどたったある日、友達の言葉を突然ありありと思い出し、

――妻は亡くなってもういないのだ、いつまでもめそめそ泣いていても仕方ない、いくら泣いたところで妻は戻ってはこない、このままでは自分がダメになってしまう、こんなざまを妻だって喜ばないだろう、私も人生を終了にしてもいいのだが、簡単に死ぬわけにもいかない、やはり生きていかなければならないのだよ

 と一人ごちた。そして、おもった。

――スナックに行って行きずりの女性と酒を飲んでも、ダンス教室でダンスを習っても、ハイキングサークルで山に行っても、私にとっては癒しにも、気晴らしにもならない

――生きていかなければならないのなら、気晴らしや遊びではなく、持続的に一緒に生活を共にする、パートナーがいた方がいいのではないか

 そう心の中でおもって、何度かそのおもいをなぞっているうちに、そうしょう、という気持ちが強くなった。

 それから数日だったか、十日ぐらいだったかは覚えていないが、行動を起こすのにそれほどの時間はかからなかった。私は一旦方向性を決めると逡巡することなく即実行するタイプである。

 まずはインターネットの出会いサイトで相手を探したが、肉声ではない会話に限界と疑問を感じ、次いで電話帳で結婚相談所を探し出し数万円を払って登録した。

 登録したその場で、世話役の女性が、私の経歴書を見て、あなたにぴったりのひとがいるんですが、と言われ、見合いが内定してしまったのには、さすがの私も戸惑いをかんじた。そんなに早く事が運ぶとは予想していなかったからである。

 その相手とは二度会って話をしたところまではいい感じだったのだが、三度目に私の家に招くと、女性の態度が豹変した。私の家財道具にケチをつけたあげく、

――あら、こんな小さな家だったの、ここに二人で住むのはちょっとね

 と、言い放ったのである。おやおや、見合いの相手の家にケチをつけるんだ、と呆れた。これが私の気持ちを冷やす決定打となった。私は彼女がとある市の市営住宅に住んでいることを知っていた。

――ほう、でもあんたは賃貸しだろ、これはいくら小さくたって持ち家だぜ、それにあんたが国民年金だということをオレは知ってるよ、パート勤めってこともね、でも、オレは共済年金で、国民年金の人の3倍はをもらってるぞ

 そう、口から出かかったが、黙っていた。

 次の日、結婚相談所の代表者に私から断りの電話を入れた。

 次に、私から見合いを申し込んだ女性には、私が車を持っていないことを理由に断られた。車のあるなしで相手を判断するなんて、人格がいかにも軽いではないか。断られてよかったとおもったものである。

 結婚相談所のハーティには3回しか出席しなかった。2回目だったか、パーティの後のカラオケに行ったとき、ある女性に抱きつかれたのには驚いた。要するに色仕掛けである。酔った勢いなのだろうが、風邪をひいているらしく咳をしながらだったので閉口した。咳をしたとき、その飛沫が私の顔にかかったのだ。私はすぐさま女性をどけて洗面所に駆けつけ顔を洗ったものである。他の人に聞くと、その女性は今までにも何人もの男性に同じようなことをしては断られていたという。私も丁重に断ったが、あとで私の言動のあれこれをあげつらう苦情を結婚相談所に申し立てたというが、結婚相談所では私にその旨知らせてくれただけだった。

 私は数ヶ月で結婚相談所を退会することが出来た。現在の同居人である相方に出会ったからである。結婚相談所のパーティからの帰り道で偶然彼女に出会ったのだから、ある意味結婚相談所に登録したことがよかったといえるのである。結婚相談所に登録しなければ、そこには行かず、相方に会うこともなかったからである。私は見合いをした相手と破談したとき、なんのこれぐらい、少なくとも20人とは見合いしよう、それで相手が見つからなかったら、そのときは諦めて一人で生きようと自分に言い聞かせていた。そういう強いおもいが結婚相談所からの帰り道での彼女との出会いを引き寄せたのかもしれない、と今にしておもう。

 ともあれ彼女は大きな家を持っていたが私の家を小さいなどとは言わなかったし、私が車を持っていないことなどふれもしなかった。もちろんいきなり抱きついたりもしなかった。自分のことしか考えていない風な結婚相談所で出会った女性とは違って、私がうつむき加減なのを見てとって、この人を元気にしてやりたいと思ったという。

 彼女に出会ってから生活が一変した。

 間もなく、荒れ果てた彼女の家の周囲や山林の手入れに通うようになったからである。それまでは分譲団地内を散歩するぐらいがせいぜいだったが、朝自転車で片道50分かけて行き、山林の生い茂った篠や蔦、雑草などを刈り、夕方自宅まで帰るという生活を始めたのだった。彼女所有の土地は4haと広く、荒れた部分は2haぐらいはあった。全て征伐するのには半年かかった。

 どうしてそういうことになったのかというと、何度目かに訪れたとき、彼女が刈り払い機のエンジンを背負い、家の裏手の斜面の雑草を這いながら刈っていく様を目撃したからである。ご存知のように刈り払い機はエンジンでノコギリ歯を回転させる危険な道具といえる。それで急斜面の雑草を刈るのだから、まかり間違えたら大事故になりかねない。彼女が駆使するノコギリ歯が斜面をバウンドするようになるたびに、私は肝を冷やした。

――女手一人で、いつもこうやってたわけか、これはなんとかしてやらなければならないな

 と私はおもった。

――お金に余裕があれば、シルバー人材を頼んで刈ってもらえるのだけど

 そういう彼女に、私は、

――それじゃ、私がお抱えシルバーになってあげるよ
 と言った。

――そう、ありがとう、じゃ、わたしはあなたの何になったらいいかしら

――そうねえ、メイド喫茶のメイドにでもなってくれればいい

――ハハハ、それじゃ、メイドになって、一生懸命美味しいもの作って、食べさせてあげるわ

 冗談めかして、そんなことを言い合って、彼女の家に通い始めて三ヶ月ぐらいたったとき、同居することに決め、猫二匹を連れて今の家に移り住んだのである。

 彼女の長男夫婦が一緒に住んでいたとき、家を新築しその後離れを建てたというが、母屋は約60坪、離れも約40坪ある。長男夫婦が家を出、間もなく私が入ったわけだが、二軒の家の維持費は相当かかる。二人の年金では心もとない。

 費用捻出のため、私はいろいろ試行錯誤したものである。

 まず初めに採れた野菜を、大田原市の私の家の庭で売る「百円野菜の店」を開店した。当初は一日4000円売り上げて好調だったが、次第に売れなくなり、一ヶ月半たったとき、1日100円しか売れない日があって、閉店した。一段高い高台のような場所にある出入り口が少ない閉鎖的な分譲地で、顧客が限られているので売れなくなるのは当然と言えば言えたが、

――開くのも早かったけど、閉じるのも早かったわねえ

 と、彼女はわらったものである。

 次に手掛けたのは、竹藪と篠藪にある孟宗竹や矢竹に目をつけて、ネットショップで販売することだった。矢竹は横笛製作に使われるとネットにあったので、横笛愛好家向けにと思ったのだ。松の木で組み立てた大きな干し台で三ヶ月かかって矢竹を干したのだが、全く売れずネットショップは開店閉業となってしまった。

 採れた野菜を出荷するべくいくつもの農産物直売所に出向いたが、全て断られた。田舎には新参者排除の土壌が色濃く根付いている。新参者が入ると既存の会員の売れ行きが悪くなるからというのがその理由だった。数年前にやっと「ゆうゆう直売所」に出荷がかなったのは農村の高齢化で、会員が亡くなったり病気で出荷できなくなった人が何人も出て、空きが出来たからである。

 東京で整体院を開いている彼女のすぐ下の妹さんの好意で、整体機器を発送手数料を含め一台一万円という破格の金額で何十台も納屋に保管させてもらったこともある。これは助かった。

 とある学者の収集物を半年ほど預かって母屋の二階に保管してなにがしかの保管料を頂いたこともある。

 民宿の許可をとって開業をと保健所に出向いて説明をうけたこともあるが、当時の審査基準は厳しく、廊下の幅が1.5m以上という最低基準をクリアできないことが分かって諦めた。ただ、親戚、友人知人対象なら許可はいらないというので、つてを頼って宿泊客を集めた。

 そして、3年前大田原ツーリズム社の仲介で農家民宿の営業許可を取り、農泊ツアーの小中高生を受け入れるようになったのである。昨年からは、農泊ツアーだけではなく、宿泊予約サイトに登録して、一般のお客さんにも泊まっていただけるようになった。

 それから昨年キャンプ場を開設した。これは私も相方も高齢の域に入って、農泊ツアーも一般のお客さんの受け入れもいつまでもは出来ないなと感じたからである。

 お客さんのための食材の買い出し、調理、布団の上げ下ろし、洗濯物布団干し、などやることが多く、加えて農泊ツアーの場合は入退村式会場までの車での送迎まであるのだ。これは高齢者には過重で、昨年の5月の連休にはお客さんが一杯入って収入にはなったが、二人とも慣れないこともあって疲労困憊してしまったのだ。

 これがキャンプなら土地を貸すだけで、食事の用意も、布団の上げ下ろしも送迎もない。ただ、チェックインのときや農業体験希望の方の応対をするだけでいいのである。これなら二人がかなり高齢になるなるまでできるだろう、との判断で私が企画したのだ。

 昨年の10月キャンプ専門の予約サイト「なっぷ」に登録したところ、予約が劇的に増えた。それまでは農園内に道路を作るのに建設会社に依頼しただけで、あとはほとんど私の手作業で整備してきたのだが、最近重機に入って貰い、新たな道とキャンプの区画を増設した。キャンプサイトの面積も区画も倍増したのだが、5月の連休にはその区画の予約が全て埋まってしまったのには驚いた。現在はキャンプブームだとは聞いていたが、それを実感している。

 振り返ってみると、百円野菜の店から始まって、実にいろいろなことを試してみたものだな、とおもう。竹販売のネットショップまでは労力ばかり費やすだけで上手くいかなかったが、農家民宿あたりから「つき」がきて、やることの歯車ががっちり噛み合いだした感がある。

 現在は重機に入って貰ったあとの仕上げをしている。重機は土地を削って平らにしてはくれるが、木や竹の根を全て取ってはくれない。ちぎれて地から出ている根は多く、それは刈り払い機で刈らなければならない。根が太ければ刈り払い機では切れないからノコギリで切る他はないのだ。重機で削って作った道路にしても、砂利は敷かなければならない。また、曲がり角などは車がスムースに曲がれるように角を手作業で削らなければならない。仕上げの仕事は結構あるのだ。

 しかし、重機の能力はは抜群で、人が入れなかった場所を安々と開墾し、雑木林を縦断する道路を作ってくれた。

 来てくれたお客さんは皆さん見晴らしが素晴らしいとか、星がきれいだったと喜んでくださる。

――ネギを取っていいなんて嬉しいです

 農園ならではの収穫体験も好評だった。

 アメリカからのうら若い女性は、樹木も果樹園もいい香りがただよい、農園内はとても美しいとレビーを書いてくださった。カナダから来た若いお客さんは、やまびこを教えてあげると、丘の上で、両手を広げ、大声で、

――ジャパン、ビューティフル、ジャパン、ワンダフル !

と叫んだものだった。

 そんなことを思い出しながら、手入れのために丘の上に上ると、少し前までは雑然としていた樹木が整理されて、整然と林立している感じで気分がいい。相方は二十年以上も前、五百人が集う集会で、

――私の夢は裏山を憩いの丘にすることです

 と、スピーチしたことがあるというが、先日、丘の上から周囲を見渡し、しみじみと、

――長い時間はかかったけど、夢が現実のものになったわ、これは憩いの丘よね

 と言ったものである。

 私にしても、都会に出て間もなくの頃、

――これは違う、都会は人や物が溢れ混みすぎて、安らぎがない、いつかは田舎に帰ってゆったりと暮らしたい

 とおもい、それから50年余がたっているが、やはりおもったことはいつかはかなうものなのだな、と感じている。

 私は当年75才と高齢だが、ここに来た10年前にはぽよぽよのひ弱な身体だったのが、筋肉質の頑健といってもいい身体になったのは、健康については専門家といってもいい相方の作る健康食を食べ、理想的自然環境の中で肉体労働に明け暮れているからだろう。

 昨年の9月頃だったか、テレビ朝日の担当者からメールが入った。

――「人生の楽園」という番組を担当している者ですが、柿農園のホームページを拝見しました、取材をさせていただけないでしょうか

 というものだった。それからしばらく連絡がなかったが、先々月電話が入って、5月の連休の予約状況やタケノコがいつ頃出始めるのか、聞かれた。

――キャンプは満杯の予約です

――満杯とはどのくらいなんですか

――35区画ですから、一日100人以上は来るとおもいます

――それは大人数で凄いですね、タケノコは

――昨年は4月5日~5月15日ぐらいまでタケノコ狩りができましたが、今年は温かいのでもっと早まるかもしれません

――そうでしょうね、撮影は5日間入らせていただきます

 3月に入ったら打ち合わせの電話をくれるというので、待っているところである。

 偶然の成り行きで、相方の家に入り、若い頃抱いた田舎暮らしという願望が叶ったわけだが、開拓まがいの労働を10年余つづけ、キャンプ場を開設したことによって、荒れ地同然だった裏山が整然とした公園のような「憩いの丘」に生まれ変わり、私と相方の「人生の楽園」になったのだとおもうと、感慨深いものがある。

 いろいろ一生懸命に試行錯誤した甲斐があった。また、生きていてよかったと改めておもうのである。

2020年03月14日

人生100年時代をどう生きるか

 前作「夢にむかって」で、若い頃は「どう生きたらいいか」「この世界や宇宙の構造がどうなっているのか」が分からなかった、と書いた。

 それから40~50年たった現在は、ほとんどそれらの解決がついたとおもっている。
 当時はやにくもに生きるばかりで、懸命ではあるが行き当たりばったりに生きていて、いつも焦燥に駆られ、不安におののいていた。

 40~50年という月日の間にそれなりに経験を積み、苦労し、その過程で分かることもあったということだ。「猿も学習する」というわけである。

 今にして分かることは、若い頃は物事を分析解析整理し理解しようとばかりしていたが故に分からなかったのだ、ということである。

 相方がアロエのネットワークを手掛けている関係で、私も人生哲学を学ぶようになった。というのは、相方が手掛けているネットワークは製品を伝えたり売ったりしてお金を稼ぐというだけではなく、夢を語り合ったり、人はどう生きるべきかを語ったり学ぶ場でもあるのである。

 私は相方に出会いすぐにアロエ製品を愛用するようにはなったが、ネットワークに関わるようになったのはずっと後である。相方はアロエ製品を愛用するようになったのは、身体が弱かったからであるが、ネットワークを手掛けるようになった一つの理由に、アロエのネットワークの成功者の一人である酒井満氏に憧れ、その酒井氏が主催している酒井塾に入会したいということがあったという。酒井塾に入会するには20年前当時、ネットワークの中での肩書を表すLCM以上でなければならなかったのだ。LCMとはネットワークでの収入が年間300万円以上あると与えられる称号なのだが、相方は見事それをクリアし酒井塾へ入会することが出来たのだった。

 酒井氏は若い頃から潜在意識について学んだ人である。43才のとき事業に失敗多額の負債を抱え死を決意する。そんな極限状態で、なんとかして欲しいと神に祈る。同時に、長年恨んでいた父親を許したのである。氏が言うには、この許しが潜在意識を大きく働かせることになった、というのだ。最後の家族旅行にと妻子を連れて大洗海岸にいったのだが、裸足で熱砂の上を歩いたことで足裏に火傷を負った。そのとき、アロエベラのゼリーを塗ったところ、一晩で火傷が治ってしまったのだった。アロエの凄さを目の当たりにしたわけである。それが神の導きだったのか、これだ、と頭の中で強く閃くものがあった。そのことがきっかけとなって、氏はアロエのネットワークと関わることになる。そして、自己の潜在意識を使い、アロエのネットワークで月収1千万円年収1億円を得るという目標をたて、達成してしまうのである。

 相方の勧めで私も酒井氏が主催する「潜在意識セミナー」に何度か出席した。それで、私も潜在意識に興味を持ち、本を何冊か読んだのである。そして、私の場合は中村天風の哲学に惹かれ、傾倒敬愛するに至る。

 まずは相方の本棚にあった「成功の実現」「心に成功の炎を」を数回、いや十回以上は読んだとおもう。次いで「盛大な人生」をAmazonから取り寄せた。これまでの読書とはまるで違って、その内容に圧倒された。言葉がびんびん心に響き、ぐいぐい脳髄に食い込んでくるかんじだった。この三冊は講演を書き起こしたものなのだが、中村天風の三部作といわれる。Amazonには中村天風の講演録や講演を録音したCDなどが何十冊もならんでいる。天風会の会員は100万人以上いるというから、有名な哲学者だったのである。相方の同級生には天風会の会員がいたり、ネットワークの仲間に天風の弟子が開く合気道の道場に連れて行ってもらったりしたというから、相方にとっては天風は身近な存在であったといってもいい。

 しかし、私の身近には天風を知っている人は皆無だったし、哲学や思想の本はかなり読んだが、天風のことを書いた本にも記事にも出会わなかった。要するに、私は天風哲学や、潜在意識とは無関係な範囲で生活していたのである。もし、若い頃天風や潜在意識の本に出会っていたとしたら、人生が大きく変わっていたかもしれないとおもう。しかし、それが私の人生なのであり、遅くはなったが今にして出会えただけでも幸運だといえるだろう。

 天風に出会って3年余り、その著作の八割方は詳しく何度も繰り返して読んだ。結果、不安や悩みは払拭され、生きることに逡巡することはなくなった。

 分析批判するだけでは理解はできない、疑ってばかりでは本質を見誤ってしまう、まずは一旦はそういうものだと飲み込んでみることが理解の早道である、と天風は言う。

 例えば、まず私が若い頃理解しようとしたこの世界はどうなっているのか、であるが、いくら分析理論だてようとしたって私の頭の能力では所詮無理だったのだ。

 宇宙も、この銀河系も、この世界も、創造主が作ったもので、無限である。

 一旦はそう呑み込み理解したことにした。ただ、私の想像力も無限であり、宇宙並み、いやそれ以上に大きいとも言えるのである。

 では、どう生きたらいいのか、であるが、これも天風が言うように、

――人は、人類の進化と向上に資するように生まれてきた

 のであるから、そのように生きていけばいい、というか、そのように生きていくべきなのである。そう心に決めた。すると、これまでの葛藤悩み逡巡は払拭され、肩から力が抜け楽になった。

――欲を捨て、自分の出来る範囲で、世のため、人のために生きよう

 と、今はおもっている。

 具体的には、縁あって、相方と同居して、4haの広大な土地に住むようになって、キャンプ場まで開設したのだから、この土地を愛し、手入れに精を出そう。

 明けても暮れても雑草との戦いの毎日なのだが、きれいにした後の爽快感はかけがえのないものである。自然との交流に癒しを求めて来られる都会のお客さんのためにとおもうと作業は大変なものではなく、楽しく充実感があるものになっている。

 民宿の方は今年に入って食事無しの素泊まりにした。これは私も相方も高齢の域に入ったのだから、食材の準備、料理、片付けなど大変なので、寝具の準備片付け掃除だけの素泊まりにすることにしたということなのだ。それでお客が減ってもやむを得ないと考えたのだが、しかし、予想に反して逆にお客さんが増えたのには驚いた。

 そのわけはすぐに分かった。二、三十代の若いお客さんが多くなったからである。食事つきのときには四、五十代のお客さんだったのだ。

 我が柿農園は辺鄙な場所にあり、周辺に有名な観光スポットがあるわけでもない。食事無しで一泊約5000円で泊まれるのだから格安である。若い人は辺鄙でもスマホを駆使して簡単に来られるし、コンビニなどで食材を手に入れて気軽にしかも格安に泊まれる宿に魅力をかんじるのだろう。

 年代が高い方は有名な観光スポットや食事に惹かれるだろうから、我が柿農園はそういう点では不利なのだ。

 ということで、意図したわけではないのだが、我が柿農園の在り様が若い世代にヒットし、それがこれまでの層よりも多人数になったということなのだとおもう。何が幸いするか分からないものである。

 ところで、農泊ツアーの小中高校の生徒さんは十代、民宿のお客さんとキャンプのお客さんの八割方は二、三十代である。民宿とキャンプ場を開業する前は、私共二人と同年代前後つまり六、七十代のお客さんしか来なかったのだから、我が家を訪れる人はぐぐーっと若返ったことになる。当然のことながら、我が家の雰囲気は一変した。

 若い世代に私共の得た経験や、健康になるためにはどうしたらいいのか、より良く生きるにはどうしたらいいか、などを語りかけることにしているのだが、ほとんどの人が食い入るように聞いてくれるのである。これが高齢世代だと考え方が凝り固まっていて、聞く耳を持たない場合が多いのだ。若い世代は先入観がなく、素直な心で受け入れるからだろう。

 若い世代が増えたのは、天の采配だったのだろう。美しい自然の中の農園の特質を生かして、その若い世代に癒しや農業体験を味わって頂くと同時に、私共の経験や学習しつつある生き方を語って、これからの人生の参考にして貰いたい。

 そうおもうと、遣り甲斐と充実をかんじ、ますますやる気が出てくるのである。

2019年09月23日

夢にむかって

 若い頃は明確な目標はなく、ただ漠然と生きていたとおもう。

 ただ、漠然とではあるが、人が生きるということはどういうことなのか、よりよく生きるためにはどうしたらいいのか、この世界はどうなっているのか、宇宙の構造はどうなっているのか、というようなことを自分なりに解釈理解したいとおもい、哲学や思想、宗教、などの本を読んだが、ただ漫然と読み漁っただけなので、そのひとかけらさえも把握することはできなかった。

 ただ漠然と生きているということは、行き当たりばったりに生きているということで、息をついているから生きているというに等しく、支えるものが何もなく、不安だった。それでは上手く生きていくことはできない。内面的な精神葛藤や職場の人間関係の悩みなどが重なって、体調に異常をきたした。四回に渡る胃十二指腸潰瘍での入院を余儀なくされ、椎間板ヘルニヤを病み数年通院した。

 四度目の胃十二指腸潰瘍のときは胃の幽門近くに十円玉大の潰瘍があって、手術を勧められた。しかし、私は身体にメスを入れることに抵抗があった。医師がつぶやくように言った、
――潰瘍は大きいが深くはない、薬でも治せるが二ヶ月かかります、手術なら三週間で退院できますよ

 という言葉の前の部分に飛びついた。

――二ヶ月かかって結構です、薬でお願いします

 二ヶ月の入院の過程で、私は生活態度を大きく転換させた。それまでの生真面目といえるような態度を捨てることにしたのだ。十年ぐらいの間に十回以上胃十二指腸潰瘍に冒され、そのうちの四回が入院加療だったのである。このままではダメになり、その先には死があると本能的にかんじた。

 私は不良入院患者の仲間に入った。中には病院を抜け出して焼き肉を食べに行く豪の者もいたが、私はそこまではしないが、夜な夜な女性患者と話し込むとか、夜のドライブに連れて行ってもらうとか、ぐらいだったが、品行方正を捨ててみると肩の力が抜けて楽だった。病気にもいいことがすぐに身をもって認識できた。

――学校の先生のくせに

 そう蔭で言われ始めたのは分かったが、元の生真面目、品行方正に戻ることはなかった。
 二ヶ月でめでたく退院し、それまで飲まなかったアルコールも嗜むようになった。以来、胃十二指腸潰瘍から卒業し、二度と罹ったことはない。

――病気になったから、アルコールはやめるというのがふつうだよなあ、それが病気になったから酒を飲むなんて、あべこべだけど、斎藤君らしくて面白いよ

 と、友達に揶揄われたものである。

 私は酒を飲むことによって、十年来の病から解放されたことになるが、これは酒が治療薬となって病気を治したわけではない。酒によって肩の力がとれ、要するにストレスが解消され、結果として病気が治ったのである。

 このときもはっきりとどう生きればいいか分かったわけではなく、ただ今までの生き方ではどん詰まりになるということが分かっただけで、生真面目をやめてちょっと羽目を外してみただけだった。

 しかし、考えてみるとこれは私にとっては大きかったのかもしれない。

 私は世界や宇宙の構造を思考分析認識するといったことはとてつもないことで、自分の知力、能力を超え、不可能であることがわかった。

 それからは哲学書やお経などの堅苦しい読書はやめ、自分の出来ること、好きなことをやることに決めた。

 母親が夏目漱石全集という布表紙の分厚い本を持っていた。嫁入りのときに持ってきたのである。総ルビだったので、小学校一、二年のときに「坊ちゃん」や「吾輩は猫である」を読むことができた。「坊ちゃん」は面白くて何度も読んだが、「吾輩は猫である」は面白いのは前半の部分だけで、後は理解できなかった。他の作品は難しくて読めなかったが、自分もいつか小説を書きたいとおもったものである。

 そのおもいはずっと持ちつづけ、二十九才になってから書き始めたのだった。最初の頃は筆が進み、一晩に四百字詰原稿用紙50枚書けたことがある。後で読み直して全くダメなことが分かったが・・・。ペースとしては一日一、二枚ぐらい書くというのが私にとってはベストであるということがそのうちに分かってきた。

 振り返ってみると、原稿用紙100枚前後の作品が20編余ぐらいあり、それ以下の枚数のものが同数程度ぐらいだから、作品数としては少ない方かもしれない。

 夏目漱石を読んでこれぐらい私にも書けるかもしれないと小学生一、二年でおもったぐらいだから、短歌を詠むことが好きだった母親の血を引き継いで書く素質は持っていたのだろう。

 書き始めて十年後ぐらいに妻がアルツハイマー病に罹ってしまい、介護に入ったため、小説の執筆は断念した。小説の執筆には独特の集中力が必要で、介護しながらは無理と判断したからである。しかし、日記を書くかんじでいいエッセイは書きつづけた。介護の日々をホームページのブログに発表し、数年後本にまとめ二冊自費出版した。一冊目は100部でインターネットで販売し完売した。二冊目は500部で350部ほど売れた。

 一冊目は「あなたは不治の病人になぜそんなに冷たいのですか」という長い表題で、病人に冷たく無理解な世間や親族を告発するという怒りの書だった。二冊目は一冊目の余裕のなさや不寛容を反省し、また介護によって悟るところがあって、がらり正反対の内容といってもよい、「介護は楽しく」を上梓した。

 これが朝日新聞の真鍋弘樹記者の目にとまり、取材を受けた。一冊目よりも二冊目の「介護は楽しく」の方が一般受けはよかったのだが、真鍋記者は一冊目の方が作者の本音が出ていて面白かった、と言った。

 介護の様子が、広島の夫の介護をする妻の立場の方とともに、10日間にわたって朝日新聞社会面に連載された。読者の反響が大きく、多くの感想が真鍋記者の元に届いた。そのことがきっかけとなって、書籍化されることとなり、更に取材を受けた。

 「花を――若年性アルツハイマー病と生きる夫婦の記録」真鍋弘樹著朝日新聞社刊が何部発行され、どのくらい売れたのかは分からない。ただ、製薬会社「エイザイ」が主催するエイザイ賞だったか忘れてしまったが受賞したと聞いた。

――本来は広島の夫婦と斎藤さん夫婦が賞金を受けるべきだが、福祉関係に寄付したらとおもうのですが

 と、真鍋記者から連絡があった。私は了承した。

 雑誌「清流」と東京新聞に記事が掲載され、講演の依頼が入るようになり、「介護は楽しく」と題して、大田原市、宇都宮市、那須烏山市、さくら市などで、計20ヶ所ぐらいで話をした。東京国際フォーラムで開かれた訪問歯科医全国大会に招かれて、「家庭での口腔ケアについて」という内容で話したこともある。

 TBSニュース・イブニング5の取材も受けた。家に映写カメラマンが入って、丸二日間朝から晩までぶっつづけでカメラを回していた。そして、特集番組として15分間の映像にまとめられたのだった。なかで私のインタビューが何度か流れたのだが、上手く答えられない部分があったなあ、とおもっていたところ、プロデューサーは、

――いやいや、斎藤さんはめちゃくちゃ話がお上手ですよ、素人でこれだけ話せる方はそうはいないですよ

 と、いった。

 実際に放映されたテレビを見てかんじたのは、15分というのは結構長い時間だなあ、ということだった。

 介護というと、辛く、暗く、苦しく、重い、というとらえ方が一般的だとおもうが、私はあるときから「笑って介護する」と決めたのである。発想の転換というか、逆転の発想、である。結果、注目され、辛く、苦しい、だけではない、明るい、充実した日々を送ることが出来たのだった。

 好きなことのひとつである執筆のうち小説は書けなくなってしまったが、エッセイを書きつづけたおかげで、介護の様子が新聞や雑誌に載っただけではなく、書籍化までされ、またテレビでの放映に繋がったのだから、今振り返ってみると信じられないような気分である。そして何よりもよかったことはそのことで介護が辛く苦しいものではなく、明るく充実したものになったことである。

 私が笑っていれば妻も微笑んでいる。そういうことが体験を通して分かることが出来た。分かるまでには少し時間はかかったが、その過程で私は人間的に成長できたとおもうのである。もし、妻を介護しなかったとしたら、私は鼻っぱしらが強いだけの付き合いづらい嫌なやつで終わってしまったかもしれない。成長させてもらったという意味で私は亡妻に感謝しているのである。

 もう一つ、私の好きなことはギターである。

 子供の頃、友達の家で、自衛隊を除隊したばかりの友達のお兄さんが持ち帰ったギターをつま弾いているのを聞いて、その音色に衝撃を受けた。当時流行していた演歌の一節をポロンポロンとつま弾いただけだったが、哀愁をたたえた、甘く、優しく、切なく、私の耳の鼓膜を愛撫するかのような音色で、心に食い込んでくるようだった。私は一瞬のうちにギターの音色に魅了されてしまった。そのとき初めて心が痺れる感覚を味わった。

 それから数年後、四つ年上の兄が就職して、私にギターを買ってくれた。ギターを欲しがっても叶えられない私を可哀そうだとおもったのだろう。カルカッシギター教則本という本を買い、見よう見まねで弾き方を覚えた。それこそ楽譜の読み方も知らなかったのだから、「一から始める」を地から行ったわけである。教則本を見るだけで、誰にも教わることなく、全くの独学であり、それは今も変わらない。

 20才のとき東京消防庁に就職した。初任給17600円だったことを未だに忘れずにいる。数か月後その給料より高い20000円のギターを買った。半年後胃十二指腸潰瘍で東京警察病院に入院したのだが、病院にもギターを持っていって非常階段に腰かけて弾いていたことを覚えている。いかに私がギターに惚れ込んでいたかを示すエピソードだろう。

 四十代に入ってから、妻の行動の明らかな異変をかんじて病院に連れて行ったのだが、そのときはすでにアルツハイマー病が中度から重度の間といわれるぐらい病状は進行してしまっていたのだった。おとなしく内気で、これといった目標も生き甲斐もないようだったことが発症につながったのかもしれないとおもい、せめて何か趣味を持たせてやりたいといろいろやってもらったのである。その中で唯一興味を示したのがカラオケだった。しばらくは自分でカラオケ教室に通っていたのだが、そのうち一人では行けなくなり、迎えに行くと涙を見せるようになった。それならば私も一緒にいられるようにと入会したのである。当然私も歌う。唄っているうちに、人の作った歌ではなく、自分で作って歌いたいという気持ちが芽生えた。だから、妻を介護しなければ、作詞・作曲して自分で自作の歌を歌うようにはならなかったかもしれないのである。息子に聞くと、カラオケはパソコンで作れるというではないか。

 パソコンを買い、パソコン教室に入ったが2度ほど行ってやめてしまった。自力で覚えなければ身につかないと悟ったからである。カラオケを作るソフトを買い一ヶ月ほどでなんとか曲を作れるようになった。一ヶ月もかかってしまったというと、一ヶ月というのはめちゃめちゃ早いですよ、と言われたものである。

 歌作りでは私の場合は詞を作るのが時間がかかるのだ。詞を書くのは一日で書けることもあれば、一ヶ月かかることもある。しかし、詞さえあれば曲は15分もあれば出来てしまう。ギターをやっていたおかげで、コードを弾きながら言葉を口から出していくと同時にメロディが出てくるかんじなのだ。それを楽譜に書き起こす作業の方が時間がかかるのである。

 それをカラオケにするには、私の場合15~25種類の楽器を使う、たとえばバイオリン、フルート、ピアノ、チェロ、トランペット、等々・・・、その一つ一つの楽器の音を一音ずつパソコン内の楽譜に書き起こしていくのだ。だから一曲作るのに一週間ぐらいかかってしまう。一、二年夢中になって百数十曲作ったものだった。インターネットを通じて他人が作詞したものに曲をつけてやったりもしていたが、時間がかかるので、そのうちに馬鹿らしくなって、人のものに曲を付けることは止めてしまった。

 自分の歌のカラオケを作り、自分で歌ってインターネットにUPした。YouTubeではあまり聞かれなかったが、今はなくなってしまったがGoogle+サイトにUPしたところ信じられないぐらいの再生回数が表示されて、興奮したものである。合わせて11万回。私のプロヒールの閲覧数が一日で1万数千のこともあって、あららら、と驚き、慌てたぐらいだった。ライブに何度か出演したことがあるが、聴衆はせいぜい多くても20~30人程度だった。それが11万回余の再生である。数が何桁も違い、その多さが想像出来ないぐらいだった。しかし、あることから、再生回数の多い少ないは曲の良し悪しには関係ないということが分かって、急に意識が覚めてしまい、ほどなくインターネットにUPすることはやめてしまった。

 他に一時ボーカロイドという女性ロボット歌手といったらいいのか、合成の女性の声に私の歌を歌わせることをやってみたりしたこともあったが、これもやめて、今は元のギター弾き語りに戻って、相方のアロエのネットワーク関係のお客さんや農泊ツアーの生徒さんに聞いてもらっている。

 私は自身で作詞・作曲することも歌うことも好きなのだが、実はクラシック系統のギター曲を作ることも好きなのだ。

 私の中で、執筆はライフワーク、ギターは純粋に自分の楽しみ、という位置づけである。小説の執筆で長いこと目標としていることは、

――生きている間に自分の納得がいく作品を何編か書きたい

――チェホフばりの短編を10編ぐらいは書きたい

 ということである。

 そして、できれば文学好きの人に読んでもらいたい。

 ところでギターの弾き語りは少ないが喜んで聞いてくださるというか、涙ぐまれる方もあって、一定程度の評価があるとおもわれるのだが、クラシック系の曲は何人かの方に聞いていただいても、興味を示していただけないというか、歌のような手ごたえがなく、反応が鈍いのだ。しかし、私はときどき無性にクラシック系統の曲が作りたくなるのである。
 

 このところYouTubeで、クラシックのギター曲を聴くことが多い。何人もの三十代とおぼしき女性のギターリストが難易度の高い曲を、いとも簡単そうに弾きこなしているのに接すると、私にはそんなに難易度の高い曲は作れそうもないが、平易でもいいから、感動的な曲を作って弾きたい、というおもいに駆られるのである。

 それにしても、世界には、難しく、高度な、感動的なギター曲を難なく弾きこなしてしまう弾き手がなんと多いことか、と驚いてしまう。

 私も、自分の頭に浮かんだメロディを即興で難なく弾けるようにと、練習に励んでいる次第である。

 これは人に聴いてもらうためではなく、純粋に自分のために、といっていいのである。

2019年07月20日

自分にいい暗示をかける

 振り返ってみると、おもったり、考えたりしたことは、その通りになっていることが分かる。

 例えば私は妻と一緒になるとき、

――この人と添い遂げる

 とおもったが、アルツハイマー病になり長い介護になったがそのおもいは変わらず、23年という長い介護を全うし、大田原赤十字病院で最期を看取った。最初の添い遂げるというおもいは終始変わらず、そのおもいは現実のものとなったのである。

 若い頃は漠然とした都会への憧れがあり、東京消防庁に就職し、練馬区の三畳間のアパートに入って生活しはじめたとき、夜中まで窓の外が周りの電灯で明るく、また車や何らかの物音が絶えず聞こえ、それに慣れることが出来ず、じきにこれは違う、とかんじた。田舎は夜は暗くなり物音がしなくなるのが普通だったからである。

 それから青山南町の消防庁寮に移ったのだが、そこは更に喧騒に溢れていて、私のストレスは頂天に達した。通勤の途上の電車の中で気がつくと吊革にぶら下がるようにして眠っていることがあって、腰痛も出てきた。身体の不調をかんじ、東京警察病院で診察を受けた。後で誤診だということが分かったのだが、鉄欠乏性貧血との診断で、腰痛の痛み止めの注射を腰に打たれた。結果的には胃十二指腸潰瘍だったのである。

 この頃から自分には都会は向いていないとおもい始めたが、都会生活は三十年以上つづいた。いつか田舎に戻りたいとはっきりおもい始めたのは、妻の介護のために退職して教師生活にピリオドを打ってからからだった。

 六十才になる少し前、新聞を見ていると還暦世代優遇ローンだったか何だか忘れてしまったが、要するに六十才以上を優遇する住宅ローンの広告が目についたのだ。おや、そんなものがあるのか。さっそく栃木県の足利銀行のホームページを紐解いた。やはりあった。

 その頃、妻の介護をろくに手伝わない子供たちにいら立っていた。障害者手帳一級を取得し、介護保険と合わせて誰の手助けがなくとも妻を介護する態勢は整えていたが、心の隅にはもう少し家族の手助けがあればなあ、という気持ちは捨てきれずにいた。しかし、子供たちは私の気持ちなど理解しようともしないように見えた。そのくせ私には過大な期待をしている。六十才を越えたら私は自由に生きる、と心に決めた。子育てはもうとっくに終わっている。子供は子供、親は親、もう子供には縛られたくない。そうおもった。

 足利銀行からいくら借りられるか、足利銀行の優遇ローンのページを詳細に調べた。私と妻の合算の年収が基礎になり、返済は79歳までに終わらなければならないので、最大19年返済になる。約1千万円借りられるようだ。そこまで調べてから、足利銀行の融資の担当者に直接電話して確認した。私の解釈に間違いはなかった。結果的には850万円の融資を受けた。

 栃木の友達に電話して、土地を見て欲しいと頼んだ。インターネットで土地の目星はつけておいた。那須塩原市の実家近くは除外した。いろいろしがらみがあるので煩わしい。新幹線の那須塩原駅近くの100坪300万円、大田原市富士見の50坪300万円、大田原市大和久100坪250万円、などなど。実際に下見してくれた友達によると、新幹線近くの100坪と大田原市大和久100坪は広さはいいが不便だという。大田原市富士見は分譲地の中にあり、スーパーやコンビニが歩いて10分程度のところにあるという。当時住んでいた神奈川県秦野市の自宅は、敷地が42坪しかなかった。田舎では50坪は狭いとおもわれるようだが、私は十分だと踏んだ。予算も限られている。上下水道が完備していることも決め手となった。他の二つは100万円近くはする合併浄化槽を設置しなければならないが、ここは直接下水に流せるのだ。

 土地の購入を決め、建築業者を田舎の甥に紹介してもらった。ここまで子供には内緒で進めた。そして、

――栃木に家を建て、息抜きに月2回ほど行きたい

 と、娘に言った。どう反応したかは覚えていない。

 それから半年ほどして栃木の家は完成に近づいた。私は一時たりとも手を離せない介護の身なので、業者まかせでそれまで一度も見に行くことは出来なかった。業者は不安を感じたようで、

――棟上げのときは都合をつけてぜひ現地においでください、一度は見ていただかないと

 と言った。娘に妻を預け、現地に出向いた。

 バス停から歩いて10分、閑静な分譲地であることも、小さいながらもしっかりした骨組みの家にも満足した。完成後は二週間に一度、妻を娘に託してそこに行って一泊した。
 

 介護自体は「楽しく介護する」と標榜していたので、その言葉通りでつらいとはおもわなかったが、四六時中手が離せず、娘を頼まなければどこにも出かけらないことがつらいといえばいえた。二週間に一度にすぎないが、神奈川から離れて自由に羽ばたくように栃木に行けて一泊できたことは今振り返ってみても至福の時間だったとつくづくおもう。

 夏休みの時期に介護タクシーを頼んで、一ヶ月滞在の予定で大田原市の家に出向いた。ストレッチャーに妻を乗せて、四時間以上かかってやっと到着した。

 あらかじめ依頼しておいた介護ヘルパーが、次の日から来てくれた。神奈川と比べて道は広く、歩いて二、三分のところに公園もあって、神奈川と違い妻を抱えて散歩させるのも何の気兼ねなく出来た。小さくとも居間は17畳ある。これは雨の日に妻を歩かせるため広くとったのである。

 一週間生活して、神奈川には帰らず、栃木に居つづけることに決めた。第一の理由は介護タクシーに乗せて神奈川と栃木を行き来するのは、妻に負担が大きすぎるとかんじたことだ。妻をストレッチャーに載せてベルトで固定しての四時間余にもわたる移動である。痛ましすぎる。それに、介護は病人にも介護人にも、自然環境がいい栃木でするべきだ、とおもえた。電話すると二人の子供はそれぞれに強い言葉で私を非難した。何と言われようと、私は反論しなかった。しかし、私の決意は固かった。心の中で、

――俺は俺で生きる、お前たちの世話にはならない、お前たちももう俺を当てにせず、自分で生きろ

 そう呟いていた。

 3年後妻が亡くなって、兄の勧めに従って、淋しさをまぎらわせるために、当座は十日に一度ぐらい神奈川に出向いたが四、五度ぐらいであとは次第に足が遠のいて、そのうちに行かなくなってしまった。ある親族の連帯保証人になったがために神奈川の家がなくなってしまったということもあるが、現在の同居人と知り合い、やがてその家に移り住んだことが大きい。

 そして現在は全く神奈川に出向いていない。そうなってから、もう五年以上はたつ。
田舎に戻るとおもい考えたことは完全にその通りになったことになる。

ここまで書き綴る途中で、興味深い出来事が起こった。

というのは相方の妹さんのことだ。お腹がしばしば痛み、それもかなりな痛みだっだのだが、我慢して仕事をしていたのだという。しかし、先日七転八倒するような痛みに襲われて救急車を呼んだのである。検査を受けると、胆嚢に胆石があって、胆管に詰まっていたのだった。

 これまで病気らしい病気をしたことがない気丈な方だった。私と相方が一緒になったことを初めに喜んでくださった方で、何度もお会いしているが、勝ち気で気が強いという印象である。整体院を開いていて、私も腰を痛めたとき施術を受けたが、主として肘を使って身体の各部に圧を加え、筋肉の凝りを取って、身体のバランスを整えるという独特のやり方なのだった。1時間半にも渡る丁寧な施術で、私の腰痛はぐっと軽くなったものである。

 胆石を取る手術を受けると聞いて、当然当分は整体も出来ず、弱ってしまうだろうな、というのが私の感想だった。彼女は私よりも二つ年下だから七十代に入っている。七十代になれば肉体的な衰えは否めず、多くが病気をきっかけとしてぐっと弱ってしまうのである。相方は、他の二人の妹と見舞いに行く相談をしていた。

ところが、である。

見舞いになど来る必要はない、という。そして、手術を早めて貰い、明日に決まったという。ええーっ、と相方は驚いて、それでは手術が終わって適当な日を選んでの見舞いにしようと他の二人の妹と電話で相談をし直しはじめた。

 私もそういう方面には疎いので詳しくはわからないが、手術といっても一昔前とは違って、メスで切り開くというのではなく、口から内視鏡を入れて、胆管まで差し入れて何らかの方法で取り除くのかもしれない。例えば石を砕いてしまうとか溶かしてしまうとか。

 そうこうしているうちに、なんと手術当日の夕方、本人から電話がかかってきたのだ。

――手術終わったわ

 ええーっ、と相方は驚いて、

――もう? それで大丈夫なの

――平気よ、明日退院することになったわ

――ええっ、だって手術したばかりでしょ、本当なの

――ホントよ

――でも、術後は経過を見るから退院は三日後になるって言ってたじゃない

――それも早めてもらったのよ

――そんな・・・、

 相方は絶句してしまった。すると、

――姉ちゃん、ワタシ病気なんかじゃないから、たかが、胆管に石がつまっただけじゃない、その石を取ったら、終わりよ、病院なんかやることないから退屈で退屈で、居られないわよ、主治医に頼んだわ、整体の患者さんが待ってるから、早く退院させてくださいって、そしたら、経過をみないとというから、これだけ元気でぴんぴんしているんだから大丈夫よ、といったら、三食食べて何事もなければ退院してもいいです、これは病院の決まりなんですという。だから、夕食もう食べたわ、あと二食、明日の朝と昼食べて、明日の午後にはワタシ退院するわ

 相方はあっけにとられて聞き入るばかりだった。

 手術の前の日、相方が妹さんとスマホでの話の途中で、私に何か言ってやって、とスマホを手渡しされたのである。もしもし、大丈夫ですか、ととりあえず言ってみると、

――いや、酷い目にあいました

 と言うが、とても病人とはおもえない明るい張りのある声なので意表をつかれた。あ、この方めげてはいないな、と瞬間的にかんじた。酷い目というのは、お腹が痛くて七転八倒したことをいうのだろうが、それはもう過去のことになっていたのだろう。

 普通は胆石があると医師にいわれただけで、精神的に打撃を受けて、すっかり打ちのめされて、重病人になってしまう例が多い。それがたかが胆石だととらえ、取ってしまえば終わり、という。強いな、と私はおもい、感銘を受けた。

 後日譚である。

 救急搬送されて手荷物だけは連れ添いに持ってきてもらったものの、見舞いは辞退、聞きつけた数人が病室を訪れたが見舞い金の熨斗袋は全て返したというし、退院後タクシーを使おうとしたのだが、丁度病院前のバス停にバスが止まっていたので、そのバスに乗って帰宅したという。

 何という気丈だろう。

 そして、極めつきは、退院した翌日に、はや整体のお客さんを受け付けて施術したというのだから恐れ入る。相方が心配して電話してもいつも通りの明るさで、応対し、

――だって、あなた手術のとき麻酔したのでしょう

と、相方が言うと、

――それはしたわよ、でも、一日すれば麻酔なんか覚めるわよ

 と平然と答えたというから、痛快というか、あっぱれと言う外はない。こうなると豪傑である。

 ――たとえ肉体が病むとも、心まで病ますな

 言い回しは少し違うかもしれないが、私が敬愛する哲学者中村天風の言葉である。

 凡人は肉体が少しでも具合が悪くなると、めげてしまい精神的にまいってしまい、ますます具合が悪くなってしまうという例が多い。相方の妹さんは中村天風を知っているかいないかわからないが、天風がいうところの真理を身をもって実践しているといえる。

 なぜ凡人が具合が悪くなると精神的に落ち込んで更に悪くなってしまうのかというと、自分で自分に悪い暗示をかけてしまうからである。

 人に暗示を働きかけるものは、言葉、文字、行動、現象、などがあるが、要するに凡人は、胆嚢に石が出来てしまったということは大変なことだ、悪いことだ、更に悪くなってしまうかもしれない、というような自己暗示をかけてしまうのである。つまり自分で自分に悪くなるという暗示をかけているのだ。

 しかし、秀人は肉体が病んでもそれを更に悪くするような愚は犯さない。言葉は特に強烈な暗示力を持っているのだ。例え肉体が病んでも、秀人である相方の妹さんのような人は、胆石という凡人なら怖れる病気でも平然として、胆石がただ胆管につまっただけじゃない、ワタシ病気なんかじゃないから、見舞いに来る必要なんかないわよ、と言うのだから、これは自分で自分に強いプラスの暗示をかけているのである。病気が快方に向かい、治ってしまう由縁である。

 当文の当初の意図は、人がおもったり考えたりしたことはその通りになるということを、私のこれまでの半生のうちの幾つかの例を挙げて、実証したいと書き進めたのだが、その途中で相方の妹さんの話が飛び込んできたのである。

 衝撃的ないい話だったので、これは皆さまにも披露した方が、私のことなんかよりいいかもしれないと、方針を転換して記述した次第である。

 私のこの人と添い遂げるというおもいがそうなったのは、一貫終始自己暗示をかけつづけたからだし、田舎に戻るということも同じである。

 相方の妹さんも重病にもかかわらず、自分は病気ではないと暗示をかけて克服してしまったのだ。

 要はいい暗示をかければよくなるし、先の凡人のように悪い暗示をかければ悪くなってしまうのである。それが真理である。

2019年06月23日

開拓者魂

 私は那須塩原市(旧西那須野町)の三区町出身である。

 そこは那須野が原開拓の村で、私は明治時代に入植した先々代の末裔に当たる。そこの入植者の多くははるばる長野から来たと聞いているが、先々代はごく近隣の現矢板市の片岡からで、生粋の入植者とはちょっと違っていたようだ。

というのは、先々代はとある神社の神主の長男で後を継ぐわけだったが、妻と姑の折り合いが悪く、先々代は妻のために神職を弟に譲って、開拓の村に入植する道を選んだという。着の身着のままの入植者とは違って、いくばくかの財とともに入植したために、水車小屋を持ち、山栗を拾って町でそれを売り帰りにその日の米を買って帰るというような貧しい村人もいたというが、先々代の家族はそれなりの生活が出来たようだった。

この先々代は村の中央に位置する光尊寺という寺の建立に尽力、ために実家のお墓は墓所真ん中奥の一等地を与えられたという。寺には大きな銀杏の樹があって、子供の頃、報恩講という秋に行われる寺の行事に連れられていかれたとき、鐘が突かれるたびにゴーンというその響きの空気振動によって、銀杏の実つまりギンナンがバラバラと落ちたことがいまだに印象深く脳裏に刻み込まれている。

先々代の息子つまり私にとっての祖父は村会議員も務め、困っている人がいると、自分が困っても物を与えてしまうような豪快な性格だったという。母はその祖父に「デビ」と呼ばれたという。デビとは当地では普通額が出っ張っているという侮蔑と揶揄いの言葉なのだが、祖父は息子の嫁に親しみを込めた愛称として使ったのかもしれない。母はデビと呼ばれても、嫌だった様子はなく、祖父には可愛がられたと懐かしそうに述懐したものである。

さて、私は開拓の入植者の末裔であることを普段意識することはないが、折に触れてその血筋を意識することがある。

――斎藤君はおとなしそうな顔をしているが、おもい切ったことをやる、やることが大胆だよ、西那須野の開拓の人にはそういう人が多い気がする。俺のような旧村の人間にはとてもできないことを斎藤君は平気でやるものな

 大田原市の佐久山地区生まれのある友人の言である。

 彼の祖母は佐久山城主に仕える腰元だったとのことで、要するに生粋の旧村の生まれなのだ。

 まだ二十代初めの頃のことで、それまでは私は開拓の村と旧村を比較して見るということはなかったが、彼の言以来意識するようになったのである。

 彼がいうところの私の大胆さというのは、東京消防庁に就職したのに一年で辞め、大学に入りなおして教員の免許をとり、生家から通える学校に就職したのにそれもあっさり辞めて、横浜に行って結婚したことなどを指しているようだった。

 当時はどうともおもわなかったが、東京消防庁を辞めるときも親をはじめとして何人もの人からもったいない何故やめるといわれたし、学校もなかなか入れない地区に就職出来て羨ましがられたものなのに何で、と多くの人から不審がられたものだ。

 横浜に行って結婚しても落ち着くことはなかった。学校を辞めて植木屋になろうとしたが、うまくいかず、学習塾を開いた。しかし、個人でやっているうちはよかったが、人を雇って大規模にしようとして失敗した。後でわかったことだが、私立の学校を横領でクビになった男を雇ってしまい、この男の出鱈目な教え方に苦情が殺到、アルバイトの学生には急に休まれたりもして、塾生が急減し始めた。結局始めた進学塾は二年しかつづかなかった。私は単独ならかなり能力を発揮できるのだが、人材を見極めるとか、人を使う能力、そして自身の経営力はゼロに近いと悟らざるを得なかった。

 安定が一番との妻の願いを聞き入れ、再び教師として東京都に就職した。このころから小説を書き始めた。

 今は下火であまりお目にかかることもなくなってしまったが、小説同人雑誌が隆盛の頃で、ここからプロの作家が多数巣立ったものだ。私も書き始めて間もなく、当時権威のあった文藝春秋社の文学界の同人雑誌評のベスト5のトップに2度あげられた。デビューのチャンスだったのだが、力んでしまい、そのあとがつづかなかった。二番手三番手の文学賞はいくつか貰ったが、それどまりだった。

 ちょうどその頃妻が病を得てしまい、介護に入っていかなければならなかったことも重なったのだが、しかし、それがデビューできなかった原因ではないとおもっている。要するに当時文学的な行き詰まりを打開できなかったということなのだ。

 それから約三十年がたったが、やっとというか力みがとれ、自分なりの文章が書けるようになったな、とかんじる。このブログのいくつかを読み直してみても、そうおもえるのである。

 ところで開拓者の末裔としての血を意識するようになったと書いたが、七十年余の半生は「新たなる挑戦」の連続だったとおもえるからである。

 那須野が原の開拓者は、不毛な那須野が原を切り開き、そこに新たな田畑を作り出したのである。その血筋を改めて意識したのは、十年前現在の住居に相方と同居するようになった前後である。

 当時相方所有の土地は荒れ果てていた。日々の食用に当てるための田畑はともかく、屋敷外の竹藪、雑木林、あぜ道、など雑草や篠や蔦類がはびこり、荒涼としていたのである。要するに相方一人では屋敷周辺の手入れで精一杯だったのだ。交際をはじめて間もなくの頃、彼女が刈払い機を背負って斜面を這うようにして雑草を刈っていく様に、度肝を抜かれた。

ご存知のように刈払い機はエンジンでのこぎり歯を回転させて、雑草を刈るのである。平地だって危険な作業なのだ。それが急斜面である。私は回転するのこぎり歯が何かに当たったり、バウンドしてしまわないかとハラハラしなから見守った。そして、これは何とかしてやらなければ、とおもったものである。

 その頃はまだ同居するつもりはなかったので、大田原市の自分の家から自転車で片道50分かけて通った。朝作業を始め、夕方大田原の自宅に戻る。手始めに屋敷裏手の篠がはびこる200坪ほどの角場を下刈り始めた。篠だけではなく灌木、太い蔦類などが絡み合ってジャングル化していたので、一日一二メートルしか進めない。結局そこを刈り終えるのに一ヶ月ぐらいかかってしまった。

 その途中で開拓者魂が目覚めたのだとおもう。ついでだから、全部やってしまおうと決意し、まずは丘の上にある墓所までの道の篠を刈り始めた。そう、道に篠が生え茂っていたのだから、「道なき道」になってしまっていたのだ。雑木林の下刈り、といっても篠藪と化していた山林全体を退治したといっていい。私は作業しながら、これは開拓だな、とおもった。開拓者の末裔が開拓魂に駆られて土地を開墾している、とはっきりと意識した。

 そして、篠退治を始めて二ヶ月たったころだとおもうが、大田原市から自転車で通うことをやめ、彼女の家に移り住んだのである。もう1時間半もかけて往復するのは無駄だ、と考えたのだ。

 結局土地全体をやり終えるのに半年かかった。

――これだけやるのは大変だったでしょう

 と、言った人は多い。それに対して、私は、

――大変だ、とおもえば、大変になってしまうんです、だから、私は大変だとはおもわないことにしているんです

 と応えることにしている。別の言い方をすると、大変と口にしたと同時に大変になってしまうのだ。ではどうおもい、どう口にすればいいのか。

――楽しい、嬉しい

 でもいいし、

――遣り甲斐がある

 でもいい。そうおもい、そう口にすれば、そうなるということなのだ。

 ともあれ、開拓者の末裔である私はときに開拓者魂が目を覚まし、それは「新しい挑戦」という形で発現するのである。

 私は直接的には聞いていないのだが、今年の初め頃、相方は四十代の中国人のお客さんにこう言われたのだという。

――小口さん、米野菜を作って、民宿やってるだけで、満足していたんじゃだめですよ、発想の転換をするべきです、パソコンだってスマホだって、今は一年じゃなく、半年で変わってしまう時代でしょう、私は日本に来てイオンに勤めたが辞めました、イオンにいたって、長年働いてせいぜい支店長止まりですからね、でもワタシは発想の転換をして、貿易会社を始めたのです、中国人の爆買いに目をつけました、中国人がわざわざ日本に来て爆買いをするんだから、わざわざ日本に来なくていいように、ワタシが買って中国に送って売るのです、今私はその会社の社長です、ハハハ

 なるほど、と私はおもい、その中国人に刺激を受けた。

 考えてみると、私は常に発想の転換を図ってきたようにおもう。

 キャンプ場のすぐ隣の楓林の東側に推定数千本の矢竹があるのだが、矢竹は横笛に向いているとのことだったので、横笛愛好家向けネットショップ「竹農園」をオープンしたのもそうだし、植木屋に貸していた土地を全部返してもらい、柿を100本余植えて、竹農園を柿農園に改名したのもそうだった。

 そして、閃きによって柿農園の丘の上にキャンプ場を開設したのもそうである。

 ところで旧村と開拓村との違いであるが、最近こんなことがあった。地域の役員が何らかの書類を持って訪ねてきた。この人は五十代ぐらいで、旧家の御曹司である。要するにれっきとした旧村生まれといっていいが、相方がキャンプ場の話をすると、こう言ったという。

――そうですか、そんなにお客さんが入ったのですか、しかし、都会の人はどうしてこんなとこでキャンプなんかやって楽しいんでしょうね

 要するに、この方はこの地の良さがまるで分っていないのである。自分たちが住む地の良さが分からなければキャンプに来る人達の気持ち、楽しさも、嬉しさも想像できないたろう。旧弊やしがらみに曇った旧態依然の視点でしか見られないから、この地の素晴らしい豊かな大自然の美しさに気づかないのである。当然この地でキャンプすることの意味など理解できないわけなのだ。

 こういう旧弊やしがらみにどっぷりつかっている人には、私が言うところの新しい発想も、中国人が言うような発想の転換も出来ないに違いない。

 冒頭で友人が言ったところの旧村生まれと開拓の村生まれの違いとは、前者は旧弊や田舎のしがらみにどっぷり漬かってしまっているためにそれに捉えられ身動きが出来ない、要するに自由な発想ができないのだ。それに比べて、後者は既得権益もなければ守るべきものもないので身軽で、動きやすく、新たな挑戦が出来る。皆が皆そうではないだろうが、そういう傾向があるということなのだとおもう。

 ともあれ、開拓者魂で発想した我がキャンプ場は五月の連休予想を越えた入場者で賑わい、現在夏のキャンプの季節に向けて、整備しているのだが、民宿の方にははるばるカナダから予約が入り、キャンプ場もぼちぼち予約が入り始めている。

 キャンプサイトに移植した芝も青く芽が吹き、道に蒔いた芝の種も間もなく芽吹くものとおもわれる。

 二年後ぐらいになってしまうだろうが、全面芝生の丘の上のキャンプサイトや道路をイメージしながら、農作業や整備にいそしむ毎日である。

 

2019年06月10日

カラスと蛇

耕運機で畑を耕し始めると、どこからともなくカラスが飛んできて、すぐそばに舞い降りる。そして、耕運機が耕した畑の土を突っつき始めるのである。一羽のこともあれば二羽のこともある。

 このカラスは私に慣れているというか、私が追い払ったりせず危害を加える恐れがないので安心して近寄るのだろう。場合によっては一メートルぐらいのそばまで来るのである。何をしているのかというと耕運機が土を掘り返したときに出てくる虫やカエルを啄んでいるのである。

 私はカラスが舞い降りると、おー、来たか、と口の中で呟くだけで仕事を続ける。近寄ってくるから可愛いが愛玩するというわけではない。よく見ると、頭も羽も黒く、目は不気味に鋭く、上嘴が下向きに湾曲していて黒光りしている。このカラス私が生ゴミを捨てたあと気配を感じてふっと後ろを振り返ると、もう捨てたばかりの生ゴミをほじくり返していたりする。そんなとき私はぎょっとしてしまうのである。

 うちの愛猫クーは猫としては珍しく、散歩に出ると私の後を追うようについてくることがある。黒猫なのだが、愛犬モモも茶色が混じってはいるか黒い。愛犬モモは散歩に出ると元気がいいので、私が引くというよりも私が引っ張られるようなかんじになってしまう。

 いつか、相方が笑いながら、

――清昭(私の名)さんは桃太郎じゃないけど、家来として犬と猫とカラスをひきつれているのね、どれも黒いから笑っちゃうわ

 という。

――猫とカラスは私の後をついてくるけど、犬は違うよ、犬が私をひきつれているようなもんだもの、ハハハ

 私もいたずらっほく言ったものである。

  カーン、コーン、というような声がすることがある。キツツキである。朝方とか昼頃で、あれ今頃キツツキかと不審をかんじ、周囲を見回すと、電線にカラスが止まっているのが見える。キツツキではなく、カラスがキツツキの真似をして鳴いていたのである。九官鳥やカラスが人間や他の鳥の真似をするという話は聞いたことがあるが、実際に聞いたのは初めてて、私は珍しさに驚くと同時に、てっきりキツツキだとおもったのにカラスだったので思わず笑ってしまったものだった。カラスはどれも似たような顔をしているので断言はできないが、多分よく私のそばにくるカラスである。それからというもの、キツツキというかカラスのキツツキの真似をよく耳にするようになった。キツツキの鳴き声は独特であり、カラスにとっても印象深く真似をするようになったのかもしれない。

 相方と一緒にサツマイモの苗を植える畑を耕していたとき、

――あれ、蛇が死んでるわ

 という。見ると長さ1mぐらいのシマヘビが頭をひっこめた感じで動かないでいる。

 白っちゃけた色でぴくりともしないので死んでいるのかもしれないとおもったが、そのまま作業をつづけた。次の日そこに行ってみると、同じ場所に同じ格好でヘビがいた。そこは畑の端だがサツマイモの苗を植えるところなので、やむなくトウグワをヘビの下に入れて移動するべく持ち上げた。すると、ヘビが動いた。死んでいるわけではなかったのだ。ヘビを畑の外に出した。動きは鈍く、死んではいないが弱っているようだ。元気ならにょろにょろ這ってどこかへ逃げるだろうに、私に出された場所で動かなくなってしまった。私はそのまま作業をつづけ、一時間ぐらいしてからまたそこに行ってみた。ヘビはそのままで腹の一部が何かを飲み込んでいるのだろう、ぽっこり膨らんで、太陽の光にてらてら光っている。太陽の光に晒されたままでは、干からびて完全に死んでしまうかもしれない。私は作業で抜いた根っこつきの草を、ヘビの腹や身体が隠れるようにかぶせてやった。

 動物にも人間にも自然治癒力が備わっている。人間は薬を飲んだり手術をしたりして病気を治す方法を持っているが、動物は自然治癒力に頼るしかないといってもいい。

 我が家の犬も猫も何らかの原因で体の具合が悪くなると、例えば食欲がなくなって元気がないというときはひたすら蹲ってじっとしている。そして、自然に食欲が出元気になるのを待つのである。すると、一日二日たち三日もすると徐々に食べるようになり、元の元気を取り戻すのだ。

 畑に行ってヘビがいるあたりを通るとき何度かどうしているか確かめた。すると、二日たったときヘビの姿がなかった。ヘビもうちの犬猫のように私がかぶせてやった草の陰でひたすら体力が戻るのを待っていたのだろう。シマヘビは田んぼや畑のカエルやモグラや虫などを食べて生きているのだ。人間は蛇というと目の敵にするが、農家にとっては有難い生き物なのである。私はシマヘビが生き返ったらしいことにホッとするものをかんじ、ヘビがじっとしていたあたりを見回してから畑の作業にかかったものである。

 ヘビなど半年ぐらいは見なかったのに五月に入ってから目にするようになり、復活したシマヘビを合図のように立て続けに蛇にお目にかかるようになった。

 サツマイモを育てるのにマルチと呼んでいるのだが、黒いビニルを土にかぶせる。これは草が生えるのを防ぐためのものである。しかし、雑草の繁殖力は凄まじく、ビニルが古くなってもろくなって少しでも穴が開こうものなら、そこから頭を出し繁殖するのである。その畑はビニルを惜しんで古いものを使ったものだから、穴が一杯あったらしく、雑草の繁殖が甚だしく、まるで荒れ地のようになっていた。こうなるとビニルなど張らなかった方がよかったとおもえるぐらいである。なぜかというと、ビニルを張ったままでは耕運機で耕せないから、張ったビニルを取らなければならない。ビニルをはぎ取ろうにも雑草の根がはびこっているので破れてしまう。だから、雑草を抜いたり、土を剥いだり、破れたビニルを草の根からはぎ取ったりと、ひどく手間のかかる作業になってしまった。

 その作業の最中ビニルを剥いだとき、ヘビがとぐろを巻いていた。私は吃驚して声をあげてしまったが、ヘビも驚いたようだ。温かいビニルの中で冬眠していたのか、あわてて身を起こして、穴の中に潜り込んでいった。長さ一メートル弱ぐらい、復活シマヘビよりもやや小ぶりのシマヘビだった。一、二秒で尻尾まで見えなくなった。

 それから次の畑でも、マルチの下に長さ五十センチぐらいのシマヘビが潜んでいた。この日は一日で二匹のシマヘビにお目にかかったことになる。

 マルチを剥がすために雑草の根や土との格闘を終え、耕運機を持ってきて、そこを耕し始めた。すると例のカラスがどこからともなくやってきて、いつものように耕運機が掘り起こした土を突っつき始めた。私が使っている耕運機はミニ耕耘機で小さい。小回りは効くのだが、馬力がない。土をより深く掘り起こすため、私は取っ手に乗りかかるようにしながら運転するのだ。と、何か微かな異変をかんじた。耕運機の下の、私の足元にヘビが姿を現し、ぐにゃぐにゃ身もだえしている。やってしまったか、と心がチクリと痛むがどうにもならない。耕運機のスクリューが土の中にいたヘビを掘り起こしてしまったのである。耕運機のスクリューはいわば鋭い刃物である。まともに蛇の体に当たったとしたら、体は真っ二つに裂けてしまうだろう。通り過ぎて振り返って見ると、ぐにゃぐにゃしていたヘビはすぐに土の中に潜り込んでいく。しかし、尻尾が十センチぐらい出た状態で動かなくなり、その尻尾がピクピク小刻みに震えている。耕運機のスクリューにまともには当たらなかったが、体のどこかをかすめたかして傷を負ったに違いない。

 悪い予感がよぎる。カラスがヘビに気づかないか。私は耕耘機を止めた。そして見ていると、案の定、カラスがふるえているヘビの尻尾の方に行った。私はまずいことになったな、とおもいながら見ていた。ヘビは傷ついて体を痙攣させているぐらいだからカラスに食べられてしまうかもしれない。憐れだとおもうが動物の世界は弱肉強食だからどうにもならないとおもう。

 カラスがヘビの尻尾を咥えて引っ張る。カラスは人間と同じように足を踏ん張っている。五センチぐらい引っ張りだされてしまったが、何とか堪えたらしく、それ以上は蛇の体は姿を現さない。カラスは気を取り直してもう一度引っ張ろうとする。しかし、動かない。カラスは二度三度と引っ張るが、ヘビは必死に耐えているようだ。そのうちにカラスはダメだとおもったか、飽きてしまったのか、咥えていたヘビの尻尾を離した。すると、ヘビの尻尾がするすると土の中に入っていく。カラスは諦めたらしく、そこから離れ飛んでいってしまった。ヘビは最後の力を振り絞ったのだろう。私はホッとしたものをかんじながら、ヘビが潜った土のあたりをあらためて眺めた。

 そして、また畑を耕す作業に戻った。

 

2019年05月27日

柿農園を訪れる人々

 相方がアロエベラジュースのネットワークを手掛けている関係で、これまでも我が家を訪れる人は多かった。

 但し、私たち二人が高齢なので、そのほとんどはネットワーク関係の同年代か幾分若い六、七十代の人たちだった。それも近隣ではなく、東京や埼玉など首都圏から来られるのである。

 当地は限界集落といってもいい鄙びた村で、道を通る車さえ日に数台あるかないかぐらいなのだ。だから、車がひっきりなしに出入りしている我が家は目立って、新興宗教でも始めたのではないかという噂がたったぐらいである。

 そして、三年前大田原ツーリズム社からの農泊ツアーの小中高生を受け入れるようになり、次いで二年前から宿泊予約サイトに登録してから一般のお客さんも入るようになった。
 小中高生はとびきり若い十代の若者だし、一般のお客さんも若い方が多いのだ。これで我が家の来訪者の平均年齢がぐっと下がった。

 一般のお客さんは八割方が二十代~四十代の若者である。これは、我が柿農園が鉄道の駅から離れた辺鄙な場所にあることが関係している。

 私たちの同年代だと車を運転して来る例はあまりない。JRの電車で来る場合宇都宮線の野崎駅下車でタクシーで30分かかり、料金も約6千円と高いので相方がいつも車で迎えに行っていた。昨年から高齢になったのでもう迎えには行けないと宣言したところ、電車で来訪する人はぐっと減った。どうしても来たいという人は、車の運転が出来る人を頼んで来られるようになった。

 車を運転が出来る人が高齢者の場合、我が家にまっすぐ来られずに、道に迷ってしまい、途中まで迎えに行くことがしばしばだった。

しかし、若者は場所が辺鄙であろうがなかろうが関係ないようだ。情報を収集し興味を持ったり、必要性をかんじれば行動するのだろう。そして、こちらで何の説明をしなくとも、スムースに我が家に到着するのである。到着の時間が分かれば迎えに出るのだが、あるときなど気がついて外に出たところ、ちゃんと車庫に車が入っていて、ドアを開けてお客さんが下りられるところだったので、あっけにとられおもわず笑ってしまったぐらいである。

 高齢者と若者との違いはどこからくるのか――

私と同年代はまずパソコンができない。携帯もジジババもので、スマホを使いこなす人は少ない。だからネットの使い方など分からないのだ。車にカーナビがついていても、それを使いこなせない人が多いのである。道に迷ってしまう由縁である。

それに比べて、若者はスマホを駆使して、ネットを検索し、常に最新情報を得ている。我が家のような辺鄙な場所でもスマホの道案内アプリで最短の道順を把握し、道に迷うことなくやってくるのである。

さて、我が柿農園では、キャンプ場をオープンし、4月27日に初めてのお客さんが入った。
10連休中に計33組、連泊されたお客さんもいるので、大人子供を含めのべ約160名のお客さんがキャンプ場に宿泊された。ほとんどが二~四十代の若い人で、五十代以上は一割程度か。半数は子供で乳幼児も多かった。車で来るのでキャンプに乳幼児も同伴出来るんだ、と私は初めて知ったおもいだった。

民宿の方も9日間お客さんが入った。三組で計13名のお客さんだった。一組は6泊された。我が柿農園始まって以来の長期宿泊である。のべ人数にすると計43名である。

キャンプと民宿を合わせるとのべ約200名のお客さんが来られたのだから、かなりの賑わいで、私共二人は大忙しだった。食べている暇がなく、きちんと食事がとれなかったせいで、連休最終日お腹が凹んでいるいることに気がついた。体重計に乗ってみると55kgしかない。普段は58~59kgだから3~4kg減ったわけだ。相方もやはり3~4kg瘦せたという。こんなに急に瘦せるのはいけないと、それからはきちんと食べることにしたところ、一週間もしないうちに二人とも元に復した。

200名余のお客さんが入ったというと、皆さん、えーっ、そんなに、と驚かれる。私からしてきちんと数えてみて、そうなることに気づいて驚いたぐらいだから無理からぬことである。

――そんなにお客さんが入って、人を雇わないで二人だけで対応したの?

――それはそうだよ、人なんか雇えない

――それだけの人数を、二人だけでやったなんてスゴいじゃない

 言われてみればそうだが、民宿は素泊まりか朝食付きだけだし、キャンプは食事無しだから出来たのである。今後は民宿も素泊まりのみにすることにしたので、食事を作らないで済む。その分楽かもしれない。

 200名からのお客さんの対応は初めてのことで、勝手が分からないことが多い分気疲れした。また、動き回るのに余計な力が入ってしまい、体力的にきつかったことは事実である。

――キャンプで出たゴミはどうしたらいいですか

 という問い合わせがあった。そのときは気軽に、燃えるゴミ、燃えないゴミ、生ゴミ、の三つに分別して出してください、と言ってしまった。ゴミを持ち帰るのは大変だろうし、面倒だろうとおもったからである。しかし、多くのキャンプ場がゴミは持ち帰りとしているところが多いとお客さんから聞いた。

 ネットで調べてみると、ゴミ出し禁止つまりゴミは持ち帰りというところが多いため、キャンパーもいろいろ工夫しているようである。

 〇食材は野菜中心で必要最低限にし、なるべくゴミはださない

 〇燃えるものは燃やしてしまう、生ゴミは細かく砕いて燃やしてしまう
などなど・・・。

 一番お客さんが入った日は9組だったのだが、ゴミが大量に出、一輪車で四回も往復して運ばなければならなかった。キャンプサイトは丘の上なのだから、高齢の身としては坂道の四往復は結構きつい。3~4kgも体重が減った由縁である。今後はゴミ収集は体力的に無理だな、とかんじた。

 それにキャンプで出た大量のゴミを集落のゴミ収集所に出すのは気が引ける。この日はゴミ収集所がうちで出したゴミで満杯になってしまったのだ。そのうち苦情が出るかもしれない。

 それで、ゴミについてはネット情報を元に、今後は、つぎのようにお願いすることにしたい。

◎燃えるゴミは燃やしてください

◎生ゴミ用バケツを用意しておきますので、ビニル袋などは取り除いて生ゴミのみを入れてください(土の中に埋めます)

◎その他の燃えないゴミはお持ち帰りください
 
 農泊ツアーの学生生徒さんは、東京横浜川崎埼玉などの首都圏だけではなく、大阪広島九州などの小中高生だった。日本だけではなく、アメリカ、台湾、ベトナムから、大学生、日本語学校の学生さんが入ったこともある。国際色豊かといってもいいだろう。

 この10連休中には民宿に中国の方が宿泊され、キャンプ場にはマレーシア、韓国の方も入られた。

 我が柿農園のホームページは最近外国の方の閲覧も多くなっている。アメリカ、イギリス、フランス、デンマーク、スエーデン、ブラジル、香港、中国、韓国、インド、・・・。

多分宿泊予約サイト「楽天ライフル」を通してbooking.com、それに「Airbnb」に掲載されたからだとおもわれる。2年後に東京オリンピックを控えていることもあり、近い将来これらの国々からもお客さんが入るのかもしれない。

ところで、一二ヶ月前、農林水産省の方から、

――柿農園のホームページを見た、取材をしたいのだが

 と電話が入った。了承すると十日後ぐらいに、二人の方が見えた。農林水産省宇都宮支局の職員だという。柿農園でやっている内容を取材して、本省に報告するといい、作っている作物や民宿の様子や年収に至るまで詳しく聞かれた。そして、

――柿を町のブランドとして認定してもらうといいですよ
 とか、

――いろいろな補助制度があるので、町に出向いて聞いたり調べたりして、可能な補助があったら利用した方がいいですよ

 とアドバイスしてくれたのである。

 考えてみると、キャンプはテントサイトを貸すだけで、シャワーも風呂もないから、お客さんは温泉に入り、食材を買ったり、食事処で食事をしたり、土産物を買ったりと、周辺で何らかの消費をするわけで、柿農園として間接的に町に貢献しているし、これからも貢献できるわけである。

 柿農園は広く、とても私だけでは手入れが行き届かない。テントサイト北側の楓林の周りは荒れ地となっているのだが、ここを整備出来ればきれいな公園にも花畑にもなりえる。キャンプ場と合わせて素晴らしい観光地となるのではないか、とおもうのである。

 そこで、那珂川町役場農林振興課に出向き、三つのことを依頼したり、説明を聞いた。

〇柿を町のブランドとして認定してもらえないか 

〇キャンプ場の北側の町道がぬかるむので砂利を敷いてもらえないか

〇キャンプ場の整備や山林の手入れのための補助制度はないのか

 柿のブランド化については大量出荷が出来なければ、難しいという。町道に砂利を敷くのは担当が建設課なので、建設課の方で実地を視察の上検討するとのことである。三つ目の補助制度については農林推進課で可能なものがあるかどうか調べて後日知らせてくれることになった。
 

どれも公的な資金つまり税金を使うのだから、審査制限は厳しいだろうと予測していたが、農林水産省の職員に勧められたと言ったからか、対応してくれた職員は3人だったがどの職員も丁重で丁寧に説明してくれた。

 感触としては町道の泥濘に砂利を敷く件が通るかな、とかんじられたがどうなるか。この案件は依頼が多く、順番に処理しているが、すぐにというわけにはいかない、というようなことを言っていた。こちらとしてはすぐにでなくともやってもらえれば「御の字」なのだ。

 キャンプ場の整備や山林の手入れは難しいのかもしれないが、キャンプ場が町に貢献していると言っただけでも意味があったとおもうのである。

2019年05月21日

直接の声


 柿農園キャンプ場は開設したばかりであり、また個人経営なので、まだまだ整備が行き届かず、整備されたキャンプ場と比べるとかなり見劣りがするかもしれない。

 しかし、それ故のよさもあるはずである。

――整備されて至れり尽くせりの施設だと、感動がないし、新しい発見もないわ、でも、ここは他にはない目新しいものがあって楽しいです

二日目に入られたお客さんの声である。私はきちんと整備されているよりもなんでもありの未整備な我が柿農園のようなキャンプ場を喜ばれるお客さんもいるに違いないとおもっていたので、やはりと意を強くしたものだった。他にも、同じようなことを言われたお客さんは何人もおられた。

――タケノコ掘りができるキャンプ場なんて嬉しいわ、湯がいたタケノコご馳走様、とてもおいしかったです

――敷地が広く、歩き切れなかったです、また来て行けなかったところも歩いてみたいでわ

――子供がのびのび遊べるので喜んでいます

――今の田植えは機械なので数時間で終わってしまうとのこと、偶然に田植えに出会えてラッキーでした、子供が田植え機に乗せてもらって喜んでいます、普段は絶対に出来ないいい経験をさせてもらいました、友達はハワイやグアムに行ったけど、ぼくはここに来られてよかった、帰ったら田植え機に乗ったと自慢するんだと言っています

 我が柿農園のホームページに、

「農園独自の発見があるかとおもいます、お子様は喜ばれるかもしれません」

 と書きましたが、あるお子さんはまだ帰りたくないとべそをかき、あるお子さんはまだここにいたいといって車に乗らず困りました、とお客さんが途方に暮れたように言っているのを聞きました。

 二泊した別の小学生の女のお子さんが、わざわざ私のところに来て、

――これから他のキャンプ場に行くのよ、わたしはここにいたいって言ったのだけど、キャンセル料がかかるからって・・・

 と言ったものだった。

 さて4月28日大雨が降った。私にとっては予想外の事態が起こった。予想外というのは、キャンプ場や道がぬかるんで車がスリップしたり泥濘に車輪がはまり込んでしまったことである。

 我が家の車は「アクア」である。このアクアで道を通ったりキャンプ場に行って乗り回したりして確かめたつもりでいた。肥料を頼んだ業者の2t車が出入りしても大丈夫だったので「よし」としていたのである。今にしておもえばアクアは小型である。ところが来られた多くのお客さんの車は大型だった。アクアとはまるでちがう。土地の表面が軟弱だと車が重いので轍が深く出来るわけだ。道もテントサイトも元は畑だったので、もともと土地は軟弱だったところに予想以上の大雨でたっぷり水を吸い込んで更に軟弱になり、泥濘ができるし、滑りやすくなってしまったのである。

東北大震災のとき周囲の家屋は屋根が崩れたり建物が傾いたりしたところが多かったが、我が柿農園は母屋も離れもかすり傷一つ負わなかった。これは土地の表面は軟弱でも、土地の下は岩盤か何かで地盤が強固なせいだとおもわれるのだが・・・。

 お客さんの車が大型なのは、キャンプ用品を積載するので当然といえばいえる。今の若い方はスマホで最新の情報を得て行動されるようだ。天気予報で当地の大雨を把握し、キャンセルされるのではないかとおもわれた。

ところが、実際に来られて道やキャンプ場の悪条件を確かめ、キャンセルされた方がお二方おられたのと、予定を早めて帰られた方が二組あっただけで、その他の方は皆さん来られたのである。このことも予想外だった。

――このぐらいの雨なんか平気ですよ、せっかくですから楽しませていただきます

 そう言って、悪路を上っていかれた方がいたのには驚いた。この方は二組の予約だったが、キャンセルすることなく二泊された。ただ、この二組のうちの片方の方の車は小型で悪路の坂を上れず、柿農園の庭に車を止めて、一輪車でテント用品を上まで運ばれたのである。本当にキャンプが好きな方なんだな、と感動を覚えたものだった。

 ともあれ、雨に備えて、道路はスリップした部分は生コンを入れ、他も砂利を敷くべく業者に依頼しました。テントサイト北側に20台程度の駐車場を新設し、テントサイトには急には無理ですが、徐々に芝を植え、一二年後には全面芝生にする予定です。

――斜面は辛いものがあります、せめてテントを張る部分だけでも平らにしていただけるとありがたい

 と言われた方もいる一方、

――斜面のせいで枕なしで寝られて快適でした、高い方を頭にして横になればいいのですよ

 と言われた方もいたのは面白い。私としては今後夏場に向けてテントを張る部分だけでもある程度平らにしたいとおもっている。

 テントサイトの西側の木の間にテントを張られたお客さんが、

――いやァ、下がチクチクするので見ると篠が生えている。ハサミで切るのに大分時間がかかりました。それでいいかなと寝たんですが、夜中にまたチクチクして目が覚めてしまった。朝見ると、雨で篠の芽が育ってシートを持ち上げていたんですよ。植物の生命力ってスゴいですね

 と言われる。そこは私が刈り払い機で刈ったのだが、刈り切れないで残った篠があったのだ。

――手入れが行き届かず申し訳ありません

 そう言うと、そばで奥さんが、

――いいんですよ、そんなことも楽しいです、いい思い出が出来ました

 トイレのことを言われるお客さんが多かった。

――ブログ読みました。これが三ヶ月もかかって自作されたトイレなんですね、まわりの楓の木が味がありますね、それにしても自分でトイレが作れるんですね、そのことに驚きました


 私の「農園ブログ」は結構読まれていることは、私が使用しているホームページのソフトの会社「JUST.SYSTEM」とgoogleのanalyticsのアクセス解析によって把握していたが、閲覧数が分かるだけでどのように読まれているのかはわからなかった。

 しかし、今回キャンプや民宿で宿泊されたお客さんから直接生の声、感想をお聞きすることが出来た。これは何よりも参考になり、また嬉しいことでした。今後の励みにもなります。

――楽天トラベルのキャンプ場のプランの文がよかったです。あれを読んでどんなところなのか、来たくなったのです、そういう方多いとおもいますよ

 そう言っていただいて、とても嬉しかった。

 ちなみに、私のブログで一番読まれているのは「末期癌を克服した人に会った」です。これが圧倒的に多く、次いで「ハグ」です。世の中癌で悩む人や家族が多く、そういう方が検索で探しだされるのかな、とおもいます。

 連休が終わって、柿農園のホームページの閲覧数が増えているのは、キャンプに来られた方やその知り合いの方が興味を持っていただいたのかもしれませんね。

 

2019年05月10日

水洗トイレを自作した

ひょんなきっかけからキャンプ場を開くこととなった。

 ひょんなきっかけとは、農家民宿である我が柿農園を宿泊紹介サイトに登録したところ、インターネットのYahooやMSNなどのニュースサイトの広告欄に我が柿農園がときに載ることがあって、そのときサンタヒルズという同じ那珂川町にあるキャンプ場が同時に表示されることがあったのである。

 何度か表示されてから、以前一度だけそのサンタヒルズの喫茶室を訪れたことを思い出した。

我が家の周辺にはコンビニもなければスーパーもない。私は現役時代は東京で小学校教員をしていたのだが、勤めの帰りには喫茶店に寄り、コーヒーを飲みながら小説を書くのを日課としていた。そんな話をすると相方がサンタヒルズには喫茶室があって宿泊しなくとも入れるわよ、という。それでそこをのぞいてみる気になったのだった。同じ町内でもそこまでは遠く、また我が家以上に辺鄙な場所で、小説を書くのにふさわしい喫茶室のようには感じられなかったので、二度と訪れることはなかった。

私はサンタヒルズのホームページを紐解くことにした。

見ると、コテージ、バンガロー、キャンプ場などがあって、かなり大きな施設であることが分かった。

キャンプ場は25区画あって、夏場の土日曜日の予約は満杯状態である。ふと、我が柿農園の丘の上をキャンプ場にしたらどうだろう、というおもいが閃いた。サンタヒルズは我が柿農園と周辺は田畑や山林ばかりというのは同じだが、サンタヒルズが平坦な山林の中にあるのに比べて、我が柿農園には丘があって、その丘の上が平坦で、そこからは田園風景が見下ろせるのである。これはサンタヒルズ以上にキャンプ地に向いているのではないか、とおもったのである。

かくて農園内にキャンプ場を開設することに決めたのだが、その辺のいきさつは「キャンプ場経営を思いついた」に詳しく記述してあるので繰り返しません。

さて、ここではキャンプ場に自作で水洗トイレを設置することにしたいきさつを綴りたい。
キャンプ場の開設を決めてホームページに載せたところ、間もなく福島県から下見に来た人があって、トイレはレンタルトイレを設置するつもりだというと、曰く、

――仮設トイレですか、あれは汚くて臭いがするので、殊に女性の方に嫌がられますよ、水洗じゃないと・・・

 確かに私も仮設トイレに何度か入ったことがあるが、不潔さと臭いに辟易した記憶がある。かといって、水洗トイレ設置となると、費用が相当に嵩むだろう。

 ネットで調べてみると仮設トイレのレンタルなら四ヶ月で4万円で済むが、水洗トイレとなると、合併浄化槽だけで5人槽15~20万円とある。一坪の建物を建てて30~50万円、トイレの便器や洗浄便座だけでも10万円はする。あわせると安く見積もっても70万円ぐらいはかかってしまう。

 いろいろ検討した結果、水洗トイレを建物を含めて自作で建立することに決めたのである。

 というのは、我が家には杉林があって、その杉材を使って自分で建物を建てれば安価に仕上げられる、ということが大きな決め手となった。そのとき私の頭にあったのは、10万円前後で収めるということだった。

 合併浄化槽は高価なので浄化して下水に流すのではなく、自然浸透式にする。

自然浸透について何らかの規制があるか調べてみると、私が生まれた那須塩原市の条例では、

処理装置と他の施設等の外周間の距離は次のとおりとすること。

• 隣地境界まで1メートル以上
• 建築物まで1メートル以上
• 井戸その他の水源まで水平距離30メートル以上

とある。

 私がトイレを設置しようとしている場所は、隣地と100mはあるし、我が家の母屋とは測ってみたら70mぐらい。町営の水道を引いているので井戸はない。他の水源もない。

ということで、自然浸透式トイレの設置には何の問題もないことが分かった。

自然浸透式にするにしても、汚水をよりクリーンに処理して地に戻したいということで、キャンプ場までの道を造成したとき、頼んだ業者に重機で1m四方深さ1.5mぐらいの穴を二つ掘ってもらった。この二つの穴をコンクリートで固めて水槽にし、バクテリアを培養し、そこを通してある程度浄化して、自然浸透させるという作戦を考えた。

しかし、ある知人と話している過程で、コンクリートは水が染み通ってしまうということが分かった。その知人がホームセンターに行けば大きなタンクを売っているから、それを使ったら、という。

ネットで検索して、500リットル1万3千円というのを探しだした。この二つを掘ってある穴に埋設するつもりだったが、このタンクは農業用のもので地中に埋設は出来ないとあった。

そこで穴に入れるだけで周囲をブロックで保護して使用することにした。結果的には500リットルタンクを三つ取り寄せた。一つ目は汚水を貯める、二つ目はエアーポンプで空気を送りバクテリアを培養して浄化する、三つめは触媒を入れて二つ目とは違ったバクテリアを培養して、更に浄化する、そして、それを地下に浸透させる。という方針をたてた。場合によっては、業者に汲み取ってもらうことも可能な作りにしたのである。

水洗トイレは便器、洗浄便座のセットをネットで最安値3万9千円というのをみつけた。メーカーものの三分の一以下の値段である。これでちゃんと作動するのか一抹の不安を覚えたが、レビューを読むと安いがきちんと働くというようなことが何件も書いてあったので購入を決めた。

運送の過程で便器が割れてしまうというハプニングがあったが、間もなく代替品が届いたのでホッとした。

水道接続も問題なく出来、試してみると便器の水流も不具合がなく、洗浄便座も良好に作動する。いくら最安値の水洗トイレセットでもきちんと動作することを確認した。

と書くと簡単だったとおもわれるかもしれないが、私はトイレ設置など知識もなければ経験もないすぶの素人である。手探りで、三ヶ月余かかってやっと完成したというのが本当のところだった。一番不安だったのは床下の配管である。床下といっても建物も立てるのだから、建物の土台作りのときから配管も考慮に入れた。水道管を引いてもらうとき、トイレの配管の大体の場所も決めた。

しかし、建物の土台を組み立てた後が悪戦苦闘の連続だった。というのは土台が低く、その下に入ることは出来ないので、床を張る前に配管を済まさなければならない。配管を済ませてから便器を取り付けたものの便器と床下のVU管との接続が上手くいかない。便器が床から5cmぐらい浮いてしまうのだ。ここで、便器とVU管の接続の部品が合わないのは、要するに運送中に割れた便器の代替品として送られてきた便器が当初のものと別物だったということが分かったのである。

それに合う接続の部品を取り寄せるとなると、一二週間はかかってしまうだろう。便器の構造を子細に点検し、VU管とVU管を連結する部品なら便器の下部の放出口にピッタリ嵌ることが分かった。これで便器の放出口とVU管を連結させることにした。嵌め込むだけでは外れてしまうおそれがある。外れたりゆるんだりすれば、悪臭の原因となりかねない。接続部分に丹念に接着剤を塗りこんだ。それから、VU管は30cm下から汚水タンクに向かって湾曲するのだが、この部分にコンクリート片をあてがい土で埋めてしっかり固定した。これで便器の放出口とVU管の接続部分が外れることはないだろう。

こうして一番不安だった床下の汚水排水の配管もなんとかクリアした。VU管と500リットルタンクの接続もドリルで穴を開けて接着剤で固定出来た。床とタンクの穴はホームセンターで買ったドリルを使った。ドリルでの穴開けも初体験だったが、失敗することなくクリアした。

ここで最も気をつけなければならなかったのは高低差かもしれない。便器よりもタンクが高かったら汚水は流れない。途中のVU管もだんだん低くなっていかなければならない。これは目分量では分かりずらい。相方の亡くなった旦那さんは大工だったので、水平という高低差を測る器具が倉庫に眠っていた。この水平を置けば高低差が一目瞭然である。シンプルな作りの器具で、水玉が上がった方が高く、そうでない方が低いというものなのだ。幸いトイレの設置場所は丘の中腹なので、高低差がはっきりしていてやりやすかった。

さて、同時進行で進めたのが1.5坪の建物の建設である。トイレは畳一枚の広さ、つまり0.5坪があれば出来るのだが、屋根の関係で畳3枚の大きさにした。

畳一枚の建坪では建物が安定しないだろうと考えた。背の高い人もいるのだから、高さは2mはないといけない。最終的には屋根にのぼってトタン板を張らなければならない。屋根が小さくては安定しないに違いない。なにせ私は素人で、バラック小屋は建てたことはあるが、きちんとした建物は初めてである。

結果的に屋根の高さは2m10cmとなった。トタン板を張るとき、初めは屋根に上らず北側から脚立で上半身だけ出して張っていったのだが、半分までいったとき、どうしても屋根の骨組みの上にのぼってやらなければならなくなった。しかし、怖くて上れない。梯子から手を離して屋根に移るとき、周りに手で掴むところがないので、恐怖にかられてしまうのである。

見かねた相方が靴じゃダメよ。屋根に上るなら地下足袋がいいわ、という。地下足袋を買ってきて、梯子をのぼって屋根に這い上がろうとするが、やはり怖くてダメなのだ。建物自体は直径20cmぐらいの杉の丸太を土台として敷き、柱も同じ太さのものにし、建物がぐらつかないように、要所に太く大きな鉄の斜交いを打ち込んだ。その上、北、西、南各壁面に斜めに直径10cmぐらいの杉の丸太を斜交いとして釘で打ち付けたのだ。だから建物はびくともしない。しかし、恐怖感はどうにもならないのである。上に上がってしまえば平気なのだろうが、どうしたものか思案した。見ると、建物の西側近くに山法師という植木が立っている。

植木といっても高さ10mぐらいはある。それに上って屋根に移れないか。やってみたが、建物はびくともしないが、斜めに傾いている山法師は私の体重で余計に傾いでしまう。とても乗り移るどころではない。

 次に試したのは、脚立をその山法師に立てかけ縛り付けて、その脚立から屋根に乗り移るという作戦だった。これが簡単に成功したのは、脚立の一番上に乗ったとき山法師の幹を手で掴んでいられたからである。これで恐怖を覚えることなく、脚立の上に立って、またいで楽々と屋根に乗り移ることが出来たのだった。私は嬉しくて内心で、ヤッター! と叫んでしまったぐらいである。

 壁面は合板のベニヤ板を張った。これで周りに茶色のペンキを塗って終わりにするつもりだったのだが、

――どうせここまでやったのだから、丸太を生かしてログハウス風にしたらどうかしら

 と相方がいう。

 自分で使うだけなら、バラック小屋風でも構わないが、対象がお客さんだから、気合を入れて相方の考えを受け入れることにした。

 柱や屋根の骨格には杉材を使ったのだが、杉を伐採して杉皮を剥かなければならなかった。そうしないと数年で虫食まれてしまうという。これは大変な作業で、時間もかかった。外壁には虫食まれにくい、見た目もいい堅木である楓を使うことに決めた。というのは昨年の夏の台風で倒れた木があったからである。我が家の楓林の楓は公園などで見かける楓とは違って、すらりと高い。相方によると50年以上前にそこを植木屋に貸したときに植木屋が苗を植えたのだが、あまり売れずに残っていたものだという。植木屋から返されて以来そこは荒れ放題で、人が足を踏み入れたことがない場所だった。3年前、あるきっかけがあって二人でそこに行ってみて、楓の巨木が100本ぐらいある壮観に驚いたものである。その後、私が周囲を刈り払い機で篠や笹をきれいに刈ってそこに入れるようにした。その作業に10日ぐらいかかったと記憶している。

 そのうちの7、8本、それも高さ30m以上ある大木が根こそぎ台風の突風に煽られて倒れてしまったのである。周りの楓をへし折ったりして、折り重なって倒れている。そのうちの一番大きな楓は倒れたとき私の背よりも高く根が地からむき出てしまった。突風のすざましさを彷彿とさせる無残な光景である。片付けようかとおもうが、私の背丈よりも高く折り重なっているし、しなっている木もある。どこかを切ったとすると崩れて下敷きになりかねない。しなっている木に弾き飛ばされる危険もある。当分はそのままにして様子を見ることにした。その木を使おうかと考えたのだ。しかし、子細に観察すると、どこから手をつけても危険なことは明らかだった。枯れてしまうまで待つ他はない。

 結局、別の立て込んで立っている細い楓を間伐して使うことにしたのだが、それは正解だった。というのは、細いと言っても私の大腿ぐらいの太さはあり、2mの長さに切っても、一輪車で運ぶのに二本がやっとぐらいの重さがあるのだった。倒れている楓はその2、3倍の太さがあるのだから、切ったとしても運ぶことなど出来なかった。

 切っては運び切っては運びした楓を、建物の壁面に横に下から順番に打ち付けていった。

打ち付けるだけでは殺風景なので入り口の扉の近くに、私なりの飾りをつけた。丸太と丸太の間をくり抜いて、短い丸太を挟むことを屋根の下まで続けたのである。この作業はまる二日かかった。

 農業用貯水タンクを三つも買ったり、床材はちょっといいものを使った。それに、釘やネジ類などが予想以上にかかり、10万円とはいかなかったが、総工費は20万円以内で収まったのだから、まずまずとおもっている。

これで一応の完成としたのだが、

――バラック小屋よりは、少しはログハウス風のトイレになったかなァ

と、自分で悦に入っている次第である。

春先の農業は畑を耕したり種蒔きの準備でやることは限りなくあり、その合間を縫っての作業だったので、たった1.5坪のトイレ作りに三ヶ月かかってしまったのだった。

ところで、お客さんの当園内での万が一の事故やケガにそなえて、東京海上日動火災保険KKのキャンプ場保険に加入することにした。電話すると、担当者が、

――入場者数によって保険加入の金額が決まるのですが、新規開設でまだ実績がないので、見込みで年間1000人にしときますね

という。

――えっ、そんなに

と驚いてしまった。

しかし、

――それがキャンプ場保険の裁定基準の最低の人数なんです

へえ、とおもったが、言われた意味が間もなく分かった。

我が柿農園キャンプ場の、間もなく始まる5月の連休中の予約が開設後ほどないにもかかわらず、4月15日現在で大人子供含めて100人に近い数字なのである。連泊される方もいるので、延べ人数にすればとうに100人は越えているのだった。出来たばかりでまだ知名度が低いのにこの数字なのだから、夏場はもっと増えるだろうし、世に知れ渡れば、来年再来年になれば、年間1000人ぐらいはいくのかもしれない、とおもえてきた。

現在のところはオートサイト16区画だけに設定してあるのだが、丘の上は広く、雑木林を間伐して整備すれば、区画数をもっと増やすことが出来そうなのだ。夏までにフリーサイトを5~10区画増設しよう、という気になった。

保険の担当者の言葉に発奮して、入場者年間1000人あるいはそれ以上を目指して、キャンプ場の整備に尽力しようと、あらためて決意した。

2019年04月16日

乾燥芋に色を塗ってる? なんて言われた

 大田原ツーリズム社のツアー客を受け入れを初めて以来、民宿の集客に精魂を傾けてきたが、昨年末から我が家の目標とするものがちょっと変わった感がある。

 というのは農作物の出荷先が決まったからである。

 私がこの地に来て以来、ずっと出荷先を探していたのだが、我が家が那珂川町の外れであることが主な要因で、どこの直売所に行っても地区外として断られてしまった。それが相方が以前一緒に仕事をしたことがある女性がパートをしている直売所に立ち寄ったことがきっかけで、急遽そこに出荷できるようになったのだ。

 ちょうど干し柿があり、乾燥芋を作り始めていたときだったので、それを出してみたのだが、干し柿も乾燥芋も加工食品ということで届が必要だという。すぐに保健所に出向いた。審査か検査があるのかと思ったが、ただ注意事項が記されているパンフレットを渡され、口頭で注意事項を説明されたのと、書類一枚に住所氏名などを書いて提出しただけで済んでしまった。

 干し柿も乾燥芋も出したものは数日で全て売れてしまうことが分かった。大根やカブ、水菜などの葉物なども出してみたが、これらはあまり売れなかったので、当面は乾燥芋と干し柿を主として出荷することに決めたのである。

 出したものは全て売れたので、結構な収入になり、今後の計算がたつことになった。予測不可能な民宿の集客に躍起にならなくともよくなったのである。これは気楽だ。我が農園には4haもの土地があるのだから、本来生業のメインは農業であるべきだったのだ、とおもう。
 出荷し始めて必ずや何かしら問題が出てくるだろうと予測していたが、案の定三つクレームがあった。一つは切り干し大根に干しシイタケを混ぜたものに苦情があった。シイタケ栽培農家かららしい。シイタケを出荷している相方の妹さんから大量のシイタケを頂いたものだった。文句をつけた人は、我が家でシイタケを売ると自分のものに影響する、要するに自分のものが売れなくなる恐れがあると思ったのだろう。直売所側ではその苦情をを受け入れ、今後は混ぜないで、干し大根は干し大根だけで、シイタケはシイタケとして出してください、という。消費者によっては混ぜたものが欲しいという人もいるだろうに、とおもったが、出荷始めて間もないので、おとなしく引き下がることにした。

 もう一つは乾燥芋についてである。我が家では最初350gを300円でだしたのだが、やはり乾燥芋を出している高齢女性が相方に、

――うちは250gを300円にしている、お宅のは安すぎるわ

 と言ったという。うちのがよく売れるので妬んだのだろう。面倒なので、同じ300円はやめにして、以後は500g を500円で出すことにした。これでもよく売れることは続いた。そのうち我が家の乾燥芋がよく売れるわけが分かった。

 直売所のパートの複数のレジの女性が、相方に、

――お宅の乾燥芋を名指しで、買いに来られる方がいるわ

 と言った。

 クレームの極め付きは、相方が乾燥芋を売り場に並べていると、同じ乾燥芋を出荷に来た別の高齢女性に、

――お宅の乾燥芋、色がいいから、色を塗ってだしているんじゃないのかって、皆で言っていたのよ

 と言われたという。

――とんでもない、色なんか塗らないわよ

 言われてみて、改めて並べられている他の乾燥芋と比べてみると、我が家のは透き通るような上品な、いかにも美味しそうな黄色である。他のはそう言っては申し訳がないが、鼠色のや黒味がかったのや、黄色でもくすんだものや、で、我が家のような鮮やかさがないのである。

 我が家の乾燥芋の売れ行きがいいのを妬み心から、色を塗っているのかなどと難癖をつけたのだろうが、名指しに買いにくるというのは色がいいからというよりも美味しいからだろう、とおもう。

 相方はつづけて、

――うちでは無農薬で有機肥料をたっぷり入れて育てているから、色がいいのよ、色を塗るなんてとんでもありません

 すると、くだんの高齢女性は、不思議そうに、

――へえ、肥料なんて入れてるの

――そうよ、油粕、米糠、牛糞、それに木の葉の堆肥もたっぷり入れてるわ

――そうなの、サツマイモ大きくなりすぎるから肥料は入れない方がいいっていわれてるから、うちでは入れないわ

――あら、そう

 相方はなるほど肥料をやらないからその高齢女性の乾燥芋は黒ずんだような色をしているんだと納得したが、それ以上は何も言わずに直売所を後にした。

 私は肥料を入れない方がいいなんて、変なことを言うなあ、とおもい、ネットで調べてみた。

 サツマイモは痩せた土地でも育つという記述はあったが、農林水産省のホームページのサツマイモ栽培の方法を見ると、肥料は化成肥料なら窒素、リン酸、カリの割合が1:10:10のもの、または家畜の堆肥でもいいとあった。要するに肥料をやらない方がいいとはどこにも書いていなかった。

 相方によると、この地域ではサツマイモは痩せた土地の方がいいとか、肥料をやると甘味がなくなってしまう、と昔言われたことがあって、高齢女性はそれが頭にこびりついてしまっているのではないか、という。どうやらそういった風評をいまだに信じている人が多いのかもしれない。

 今の時代は農協で指導を受けるとか、ちょっとネットで調べれば分かることなのに、昔ながらの間違った情報を鵜呑みにして、学習しようとしない人が多いということなのだろう。
 
 そして問題なのが、こういった人のやっかみ妬む心である。

 くだんの高齢女性の、我が家の乾燥芋は色を塗っているんじゃないか、という言葉の裏にあるのは、我が家が乾燥芋に色を塗るという悪事を働いてよく売れるようにしている、ということである。難癖をつけて我が家を貶めようとする下心が透けて見える。

 私はおもう。どうしてこういう人は、

――いい色ですね、そんな色になるのはどんな育て方をしているんですか

 とか、

――おいしそうな色ですね、素晴らしいわ

 と、褒めたり、肯定したりできないのだろうか、と。

 先のシイタケ農家にしてもしかり、

――切り干し大根にシイタケを混ぜればおいしいかもしれないですね
 とか、

――調理の手間が省けていいかも

 という言い方をすればその人の品格が上がるとおもうのだが・・・

 ともあれ、この問題は我が家を名指しで買いに来る人が何人もあったということで、勝負がついたといえるだろう。もし、品質が悪いものだったら名指ししてまで買いにはこないに違いないからである。美味しいからこそよく売れるのだ。適切な肥料を施し、愛情をこめて栽培しているからこそ美味しいサツマイモが育つし、色のよい乾燥芋が作れるのである。

 クレームがあろうがなかろうが、我が家はきちんと会員費を払い会員になったのである。何を言われようが気にせず誇りを持って堂々と出荷しよう、と二人で確認し合ったものだった。

2019年02月12日

運気が上向きのわけ


 私は毎日、次のような言葉を口の中でつぶやいている。一つ二つのこともあれば、その全部をつぶやくこともある。

――強く、清く、正しく、気高く、美しく
――明るく、楽しく、朗らかに
――愛、感謝、歓び、希望
――ついてる、嬉しい、楽しい
――ありがとう、愛してます、ごめんなさい、許してください
――日々あらゆる面で、私はますます良くなっている

 特に、夜眠る前に口の中で言うことを大切にしている。

 前二つは中村天風(哲学者)の言葉、三つめは私の生活信条、四つ目は斎藤一人(何度も日本一の高額納税者になった実業家)が常々口にしているという言葉、五つ目はハワイのオポノポノの言葉で、これを口にしているだけで幸福や成功が約束されるという、六つ目は心理学者で哲学者であるエミール・クーエの言葉である。

 冬が到来し、雑草との格闘が一段落し、来年のキャンプの季節に向けて、キャンプ場の整備を始めた。

――美しい田園風景が見下ろせるファミリーキャンプ場を開設しました

 というのが我がホームページ「柿農園」でのうたい文句なのだが、観光地のようなくっきりとした紅葉ではないものの、キャンプ場設置の丘の上で前に拡がる山並の鮮やかな紅葉を見下ろし、充実と高揚を感じながら木の間伐作業をしている。こんなきれいな環境で生活できるなんて、感謝だなあ、とおもわず一人ごちる。

 ところで最近おもいもかけない出来事があった。

 今まで田んぼの米作りを頼んでいた農家の主が突然訪れたのだ。相方が玄関の外で応対したのだが、軽トラックのエンジン音が遠ざかるやいなや、

――ねえ、大変だわ

 と、いう声がして、二階に相方が上がってきた。

――○○さん、もう米作りやれない、っていうのよ

――ええーっ

――困ったわ、どうしたらいいかしら

――うーん、やれないっていうのをやれとは言えない、仕方ないんじゃないか、他をあたってみて、やってくれる人がいなければ米作りはやめると決めればいい

――そうねえ

 聞くと、親がもう二年も入院中、本人も最近とみに足腰が痛い、加えて奥さんも同様でことに米の苗つくりが大変でもう他の家の分までは作りたくないと言い出したのだという。

――○○さん確か六十ぐらいだよね、まだ高齢とは言えないな

――今まではお子さんを三人も大学に入れて経済的に大変だったのが皆卒業して働きだしたから、余裕が出、もうそんなに苦労して稼ぐことはない、と考えたのかもね

 我が家の田んぼは70aしかない。米作り小農家なのだ。毎年30kg袋が120体前後しか獲れない。30kgが6500円として、約66万円にしかならないのだ。

 自分で米作りをするのにはトラクター3~500万円、コンバインも同じぐらい、もみすり機数百万円、軽トラック100万円、要するに1000万円程度は最低必要なのだ。つまり、自分で作ってはとても採算がとれないのである。だから、機械をもっている他の大きな農家に頼んでいるのだが、用水分担金や肥料金などを合わせると米出荷代と同等になってしまい、作ってもへたをすると赤字になるのである。それなのに何故作るのか。それは作らなければ土地が荒れるし、周りにも迷惑がかかるからなのだ。

 この地域に限らず近隣の地区でも、荒れた田んぼをよく見かける。高齢化と国の大農家優先の政策もあって、米作りをやめる農家が多くなっているのである。二人で話し合い、引き受け手がいなくなったのだから、これを潮時に米作りはやめる方向で検討しようということになった。

 その後、まほろば温泉のそばにある農産物直売所「ゆうゆう直売所」に出向いた。最近相方がここに農産物を出荷できるように登録をしておいたのだった。何年もどこか出荷できないか探していたのだが、どこも断られてしまい、やっと念願がかなったのである。

 商品の包装、値段の付け方、店頭での並べ方、分からないことだらけで、不安を抱いての初出荷だった。しかし、案ずるよりも産むがやすし、である。包装は用意していったもので不都合はなく、値段は他の人が出した同じ商品を見習えばよく、バーコードは店員がその場で作成してくれ、並べ方は空いているところに他の商品を見習えばいいのだった。

 今回は六個入り干し柿のパック500円を五つ、300gの乾燥芋250円を六つ、展示した。結果的に、干し柿4パック、乾燥芋1パック売れたことが分かった。次の日はあまり売れなかった乾燥芋は200円に値下げして並べ、新たにアロエベラ250円を10枚と200円のを4枚ならべた。試しにと持って行った大きなカブ100円を2個並べたところ、すぐに中年の男性が2個とも買ったので、私はおもわず笑ってしまった。

 店頭で様子を見ていると、どうやら葉ものはよく売れるようなので、次はほうれん草や春菊、水菜などを並べてみようと話し合った。

 かくて、農産物の初出荷は上々の滑り出しと言えそうである。店員はパートで毎日代わるらしいが、どの人も親切で、いろいろトラブルがあると聞いて懸念を抱いていたのが、どうということはなく何とかなりそうなのでホッとした。

 出荷がかないそこそこ売れそうなのがわかったので、作物つくリにも張り合いが感じられるというものである。
 

気分を良くして、直売所からの帰りの道で、

――妹さんのところへ寄って行こうよ

 と、私は言った。もしかしたら、米作りを頼めるかもしれない、というおもいがよぎったからである。相方も同じおもいがあったようだが、五、六年前に似たような状況のとき断られたので、頼むわけにはいかないとおもっていたという。米作りを断られた話をし後は世間話をしただけで戻ってきた。私は反応がなかったので、農協や町役場の農林推進課に相談し、それでも引き受け手がなければ米作りは諦め、米は買って食べればいい、そう腹をくくるべきだと相方に進言したのである。
 

しかし、である。帰宅して間もなく、相方の妹さんから電話がかかってきた。米作りを引き受けてもいい、と旦那さんが言った、と。相方は喜びありがとうを何度も繰り返していた。

 米作りを断られてしまったと話せば頼まずとも、引き受けてくれるかもしれないという私の目論見は、その通りになったということになる。私は内心でしてやったりの気分だった。

――困って来たのだろうが、言い出せずに帰ったのだろう。姉さんとしては今まで守ってきた土地を荒らしてしまうのは忍び難いだろう、俺としても姉さんの力になってやりたいから引き受けるって言ってやれ

 そう言ったのだと、妹さんは相方に嬉しそうに、またホッとしたように電話で知らせてくれたのだった。
 
 ここ数年、我が家はいいことずくめで、運気が上向き続きである。これは相方と共通した認識だ。

 何故、我が家は運気が上向きなのか――

 二人とも常に前向きに生きている。

身体の健康は心が健康でなければかなえられない。身体と心は一体なのだ。どちらが欠けても健康にはならない、との教えを信じて、身体のために常に十分な栄養を、ことにビタミン、ミネラルなどの必須微量栄養素を摂る。よく眠り、良く働く。マイナスのことを言わない、考えない、思わない。潜在意識をいつもきれいにし、汚さない。これを実践してきた。
 冒頭に記した、私が常々口にしたり思ったりしている言葉は潜在意識をクリーニングするためのものなのである。

 潜在意識がきれいになれば健康は保たれるし、願望も叶えられるのだ。マイナスのことを口にしたり考えたりすれば潜在意識は汚れる。潜在意識が汚れれば健康は損なわれる。なぜならば、潜在意識は宇宙と繋がっていて、その宇宙からエネルギーを貰い、そのエネルギーを絶えず身体の各部に供給しているからだ。身体の臓器はひとりでに動き働いているわけではない。眠っているときでも、潜在意識が絶えずエネルギーを送って動かしているのである。だから、潜在意識が汚れれば、曇った日に太陽光が地表に届かないと同じで、身体に供給されるエネルギー量がぐっと減ってしまう。身体がガソリンを供給されない車と同然となってしまうのだ。そうすれば身体が不健康になるのは理の当然だろう。

 潜在意識を目で見ることはできない。目に見えないので、人生で大きな役割を担っている潜在意識の存在自体を知らないまま生涯を終えてしまう人は多い。潜在意識の構造や役割を知っていると知らないのでは、雲泥の差なのである。潜在意識を知って、上手に使えば人生を幸福に導くことができる。潜在意識を知らなければ使いようもなく、行き当たりばったりで生きるしかない。行き当たりばったりでは潜在意識をクリーンに保つことは出来ない。だから成功も出来ないし、健康を保つことも出来ないのである。

 ところで相方は私とは少々違うが、潜在意識を意識した生活を送っている。どこが違うのかというと、彼女は日々セルフハグを実践しているのである。

――洋子(自分の名)、愛してる、とっても愛してるわ

 と、自分の胸を抱くように優しく手をあて、折に触れて自分に語り掛けているのだ。

――洋子、これまで大変だったけどよく頑張ったわね、偉いわ

 と語り掛けることもある。

 このセルフハグも潜在意識をきれいにしたり活性化させる作用があるのである。

 二人とも潜在意識を意識し、それを利用しているので、我が家の運気が向上しているのである。いいことばかりが起こる由縁である。

 11月は我が民宿に毎週末お客さんが入った。

どこにも出荷先がなかったのに、農産物直売所に出荷がかない、そこそこ売れることが分かった。

米作りが出来なくなる危機に陥ったが、その日のうちに後釜が見つかった。

これらは私と相方がというよりも、二人の潜在意識が願望を叶えてくれたということなのである。そう私は考える。

2018年12月10日

キャンプ場経営を思いついた

 宿泊仲介サイトVacation StayやAirbnbへの登録をめぐっていろいろ調べているうちに、私の住所と同じ那珂川町にある「サンタヒルズ」という宿泊施設が目についた。

 この施設には七八年前に、コーヒーを飲みに一度訪れたことがある。

 森の中にあってコテージやキャンプ場などいろいろな施設があると聞いていたが、夜行ったのだが、喫茶室には誰もおらず、並んでいる民芸品をぼんやり眺めているうちに、しばらくしてから中年の女性が出てきてコーヒーを入れてくれたのだった。あれ、栄っていないのかなとおもったものだが、実は盛況だということを後で人を介して聞いた。

 楽天トラベルと「るるぶトラベル」で、同じ町ということでweb広告で同時に表示されることが結構あって、そのとき柿農園6700円、サンタヒルズ4500円とそれぞれのプランの最低料金が表示される。

 それで今回サンタヒルズはVacation STAYとAirbnbに掲載されているか調べる気になったのだが、両方とも掲載されていないということが分かった。

 そして、私は何ということはなしに、キャンプ場はどうなっているのだろうとサンタヒルズのホームページを紐解いたのである。

すると、一区画は10mの四方の広さ、つまり100㎡なのだった。それが全部で50区画ある。料金は一区画の利用料4000円が基本料で、その他大人800円、子供400円。バーベキューセットやその他の資材食材は別料金とある。これだと大人二人、子供二人の家族で利用すると、基本料金だけで4000+800×2+400×2=6400円となる。旅館に泊まるよりは割安ではあるが・・・。

そこで予約状況を見ると、直近の二ヶ月は土日曜日は満杯状態ではないか。親子4人の利用として、基本料金だけで一日の収益は6400円×50区画=320000円である。土日利用の一泊の月4日だけと計算しても320000円×4日=128000円となる。月128万円か、ほほう。これは・・・!! とおもい。同時に頭に閃くものがあった。

――柿農園にもキャンプ場を作ってはどうか

サンタヒルズは平坦地であるが、我が柿農園は丘の傾斜地にある。しかし、傾斜地を登り切った丘の尾根の部分は平坦で、広さは1haぐらいはある。ここは以前はミニゴルフ場にしようとか、テニスコートを作ろうかとか、検討した場所だった。ここから眺める田園風景は美しく、素晴らしいのである。そこをキャンプ場にしたらどうだろう、と閃いたのである。

サンタヒルズの50区画は100㎡×50区画=5000㎡で50aの広さでしかない。我が柿農園は全部で4ha=40000㎡あるのだから、サンタヒルズのキャンプ場の8倍の広さがある。キャンプ場を作っても余りがある。可能性は十分である、と私はおもった。

そこでキャンプ場にするためには許可が必要なのか、とかいろいろ調べ始めた。

 許可うんぬんはそのうち保健所で確かめようとおもうが、ネットで調べた範囲では、一般のキャンプ場なら広さに関係なく許可はいらないという。ただし、車を乗り入れることが可能なオートキャンプ場の場合は、1haを越えると都市計画法にかかって許可をとらなければならないという。要するに駐車場とキャンプ場を分けて車が入れないようにすれば、許可は必要ないということのようである。

 だから、駐車場を別に設置すれば、我が柿農園にキャンプ場を作ってもなんら問題はないようなのだ。

 幸い丘の尾根の部分にはおあつらいむきといわんばかりに北側に町道が隣接して東西に伸びている。そこから設置した駐車場に入って貰えばいい。50台ぐらい分の駐車場は楽に設けられるし、50区画くらいのキャンプ場を作ったってまだ十分な空きがある。なにせ雑木林や楓林などを合わせれば1.5haぐらいはあるのだから。

 サンタヒルズは森の中で周りを見渡せないが、我が柿農園はキャンプ場にしようとおもっているあたりは裾の我が家から高さ50メートルぐらいの丘の上で、美しい田園風景を見下ろせるし、ヤッホー! と叫べば、その声が前方の山並にぶつかって、ヤッホー、と何重にもなってこだまとなって返ってくるのだ。そして、松林、楓林、竹林、雑木林、百本の柿畑、など豊かな観光資源と言っていい自然が眠っている。そういう意味ではここはサンタヒルズ以上にキャンプ場に向いていると言っても過言ではないだろう。ここを生かさない手はないと強くおもえる。私の中に熱いものが湧いてくるのを感じた。

――キャンプ場にすれば、きっと来る方々に喜んでもらえるに違いない

 そう口の中でつぶやいているうちに、身体の内にやる気と嬉しさが溢れてきた。

 私はここ数年、相方の影響で哲学を学び、特に潜在意識を人生に生かす方法を分析理解し実践してきた。

 その中で、おもうことは大事で、そのおもいが信念にまでなればほとんどその通りになるということが分かったきた。それで、

――月収40万円

 とおもい、念じ、繰り返し口の中でつぶやくことを決めたのである。

 その内容は具体的には、キャンプの区画をまずは40区画とする。そして、一区画を5000円とする。5000円×40区画=200000円。土日曜日にその半分が入るとして、100000円、それが月4日として、100000円×4日=400000円。

 願いは達成した後のことを強くありありとイメージすれば必ずそうなるということなのである。私は達成した後の嬉しさや充実感を心に繰り返し想像している。

 私は丘の尾根に毎日出向き、車で乗り入れてもらうオート区画サイトをどこにするか、自由にテントを張ってもらうフリーサイトをどうするかなどを検討した。

 植木屋に返してもらった夏椿が立っているあたりがオートサイト向いているようだし、柿が立っている間がフリーサイトによさそうである。ざっと見たところ、ちょっと手入れをすれば、オート区画サイトが15区画、フリーサイトは25区画、合わせて40区画はすぐにでもいけるようである。とりあえずはそれで開設しようと心に決めた。

 そして、少しずつ手入れをして、来年の夏をめどに、「サンタヒルズ」と同じ50区画にしよう。

 チェーンソーで夏椿を間引いたり、刈払機で草を刈るなどの作業を開始した。そして、栃木県北保健センターに電話した。

 おおむねはネット検索で調べた通りだったが、キャンプ場の広さとオートキャンプ場の部分が違っていた。ただキャンパーに土地を貸すだけなら、広さも車を乗り入れるかどうかは、規制などないのだった。

料理をだすとか、バンガローにするとか、入浴をさせたり、常設テントを設置したりしない限り、許可申請も届も必要ないとのことである。テントを常設するのではなく、テントを貸すのはどうかと確かめてみると、それは問題ないとのことだった。

 かくてキャンプ場開設という夢(願望)実現は確実になったわけで、あとは集客をいかにすべきかという段階にすすんだことになる。

 集客はこれまでのノウハウがあり、自分のホームページと楽天トラベルに掲載宣伝すれば、今年はともかく来年の春ごろからは少しずつお客さんが来るようになるのではないか、とおもう。

昨夜さっそく、ホームページに「柿農園ファミリーキャンプ場」のページを作って公開した。
 ともあれ、目標があることはいいことで、丘の上の尾根部分に行ってやる草刈にしても、枯れ枝片付けにしても、遣り甲斐があるし、楽しいのである。

 

2018年10月11日

白内障は治るのか?

 白内障は老人性の病気で、年齢を重ねるとかなりの確率で罹ってしまい、治癒することはない、というのが私が若い頃持っていた認識だった。

 しかし、二十年前ぐらいから、白内障は簡単な手術で治ると言われ、実際に私の周りでも手術する人が出てきた。私のすぐ上の兄もその上の兄も手術を受け、よく見えるようになったということで、もし私も白内障が発症したら手術すればいい、と気軽に考えるようになった。

 七年前の六十六才のとき、目が疲れやすく、ときにかすみ、まぶしくて仕方がないとか、目に映る風景が歪んだりするようになった。夜、目覚めたときなど、目の前に三日月のような形のものがピカッと光るようになるに及んで、眼科に出向いた。

――どれも白内障の症状です

 と医師は言った。ふーん、暗闇で三日月が光るのも白内障の症状なのか、と私は内心ではホッとした。何か目の得体のしれない悪い病気にでも罹ったのかと思ったからである。医師はつづけた。

――ただ、あなたの白内障は軽度なもので、白内障気味といった程度ですから、まだ手術の必要はないでしょう。様子を見て、時期がきたら手術を検討しましょう

 白内障が進行するのは時間の問題かもしれない、と私は覚悟した。相方に話すと、

――それじゃ、アクティベーターがいいかもしれないわ

 と言う。
――何、それ

――アロエベラ製品よ

――化粧品として販売されているものだけど、それで白内障が良くなったという人は何人もいるって聞いてるわ

――ふーん、それでその化粧品をどうするの

――目に入れるのよ、目薬みたいに。でもね、原液のままだと、凄く沁みて痛いから、倍に薄めるといいわ

 何も知らない人は、目に化粧品を入れるなんて、理解できないだろう。とんでもない、と思うかもしれない。しかし、私はアロエのゼリーを傷薬として使っていて、屋根から落ちて頭が裂けたときも病院に行かずそれで治してしまったぐらいだから、アロエの絶大といっていいぐらいな効用は確認済みだったので、瞬時にアロエ製品のアクティベーターは目にいいだろう、と信じた。

 言われたように、アクティベーターを倍にうすめたものをスプレーに入れて、日に四、五度は目に注すようになった。医師から処方された目薬では諸症状が改善されたようには感じられなかったが、アクティベーターをさすようになってから、目のまぶしさ、歪み、疲れ、ピカッと三日月が光ることなど、次第に改善されるのが分かった。

 それから七年の月日が流れ、目がしょぼついたり、目脂が出るようになった。もともと視力がやや弱い左目で見ると、風景に白い幕がかかる感じで、いよいよ白内障が進んだのかと眼科に出向いた。

 すると白内障があるにはあるが、結膜炎になっているという。結膜炎の治療をしてから、詳しい検査をすることになった。二種類の点眼剤を処方され、十日後、検査を受けると、左目は霞んで視力検査が不可能だったが、右目は視力が0.9あるという。

――運転免許更新はいつですか

 と医師がいう。

――一年半後です

――微妙なところですが、運転免許更新には0.7以上あればいいので、今のところは問題ないです。三か月後検査して白内障が進んでいるようなら、手術しましょう。白内障の点眼剤を出しますから、それを注して様子を見ましょう

 それから三ヶ月たった。

 白内障は進まず、むしろ殊に白く幕がかかったように見えた左目がよくなったように感じられる。

 両眼とも白内障が進んだように感じられたのは結膜炎のせいだったのだろう。結膜炎が治癒したことで、目が本来の視力を取り戻したのである。

 七年前の白内障気味と言われた目が進行しなかったのは、やはりアクティベーターのおかげなのだと今にして改めておもう。
 
 実は、眼科に出向いた三か月前、ある一冊の本に出会った。相方が毎月通っているセミナーで聞いてきたもので、「読んでみたら」と奨められたので、アマゾンで取り寄せて読んでみたのである。

 「自在力」塩谷信夫。表紙に、呼吸とイメージの力で人生が思いのままになる。健康・長寿で、願いもかなう。人生全てがよくなる妙法! とある。

 若い頃はひ弱で病気がちだったのが、六十才を過ぎてから元気になり、百六才まで生きた、と言うところに注目した。自分で考案した呼吸法とイメージ法でそうなったというのである。その内容はここには記さないので、興味のある方は著作を読まれたい。六十才を過ぎてから元気になったのは私も同じなので、身近に感じ、より注目した。

 ところで塩谷信夫著「自在力」をここに挙げたのは、読み進めるうちに、八十代の半ばになった白内障を手術することなく、呼吸法とイメージの力で治したとあったからである。九十才のときには前立腺肥大で小便が出なくなってしまったのを、これまた同じ方法で自分で治した、ともあった。

 私の目の状態の悪化は白内障の進行ではなく、結膜炎のせいだったのだが、塩谷氏のイメージと呼吸法に触発されて、今までやってきた潜在意識をより徹底して使って、白内障をより改善するべく、誘導自己暗示法を実践することにした。塩谷氏述べる方法と私が常日頃信奉している中村天風の誘導自己暗示法は共通しているとおもったからである。

 眼科で処方された白内障の治療点滴剤を目に注すときには、

――この薬は効く、良く効く、目のレンズの曇りがとれて、はっきり見えるようになる

 と、念じる。これを日々繰り返す。

 私は最近のエッセイで何度も述べてきたが、潜在意識には三つの役割があって、それは、健康を保持する、記憶を貯め込む貯蔵庫としての役目、願望を実現する、の三つなのだが、そのうちの三番目の願望を実現する、を使うということなのである。

 目薬を注すとき以外でも、目が良くなる、と口の中でつぶやくことを繰り返す。そして、周りの光景がはっきりと見えるようになったときのことを具体的におもい浮かべ、嬉しさ、歓びに浸る。自己暗示は、眠る間際と目覚めてすぐの時間帯がより重要なので、床についたとき、しっかりこれを集中してやる。そして、目覚めたときは、目が良くなるではなく、目が良くなった、はっきり見えるようになった、と断定する。

 これを三ヶ月毎日つづけてきてどうなったか――

 明らかに良くなったと感じる。両眼とも。特に、白い膜がかかったように見えていた左目が白い膜がほんの少し残っているようには感じられるが、以前よりも明らかに物がはっきりと見えることは確かだ。

 ということで、どうやら当分は白内障は全くなくならないまでも、よくなりはしても進行はしない。そうおもう。したがって、目の手術ということは考えなくともいいようである。

 もしかすると、眼科で処方された白内障の点眼剤が効いたのかもしれない。しかし、私はそれもあるかもしれないが、それよりも私の潜在意識の誘導自己暗示法が有効だったのだとおもっている。あるいは、点眼剤、自己暗示、その両方だった可能性もある。いずれにしろ、私にとっては嬉しいことである。
 
表題の「白内障は治るか?」の答えであるが、治る、しかも手術をしなくとも治る方法がある、ということに落ち着くようである。

2018年09月29日

アロエパワー

――○○さん、アロエパワーですよ

 私は、大きなタケノコを五、六本胸に抱えて、お客さんが居る場所まで小走りに降り、それを下しながら、お道化た声で言った。アロエジュースを飲んでいるおかげでこんなに元気なんですよ、という意味を込めていったのである。そして、

――うれしいな、楽しいな、ついてるな

 とつづける。これは、歩いているとき、作業しているときなどの、私の口癖なのである。こう口にすると、楽しいし、疲れない。自分にツキがくるような気がしてくるのである。 

 ○○さんは、相方が手掛けているアロエジュースのネットワークの直ぐ下の世代の方で、東京から自分の仲間を連れてタケノコ狩りにきていた。すぐ下の世代が活性化することは相方にとっても望ましいことなので、私も協力して歓待に努めていたのである。

 竹林は丘の斜面にあり、上で掘ったタケノコを下まで運ばなければならない。上では相方と知り合いがタケノコを掘っていて、私はそれを運ぶ役目だった。○○さんと一緒にきた私と同年代の男性はタケノコを二、三本掘ったがへばってしまったらしく、私が運んだタケノコの皮をむいている女性たちのそばに腰を下ろしている。その男性を横目に、私は斜面を100mほど五、六回は往復したろう。私だってここに住み着いた十年前は、竹藪のある丘の中腹まで登るだけで息切れしたから、男性と変わらなかったのだ。しかし、今は当時より格段の体力がついたという自覚がある。当年73才になる私の小学校の同級生は約30人だが、男は生命力が弱いというか、半数は他界してしまった。存命してはいても、癌だとか何らかの病気持ちばかりで健康を維持しているのは、私ともう一人しかいないというていらくなのだ。

 私は若い頃は四度に渡る胃十二指腸潰瘍での入院、ヘルニアに悩み、しょっちゅう風邪をひくなどひ弱だったのが、相方の家に住み着いてからめきめき健康体になったのである。若い頃健康でも年と共に衰え病気がちになるというのが普通だろう。私の場合、七十を超えてますます体力がついたのだから稀有な例に違いない。栄養のバランスの取れた食事、学んだ哲学による心の安定、農業での肉体労働、宇宙を感じられる大自然の中での生活、など私の健康の要因はいろいろ考えられるが、私はアロエ関連の健康補助食品を摂取するようになったことも、大きいとおもっている。


 先日、しばらくぶりに貸家にしている大田原の私の家に出向いたとき、近所の人に声をかけられた。

――斎藤さん、あなたと同年代の独り者はみんな死んじゃいましたよ

――ええっ・・・

――そうなのよ、だれだれさんも、だれだれさんも、・・・相次いで亡くなったわ

――そうですか

 一人一人の顔をおもいい浮べながら、感慨があった。聞くと白血病、脳梗塞、癌、糖尿病などであるという。人生百年時代といわれる昨今では、七十代前半で亡くなるというのは早すぎるといえるだろう。相方の家に移り住んで十年近い年月が流れたのだが、もし、相方と出会えずここにずっといたとしたら、とおもう。

――一人暮らしをつづけていたら私だって今頃はもうこの世に居なかったかもしれない

 妻が亡くなった年、医院で検査を受けた。胃が爛れ炎症を起こし、十二指腸に小さい潰瘍が出来ている。また、軽いが脂肪肝になっているという。右肩上の首の根元に大きな塊が出来、痛いので近所の外科で見てもらうと膿が溜まっているから切りましょう、という。結果的に二度切開手術を受けたが、傷口の消毒が痛いの痛くないのって半端ではなかった。薬剤をしみ込ませたガーゼを挟んだピンセットを傷口にこじ入れて消毒するという原始的な治療で、私はイタッ、イタッ、と声をあげずにはいられなかったものだ。

 長年の介護、ビールの飲みすぎ、体力の消耗で、免疫力が衰えていたのだろう。相方によると、首の付け根に出来物ができるというのは、あまりよくない兆候であるという。身体が相当弱っている、とか、内臓のどこかを患っている、とか。

 妻没後一年たって出会った相方は、生気がなく失意と空虚を漂わす私に同情を覚え、

――このひとを健康にしてあげたい

 と、おもったという。以後その言葉通りになったのだから、感謝以外の言葉がないのである。

 同年代の多くが亡くなり、生きてはいても病気を背負っている人が多い中、私は斜面を何度も往復して平気な体力がある。相方のおかげというか、アロエのパワーだとあらためておもう。アロエがポパイのホウレンソウのような役割を担ってくれたのだ。

 アロエジュースの良さについては再三述べてきたが、冒頭のアロエパワーの意味を記述したい。

 アロエジュースならびにその関連製品は健康補助食品である。要するに食べ物であって、薬でも強壮剤でもない。それがどうして、私の体力をつけたのか。


 私は知識がなかったのだが、人間の身体に必要なものは主要栄養素の他、必須微量栄養素というものがあり、これは四十七種類にのぼるという。微量ではあっても必須なのだから、必ず必要で、もしも一つでも欠けると、体調不良や何らかの病気になってしまう。

 私が持っていた知識は、栄養のバランスの取れた食事を摂るべきということだけで、必須微量栄養素という知識がなかったのだ。多分、このことは知らない人が多いのではないだろうか。

 そして、問題なのが、現代の食べ物では、この必須微量栄養素を全てを摂取することは難しいということなのである。食べ物は米野菜などの作物の他、肉、魚介類、などだが、普通の家庭で食べているのは何種類ぐらいだろうか。せいぜい十種類前後、どんなに多くても二十種類ぐらいではないだろうか。それらの食べ物に四十七種類の必須微量栄養素が含まれていれば問題はないのだが、組み合わせによっては、どうしても摂れない栄養素が出てくるのは必然ではないだろうか。栄養素というものは目に見えないものだから、書物などを調べて献立を考えなければならないのだが、普通はそこまではしない。

 私の場合は主要栄養素の知識はあっても、必須微量栄養素のことは知らなかったのだから、何をかいわんやである。今にしておもうと、栄養価を考えた食事を摂ってはいても、胃潰瘍、椎間板ヘルニア、を患い、しょっちゅう風邪をひいていたことが納得できるのである。必須栄養素の何かが欠けていたのだろう、とおもう。

 アロエジュースには四十七種類の必須微量栄養素はもちろんのこと、合計八十種類余の栄養素が配合されているという。私がアロエジュースや関連製品を愛用するようになって、まもなく身体に力が湧いてくるように感じられたのは、身体各部に必要不可欠な栄養素が行き渡るようになったからだろう。別な言い方をすると、私には何かが不足していたから、体調不良のことが多かったのだが、その不足していたものとは、必須微量栄養素のうちのどれかだったと類推できるのである。

 さて、現代の作物、たとえば野菜など、農薬や化学肥料の使用によって、本来あるべき栄養素が欠けていたり、毒素が含まれていたり、また遺伝子組み換えなどの問題もあって、理想とは程遠い現状があるようだ。その点、アロエジュースは欠けている栄養素を補完してくれるし、また解毒作用もあるという。十年前に現在の相方に出会い、再婚したのだが、そのことがきっかけとなって、アロエジュースを愛用するようになり、ついてるなあ、と改めておもうのである。


 私は何よりも健康が大事という思いから、アロエジュースだけではなく、同じFLP社で購入できる解毒作用のあるプロポリス、強精強壮作用があるポーレン、筋肉筋力をつけるというプロテインも摂っている。まあ、健康のためにはお金を惜しまないということなのだ。アロエを勧めても、お金が惜しくて愛用に踏み切れない人は結構多い。そして、その中で病気になって死んでしまった人は何人もいる。確かに私が愛用している製品は決して安いものではない。しかし、健康を損ねて病院で払う治療費よりは安い。たった一度だけの人生である。お金を出し惜しみして、貯めたところで何になろう。人生百年時代といわれる昨今、あと二、三十年は生きなければならないのだから、私は人が何と言おうと、アロエジュースで行こう、とおもっている。

 おかげさまで、斜面の畑や竹林、松林、楓林など、苦もなく上り下りして仕事ができる体力を維持している。この十年は風邪一つひくことなく、歯の治療以外で病院に行ったことはない健康体である。有難いことだ。

アロエ様様である。

2018年05月13日

引き寄せの法則

 ある知り合いとのやり取りのなかで、

――この頃、我が家に来る人は、いい人ばかりなんですよ

 と、私が言うと、相方が、

――わたしはいつも、お客さんが来るときには、いいひとがくる、いいひとがくる、って心で念じて、自分に言い聞かせることにしてるわ

 それを受けて、私が、

――つい先日、いつも宿泊する宿が満室で断られて困ってるんですが、泊まれますかと電話が入った。それで、急遽職人さんが一泊したが、やっぱり、いい人たちだった。とび職というと荒くれ男という先入観を持っていたが、そんなことはなく、社長さんは気さくで優しく、二泊の予約をしたのに急の仕事が入って一泊になってしまい申し訳ありませんとしきりに詫びる。従業員の若者二人も実直で朴訥だった

 その少し前には、大田原ツーリズム社からのツアー客で、アメリカの女子大生が三名やってきたが、皆性格がよく、チャーミングだった。ポーランド、中国からの移民、黒人、の子女だという彼女たちは流暢とまではいかないが、日本語が話せた。大学で日本語の講座を受講しているという。話が弾んでいるうちに外国人という感じはしなくなってしまった。一晩しか泊らないのに、別れのときには三人とも涙ぐんでいたのは私達との親交のほどを示しているだろう。

 知り合いは、

――私にはそういった感動を味わったことがないんですよ。涙ぐむなんて。一人で営業しているので、料理や応対で手一杯で余裕がなく、勢い事務的になってしまい、心の交流が出来ないからかもしれません

 という。そして、

――お二人は、そういう雰囲気を持っています。ここに来ると、元気がもらえます。この場所にはパワーがあるのかもしれませんね

 その知り合いも農家民宿をやっている。その関係で交流するようになったのである。
我が家を訪れる人が皆いいひとばかりだというのには、幾つかの要因があると、私は考える。
数年前までは、必ずしもいい人ばかりではなかったのだ。それがここ数年はいい人ばかりになった。それは私達二人が変わったからだ、と私はおもっている。

では、どのように変わったのか――

大きく変わったことは、二人ともほとんどプラスのことしか言わなくなったことである。以前はマイナスのことを口にすることもあったのだが、今はプラスの言葉しか発しないということだ。

例えば、相方は長年の農業の仕事で酷使した上に足をくじいたりした関係で、膝や脚が痛んだりしびれたりすることがあるのだが、痛いとかしびれると言わず、休めば治る、きっとよくなる、と口にしたり、気持ちを痛んだりしびれたりする膝や脚に行かないようにし、楽しいことやいいことに向けるようにしている。そして、膝や脚をあれだけ酷使し痛めたのに、これぐらいで済んでいるのはありがたい、感謝しなければならない、とおもい、

――わたしはついてるわ、嬉しいなあ

 と、絶えず言っている。


 これが、痛いと口にし、なんでわたしだけがこんなにつらいのかしら、などとマイナスのことを言ったとすると、言えば言うほど彼女の潜在意識が汚れてしまう。潜在意識が汚れてしまうと潜在意識は宇宙と繋がっていて、宇宙からエネルギーをもらって身体各所を動かしているのだから、曇っていれば太陽光が地表に届かないように、貰えるエネルギー量が減ってしまう。つまり、身体はガソリンを十分供給できない車と同じ様相を呈することになるのだ。

 また、言葉には暗示力があるから、痛いと言えば、自分に痛いという暗示をかけたことになり、ますます痛くなるし、つらいと言えばますますつらくなのである。

 相方の膝は一時は歩くのもままならないぐらい悪化したが、プラス思考が幸いしたのだろう、今では畑仕事ができるぐらいに回復している。

 それから、このことは何度も他にも記述したことであるが、彼女は一日のうちに数回は、セルフハグをしている。

 セルフハグとは読んで字の通り、自分を抱きしめることだ。自分の胸に手を当て抱くようにして、自分を愛していると念じるのである。彼女は夜床に就いてから、あるいはトイレの便座に座っているときなど、時間にして五~十分はこのハグをやることにしている。セルフハグを続けていると、自分や自分の周囲で次々にいいことが起こるようになるのである。セルフハグは潜在意識を活性化させ、シンクロニシテイを起こりやすくするからだ。シンクロニシテイとは哲学者カール・ユングが提唱した概念で、共時性、意味のある偶然の出来事と訳される。これだけでは分かりにくいかもしれないが、話の本筋と離れてしまうので、詳しい説明は省く。興味のある方は、ユングの著作を読んでください。

 相方は、

――日々、あらゆる面で、わたしはますます良くなっている

 と、心の中で念じることもある。

 要するに、相方は例え身体にマイナスのことがあっても常々プラスのことを口にし、念じているのである。

 それでは私はというと、相方と考え方、方向性はほとんど一致している。ただ、やり方が少々違っているといえる。

 私はマイナスのことを口にしないことは、数年前から習慣化している。そして、プラスのことしか口にしないし、心の中でもプラスのことしかおもわない。知らず知らずのうちに考えがマイナスの方に向いてしまうことはあるが、そういうときはすぐにおもいをプラスの方に反らしてしまう。雑念、邪念、妄念、などがふっと心に訪れることもあるが、そういうときは直ちにクンバハカ法を実施し、おもいや考えをプラスに転じてしまう。これも習慣になっているので、最近では妄想や雑念の類にとらえられることもあまりない。

 クンバハカ法とは、嫌なことがあったり、心が衝撃を受けたりしたときに、それを和らげたり反らしてしまう方法である。やり方は簡単で、肛門を閉める、下腹に力を入れる、肩を下す、この三つを同時に行えばいいのだ。すると、鳩尾や胸、腋の下、股間などにある神経叢が守られるのだ。これはインドのヨガの密法である。

 私も夜床に就いたときセルフハグをしているが、加えて、

――強く、清く、正しく、気高く、美しく

 と、口の中でつぶやく。念じる。

――明るく、楽しく、朗らかに

――信念と勇気をもって、生き生きと

――ついてる、運がいい、嬉しい

――愛、感謝、歓び、希望

 とも、言うことにしている。

 すると、気持ちよく、眠りに就くことができる。これも習慣化していて、毎日継続している。眠りに就く直前は脳が活動を停止し始めるときで、暗示が最も効きやすい時間帯であるという。だから、私は毎日自分にプラスの暗示をかけていることになる。

 二人とも常にプラス、プラス、なにがともあれ、プラスなのである。

 言霊という言葉をご存知だろうか。言葉には魂がこもっていて、力がある。だから、人は口から出した言葉通りになっていく。自分はダメだと言うと、その通りダメになるし、自分はやれる、出来る、と言えば、出来るようになっていくのである。ご自分の過去を振り返ってみてください。そうなっているとおもいますよ・・・。

 さて、私達二人が変わったことの二つ目は、自分のためだけではなく、人のために生きると決めたことである。


 その一つとして、今までは農業は自分たちの食料を確保するためにやっていたのだが、それだけではなく、我が家を訪れるひとに、提供するためにやることにしたのである。民宿を始めたので、我が家にはこれまでになく多くの人が訪れるようになった。お土産として農産物を進呈したところ、とても喜ばれた。喜ばれることほど、嬉しいことはない。作物栽培は、畑を耕し、種を撒き、苗を育て、肥料を散布し、移植し、作物が出来るまで雑草をむしる、といった作業の結果、数か月後に収穫できるのだ。大変といえばいえるのだが、出荷するため、あるいは自分たちの食料とするため、というよりも、お客さんや我が家を訪れる人に提供するために作ると決めてからというもの、何か今までにない遣り甲斐を感じられる。夏場の雑草の勢いはすざましく、4ha(一万二千坪)あるので、刈り終えた頃には刈り始めた場所にもう新たな雑草が生えているといった有様なのだが、お客さんに提供するために、とおもうと闘志が湧いて、作業が苦にならず、楽しくさえあるのである。

 また、私達二人は高齢者の域に入っているので、若いひとにはない経験を積んでいる。加えて、二人は人生哲学を学び実践している。単に本を読むというだけではなく、埼玉まで出向いて、セミナーを受講しているのだ。だから、どう生きたらいいか暗中模索している人にアドバイスができる。農泊ツアーの小中高校生には、夢や目標を持つことの大切さを、その他一般のお客さんには、私達が日々実践している健康法や、よりよく生きていくための心の持ち方や心構えなどを話すことにしている。昨年から今年にかけて、首都圏の東京、横浜、台湾、の小中高生や、ベトナムの留学生、アメリカの大学生、一般のお客さん、計約六十名がやってきたが、手応えを感じることができた。
 
 ところで、表題の「引き寄せの法則」を説明したい。要するに、プラス思考の人はプラス思考の人を引き寄せ、近づき、仲良くなるが、マイナス思考の人とはそりが合わず、反発しあい、離れる、ということである。

別な言い方をすると、同類同士は引き合うが、異類は退け合う、という法則なのである。この世はこの法則に支配されているのだ。だから、この法則を知っている、知らないとでは大違いなのである。

実は私はつい最近まで、そんな法則があることを知らなかった。相方の影響で哲学を学ぶようになり、様々な著作を読むようになったのだが、その過程で彼女の本棚に「引き寄せの法則」に関する本があるのを見つけた。

インターネットで検索してみると、引き寄せの法則に関する本は何十冊も出版されているということが分かった。相方によると、十年以上前アメリカに行ったとき、ロンダ・バーツ著「ザ・シークレット」を読みふけるアメリカ人をあちこちで見かけたという。その本は当時アメリカでベストセラーだったというから、引き寄せの法則はアメリカでもよく知られるものだったのである。私の周辺からそんな声は聞こえてこなかったということは、要するに、私並びに私の周辺の人だけが知らなかったということなのだ。

この法則を知ってからというもの、日々の生活の中で、いろいろなことが「ああ、そうだったのか」と納得でき、精神的に楽になった気がする。


かなり親しくしていたのに急に離れていった人がいて戸惑い、どうしてなんだろうとショックを受けたことがあるが、ああ、そうか、あの人と私は持っているものが違う、要するに異類同士だったんだ、とおもい当たり、受けたショックは雲散霧消していくのをかんじた。
どうもそりが合わず、苦手だと感じていた人が近づいてきて、そのうちに苦手感が消え近しく交流するようになった。付き合ってみると気さくでユーモアのセンスのある人だったということもある。要するに同類項が多く、引き合ったのだということが分かった。

さて、冒頭の我が家を訪れるのがいい人ばかりになったということは、引き寄せの法則からいうと、私達二人が以前はマイナスを言うこともあったので、マイナス思考の人も引き寄せられたが、ここ数年はプラスしか言わないので、プラス志向の人ばかりが訪れるようになったということなのである。

見ず知らずの人がどうして引き寄せられるのか――

人間の潜在意識の奥には集合的無意識の層があって、それは万人共通に持っているという。人の潜在意識は宇宙とつなかっている。要するに、人と人とは離れていても、その潜在意識は宇宙を通して繋がっているのだ。

また、人間の脳は考えたりおもったりすると微量だが電気や磁気を四方八方に放出する、ということもある。微量ではあっても、その電気や磁気は例え何万キロはなれていようと届くという。人間の持つ五感を超えた第六感は、それを察知できるのだ。このことからも、それまでは見ず知らずだったお客さんがいい人だったということも納得できるだろう。私達二人とお客さんはプラス志向の同類同士だったので、引き寄せられたのだ、と。

2018年05月07日

第六感

 我が家の愛犬モモは猛犬の部類に入るかもしれない。下野新聞の「譲ります」のコーナーに載っていたのを、益子町まで片道一時間かけて貰ってきたのである。その頃、屋敷内外で不審かつ不穏な事が起っていて、用心の意味もあって、飼うことにしたのだった。

 不審かつ不穏な事とは、竹藪のタケノコが十本前後が鋭利な刃物の切り口で、多分刈り払い機だとおもうがなぎ倒されていたことや、家の裏の壁に土の塊をぶつけた跡が残っていたこと、裏手の雑木林の松の木数本がノコギリらしい切り口で倒されていたことなどだ。この三つは私が相方の家で同居して間もなく起こったことである。それ以前にも、屋敷周りに置いてあったものがなくなったことは両手の指の数を上回るという。

 私はタケノコがなぎ倒されている様を見たときは肝を冷やして、警察に届けた方がいいと言ったものだが、相方はタケノコを道に引き出して、きちんと並べて、

――こうしておけば、やった人は何かを感じるでしょうよ。タケノコなんてたいしたものじゃないし、ま、今回は事を荒立てないことにするわ

 と、冷静に対処したものだった。

 ところでモモは帰りの車の中で、私の膝の上で眠ってしまうなど、愛らしい子犬だったが、大きくなるにつれて、オスの親犬の甲斐犬の血筋の性質が色濃く反映されて、獰猛性を露わしてきた。餌を与え散歩をし、力ずくで力の差を徹底的に分らせてある私には従順なのだが、力が弱いと見て取って相方にはなめてかかるのだ。可愛がるつもりで出した手を相方は三度ほど噛みつかれている。

 普段は穏やかな顔をしているのだが、野生動物特有の狂暴ともいえる本性を見せることがあるのだ。例えば餌を確保しようとするのか、投げ与えた餌が届かないので拾ってやろうとしても、奪われるとおもうのか噛みつこうとする。こういう時の顔は歯をむき出しにした獰猛な表情になるのだ。また、犬小屋のそばに木製の台を設置してあるのだが、人がそこに座ろうとしたりすると怒ってやはり歯をむき出しにする。これは自分の縄張りを守ろうとでもする本能の発露なのだろう。そして、しょっちゅう遠吠えをするのだ。口を空にむけて、ウォー、ウォー、ウオオー、というように、延々と吠える姿は狼そのもののようである。場合によっては小一時間も吠えつづける。都会ならたちまち苦情が殺到するだろうが、幸い両隣は二百メートルは離れているし、裏手は丘でその裏は断崖、前方は田畑が広がり、その更に前方は丘並である。それに近隣に犬を数十頭飼っている家があって、ときどきその犬が五六頭脱走してうろつきまわっていたりする。そういう土地柄だから、苦情がきたことは一度もない。


 ところでモモは体重約十一キロの中型黒犬である。私はデモンストレーションの意味で、たまにモモをつれて村中を歩き回ることにしている。モモはもともとは優しい性格なのだが、ときに長い赤い舌を出しなから、私を力強く引っ張る姿は、出会った人には獰猛狂暴犬に映るに違いない。引いているのは私なのだが、モモに私が引き回されているように見えるかもしれない。

 夜ごとに響き渡る遠吠えや、その狼のような風貌は村中に知れ渡っただろう。以後は我が家の屋敷内外で不審な事が起こったことは全くない。相方は何度も噛みつかれたものだから、もう少しおとなしい犬ならよかったのにと言うが、私は、

――番犬としては最高の犬だよ、今まで家の周りで変なことが一杯起きたけど、モモが居るようになってから平穏そのものになったもの。もし、空き巣狙いが下見に来たとしても、犬小屋とモモの姿を見たら諦めてしまうとおもうよ。我が家に悪さをした輩も、モモを恐れてもう近づかないだろう

 と、言った。

 前置きが長くなってしまったようだ。

 本題に話を進めよう。

 数日前、モモを連れて裏手の丘の上に行ったときのことである。楓林に入って間もなく、モモが急に右手の篠藪の方に行こうとする。私は綱を強く持って引きとどめながら、そっちの方をうかがう。そのあたりには小鳥がいたり、小動物の糞を見かけるので、ときには猫とか狐やハクビシンの類がうろつくのだろう。しかし、何も見えない。物音もしない。何もいないよ、とモモに言い、引っ張ろうとするが、尚も凄い力でそっちに行こうとするのだ。それを強引に引っ張って、いつものコースを歩いて、丘の尾根の小道に出た。すると、遠くに軽トラックの白い車体が見えるではないか。ここで人に出会うのは数か月に一度あるかないかである。モモがさっき察知したのはあれか、とおもい、近づいていくと、我が家の土地の地続きの雑木林の中に人影が見え、やがて道に出てきたので、こんにちわ、とあいさつした。

 モモが察知した場所からそこまでは、五百メートルはある。途中篠藪はあるし、灌木やガサヤブが連なっている。私が気配も何も感じなかったのは当然だろう。しかし、モモは足音でも聞きわけたのか、あるいは人の気配を感じたのか、明らかに篠藪や灌木の五百メートルも向こうから人のいることを察知したのである。モモは飼い犬なのだから、野生ではない。しかし、多分に野生的で、勘が鋭いということなのだろう。さすが、と私はおもった。

 人間にも動物にも五感が備わっている。目は視覚、耳は聴覚、鼻は嗅覚、舌は味覚、皮膚は触覚、の五感である。それ以外に、直観とか、予感とか、予知、勘、何となくぴんとくるというようなこと、人の気持ちが読み取れるというテレパシーなど、五感で感じ取るものではない、第六感とか第七感と呼ばれるものがある。

 犬の嗅覚や聴覚は人間の何倍も鋭いという。第六感、第七感もそうなのだろう。


人間の五感も第六感も元々はかなり高い能力があったのだが、文明が発展し、いわゆる文化的な生活をするようになったため、使わなくなった感覚は退化して低くなってしまったのである。しかし、なくなったわけではないので、訓練次第で能力をアップすることは可能なのだ。例えば、電車の中で遠くの人の話し声を聞き分けるよう毎日努力していると、次第に何を言っているのか分かるようになるとか、目にしても、遠くの風物を見るように訓練していると、近視が改善するとか、目を閉じて物に触って何か言い当てるということも、練習次第で分かるようになる、というように。

 ところで、私は、魔術とか、透視とか、霊感、テレパシーとか、普段は考えたこともなく、それほど関心もなかったのだが、否定派でもなかった。そういうものは信じる人には有効だろうが、信じない人には働かないだろうな、となんとなくおもっていた。要するに、私はそういう世界とは遠いところにいたのである。

 ただ、ここ数年相方の影響で、哲学書を読む機会が増え、関心を持つようになった。

 そして、おもうことはもっと早く関心をもつべきだったということである。なぜならは、人や人の人生を決定ずけるものは、五感で感じることばかりではなく、むしろ五感を超えた、あるいは五感では感じられない領域が多く関わっているということが分かったからである。

 振り返ってみると、人生の重大ともいえる転機に下した私の決断は、例えば結婚にしてもいろいろ考えた末ではなく直観的な閃めき、勘で決めたのだった。五十三才のとき、妻の介護のため教職を辞めることにしたのも、栃木に移住したのも、妻の死の直前のとき延命治療をやめることにしたのも・・・。要所要所での決断で、ほぼ即断だったのだ。そして、それは振り返ってみて正しい判断だったことが分かる。要するに、ああでもないこうでもないと考えに考えた末ではなく、迷わずに決め、即実行したのだから、直観、勘、であり、これは潜在意識がそうしたといえるのである。

 そういうこともあって、私はこれまでよりもより深い関心を持って、潜在意識や五感を超えた領域にある透視、テレパシー、霊感、などについての書籍を読み漁っているところである。

 ところで、私は子供の頃こんな経験をしている。

 小学校五年生だったとおもう、実家の裏庭で友達数人と卓球をしていた。審判役が一人、あとの数人が順番に対戦していく。対戦を待っている間、対戦している二人のうちどちらが勝つか、当てっこしようということになった。十五回一セットである。

 私の番になったとき、私はどちらが勝つか次々に当てていった。十回ぐらいまでいったとき、友達がオーッというような驚きの声をあげた。全部的中したからである。それでも私は当てつづけ、十二回のとき外れたが、十五回のうち、十四回を当てたのだから、九割以上の確率で的中したことになる。あきちゃん、すげえなあ、と友達が口々に言うのを、ぼーっとした気持ちで聞いた。なんでこんなに当たるんだろう、と自分でも不思議な気持ちだった。

 これと同等の確率で二度言い当てることが出来たが、あとは確率がぐっと落ちてしまった。なんだか頭が疲れて重くなってしまい、それまでは対戦の前にぱっどちらが勝つか即座におもい浮かんだのに、急におもい浮かばなくなってしまったのである。するとこの言い当てゲームに対するやる気もなくなって投げやりになってしまった。これでは当たらなくなるのは当然である。

 今改めて振り返ってみると、初めのうちは何のおもい入れもなく、構えることもなく、ただ心におもい浮んできたことを次々に口にしていったのである。しかし、当たりつづけ、友達が驚きの声をあげるに及んで、あれ、とおもい、次いで当てるぞ、当てなければならない、というような気持ちが芽生え、すると焦りが生まれ、その気持ちや焦りが邪魔して、それまではぽっと浮かんできたものがみえなくなってしまい、同時に急に疲れが台頭してきたようにおもう。


 要するに、最初は心が「無」の状態だったのに、意識しはじめたことによって、色気というか邪念雑念が生まれ、それが私の予知能力を曇らせ、当たらなくなってしまったのだろう。

 何人もの哲学者や心理学者の著作を読んでみたが、私が子供の頃示した予知能力は誰でも持っているものだという。ただその種の能力は人によって強弱があり、現れ方も違う。また、訓練次第で能力を高めることも可能だとあった。

 私の場合は自分の邪念雑念によって、能力が減殺されたのだが、こうした能力は、周囲にそんなものあり得ないという否定的な人がいたり、嘲笑する人がいたりすると、その影響をうけて、ぐんと成績が下がってしまうという。逆に、同調者が多く、否定者がいなければ成績はあがるという微妙なものなのである。

 ところでその後私は予知能力を使ったり、磨いたりしようとしたことはない。ただ、第六感を磨く訓練はしているし、その大もとにある潜在意識は今後の人生に有効に生かすべく、誘導自己暗示法を日々実践している。

 さて、先に発表したエッセイ「願いを叶えるには」で、潜在意識を使って願望を達成するために、自己暗示をかける方法を記述したのであるが、ここでは「セルフハグ(自分を愛する)」について述べたい。これも、潜在意識を使う方法である。

 セルフハグを以後はハグとするが、自分自身に対して、愛しているということを小声で言ったり、念じたりして、言い聞かせるのである。するとどうなるか、人によっては数日、数週間、数か月という違いはあるが、自分あるいは家族、周りの人にいいことが起こり始めるのである。例えばそれまで優しくなかった配偶者が優しくなったり、嫁姑の関係がよくなったり、引きこもりの子が部屋から出て一緒に食事をするようになったり、とか。これは、人だけではなく、例えば故障していた電化製品が急に直って動き始めるというような不思議な現象も起こるのだ。

 つい昨日起こったことだが、我が家の電話のFAXは以前から調子がよくなかったのだが、だましだまし何とか使用していた。しかし、ある保険会社から大事な書類を送ると電話があったのに、「詰まった紙を取り除いてください」との表示が出て、動かなくなってしまった。

 中を開けてみると給紙の部分に埃や近くにあった枯れた花びらの欠片が入っているのが見えた。それをきれいにして、リセットしたところ、連絡があった書類は受け取ることができたので、修復したと喜んでいたところ、すぐにまた動かなくなってしまい、何度リセットしても同じ表示がでる。また、入念に電話機内部を掃除した。しかし、同じ表示がでるばかりなのだ。保険会社に入金しなければならない書類が届くことになっていて、それが見られなければ振込先の情報が分からない。やっぱり新しい電話機を購入しなければならないのかと半ば諦めていた。それが一昨日のことである。

 その間、相方も盛んにハグを、FAXは直る、という言葉も加えて、やっていたという。勿論私も床に就いてからと朝方毎日ハグをやっているのである。

 そして、今日昼過ぎ、昼寝から覚めて電話機を確認すると、表示が「詰まった紙を取り除いてください」から、「インクフイルムがなくなりました」に代わっているではないか。急いで新しいインクフイルムを入れてリセットすると、「FAXが届いています、紙をセットしてください」という表示がでた。紙をセットすると、音声案内で、「FAXを全て印刷するには、コピーボタンを押してください」という。コピーボタンを押すと、紙が動き始め、保険会社からの書類がコピーされて出てきた。何十回も試みて作動しなかったFAXがどこでどうなったのかさっぱりわからないが、一夜明けて、電話機が勝手に動き始め、修復してしまったのだ。こういう現象をハグを実践する身としてはこう理解している。日々ハグをやっていると、潜在意識が活性化される。潜在意識が活性化すると、シンクロニシティが起こりやすくなり、意外な、おもいもかけないようないいことが起こるのである。シンクロニシテイとは哲学者ユングが提唱した概念で、日本語で言うとすると、意味のある偶然の一致とか、共時性という。個々の潜在意識は宇宙と繋がっている。要するに、潜在意識は他の人の潜在意識だけではなく、動物でも、物でも、電化製品でも、この世のありとあらゆる全てのものと繋がっている、と考えるのである。

 ハグなんてバカバカしい、信じられない、という人にとっては、FAXが直ったのは単なる偶然の現象にすぎないとおもうに違いない。しかし、私は同じ偶然でも、私や相方がFAXの修復を願ってハグをしていたのだから、単なる偶然ではなく、FAXの修復とハグは「意味のある偶然の一致」だと理解するのである。ハグをやっていると、このようなことがよく起こるようになることは、ほかの方々によって多くの事例が発表されてもいて、私がたまに出席する「潜在意識セミナー」では、その体験談が三冊の冊子にまとめられて発売されたぐらいなのである。



 最後に、第六感に関することは、時空を超える例を一つ挙げて、終わりにしたい。

 相方がアロエジュースのネットワークを手掛けていることは再三記述しているが、そのネットワーク関係のあるリーダーの方がアメリカから、七十名が集まっているグループにむけてメッセージを送るという。相方も埼玉で開かれていたそのグループの集会に参加していたのだ。午後の二時かっきりに集会のまとめ役の方にメールが入った。メッセージを送ったという合図だった。メッセージとは「愛のメッセージ」とだけ告げられていた。「愛のメッセージ」とはどんな内容なんだろうと、皆かたずを呑んで待っていた。すると、まとめ役の方にメールが入った瞬間、相方の手足がモアーという感じで熱く火照った。一緒に参加した連れの女性に聞くと同じように手足が火照ったという。周りの人も同じだと口々に言っていた。その後、言葉のメッセージがあったのだろうが、アメリカはほぼ地球の裏側である。アメリカからメッセージを送ったというメールとともに、リーダーの愛のパワーかエネルギーが瞬時に数千キロの距離を超えてグループの面々に届いたことは明らかで、驚きである。

 ちなみに、このリーダーは楚々とした美人であるが、若い頃はダンプカーの運転手をしていたこともあるというから、元々は男勝りの性格なのかもしれない。しかし、偏食家でひどいアトピーを患い、糖尿病にもなり、日本の病院では治らず、アメリカに渡り、自然食療法によって長期間かかって治癒したという。糖尿病も重く、手の指の一本が壊死してしまい、ないのである。そのころアロエジュースに出会ったことがきっかけで、ネットワークで成功したのである。今では、アメリカに別荘を持ち、日本と行き来して生活している。ひどいアトピーの頃の写真を見せてもらったことがあるが、それこそお岩さんの幽霊に近いような、現在の美人顔からは想像もできないような顔だった。その顔が離婚原因になり、旦那さんから、

――幽霊のような女となんか、一緒にいられない

 と言われたという。そのリーダーの方はその言葉に発奮し、ばねにした。

――よーし、後で別れたことを後悔するぐらいに成功して、いい女になってやるぞ

 と、心に誓ったのである。

 そして、今ではアメリカだけではなく、ドイツなどヨーロッパの病院や研究所など訪問し、健康に関するデータなど収集し、世界を股にかけて活動している。

 私も講演を聞いたが、豊富なデータに裏付けられた健康に関する話には説得力があり、とても参考になった。

2018年04月01日

願いを叶えるには


 我が家の母屋の居間の壁に、賞状が入った小さな額が掲げられている。「文芸思潮」という雑誌に投稿したエッセイが入選して、送られてきた賞状である。

 私は賞状を飾ったことはない。そんなことは、自分をひらけかせるに等しい行為のようにおもえたからである。ただ、文章関係で入賞したり、新聞や雑誌に載ったりしたことは結構あって、その評などはコピーしてファイルに綴じ、保存してある。三十才になった頃ライフワークと決めて取り組んできた執筆活動が残した足跡を示す記念であり、年に一度ぐらいは取り出して眺めることがある。

 居間に飾ってある賞状は、私が放置してたのを目を留めた相方が拾いあげて、いつの間にか掲げたのである。私はそれを見てびっくりして、やめてよ、といった記憶があるが、結局はそのままになった。それから、もう数年がたっている。

 掲げるほどの価値があるともおもえないが、相方にとっては話の導入として都合のいいものなのだった。そういう意味での利用価値は認めなければならないとおもう。

 エッセイの題名は「おもえばかなう」というもので、

――こうなりたいという念願は、繰り返し心でおもい、そのおもいが深く、強く、なっていけばいくほど叶うものである

 ということを、相方と私が一緒になった経過を通して、彼女の側に立って、私が作品にしたものである。

 昨年の4月から、農家民宿を始め、都会のみならず、東南アジアの小中学生がやってくるようになった。昨年だけで五十余名が来訪した。

 夕食後のひととき、農業体験の休憩時などに、子供たちにいろいろ話すことになるが、相方は、壁に掲げてある賞状を指差し、

――ほら、あそこに、おもえばかなう、ってあるでしょう

と、話を振る。

 そして、目標や、将来の夢を持つことの大切さ、を説くのである。

 目標、将来の夢を持ち、それを実現するのにはどうしたらいいのか、ということを説明するのには、まず、人間の心、意識についての理解が必要である。

 簡単に記述してみると、氷山に例えるなら、海面上に出ている氷の部分が心の顕在意識であり、海面下に隠れている部分が潜在意識である。ご存知のように、海面上の氷よりも海面下の氷の塊の方が圧倒的に大きい。人間の意識も同じように普段意識して生活している顕在意識よりも、普段は全くと言っていいほど意識しない潜在意識の方が比べものにならないぐらいに大きく、また奥深いのである。

 多くの人は、普段顕在意識でおもったり考えたりしているので、この潜在意識を特に意識することなく生活している。直接目にしたり感じたりすることができないものだから、自分の中で大きな役割を担っている潜在意識に関する知識のないまま、一生を終える人もかなりの割合居るとおもわれる。しかし、この潜在意識の理解を正しくしているかいないかで、その人の人生は大きく変わってしまうのである。それはどういうことかというと、潜在意識を正しく制御すれば、健康、運命、人生、全てがよくなるが、制御できなければ、健康を損ね、運命は暗転し、人生は破滅へと転落していくのである。要するに、その人が繁栄に向かうか、破滅への道を辿るかは、その人がどのように自身の潜在意識を取り扱うかにかかっていると言ってもいい。

 潜在意識は、大きく分けて、

一、 健康を保持する
二、 願望、目標を実現する
三、 記憶を蓄える
 
 という三つの役目を担っている。

 潜在意識についての知識や理解のない人は、普段考えたりおもったりしている顕在意識がその三つをやっていると何となくおもっているかもしれないが、大違いなのである。顕在意識には直接的にはそうした力はないのだ。ただ、顕在意識と潜在意識は密接に繋がっていて、例えば健康については、顕在意識が普段積極的に、明るく、楽しく、朗らかに、プラス思考をしながら生活していれば、潜在意識がきれいになり活性化するので、健康が増進するが、逆にその人の顕在意識が、暗く、不安、懊悩、憎しみ、妬み、などを抱いてマイナスの生き方をしていれば、それらマイナスの観念が次第次第に潜在意識に入って行って、潜在意識は汚濁してしまうから、ついには健康を損ね、癌などの病気におかされてしまうのである。

 同じように、願望、目標を実現するのも、潜在意識の方なのだが、このことは、後で述べたい。

 三つ目の記憶の保持であるが、顕在意識が感じたり、外界から取り入れた知識や思考、自己が学習、経験したこと、などは勿論のこと、祖先から受け継がれた記憶まで、潜在意識が貯蔵しているのである。人がおもったり考えたりするとき、顕在意識でそうしているかのようにおもえるかもしれないが、実は潜在意識に貯蔵されている経験や知識などを取り出して、それを元にしたり、それで補充したりして、考えたり思考を組み立てているのである。

普段マイナスの、消極的な生き方をしていたらどうなるか、考えてみよう。マイナスの考え方をし、マイナスの言葉を吐いてばかりいると、それらの観念が顕在意識から潜在意識に入り込み蓄積貯蔵される。要するに潜在意識の貯蔵庫はマイナスの観念で充満することになる。人は物事を判断したり考えたりするとき、潜在意識の記憶の中からいろいろなものを取り出して思考するのだから、マイナス志向の人の考えは、プラスの積極的な方向にではなく、やはりマイナスに行くのは理の当然だろう。愚痴ばかり言っている人がよくいるが、この人の潜在意識は不平不満の観念で充満しているから、その泥沼の中であがいて抜けられない状態なのである。その人だけの問題にとどまっていれば自業自得で済まされるが、その人が意識しているいないにかかわらず、マイナスの思考、観念を周りにばら撒くから、周囲の人も影響を受けかねない。哲学をしっかり持っている人なら大丈夫だが、そうでないとマイナス志向に引き込まれる恐れがあるのである。

 話を元に戻そう。

 本稿の目的である願望、成功の実現についてである。

 このことも潜在意識が担っているということを知る人は少ないとおもわれる。潜在意識という言葉になじみがない人は勿論のこと、正しい知識や理解がない人は、何のことか見当もつかないに違いない。

 私は自己の過去を振り返ってみると、頭で考えたりおもったりした通りの人生を歩んできたことを確認するのである。

 教員になったこともそうだし、亡妻とは最後まで添い遂げると決めたことも、年を取ったら田舎に住みたいとおもったことも、そうなった。こうなろう、こうなる、とおもい描いたことは、例外なくそうなったのである。

――おもえばかなう

 というエッセイを書いたが、おもえば、それも強く、深くおもえば、それは顕在意識から潜在意識に入り、つまりそのおもいは顕在意識と潜在意識が共有することになり、潜在意識の方がそのおもいを叶えてくれるということなのである。

 分かりやすい成功例と失敗例を挙げてみると、平成十八年の夏、私は妻の元にに訪れていた介護ヘルパーに、やんちゃな子供の口調で、

――今エッセイを書いているんだけど、栃木県の文芸賞に応募するつもりです。一位というのは選考委員の好みの問題もあって、なかなか難しいけど、二位ならと、二位狙いなんですよ。書く前からこんなこと言うなんて、なかなかの自信でしょう、ハハハ

 と言ったものである。冗談口調ではあっても、内心ではほんとに二位か三位以内には入るという自信があったのだ。

 それから三ヶ月後、同じヘルパーに、やはり冗談めかして、

――いやあ、二位狙いだったのに、文芸賞貰っちゃいましたよ、つまり二位ではなく一位で当選しちゃったんですよ、スゴいでしょう、ハハハ

 ええっ、ほんとですか、それはスゴいわ、おめでとうございます、と驚くヘルパーに、私は内心細く笑み、得意満面だったものである。

 これはどういうことかというと、私は栃木県レベルなら上位に入るという自信があった。そのおもいはすんなりと潜在意識にはいったわけで、潜在意識はそのおもいをその通り叶えたのである。

 二年後、今度は小説を書く前から、

――エッセイと同じで、一位は運もありますからね、やはり二位狙いで応募します。もしかしたらもしかするかもしれませんよ、ハハハ

 やはり冗談めかして、何人ものヘルパーに吹聴したのだった。このときも、一位にならなくとも、上位に入るという自信は持っていた。そして、

――いやあ、奇跡が起こりましたよ、小説も貰いました。やっぱり一位で当選でした、ウフ、ウフ

 私は嬉しそうな素振りをしたが、実はそれほど悦んだわけではなかった。自分には当然それぐらいの実力はあるとおもっていたからである。

 若い頃からいろいろな賞に応募し、栃木県の文芸賞よりは少し上位に当たる全国公募の大阪堺市主催の自由都市文学賞には佳作として入選、やはり全国公募の北海道文学賞には入選は逸したが候補に挙げられた。

 その他当時目指していたのは、文芸春秋社の「文学界」の同人雑誌評のベスト5に選ばれることだったのだが、二回ベスト1に選ばれた。そうした実績から、栃木県レベルならと自信があったから、執筆前から宣言しその通りになったのである。

 その頃は潜在意識ということは特に意識していなかったが、振り返ってみるとやはり潜在意識を無意識的に使っていたのだ、ということが今にして分かる。

 では、失敗例を――

 潜在意識という言葉は知っていたが、正しく理解をしていなかったので、努力はしていたが、潜在意識を使おうという気持ちがなく、目標に向かっていた。だから、全国公募の新人賞にいくつか応募したものの、二次予選の三十人に残ったのが最高だった。これは、二番手、三番手ぐらいは通るが、一番手は無理だろう、とおもっていたので、その否定的なおもいが潜在意識に入ってしまい、しかも深くはいってしまったので、潜在意識はその否定的なおもいを叶えたのだ。潜在意識は肯定的であろうが否定的であろうが、その考えやおもい、願望を叶えるという厳粛な力を持っているのである。

 だから、疑いや否定や不安を抱いてはいけないのだ。願望に疑いや否定や不安を抱けば、潜在意識はそのようにおもいを叶えてしまうからである。

 というように、少なくとも私の場合は、こうありたい、こうなりたいというおもい(願望)はことごとく叶えられ、そうなったということが分かる。これは私の潜在意識の力なのだが、どうしてそうなるかとというと、個々人の潜在意識は宇宙と密接に繋がっていて、潜在意識を通して宇宙がそうするからなのである。宇宙が私のおもい(願望)を叶えてくれるということなのだ。

 そういわれてもそんなこと信じられないというむきがあるかもしれないが、実際に、現実にそうなのであり、これは頭で考えて、理屈で分かることではなく、そうなのだと納得、悟る他はないことなのだ。一旦そうなんだと受け入れ、自覚してから、自己の過去や周りのあれこれを検討してみるといいかもしれない。そうすると、その通りだということが確認できるとおもう。

 ということで、健康、運命、願望をよくする、つまり個々人の人生をより豊かに生きるためには、潜在意識をよく理解して、上手に使う必要があるということが分かっていただけたろう。

 では、潜在意識を上手に使うには具体的にどうしたらいいのか。

 その幾つかの方法を挙げてみたい。

 まずは、おもうことである。できるだけ明確に、目標を設定することである。そして、その願望が潜在意識に入り、刻み込まれるように、自分で自分に暗示をかけるのだ。

 暗示とは、辞書によると、「言葉や合図などにより、他者の思考、感覚、行動を操作・誘導する心理作用のことをいう。」とあるが、これを自分に対して自分でやるのである。これを誘導自己暗示という。

 私の場合はマイナーな文学賞は取れたが、メジャーな文学賞は取れなかった。そこで、メジャーな文学賞めざして、

 夜、床に就いて眠るまでの間、「○○文学賞を受賞する」と小さく口に出して言う。そして、受賞したときの嬉しさをおもい描き、人から賞賛されてい様子を想像する。このことを繰り返す。私の場合は、20回繰り返してから眠ることにしている。そして、次の日の朝目覚めたら、「○○文学賞を受賞した」と口に出して言い、歓びと満足感に浸る。どうして寝際や目覚めのとき行うかというと、脳が活動停止し始めたり、脳が働き始める前は、潜在意識にそうした内容が入りやすく、つまり誘導自己暗示がかかりやすいからである。

 ○○文学賞受賞と書いたカードを作り、パソコンのそばに貼っておき、パソコンに向かうたび、それを小声で読む。私は日に五、六度はパソコンの前に座るのだ。

 パソコンのそばの壁に鏡が備え付けてあるのだが、パソコンに向かう前に鏡の中の自分の眉間に視線をあてながら、お前は信念が強い、○○文学賞を受賞する、と声にだして言う。

 私はこの三つのことを日々実践している。

 繰り返して念じることは有効なのだが、書くことも、それを読むこともより有効なのである。鏡を使う方法はフランスで盛んに行われているという。これもとても有効といわれている。

(参考文献)中村天風「成功の実現」「真人生の探求」 エミール・クーエ「自己暗示」 C・M・ブリストル「信念の魔術」 斎藤一人「絶対成功する千回の法則」 

  

2018年01月16日

新しい風

 

 農家民宿を始めて、小中高校生が我が家を訪れるようになって、これまでとは我が家の空気が一変したような気がする。

 我が家は相方が健康補助食品のアロエジュース関連のネットワークを手掛けている関係で、普通の家よりは訪問客が大分多い。しかし、そのほとんどは私と同年代で六七十代である。

 それが小中高生という十代のとびきり若い世代が、それも多人数が来るようになったのだから、世界が一変したと感じられるのは当然だろう。

 我が家に農泊体験にくるのは、大田原市のツーリズム社が主催する農業体験ツワーの小中高生である。

 大田原市のどこかの体育館や公民館で入村式が行われ、車に3~5名に分乗してそれぞれの受け入れ農家に分散し、1~2泊の農業体験後にまた同じ場所に集合、退村式が開かれる。そして、バスで都会に帰っていく、というスケジュールなのだ。一校が200名以上のときもあれば、60名ぐらいのこともある。

 受け入れ農家の必須要件として、車での送迎がある。我が家の乗用車は「アクア」で五人乗りである。だから、運転手を除いて、生徒を最大四人しか受け入れることが出来ない。四人のときは相方が迎えに行き、私は家で待機ということになる。

――いやあ、退村式のときは泣きの涙の別れになるのよ

 そう聞いて、ぴんとこず、「?」と思ったものである。一泊や二泊の滞在にすぎないのに、涙の別れなんて大袈裟な、と感じたからである。

 しかし、受け入れ生徒三人のとき、私も車に同乗して退村式に出席し、実際にその様子を目の当たりにした。

 確かに相方が言ったように、あちこちで別れを惜しんで、手を取りあったり、抱擁したりして涙ぐんでいる様子が見られた。

――お名残惜しいのですが、申し訳ありません、次の日程がありますので生徒さんはバスの方にお願いします

 ツーリズム社の担当者にうながされて、生徒はバスに乗り込む。情にほだされて、目にハンカチを当てている受け入れ農家の主婦もいて、「泣きの涙の別れ」は嘘ではなかったのである。

 駐車場から離れていくバスの中から身を乗り出すようにして、さようなら! と叫んでいる子もいる。見送る受け入れ農家の人達にまじって、私も一緒に大きく手を振った。私も目頭が熱くなってしまったことは否めない。

――女の子だけかと思っていたら、女の子ほどではないけど、男の子だって、なかなかわたしのそばから離れないからよく見ると、目を赤くしている子がいたから気持ちは女の子と変わらないんだ、と思って、男の子も改めて可愛くなっちゃったわ

 男子生徒を初めて受け入れたとき、退村式から戻ってきた相方がそう言った。

 たった一二泊でどうしてそうなるのか、考えてみた。

 これまでやってきたのは東京、横浜、大阪、それに最近は台湾という外国が加わったのだが、都会の市街地からの子供たちで、田舎は初めてという子がほとんどである。

 

 入村式の会場からの我が家までの往路で、信号がないこと、店がないことがまず驚きで、

――コンビニがないんですね、買い物はどうするんですか
 という子がいる。

――信号がなくて、まるで高速道路みたいだ

 とはしゃぐ子もいたという。

 いつも見慣れている私たち田舎に住む者にとってはなんということもない、丘並、雑木林、田畑、などの田園風景の全てが物珍しく、新鮮そのものなのだろう。

 提供した農業体験は、二十日大根や落花生の種蒔き、オクラやサツマイモ、スイカの苗植え、里芋掘り、・・・などなど。

 私は子供のころ、たき火が好きだった。火を見ると血が騒ぐというか、原始的な心が躍るというか、囲炉裏で火が燃えているのを見るのも、風呂釜の下に燃し木をくべて燃やすことも好きだった。

 子供たちもきっと喜ぶに違いないと見当をつけて、煮炊き体験を入れることにした。幸い昨年、屋外に一坪弱の鍋煮用の掘立小屋を建ててあった。そこでサツマイモを煮て、乾燥芋を作ったのである。

 都会の煮炊きはガスと電気だから、原初的な木を燃やす経験はなかったろう。案の定、子供たちは興味津々で、裏藪から枯れ木を集めることから始まって、煙にいぶされながらも嬉々としてタケノコやジャガイモを煮た。殊に吹き竹を使って火勢を起こすことが男の子女の子にかかわらず、物珍しく、面白いらしく、

――やらせて、やらせてよ

 と言って、交代しては、頬を膨らませて吹き竹を吹いていた。もう十分に燃えているのに尚も吹く子がいるのには笑ってしまった。

 さて、私は農家の生まれである。五男坊だから外に出るのは既定事実だったが、子供の頃から農業関係の仕事には絶対に就かないと決めていた。というのは、農作業のほとんどが単調でつまらなく喜びが感じられなかったからである。田植えの苗運び、稲掛けに稲を干す、耕運機で畑を耕す、などはそれほどでもなかったが、畑の草むしり、麦踏み、などの単調そのものの作業を何時間もやらされたときは、苦痛以外のなにものでもなく、ああ嫌だ、と思い、父や母は一言も愚痴をこぼすことなく、どうしてあんなに半日も続けて平気なんだろう、と呆れるやら感心するやらしたものである。

 そんなことから体験作業の中に、草刈り、草むしり、を入れてみることにした。
都会の子がどんな反応をするのか興味があったからである。農業の大変さ、辛さの一端を味わってもらうのに最もいい作業ではないか。しかし、後で感想を聞いてみると、意外にもいろいろな仕事の中で草刈り草むしりが一番楽しかったという声が多かったのは意外だった。あれ、私の子供の頃の感じとは大分違うな。まあ、夏の暑い炎天下では熱中症の恐れがあるので三、四十分で切り上げたということもあるのかもしれないが。

――鎌で草を刈り取るとき、サクッという音がして、それが気持ちよかった

 という子がいた。ただ、虫が苦手だとか、腰が痛くなったという子も何人もいたので、あと三十分もやらせれば、根を上げる子も出ただろうが・・・。

 ところで、小中高生の十代の若者にまず感じることは、よく話を聞いてくれるということである。六七十代の私と同じ世代は長く生きてきて考えが固定化しているからやむを得ないが、まず人の話に耳を傾けない。というか、馬耳東風の人が多いのだ。相方は整体師であり、栄養学を学んでいるので、健康については専門家はだしである。高齢者は膝や腰が痛いという人が多いので、

――それは歩き方に問題があるからで、足の親指の付け根に体重がかかるようにして、そこで蹴るようにして歩くといいですよ

 とアドバイスしてもまずまともには聞いてもらえない。酷い場合は、

――そんなことしたら痛くて歩けねえよ

 と反発されたり、

――医者はそんなこと言わなかった

 とか、

――これは治りっこねえよ、痛み止めの薬を飲めばいい

 と決めつける。医者でもない素人に何がわかるか、という言わんばかりなのだ。

 しかし、子供たちは農作業の手順についてにしても、生活上の注意にしても、前提なしに真剣に話に耳を傾けてくれるのである。

 これまでに我が家に小中高生が合わせて五十名程がやってきたが、そのうちの十名前後が食べ物の好き嫌いが多い子だった。要するに野菜嫌いの子がいて、酷い子は出したものの半分以上残してしまう。好き嫌いが多いと将来の健康に差しさわりが出るぞ、と私はおもい、若い世代の家庭の在り様、問題点の一端を見たように感じた。相方も同じ見立てで、少しでも子供の好き嫌いを改善できれば、と話し始めた。

――人間の身体は食べたもので作られているのよ。五大栄養素の他にも必須微量栄養素というものがあって、必須だから微量ではあっても、毎日必ず摂取しなければならないの。もし、その一つでも欠けたとすると、具合が悪くなったり、病気になってしまうわ。野菜にはビタミンやミネラルなど一杯含まれているのよ。脳に栄養がいかなければ、頭が働かないし、いい考えが浮かばないわ。つまり成績が上がらないでしょ。それにイライラしたり、疲れやすくなったりするわ。だから、何でも好き嫌いなく食べたほうがいいのよ

 皆一言も聞き洩らすまいというようにつぶらな瞳で、相方を食い入るように見つめている。高齢者のように反発したり、斜めに構えて聞くような子は皆無だった。相方が親身になって熱を込める語り口には説得力があって、ついつい引き込まれてしまうということもあるのだが、食事回数が増えていくにつれて、食べなかった子の食べる品数が増えていくのだった。好き嫌いしていると身体に良くないことは確かなようだから、何とか食べなければとおもったらしく、明らかに努力していることが見て取れた。中に一人の中学生が最終回の食事のとき、時間はかかったが完食したのである。初めは半分以上残した子が、である。見ていた私は胸にジーンとするものを感じた。

――ああ、よかった

 心から喜んで微笑んでいる相方に、何かほっとしたような表情を浮かべているその中学生の顔が印象的だった。

 他にも、

――これからは何でも食べるように努力します

 という子が何人も出て、相方の言ったことが子供たちの心に明らかに浸透したことが見て取れたものである。

 相方が毎回言うことの一つに、感謝ということがある。

――人は感謝ということが大事なのよ。あなたは毎日食事を作ってもらってありがとう、学校に行かせてもらってありがとう、と、お父さんお母さんに言ったことある? あら、ないの。毎日世話になっているのに、それじゃ、ダメよ。じゃあね、まず手始めに帰ったら、農泊に行かせてもらってありがとう、って、言ってごらんなさい。だって、農泊にはタダでは来られないのよ。お金が何万円もかかっているわ。それを出したのは誰なの。お父さんお母さんでしょ。あなたたちのためを思って一生懸命働いて、お金を貯めて出してくれたのよ。感謝しなくちゃ。ありがとう、って言ったら、お父さんお母さんきっと喜ぶと思うわ。実は、ありがとう、って言葉は、言われた人よりも、言った人のためになるのよ。ありがとう、って言われた人は勿論嬉しいのだけど、それはそのうちの三割で、言った本人の細胞の方が七割も嬉しくて喜ぶものなのよ。

 相方が言うには、例えば相手を褒めるとすると、その人は嬉しいがやはりそれも三割で、七割は褒めた本人が嬉しいのだという。ものを人にあげた場合も同じ、もらった人三割、あげた人が七割嬉しい・・・。

 そう聞いたとき、なるほどと私は思ったものである。そうかも知れないな。

 おそらく帰宅して、農泊に行かせてくれてありがとう、と言った子が半分以上はいただろう。言わないまでも、人にとって感謝ということは大切なことなのだということは脳裏に刻まれたことは間違いないとおもわれる。

 農泊は都会の子供たちにとって、田舎生活、農業体験は、今までには全くない新鮮な体験で、また田舎に住む私や相方との会話にも、親や教師とはまるで違ったものを感じ取ったのかもしれない。

 夕飯を終えたひととき、私のオリジナル「母の微笑」のギター弾き語りを聞いてもらうことにしている。生演奏のギターはほとんど聞いたことがないだろうし、子供たちがどんな反応をするか、興味があったからである。高齢者はこの曲に涙ぐまれる方が多いのだ。母親をおもい出すと言われる。では中高生はというと、やはりしんみりとした面持ちで聞き入るので、感じることは高齢者と変わらないようだった。歌の力は大きいということが確認出来たおもいである。聞いてもらうのはこの一曲のみで、その後、ギター伴奏で皆で「故郷」を合唱することにしている。「故郷」は東日本震災以後は、日本人にとって世代を超えたなじみの歌になったので、高齢世代の私たち二人も若い中高校生の世代も声を揃えて楽しめるからである。毎回笑顔で、しかし、しめやかに合唱している。

 これから子供たちが大人になってから、民泊とともに、この「故郷」のメロディや歌詞が脳裏をよぎるに違いない。

――ここを故郷とおもって、またいつか来てね、わたしたちははあなたたちのお父さんお母さんとおもっているからね

 というと、来る、くるよ、と言った子も多かった。

 ともあれ、子供たちにとっては一、二泊という短い期間ではあっても、田舎の体験はずっしりと中身の濃いものだったことは確かなようで、それを全身の血肉、若い感性、神経を傾けて味わっていたのだろう。

 それが、退村式での「涙の別れ」に繋がったのだろうと私は納得できた。

2017年11月02日

誰にでも簡単に健康になれる方法

 

 誰にでもすぐに、しかも簡単に出来る、健康になれる方法がある――、なんて言ったら、ほとんどの方は眉につばをつけるか、薄くわらって、ほんとかいな、と疑い深く私を見直すのではないだろうか。ところがほんとにあるのである。

 ま、聞いてください。

私はその方法を知ったその日から実践し始め、程なく明らかな効用を見出し、以来ずっと続けているのである。そして、日々、心身ともにますます健康になっていくのを実感している。

 高齢者の域に入っている私は、普通なら病気の一つや二つ持っていても不思議ではないだろうとおもう。実際、先に同級会があったので出席したが、殊に男性は元気がなく、すでに半数近くが亡くなっていて、残った中でも、癌だとか、内臓疾患、腰痛、膝痛、などに悩まされているという話ばかりで、どこも悪いところがないというのは、私ともう一人だけだった。

 私も実は、現役時代から亡妻の介護時代を含めてあまり健康とは言えなかったのだ。胃十二指腸潰瘍で四回の入院をはじめとして、椎間板ヘルニアでの数年の通院、またしょっちゅう風邪をひいて薬を飲んでばかりいた。

 それがここ八年程、風邪すらひいたことのないのである。どこも痛いところはなく、治療を受けたこともない。医療に関しては毎年市民健康診断を受けるのみである。しかも検査結果は、私の年齢では稀といえるぐらいほとんどの検査項目が正常値を示していて、結果説明会の担当者が驚くぐらいなのである。

 一般的には、若いうちは健康でも、年齢と共に身体が衰え、高齢になればどこかしらに病気が出るというのが、一般的なのではないだろうか。しかし、私の場合はその逆を行って、若い頃よりも今の方が元気なのである。

 どうして、そうなのか――

 別に難しいことをやっているわけではない。その具体的な内容を記述したい。少しでも参考にしていただければ幸いである。

 実践していることは、大きく分けて二つある。

一、 心の持ち方
二、 栄養

 そのことを説明する前に、これは宗教ではないということをあらかじめ断っておきたい。私は基本的に無信仰で、いかがわしい宗教とか呪文やおまじないの類と混同して欲しくないからである。

そして、説明は必要最低限だけにし、主として私が実践していることだけを述べたい。もしも、疑問を感じたり、もっと詳しく知りたいと思ったら、最後に参考文献を挙げておくので、各自で調べてください。

 まず、心の持ち方についてであるが、潜在意識を常にきれいに保つように心がけている。

 ところで、私たちが考えたり思ったりするのは顕在意識で、その奥に広く深く存在しているのが潜在意識である。この潜在意識は見えないし感じることも出来ない心の領域である。だから普段意識することなく生活している。氷山に例えるなら海面に頭を出しているのが顕在意識であり、海面下に沈んでいる巨きな氷の塊の部分が潜在意識なのである。顕在意識よりも潜在意識の方が比べものにならないぐらい大きい。

 この潜在意識は実に多くの役割を担っている。その一つが、身体を健康に、丈夫にする作用を担っていることなのだ。

 

 血は夜でも休まず流れている。心臓も同様に動いている。胃や腸、肝臓などの臓器だって働き続けている。あなたが動け働けと言っているわけではないことは確かですよね。じゃ、誰が動かしているのか。ひとりでに動く? まさか。そんなわけはない。それを動かす役割を担っているのが、潜在意識なのである。

 眠っている間でさえ、心の奥にある潜在意識が生活関係の神経系統を通して心臓をはじめとした五臓六腑を絶えず動かす命令を下しているのだ。要するに、知らず知らずのうちに潜在意識は私たちの命を守るという偉大な力を発揮しているわけだ。

 実は潜在意識は宇宙と繋がっているのだ。そして、その宇宙から私たちが生きるためのエネルギーを受け取っている。そのエネルギーで私たちの五臓六腑を動かしているのである。ここに、潜在意識をきれいにしておかなければならない理由がある。潜在意識が汚れていたらどうなるか。霧や靄がかかっていたら、太陽光が地表にわずかしか届かないのと同じで、宇宙からのエネルギーが受け入れにくくなってしまうのである。そうすると、血流が悪くなったり、腸や肝臓などの臓器の働きが鈍くなる。そして、身体のあちこちの調子が悪くなり、しまいには癌をはじめとした病気になってしまうのだ。

 では、潜在意識をきれいにするとはどういうことなのか。それが分かるためには、逆に、汚くなっている潜在意識の状態を説明した方が分かりやすい。

 潜在意識がゴミ溜めのように汚くなっている状態を、私は、

 船追う鵜――ふ・ね・お・う・う

 と覚えている。

ふーー不安 ね――妬み おーー怖れ う――疑い う――恨み

 つまり、心に、不安、妬み、怖れ、疑い、恨み、などの感情を抱いて生活している状態なのである。その他にも、怒り、悲しみ、悩み、苦しみ、悶え、痛み、などがある。これらを消極的観念要素とも言うのだが、要するに、こうしたマイナスの観念要素を抱いていると、それが顕在意識から潜在意識に入り込んで、溜まってしまい、潜在意識がそれらのマイナスの観念要素で充満してしまう。そういう状態を潜在意識が汚れているというのである。

 私の若い頃を振り返ってみると、いつも現状や将来への漠たる不安や怖れに苦しめられていた。それらの不安や怖れが潜在意識を曇らせ、本来天から受け入れられる生きるためのエネルギーを減殺させ、胃を弱めたり、腰椎を痛めるということに繋がったのである。また、人間にもともと備わっている免疫力も弱まったため、しょっちゅう風邪をひいたというわけなのだ。

 幸いにも、六十四才になってから、今の同居人に出会い、ある修練法を教えてもらい、そのことがきっかけとなって、潜在意識の作用について詳しく書かれた数冊の書籍に出会うことが出来た。そして、冒頭に述べた、

――誰にでも簡単にできる健康になれる方法

 を知ることができたのである。

 では、汚れた潜在意識をきれいにするにはどうしたらいいのか。

 その鍵は夜の寝際にある。夜の寝際、すなわち布団に入って眠るまでの間が大事なのだ。床に就いて落ち着いたら、楽しい、いいことだけを思い浮かべたり、考えたりするのである。それだけでいいのだ。だから、誰にでも「簡単に出来る」と言ったのである。

 その日あった嫌なことや面白くないことなどを思うことが一番いけないことなのだ。悔しいことがあったり、心が傷ついたりしたとき、特に手酷い衝撃が受けた時など、繰り返し繰り返しそのことを思い浮かべたり考えたりしたことはありませんか。そういうことが最もよくないことで、潜在意識をどろどろに汚してしまうので、心や身体にとっては最悪のことなのだ。健康に痛烈な打撃を与えてしまうことになる。

 というのは、寝際の眠る直前は大脳が休み始めるときで、そのとき思ったり考えたりしたことが、最もすんなりと潜在意識に入り込み易い状態になっているからなのだ。だから、プラスのことを思ったり考えたりすれば潜在意識はきれいになるし、マイナスのことを思ったり考えたりすれば汚れてしまうわけである。

 従って、例え嫌なことがあったり心が傷つけられることがあったとしても、それは脇に置いて、いいことや楽しいことや嬉しかったりしたことなどを心に引き寄せて、思ったり考えたり想像するべきなのである。そうすれば潜在意識が汚れることはなく、次第にきれいになっていくのである。黒く汚れた水が入ったバケツを下に置いて、水道の蛇口をひねって細く水を垂らして一晩中そのままにしておくと、明け方までにはバケツの中の汚れた水がすっかり澄み渡ってしまうようなものなのである。逆に、蛇口からどす黒く汚れた水を垂らしておくことを想像してみてください。ぞっとしませんか。

 ではプラスのこととはどういうことなのか、書いておきます。

 先に記述したマイナスの観念要素の反対とおもえばいい。不安、妬み、怖れ、恨み、疑い・・・などと反対の言葉――

愛、感謝、歓び、希望、明るい、楽しい、美しい、強い、尊い、清い・・・、などなど。これを積極的観念要素という。そういう内容のことや情景を布団に入ったら想像しながら眠りにつけばいいということなのだ。

 心がけるべきもう一つ大事なことがある。それは普段使う言葉である。
 言葉や文字、事象には暗示力があるということを念頭において思考すれば、自ずと分かるだろう。

――ああ疲れた、仕事なんか嫌だなあ、もう死にそうだよ

 なんて何気なく言うことがあるかもしれない。ああ疲れた、は事実だからいいとして、仕事なんか嫌だなあ、もう死にそうだ、はマイナスの言葉で、これは自分で自分にマイナスの暗示をかけていることになるので、いいことではないのである。

――何だよ、疲れて帰ってきたのに、ろくな食い物がねえなあ

 機嫌悪く、続けて奥さんにあてこすりをいう。こうなると猶更いけない。これでは、自分の潜在意識を汚すばかりではなく、奥さんをもマイナスに引き込んでしまうことになるのだ。

――何いってんのよ、私だって仕事持ってて疲れてるのに、毎日の食事作ってるのよ、ああ嫌だ嫌だ

 奥さんが反発して、諍いに発展してしまうかもしれない。奥さんの潜在意識まで汚してしまうきっかけになりかねない。要するに、二人とも病気への扉の前に立ってしまう原因を作ってしまう恐れがあるのである。何気なく言っていても、それが毎日積み重なれば潜在意識はゴミ屋敷同然となって、健康を損ねることは間違いないだろう。

 例え疲れていたとしても、

――ああ今日はいつもより疲れたけど、頑張ったからなあ、充実感があるよ。ありがとう、君だって仕事してるのに食事作ってくれて感謝してる、ご苦労様

 てな言い方をすれば、奥さんだって刺々しくならずに済むだろう。

 こういうことだって、ちょっと心がければ出来ないことではない簡単なことで、自分の健康に影響を及ぼすことを考えれば、断固マイナスの言葉を吐かないという決意をするべきなのである。

 それでなくとも現代の生活にはマイナスの観念があふれている。テレビをつければ、犯罪、事故、政争、不倫、いじめ、病気・・・、などのニュース、殺人場面のドラマ、などなど。私たちは知らず知らずのうちにこうしたものを受け入れて、潜在意識は汚され濁っているのである。そこに加えて自分でマイナスの観念を注入しては、健康は損ねられるばかりだろう。だから、寝際にいいことや楽しいことを想像して、つまりプラスの自己暗示をかけて、潜在意識を絶えず掃除しなければならないとと同時に、普段使う言葉にも注意するべきなのである。

 さて、若い頃の私は不安、怖れに悶えていた上、勤め先で仕事に行き詰まったり人間関係に悩んでいて、眠れない夜がつづいたものだった。絶えず気持ちがおどおど落ち着かず、神経をイラつかせていたものである。これでは潜在意識がどろどろ状態で病気になるのは当然だったとおもう。

 こういう状態を神経過敏というのだ。後で振り返ると、たいしたことでもないのに、怒ったり、気にしたり、悩んだりしていた。神経過敏に陥ると、受けた心の衝撃を神経系統が何倍にも増幅して感じてしまうからなのである。

実はこうなるのを避ける簡単な方法があるのである。その頃この方法を知っていれば、もっと楽に生きられたろうし、病気にもならずに済んだろうとおもう。知識のあるなしは人生を大きく左右するのである。

嫌なことがあったり、心に衝撃を受けるようなことがあったときには、すぐに、

・肛門を閉める
・下腹(鳩尾のあたり)に力を入れる
・肩の力を抜いて下す

 この三つを素早く同時に行う。これだけでいいのである。

 この方法を「クンバハカ法」という。インドのヨガの秘法なのだ。こうするとどうなるか、説明すると長くなるので、簡単に述べると、鳩尾のあたりにある太陽神経叢と呼ばれる神経の塊や、胸、その他人間の急所に散在している神経の塊が、受けるショックから守られるのである。

詳しく知りたい方は、後に挙げる著作を読んで調べてください。

これはやってみれば実感できることなので、実際に実行してみてください。

このクンバハカ法を日常的に実践していると、神経系統が調節されるようになって、神経過敏は解消されるのは確実で、少なくとも私の場合は実行後程なく気持ちが落ちついて、イライラしたりおろおろしたりすることがなくなったのである。

ま、簡単にすぐできることなので、どうのこうの考えるよりも実践してみることです。

ここまで述べてきた方法は、誰にでも簡単にできるものだということは分かっていただけたのではないでしょうか。ほとんど手間も時間もかからず、税金もとられません。
 
 ところで、潜在意識は人間の生命を司ることの他、記憶を貯蔵するという大事な役目を担っているのだ。また、人間の願望を実現するという偉大な力も持っている。本稿の目的は健康について述べることなので、潜在意識のその他の働きについては、別の機会に譲りたい。

 では、二つ目の栄養について――

 

 栄養のバランスのとれた食事をすることが大切、ということがよく言われ、全くその通りで、それに尽きるのだが、しかし――、である。

 私が三十九才のとき妻が病気になったため、食事は私が担当することになった。穀類、野菜、果物、茸類、魚肉類、海草類など、満遍なく摂るように配慮した食事を作った。二十三年の介護だったが、アルツハイマー病で後半十年間は寝たきりになった末、妻は亡くなった。当然脳は委縮して最後には言葉までなくしたが、晩年になっても内臓は丈夫で検査を受けるとほとんどの臓器の検査値は正常だった。このことからして、私が作った食事のバランスはよかったとおもわれる。

 しかし、私の方は不眠や倦怠感、股関節の痛みに悩まされ、しょっちゅう風邪をひいて、咳をしたり鼻汁を啜ったりしていた。妻をトイレに座らせたり、ベッドに寝せるとき、腰に負担が来て何度もギックリ腰を起こして、四つん這いで移動しなければならなかったこともしばしばだった。

 妻没後再婚したことは別の作品に書いたが、現在の同居人はアロエ製品のネットワークを手掛けていて、自然私も愛用することになった。

――人の身体の細胞が全部入れ替わって新しくなるのには四ヶ月かかるのよ、だから、アロエの効果がでるには四ヶ月かかるわ

 と彼女は言った。しかし、アロエジュースを飲み始めて二ヶ月経った頃、私の身体に明らかな変化が現れた。手足が温かくなり、身体の奥の方から力がじわじわとみなぎってくるような感覚が満ちてきたのである。

――栄養のバランスと言っても、現代の日本で、バランスよく栄養素を摂ることは不可能なのよ

――?

――人糞や家畜の糞など有機肥料しかなかった昔と違って、今は作物に化学肥料や消毒薬、除草剤などを使うでしょ、遺伝子組み換えのものもあるわ。野菜にしても、本来含まれているべき栄養素がなかったり、薄かったり、昔はなかった毒素が混じっていたり・・・

――ふーん

――だから、アロエの出番なのよ
 彼女の言うことには説得力があった。

――これはあまり知られていないけど、人間の身体には主要栄養素の他にも、必須微量栄養素というものが必要なのよ、必須だからほんの微量ではあっても、毎日必ず摂らなければならないものなの

――私も知らなかったよ、それ

――そう、必須微量栄養素は四十七種類もあるわ、その一つでも欠けると、体調を崩したり、病気になってしまうのよ

――へえ

――アロエジュースにはその微量必須栄養素をだけではなく八十種類以上の栄養素が含まれているわ、だからアロエジュースを飲むようになると、ぐんぐん健康になるのよ

 私は彼女の言うことを素直に信じた。
 

しかし、人はなかなか信じない。私は彼女がアロエの良さを伝えようと人に説明する場面に何度も立ち会っているが、聞き入れられたのは数例にすぎなかった。

 振り返ってみると、彼女の話を信じて愛用者になった人は私を含めて皆健康になっている。癌が治った人もいる。逆に彼女の話が信じられなかった人のうちには、その後癌で亡くなった人もいれば、大病を患っている人もいる。ま、信じられないというよりは、彼女が扱っているアロエ製品は決して安い商品ではないので、それがネックとなって愛用者にはなれなかったという例も多いのだけれども・・・。

 彼女のすすめるままに愛用者になったのだが、以来私が風邪すらひかない健康体になったところを見ると、いくら栄養のバランスを考えた食事をとったつもりでも、栄養素の何かが不足していたのだろう、とおもう。その何かは分からないけれども、彼女言うところの必須微量栄養素のうちの何かだったのではないだろうか。寝たきりの病人だった妻は平気でも、昼夜介護のハードそのものだった私にとっては、何らかの栄養不足は体調に少なからず響いて、不眠や倦怠感に悩まされ、ギックリ腰にたびたび襲われたのもそのせいだったのかもしれない。私だって病妻と同じ食事をし、市の検診ではコレステロールがやや高い他は検査値が正常値だったのにかかわらずである。
 
 それではこの辺で筆をおくこととしたい。

(参考文献)
C・M・ブリストル「信念の魔術」、エミール・クーエ「自己暗示」、中村天風「成功の実現」「真人生の探求」「研心抄」「幸福なる人生」

2017年10月23日

屋根から落ちて頭が裂けた

「ゼリーとアクティベーター」・・・その2 

 

 ゼリーやプロポリスクリームの抗菌作用、殺菌力について述べてみたい。

 現在の相方の住居で同居しはじめて間もなくの頃のことである。

 私は屋根から落ちてしまったのだ・・・

 どうして、屋根から落ちたのか――

 その日は草刈りをしたり、田んぼ隣のよそのひとの土地なのだが、邪魔なので桑の木を切って片づけたりの、かなりの作業をこなして疲れていた。しかし、相方はまた庭の草むしりを始めたのである。私はまだ仕事をやるのかと嫌気がさしたが、相方がやめない以上なにかやらなければとおもった。今なら気がすすまないときはやらないのだが、当時はまだ気心が分かりあえていなかったということなのだ。詰まっている母屋の屋根の樋のゴミでも取ろう、とおもいたち、納屋から脚立式梯子を持ってきて、脚立を梯子に伸ばして、屋根に立てかけて昇りはじめたのだ。嫌々やる気がすすまない仕事をやってはいけないのだ。そういうときは緊張感に欠け、やることが杜撰になりがちで、えてして事故が起きやすいものなのである。

 後で分かったことだが、そのとき私は二つの誤りを犯していたのだった。一つは梯子の向きを逆向きにして立てかけたことであり、二つ目は脚立を伸ばして梯子にしたとき、留め金を二つとめなければならないのに一つしか止めなかったのだ。このうちの一つでも怠らなかったとしたら、事故は起こらなかったはずである。梯子を正常な向きにしていれば、例え留め金を二つともとめなかったとしても、梯子は折りたたまない造りになっているし、梯子を逆向きに立てかけたところで、留め金が二つとまっていれば、留め金は私の体重の重さに耐えたに違いないのだ。

 これまでアルミ製の脚立など使ったことなどない私は、無頓着というか恐いもの知らずで、脚立の横腹に貼り付けてある「取扱い上の注意」を読みもしなかったのである。
 梯子段を一段一段上がって、高さは四メートルぐらいか、左手で梯子をしっかり掴み、右腕を伸ばして手で雨樋のゴミを探りはじめたとき、異変が起こった。

 ぶちっと鈍い音がして、身体が揺らぎ、身体が宙に浮いたような感覚に襲われた。その後はどこがどうなってどうしたのか、よく覚えていないのだ。ただ、私の身に何かよからぬことが起こっていることだけは認識したようにおもう。頭を強打されたような激しい痛みとともに、何か生暖かいものが額から顔に流れ落ちるのがわかり、はっと我に返った。

 そこでどうやら私は梯子から落ち、打ちつけたか何かして頭に怪我を負ったようだと漠然と悟った。頭から肩によりかかっている重いものをどけるようにして這い出し、家の軒下のコンクリートに座り頭を両手で押さえた。押さえても両手の間から血が溢れ出るのが分かった。私はすぐそばにいるはずの相方の方に顔を向けて、

――ゼリーとタオルを持ってきて

 と怒鳴った。あわてふためいて近づいてきた相方とどんなやり取りをしたのか、よく覚えていない。ただ、血が顔から顎に伝い地や膝に落ちる不快な感触が漠然と残っているばかりである。

 これは後で分かったことだが、ぶちっという音は梯子の止め金が私の体重の重みに耐えきれずに千切れた音であり、私は折りたたみながら落ちる梯子とともに座るように地に叩きつけられ、その頭を殴打する形で折りたたまった梯子が落ちてきたのだった。

 不幸中の幸いだったことは、逆さに頭から地に落ちたのではなく、立った状態から座るような姿勢で落ちたことである。上からアルミ製の梯子が落ちて、上頭部に斜めに裂傷を負ったものの、これが逆さになって落ち、下にあった敷石か軒下のコンクリートに頭が激突したとしたら、それぐらいのことでは済まなかったに違いない。また、そばにいた相方が経験を生かして適切な傷の処置を早急にほどこしてくれたことも幸運だった。

 私のそばにかけつけた相方は、うずくまって頭を抱えている私の真っ赤に染まった手の間からどくどく流れおちる血を見て、一瞬どうしたらいいか分からなかったという。救急車を呼ぼうか、というと、

――救急車なんか、呼ばないで

 と私は強く言った。このことは、よく覚えている。そして、

――医者は信じないが、翔子さんとゼリーは信じる

 と、口走ったのだという。これは、そんなこといったかなあ、とうろ覚えなのだが、後で彼女が繰り返してそういうので、救急車を拒否したい一心のやり取りのなかで、そんなことを言ったのかもしれない、と今はおもう。

 私が救急車を拒否したのは、病院や医師に対する根強い不信感がある。自身の胃十二指腸潰瘍や椎間板ヘルニアの治療の過程での医師の誤診、不適切な治療、などに加えて、妻の介護のときの医師や病院の対応に私は不信感を募らせていたということなのだ。一つだけ具体的に記してみると、腰の痛みは胃十二指腸潰瘍の症状だったのに、その治療はせず腰に何度も注射を打たれ、別の病院で本当の痛みの原因がわかったのだ。要するに誤診だったのである。

 それに少し前に、頸右斜め後ろぐらいに出来物ができて、外科医院で膿を出すという手術を受けたのだが、切開自体はそれほどでもなかったのだが、その後の通院での処置が、切開した傷痕にピンセットでガーゼをこじ入れて膿をほじくり出すというものなのだが、これが痛いの痛くなのって、私は悲鳴を上げつづけてしまったものだった。そのときの傷はせいせい一、二センチぐらいなものだったが、どうやら頭の傷はそれとは比べものにならないぐらいに大きいように感じられ、救急車などで病院につれていかれたら、何をされるか分からないし、包帯で頭をぐりぐり巻きにされるという図がおもい浮かんできて、恐怖を覚えたということもあったのである。

 相方はちょっとの間考えて、覚悟を決めたという。医師は信じないが、翔子さんとゼリーは信じるという私の言葉に背中を押されたのである。

 以前農協主催の慰安旅行で、ある温泉に行ったとき、同行した女性が転倒してどうした加減か、肘の骨が見えるほどの怪我を負ったことがあったのだが、相方は持っていたFLP社のプロポリスクリームを使って応急処置をしたという経験を持っていた。そのときのことが脳裏をよぎり、やってみようと心に決めたのである。

 五分後、私は母屋の仏間の畳の上に横になっていた。

 傷は右額上の毛の生え際少し上から左後ろの後頭部にかけて五、六センチぐらい真っ直ぐに裂けて、ぱっくり口を開けている状態だったという。だから、激しく出血したが、裂けないで内出血になるよりはよかったとおもわれる。

相方が用意したものは、ゼリー、プロポリスクリーム、絆創膏、包帯、氷嚢、ハサミ、サランラップ、などである。

 処置の邪魔にならないように、まず傷口の周りの髪をハサミで切り、傷から溢れる血をタオルで拭い、出血が少なくなったのを見計らい、傷口にゼリーをたっぷり塗り、その傷口の周りをぐるりと、やや固めであるプロポリスクリームを囲むように塗って、その全体にガーゼを載せ、更にその上にサランラップをかぶせる。そして、用意した氷嚢を添えて冷やしたのである。次の日には、ガーゼなどがとれないようするために、相方はマスクまで用意したのだ。

 私が包帯を嫌がったため、傷口にマスクをする形で、両耳に紐をかけたのである。私は救急車の拒否にはじまり、わがままな、やんちゃそのものの怪我人だったことになる。

相方のてきぱきとした適切な処置は効を奏して、出血は止まり、ずきんずきんする痛みも次第に和らいでいった。かなりの大怪我なのに傷口が直接見えない本人はいたって暢気で、

――あとで頭禿げたりしないかな

などと言って、必死の思いで手当てをしている相方は呆れてしまったという。

一時間ほどした頃、両足が痛んでいることに気がついた。甚大な頭の痛みが和らぎはじめて、隠れていた軽度の痛みが姿を現したということかもしれない。身体をひねって確かめてみると、左足裏が腫れ、右足右の骨の突起のあたりも紫色に腫れ上がって、熱を持っているではないか。これでは満身創痍状態だな、と改めて感じた。四メートルぐらい上から座り込むような姿勢で落ちたので、地面に足から激突した瞬間、左足は足裏を、右足はひねって骨の突起のあたりを打撲したものとおもわれる。相方を呼ぶと、両足に頭と同じようにプロポリスクリームとゼリーを塗って、サランラップで包みこんだ上に濡れタオルを置いて冷やしてくれた。この足の打撲は重篤なものではなく、手当のおかげてみるみるよくなり、次の日には歩行しても平気なぐらいに回復した。

頭の方はというと、当初はずきんずきんとしたどうしようもない痛みに悩まされたが、三時間もするとぐっと和らいだ。早目の夕食を取り、床についた。痛みは、ずきんずきん、から、ずきずき、きりきり、そして、しくしく、へと変わっていった。眠りの中でも痛みを意識せざるを得なかったが、朝になると頭を動かさない限り痛むことはなくなっていることに気づいた。相方が随時傷口を観察し、次第に腫れがとれ、傷口が塞がっていく様子を見守ってくれた。

大事をとって、三日間は必要最小限しか動かないようにし、床にいるか、居間の椅子に座って過ごした。三日が過ぎて傷口が塞がったことを確認してから、起きることにした。足は完全に元に復して、歩いても違和感がなくなっていた。ただ、動くと頭の傷口が疼く感じがあるので、庭を散歩するぐらいに留め、仕事はしないことにした。

そして一週間が過ぎ、私は延び放題になっている屋敷や田んぼの土手の草刈りなどの仕事に復帰することが出来たのである。

ゼリーもプロポリスクリームも、アロエベラ関連の製品で、抗菌作用、殺菌力があることは知っていたが、これほどまで傷に効くとはおもっていなかったので、驚いている。

それにしても、溢れ出る血を含んでタオル二枚が重く、赤黒くに染まるほどの重篤な傷だったのに、普通なら救急車のところを、自宅での手当てで治してしまったのだから、私もだが、相方も、相当おもいきったことをしたものだと、振り返ってみて、これは武勇談といってもいいかもしれないともおもうのである。

 我家では、先に記したようにゼリーは化粧品としてだけでなく、虫刺され、傷の手当てなどに常時使用していたので、私は今回の大怪我の手当てにも役立てたのであるが、これは私と相方だから出来たことであり、他の方々に勧めるものではない。

 ゼリーにしろ、アクティベーター、プロポリスクリームにしろ、あくまでも化粧品として販売されているもので、治療薬ではないということも付け加えておきます。

 念のため申し添えます。

2017年10月19日

男の化粧

 「ゼリーとアクティベーター」・・・その1

 ギターの伴奏のボランテアが終わったとき、目に疲れを感じた。しょぼつく目で一時間ずっと楽譜を見つづけたせいだった。ポケットからスプレーの容器を取り出して、目にスプレーしていると、すぐ斜め前の席のおばあちゃんが、

――目薬ですか

 という。

――いや、化粧品なんです

――えっ、どうして化粧品を目に入れるんですか

 おばあちゃんが不審がるのも、無理はない。

――いやね、私白内障気味なんですよ。これはアクティベーターという化粧品なんですが、白内障に効くと言われてましてね。それで、私もう五年もこれを目に入れているんです。

――へえ

 お婆ちゃんの顔には、化粧品がどうして目に効くのか、へんだなあ、というような疑問の色が残っている。私は詳しく説明する気になった。

 アクティベーターはFLP社の製品で、パンフレットの説明には

――天然植物保湿成分(アロエベラ液汁)を配合した化粧水です。さわやかなうるおいで肌のきめを満たし、みずみずしい素肌に整えます。

 と書かれている。要するに、アロエベラから抽出した液汁で、本来は顔や肌に塗る化粧水なのである。それがどうして白内障に効くのか。

 ここまで書いて、私は筆を置いた。自分で五年も化粧水を目に入れていながら、どうして効くのか、明確に説明できないことに気づいたからである。

 私は現在の同居人がFLP社のアロエベラのジュースを主とした健康補助食品のネットワークを手がけていることから、生活をともにするようになった六年前からずっとアロエ製品を愛用してきた。同居して一年たった頃、目の前の光景が歪んだり、二重に見えたり、眩しかったりし、夜まばたきをすると、巨大な三日月のようなものが突然ぴかっと光ったりするようになり、眼科を受診したのだ。するとそれらは、どれも白内障の症状であるという。

 一通り目の検査を終えてから、医師は、まだ白内障とはいえず、軽度で、白内障気味という段階だから、様子を見て、すすむようなら手術を考えましょうといった。

 処方された目薬を点眼していたが、数日たってもどうも症状が改善する気配が感じられない。相方に話すと、それじゃ、これが私たち仲間内では効くといわれているから、とアクティベーターを勧められたのである。

――ただね、これはあなただから勧められるけど、他のひとには勧められないし、勧めてはいけないのよ

と、わけありげな言い方をした。要するに、アクティベーターは目にもいいものなのだが、厚生労働省から医薬品としては認定されていないので、化粧品としてしか販売が認めていないのだという。

――もし、すすめて何かあったら、薬事法違反で、責任を問われるか、処罰されかねないのよ

――ふーん、じゃゼリーと同じなんだ

 と、私はいった。

同じFLP社の製品の化粧品であるゼリーについては、後で詳しく記述するが、我が家では化粧品としても使っているが、傷の治療や虫刺されや痔の治療に日常的に使用しているのだ。

同居人を普段私は相方といっているのだが、目にいいと言われて、アクティベーターを目に入れるようになった。相方がいいというのだから、いいのだろうと、私は他のアロエ製品と同じように何の疑いも持たなかった。アクティベーターをそのまま目に入れてもいいのだが、ただそれでは沁みすぎるから、水で倍に薄めるといいという。

試しにそのまま目にスプレーしてみると、確かに痛いぐらい沁みる。しかし、嫌な沁み方ではなく、いかにも目に効きそうな感じである。次にいわれたように倍に薄めてやってみると、ちょっと沁みる程度だった。

スプレー容器を二つ用意して、どちらも倍に薄めたアクティベーターをいれ、一つを机の上に、一つをバッグの中に入れておき、毎日四、五回、目にスプレーすることにした。

白内障というと、私は老人になると罹りやすい目の病で、回復はほとんど不可能という先入観を持っていた。しかし二十年ぐらい前からか、簡単な手術で治るといわれるようになり、イメージががらりと変わってしまい、実際私の上の上の兄は十年ぐらい前に、すぐ上の兄は数年前に手術、聞くと二人とも嘘のようにはっきりと見えるようになり、手術の負担感もそれほどなく、術後のケアもそれほど必要ないのだという。

私は最終的には手術を受ければいいとはおもうものの、手術はできるだけ避けたいというおもいが強い。どこの部位であれ、身体にメスを入れるということへの抵抗感があるのである。

三十三歳のとき、胃潰瘍で入院、潰瘍は十円玉よりやや大きい程度、その他にも小さい潰瘍が数個あり、医師から手術を強く勧められた。

――手術すれば三週間で退院できますよ。ただし、潰瘍は大きいが傷が浅いので、薬でも治せます。でもその場合は二ヶ月かかりますが・・・

 医師は私が当然手術を選ぶだろうと予想の口ぶりで、どちらにしますか、と言った。私は即座に、

――薬の方でお願いします。二ヶ月かかっても結構ですから

 医師は、手術の方が簡単ですよ、と再び勧めたが、私は頑なに、薬でと言い張った。医師は呆れたという顔で、結局は私の希望を認めたものだった。当時の手術の衛生管理は杜撰そのもので、輸血によってC型肝炎などの感染症が続出していて、結果的に私の選択は間違っていなかったのである。

 さて、アクティベーターを日常的に目に入れるようになって、どうなったか。

 風邪薬を飲んでぴたりと熱が下がるとか、頭痛がとれる、というような即効性があったわけではない。

 眼科で処方された点眼液が全く効かなかったのとは違って、そうですね、スプレーし始めて、一週間ぐらいで、像が歪んだり二重に見えたりするのは収まったのだが、三日月がぴかり光るのはそれからしばらくつづいたが、いつのまにか消えたのだった。そして、光景が眩しく感じるのは三年ぐらいはつづいたが、一年ぐらい前に、そういえばそんなに眩しくないなあと感じられることに気がついた。なるべくサングラスをかけるようにしていたのだが、サングラスをすることを忘れてしまうことが多くなって、眩しさが薄れていることに気がついたということなのだ。

 おもうに、私の白内障気味は治りはしないものの、ゆるやかにアクティベーターが効いていて、五年たっても白内障気味のまま進行しないで、維持状態がつづいているのではないだろうか。

 あのまま眼科の点眼液をつづけたり、放置してしまったとしたら、多分白内障は確実に進行したのではないか、とおもう。
 というか、症状が幾つも改善したのだから、アクティベーターで効いたともいえるのだが、ことに右目の何とはなしの違和感が残ったままだし、冒頭に記したように目は疲れやすいので、私の白内障は完全に治癒することはなく、これからもアクティベーターの効用を信じ、その状態と付き合っていかなければならないだろうと考えているのである。

 次に同じFLP社の化粧品であるゼリーについて述べたい。
パンフレットの説明には、

――天然植物保湿成分(アロエベラ液汁)を配合したゼリー状化粧水です。うるおいを補給し、ハリと弾力を与え、ふっくらとした素肌に整えます
 

と書かれていて、アクティベーターと同じようなアロエベラから抽出したゼリー状液汁であることが分かる。

 今では、若い人は男でも化粧することは珍しくないようだが、男が化粧などするものではない、といった社会風潮が日本には昔からあって、私の周辺では顔を装う男性は皆無だった。

 私も例外ではなかったが、五十代になって、髪一面に白髪が増えたとき、スプレー式の白髪染めを使うようになり、顔にも男性用クリームを塗るようになった。鏡に映る風貌がいかにも年寄染みてきて、それが嫌だったことと、その風貌がひとに不快感を与えるのではないか、と危惧したからである。

 しかし、そのときはまだ化粧とか装うとかの明確な意識はなく、秘かに影で隠れてやっているという感じにすぎなかった。私の中にも明らかに、日本男児たるもの、という意識があったからだ。

 転機が訪れたのは、妻が亡くなってからしばらくして、婚活を決意してからのことである。

 妻没が私六十三才のときであり、婚活を始めたのはその一年後だから、六十四才になっていた。

 ある友人が私の婚活に違和感を感じると言ったが、私はそのとき、その意味がよく分からなかった。私の中では、婚活は自然なことだったからである。しかし、今は友人の気持ちがよく分かる。

 要するに、六十四才という高齢になってから婚活する、異性を求めるというのは変だ、おかしい、社会通念上許されないことだ、というようなことだろう。

 私は婚活は年齢には関係ないという立場である。幾つになっても異性を求めることは自然なことで、許されないことでもないし、悪いことでもない。異性を求めることは人間的なことであり、人間にとって根源的なことである。そして、命を燃やす、命が輝く、素晴らしいことである。私は、そうおもっているのである。

 ただ、友人が私の有り様に違和感を感じることは、多くのひとが感じることでもあり、それを否定するつもりはない。しかし、その友人は私をおかしいと強い口調で責めたのである。これはルール違反である。なぜならは、考え方、思想信条人生観は、人それぞれだからである。私は敢えて反論はしなかった。彼は結婚はしているが、女性一般を否定する論をよく披歴していた。反論したところで友人には到底通じないだろうとおもったからである。すると、友人は私が反論しないのは許せないとでもおもったのか、長い手紙で激越な調子で同じ趣旨の批判非難を繰り返した。というか、その域を通り越して私を攻撃していた。私は反論しなかったのは正解だったなと感じると同時に、これでその友人との関係は終わったな、とおもった。考え方、人生観は違っても、それを尊重しあえてこその友人関係であり、それが出来ないのなら友人とはいえないからである。

 ちょっと話が脇道に逸れてしまったようだ。もとに戻そう。

 六十四才にして、婚活を決意したとき、鏡に映る自分を見て、顔がいくらかでもましなものにならないか、と考えた。

 老いた感じのままでは相手に対して失礼である、少しでも装っているという姿勢を感じてもらうことが礼儀にかなっているのではないか、ともおもった。

 髪は染めて清潔に整えれば何とかなる。顔の皮膚は男性用のスキンクリームを塗れば潤いが出るだろう。しかし、左のこめかみから頬にかけての地図のような染みと、右眉横の小さな染みが結構目立つのだ。これは自分でも不快なのだから、ことに女性は嫌がるに違いない。これをなんとかしなければ。私は妻の化粧道具を思い出し、「カインズホーム」に出向いた。私の肌の色に近いファンデーションというもの二色と、それを塗るためのパウダーなるものを購入した。三千円ちょっと。女性用の化粧品で、染みを隠そうという作戦である。

 私はあらかじめインターネットで「男の化粧」と入力して検索して、いくつかのサイトをのぞいた。

 男性の場合は、いかにも化粧していますという化粧は女性に嫌われる。さりげなく装っている、あるいは化粧していることが分からないぐらいな化粧が望ましい。そういう趣旨の事が書かれているサイトがあり、これだと私は膝をはたと叩いたものだ。

 さっそく、ファンデーションを一色ずつ少量パウダーに塗って、それでそっと顔の染みをなぞってみた。私の肌の色に近いと選んだ二色だが、実際に塗ってみると随分違っているということが分かった。幸い幾分薄い方の一色が私の肌により近いことが分かり、それで染みをなぞると自然な感じで染みが隠れることが分かった。そして、顔全体に男性用スキンクリームをなるべく目立たないように、細心の注意をはらいながらなでるように塗った。鏡を見ると、自分の顔が明らかに潤い、染みが消えた分若返ったように見える。しかも、化粧しているようには見えない。やっただけのことはあるのである。

 それから必ず小ざっぱりした服装をし、いわやる「男の化粧」をほどこして出かけたが、誰一人として、私が顔の染み隠しまでしていることに気づいた様子がなかった。服装の変化や白髪染めには注意をとめた娘が、顔の染み隠しには気づかなかったようだったことに、私はしてやったりの気分で自信を深めた。ただ例の友人に悪戯心のつもりで、化粧していることを自慢げに披歴してしまったのだ。バカなことしたものである。友人はそのときから、私を軽蔑するようになったのだろう。

 またまた話が逸れてしまった。FLP社のゼリーに戻そう。

 私は婚活を始めて一人とは見合いをし数度会ったが、私から断った。一人には車を持っていないことを理由に見合いを断られた。一人には結婚相談所のパーティ後のカラオケの席で色仕掛けのようなことをされたり、絡まれたりしたが、何とか無傷で逃れた。ほんと人生何があるか分からないものである。そして、その後JR宇都宮駅で偶然出会ったのが、現在の相方である水鳥翔子である。

 出会って間もなくFLP社のアロエ製品を愛用するようになって、みるみる健康になったことは他の幾つもの作品に再三記述している通りである。

 当然それまで使っていた市販の男性用スキンクリームはやめて、FLP社のゼリーを使用するようになった。

 相方は男性だって身だしなみは大切で、きちんとすべきだという考え方で、

――特にあなたはいくらボランテアだとしても、ギターリストとして施設の舞台に立ち、おばあちゃんたちから憧れられる存在なのだから、装って、先生ステキだわ、と言われるようにならなければ、ね

 てなことを言うのである。

――あなたはいわばスターなのだから、わたしはマネージャーとして、あなたがより引き立つようなコーディネートしてあげるわ

 以来ハサミを持って整髪ひげ剃りまでやってくれ、出かけるときの服装のチェックを入念にしてくれる。

 初めのうちは顔にゼリーを塗り、ゼリーを塗った手櫛で掻き上げて髪を整えるだけだったのだが、最近ではダブル洗顔というやり方で、まずクレンジングローションで軽く汚れを取り、次いでクレンジングフォームの泡で、要するに二度顔の汚れを落としてから、ゼリーを塗るという念の入れようで、おそらく七十代の、しかも男性がここまでやるケースはまずないだろうとおもわれる。しかし、やればやるだけのことはあるのである。洗顔する前と後では、鏡の中の顔が明らかに違う。なんというか、黒っぽかった顔が白くすっきりし、ある種の輝きを帯びるのが分かるのである。

 これは相方がアロエの化粧品の販路を広げるための、使用法の実験をかねてもいて、私をいわば広告塔にしているという意味合いもあるのである。

 というのは我が家には相方がアロエ製品のネットワークを手がけている関係で、女性の訪問客が多いのだ。それで、私が艶のある肌をしていて、ゼリーを使用し、ダブル洗顔をしているとなれば、女性客がゼリーをはじめとした化粧品に興味を示してくれるだろうとの思惑なのである。

 相方にコーディネートされるようになって間もないある冬の日のこと、白いワイシャツを着て、相方の持ち物である青いスカーフを頸に巻いて、施設に出かけたところ、あるおばあちゃんが、

――あら、先生、ステキねえ

 というではないか。あれ、相方の狙い通りになったぞ、とおもい、私はなにやら胸のあたりを羽毛でくすぐられるような気持ちになったものである。ある日には、別のおばあちゃんが、隣の席のおばあちゃんと話していて、斎藤先生って、いいなァ、と言っているのが、ちらっと聞こえてきた。

 ところで、アロエ製品を使用するようになって三年目のころ、右眉横の染みが消えていることに気がついた。左頬横の染みは大きいので残っているが、薄くなっていることは確実なのだ。

 口から体内に摂取しているアロエジュースやプロポリス、ポーレンなどの中からの作用と、ゼリーやアクティベーターなど外からの作用が相乗効果となって、染みが消えたり薄くなったものとおもわれる。

 

その2「屋根から落ちて頭が裂けた」に続く

2017年10月19日

女に入れあげる

 数年ぶりに会った友達に、

――君は亡くなった奥さんの供養もせず、女に入れあげている

 と言われて、唖然とした。酒席の酔った勢いのことだが、彼の本音がこもっていて、そうか、彼がそう言うということは、他もそうおもうむきも多いのだなと感じ、感慨があった。

 私は基本的には無宗教なので、仏教で行われる供養などというものとは無関係である。

 平成二十年に妻は没したが、火葬だけで葬式は行わなかった。墓もいらないとはおもったが、骨壺をいつまでも自宅に置いてもおけない。娘が墓を守るのはわたしだから、神奈川に求めてというので、平塚市に分譲墓を買い、納骨した。仏教ではないが、三回忌までは墓参りをした。その後は再婚を快く受けとめなかった娘と感情的な葛藤があり、神奈川に行かなくなり、自然墓とも遠くなった。しかし、墓の管理費は私が払いつづけている。

 亡妻のことも、現在の同居人のことも、私の生き方、魂に関することで、他人がどうとらえようと自由だが、直接どうのこうの言われるのは正直不快だった。面と向かって当人に魂に属することを否定するに等しいことを言うのは失礼ではないか。その友達とは十七年前から疎遠になっていて、以後は数回しか会っていない。私のその後の人生の変転とはほとんど無関係だったのである。そういう人物に私の魂、心の有り様が分かるはずがない。私は敢えて反論しなかった。すると、私を煮え切らないやつだとでもおもったのか、ご大層に便箋八枚にも及ぶ手紙をよこして、同じ趣旨の非難を繰り返した。これで酒席の戯れ言では済まされなくなってしまった。反論しようかともおもったが、すれば私も彼と同じ土俵で相撲をとることになる。無視することに決め、彼とは今後一線を画することも決めた。
 
 そして、それから一年余の時間が流れた。友達に言われたときには、かなり腹立たしいものを感じたことは事実である。

 しかし、腹立ちは次第に薄れ、遙か遠いものになってしまっている。冷静に振り返ると、彼は彼なりに私のことをおもって、忠告してくれたのだろうから、そんなに腹を立てることもなかったのかもしれない、とおもう。今、彼にはむしろ感謝の念すら抱いている。

 彼の言葉が私の半生を振り返るきっかけを与えてくれたからである。

 辞書で調べてみると、女に入れあげるの「入れあげる」は、一、金を全部つぎこむ、二、勢いよく中にはいる、三、心をうちこむ、とある。

 そうだなあ、と私は一人ごちたものである。

 女というか、私にとって関わりが深かった、あるいは関わりが深い女性は、まずは母親であり、次に亡妻で、そして現在事実婚状態にある同居人である。

――今までを顧みると、確かに私はこの三人の女性に入れあげてきたし、入れあげている人生だなあ

 というおもいを深くした。

 母親は、これ以上はないほど、私を大切にし、可愛がり、愛してくれたとおもう。

亡くなったとき、通夜後の葬儀場で、親族休憩所兼遺体安置所というべき部屋で、その亡骸とともに一夜を過ごした。他の兄姉、私の妻も、引き上げてしまい、文字通り、母と二人だけで告別式前夜を過ごしたのである。おもい返すと、部屋の中に濛々と立ちこめる香の煙と匂いの印象ばかりが強烈である。

 母の亡骸ははや腐爛の気配をただよわせていたが、それでも私は母が死んだとはおもえず、濛々とたち昇る香の煙と匂いにむせながら、その肉体の滅亡の行末を茫然と見据えようとしていた。一晩中むせていたためか香の煙と匂いは、母と私を隔てる嫌なものとして私の中で定着してしまった。そして、葬儀が済み、一日、二日、一週間、十日がたち、私の心の襞に染みついた香の嫌な匂いが薄れるうちに、私の中で、次第に母の魂が復活するのを確かな手応えで感じとることができたのである。

 そして今、母は常に私の中に息づいて共にあると感じられる。母は死んでなどいず、あれからずっと生きているのである。いや、一旦は死んだものの、復活して私の中にあるといってもいい。普段意識することがあまりないのは、いつもは私の潜在意識のなかにいるからで、ふとした拍子に、たとえば雨に打たれる紫陽花に付着した滴のきらめきのようなものとして、あるいは紫系統の明るく優しい色合いとして立ち現れることもある。そのとき私は母の膝の上に抱かれていたときの甘美な安堵に満たされるのである。

 亡妻も母親と同じような経過をたどったが、私の中に定着するのには二年の歳月が必要だった。母とは二十才のときまで共に生活したが、その後四十年近く遠方に離れていたのに比べて、亡妻とは四十年ともに暮らし、後半の二十三年間は病身であり、介護の末、身近で死を迎えたという違いがある。一年はふとしたはずみに涙ぐんでしまう状態がつづき、その後今の同居人と出会ったのだが、尚尾を引いていた。それが治まったのは二年を過ぎた頃である。そして現在は母とは微妙に違うが、母と同等に私の中に確かな存在として、息づいている。
 我が家は裏手に東西に延びる山並み――といっても高さ五十メートル程度の丘並といった方がいいか――を背負っており、前方にはやはり低い山並みが東西にのび、山並みと山並みのほぼ真ん中を幅二メートルぐらいの川がまっすぐに貫いて流れる。その土手を愛犬モモを引いて歩くことがある。妻は、ふっとその清らかな流れの川面のまぶしい光や爽やかなせせらぎや、あるいは青空を悠然と飛ぶ頸のほっそりした白鷺となって立ち現れる。また、ほんのりと赤味がかったあかるい橙の色合いとして訪れることもある。
 
 母と暮らしたのは二十年、亡妻とは四十年の結婚生活だった。

そして、今の同居人とは八年の同棲であるが、現在進行形であり、これからどんどん年数は増えていくことは間違いない。

私は三十才の頃から小説、エッセイの執筆にいそしみ、ライフワークとして生涯取り組んでいこうと心に決めた。

 そして、自分では意識してはいなかったのだが、私の著作の多くに目を通した今の同居人は、読んだほとんどの作品に母親が顔を出し、私が母親っ子であり、母親を慕い愛していることが歴然と表れているのだという。

 母親は夏目漱石全集をもって父の元に嫁いだ。だから、総ルビがふってあった「坊ちゃん」や「吾輩は猫である」に小学校低学年の頃から親しむことができた。

また、母は大学ノート二冊分にびっしりと短歌を残した。農業や身辺のこと、また私を含めた我が子や孫達のことが詠われている。その一首一首を読んでみると親子だから当然のことだが、私と感受性が共通というか瓜二つだということが分かった。私は母の胸に抱かれているような懐かしさに涙ぐみながら読みすすめた。

ざっと見て千数百首あるうちから三百首ぐらいを選んで、「光る繭」「春の足音」の二冊の歌集を、私が編纂し、跋も書いて出版した。母は、

――いい冥土への土産が出来た

 という言い方をして悦んでくれたものである。

 妻は文学とは縁がなく、私の著作は読まなかったが、私は妻との生活、介護、そして妻をめぐることから着想して、多くの作品を書いた。四十年一緒に暮らし、介護が長かったこともあり、当然母を書いたものよりは比べものにならないぐらい作品数は多い。妻の病は不治だったので介護は困難を極め、故に、私はやわな精神を鍛えられ、いくらかはまっとうな人間になることができたのではないか、とおもっている。

 さて、現在進行形の相方については、作品だけではなく、歌が加わった。

いつか、わたしのことどうおもっているのよ、という問いかけに、

――ここに来て作った歌は、ここでの生活、あるいはあなたのことを歌ったものだし、書いている作品も全てがあなたをめぐることばかりだよ。平安時代の古今和歌集、鎌倉時代の新古今集に詠まれている恋歌と同じような気持ちで書いているといってもいい

 と、言ったものである。

 実際、現在は、これまでとは比較できないぐらいな速さで、作品を量産しつつあるのだ。単なる読み物ではなく、文学に昇華した作品にしたいと、頭に鉢巻きをして日々執筆しつづけている。

 先に「私は三人の女性に入れあげてきたし、あるいは入れあげている」人生だなあ、と書いたが、母や妻についての作品、または、相方についての歌や作品を書いたことを見ただけでも、入れあげのほどが分かっていただけるのではないだろうか。

 しかし、「女に入れあげる」という友達の言葉のみを、私の人生に当てはめることについては、いささかの異論がある。ま、分かりやすく、ほぼ的を射ているので、それでいいとはおもう。

 しかし、「女に入れあげる」は俗で、いささか品位に欠ける響きがある。そして、友達の言い回しからすると、性欲の意味あいが込められていたようにも感じられる。

 だとすれば、それは、私の中にある、母や妻や相方に対する気持ちとは大分違うと言いたい。

 では、どんな言葉が、私と、母や妻や相方を繋ぐにふさわしいか、よくよく考えてみた。そして、

――慈しみ、いとおしく愛する

 という言葉に行き着いた。

 ちょっときれいすぎる高尚な言葉、言い回しかもしれない。しかし、私が母や妻におもいを寄せる気持ちは、この言葉に限りなく近いものだと、断言できる。

 今の相方とは現在進行形の生きた対象であり、母や妻がモノクロームの映像だとすると、極彩色のカラーのダイナミックな3D立体動画であり、母や妻とは一緒くたにはできないが、この言葉のように接したいとおもっていることだけは確かなことなのである。

2017年10月11日

生活訓

 相方は、生活上のモットーや教訓を壁に掲げることを好む。私にはまるでない習慣で、初めは奇異に感じられたものである。

 例えば、共に生活するようになって、一番最初に目についたのが、次のようなものである。

 商売繁盛 家運隆盛
 ハキモノ キチンと そろってる
 アイサツ しっかり かわしてる
 トイレは いつでも ピッカピカ
 これが できたら 社運隆盛
 いつも ニコニコ 商売繁盛
 家庭で できたら 全員 ハッピー
 みんな そろって ありがとう
 みんな 笑顔で ありがとう

 発行所は「ヒューマンウェア研究所」とある。誰か著名な人物が考えた人生訓なのかどうなのか。

 私は何か思わず笑いがこみ上げてくるのを感じたものである。こんなことを心がけて生活しているのか、と思ったからである。

 これは掃除、整理整頓、が出来ていない店や会社、ひいては家庭も繁盛しないし、うまくいかないということを言っているのだろう。

 また、明るい雰囲気で、挨拶やコミュニケーションが出来ていないと人間関係がスムースにいかず、商売も上手くいかない。というようなことを端的に表現した標語なのだろう。

 私も改めてよく考えてみると、そうはっきりと意識してはいなかったものの、これら標語と考えている方向は同じだな、と再認識したものである。

 初め奇異に感じられた標語掲示も、慣れてくると、ま、自己の目指す方向をはっきりと意識する方法としていいことかもしれない、と思うようにはなったが、自分はやる気にはなれなかった。掲示することは自己の内面をさらけ出すようで気恥ずかしいし、掲示しなくとも、肝に念じればいいと考えるからである。

 彼女が最も好む標語の一つに、

 思えば叶う

 があるが、これは、目標を決めて、それに向かって努力すれば、その目標としたことはきっとかなえられるものだ、というようなことであると思うが、私も同感であり、いい言葉であるので、心に深く刻み込まれることとなった。

 私は志すことを掲示したりはしないが、掲示して志を達成しょうとする前向きな姿勢は是とするものだ。
 私も後ろ向きではなく、常に前を向いて行こうとしてきたことは彼女と共通しているとおもう。そのあたりで意気投合し、ともに歩むことになるきっかけになった。
 
 私が小説やエッセイを執筆するようになった契機は、自分を振り返ったり、自分を見つめようとしたことだった。初めに詩を書き、次いで短歌に移り、それから小説やエッセイに筆を染めたのだった。

 それとは別に、発表したり掲示したりはしないが、何か嫌なことにぶつかったり、迷ったり、悩んだり、自分の進むべき方向が分からなくなったりしたときに、私は大学ノートにそのときどきの自己の状況を書きつけ分析することにしてきた。

 状況を箇条書きにすることもあれば、ただ思いついたことをダラダラ書いていくこともある。すると、自分の状態や置かれている情況が分かってきて、どうすれば問題が解決できるか、自分のやるべきこと、進むべき方向が見えてきたりするものなのである。

 二十才の頃から始めたことで、それら大学ノートは処分せずにあり、二十冊ぐらいはダンボール箱にあり、数冊は机の中に入っている。机の中の数冊はここ数年書いてきたもので、今も書きつつあるのだ。だから、二年に一冊ぐらいの割合で書き綴ってきたことになる。

 少し違ってはいるもののも、私の大学ノートと相方の生活訓とは、その役割はよく似たものであるといえるのかもしれない。

 相方は生活訓を壁に貼りつけるぐらいだから、自己のおもいをつつみかくさずに表現する方である。彼女は、私と出会えて本当によかった、とよくいう。あなたと一緒になれた今が一番幸せ、とも。

 いわれる方としては気恥ずかしいが、悪い気はしない。普通の日本人はこころでおもっていても、特にそんなふうにあけすけには表現しないものである。それで、あなたはどうなのよ、というから、私はテレ隠しで、それは同じだよ、もし一緒にいて嫌だとおもったらここにはいない、すぐでていくよ、というような言い方をするのである。

彼女が扱っているアロエ製品のネットワーク関係で第一世代とは、伝えたすぐのひとをいい、その第一世代が伝えたひとを第二世代、その次を第三世代というような呼び方をするのだが、相方の第一世代に銀座でクラブのママをやっている同じ年齢の方がいる。限界集落のような村にいる相方が東京の中心の繁華街ともいえる銀座のママさんにどのように伝えたかというと、同じ村でこの銀座のママの従姉妹がイチゴ農家をやっていて、その従姉妹の紹介によるのである。ネットワークというのは、このようにどこでどう伝わるかわからない面白さがある。この銀座のママの旦那さんは演歌界の大御所である北島三郎がギター流しをやっていた頃の仲間で、一緒に盛り場を流していたギター弾きだった。北島三郎は高音部の声がきれいにでたが、ママの旦那さんはテノールで高音があまり出なかった。その差で北島三郎はその後デビーを果たしたが、ママの旦那さんは歌手をあきらめクラブ経営に転じたのだという。この銀座のママ、ごく普通というよりも、むしろ地味な感じの女性なのだが、旦那さんの紹介の仕方はふるって派手である。
――わたしが惚れて惚れ抜いて一緒になった最愛の夫○○です
 多分旦那さんは面映ゆいながらも、内心では嬉しいことだろう。
 類は類を呼ぶというが、相方もアロエのネットワーク関係の集会で、私の話をするとき、

――私の主人は、ワタシが潜在意識を使って一緒になれた理想のひとなんですよ

 てな言い方をするのだという。潜在意識ということばについては、少し説明が必要だろう。

相方は月に一度、さいたま市で開かれているアロエ関係のネットワークや人生哲学を学ぶ塾である「酒井塾」に通っているのだが、限界集落のような村からさいたま市までは車で宇都宮線の片岡駅まで三十分、そこから乗り継いで約二時間半、つまり片道三時間はかかるのだ。それをもう十七年も通い続けているのだという。体力的にも大変なことだと私はおもい、七十代になってもここまでして学ぼうとする姿勢は、村では異色の存在で、このことだけでも煙ったがれたり、妬まれたりすることはうなずける気がしたものである。相方はアロエ関係の研修で、アメリカにも七度も行っているのだ。しかし、上には上がいるもので、受講生は北は北海道から南は沖縄まで、文字通り日本全国から毎回千人以上集まってくるのだという。北海道や沖縄からは飛行機でくるのだが、午後二時から二時間受講しての日帰りなのである。そのひとたちは時間もだが費用も相方よりも相当かかるし、強行軍である。わたしなんか近い方なのよ、と相方はいった。

私も一度だけ、酒井塾主催者である酒井満氏が講師をつとめる「潜在意識セミナー」なるものに連れていかれたことがある。このときも千人ぐらいの受講者がいたが、まず驚かされたのは集まった人の、それも女性の服装の花やかさや肌のつやのよさだった。四十代から七十代といった感じだが、少数だが八十代のひともまじっていて、そのひとたちも一様に肌がきれいなのである。ちなみに男性の参加者はざっと見渡して一割ぐらいと感じた。限界集落で腰が曲がったくすんだばっちゃんスタイルや皺だらけの顔ばかり見ている私には、異次元の輝く異世界に迷い込んだかのような錯覚に襲われ圧倒されたものである。      

わたしはそこで、相方がよくいっていた、

――いくら紅や白粉を顔に塗りたくっても、肌は本当にキレイにはならない、表面だけではなく、内から潤わなければ・・・

 という言葉を思い出したものである。現在の住居の周辺のひとははやいケースは六十代、七十代になれば容色の衰えは目をおおうばかりだが、なかには少数だが相方のようにぴかぴか肌で、オーラを放っている女性もいるのである。彼女には七十代になっても尚学ぼうとする姿勢があり、その内面からの輝きなのだろう。相方はこうもいった。

――三大栄養素のバランスを考えた食事をすればいいか、というとそれだけではダメ、一般的にはしられていないことだけど、ひとの身体には微量栄養素というものが必要なのよ。必須微量栄養素というものだけど、たとえばミネラルやビタミン、アミノ酸、などそれぞれ十数種類、合わせて四十六種類もが必要で、それは読んで字の通り、ほんとに微量ではあっても、それが一つでも欠けると身体にはよくない、病気になってしまうの・・・、そしてこれら全部を現代の穀物や野菜などから摂取するのはなかなかむずかしいの、そこでなのよ、アロエ製品の出番は。健康補助食品は新聞テレビなどで盛んに宣伝されていて、数が多くてどれがいいか分からないけれど、この四十六種類の必須微量栄養素だけではなく七十六種類もの栄養素が含まれているFLP社のアロエベラが最も優れた製品だと、わたしはおもっているわ

 彼女が言っているのは、化粧して皮膚の表面をいくらキレイにしようとしても、肌はキレイにはならない、皮膚やその下の細胞に必要不可欠な栄養を与え、すなわち身体の内部を活性化させると同時に、内面的な精神活動、心の充実、内からの輝き、潤いが必要なのだということなのだろう。

 ここに集まってきているひとたちは、アロエ製品を愛用するとともにそのよさを伝えているひとばかりだから、微量栄養素を含めた栄養が身体のすみずみまで行き届いているだろうし、日本各地から学ぶためにやってくるぐらいだから、前向きの意欲にあふれ内面も活性充実しているだろう。それでみな肌がきれいなのに違いない・・・。そんなことをおもいながら、私は生き生きとした表情をしている会場内の人々を見回したものだ。

 セミナーの内容は、酒井満氏の講話と壇上にあがった十名程度の出席者のアロエによる健康体験やネットワークを広げた具体的体験談などだった。

 酒井氏の話は、アロエや先輩仲間の素晴らしさ、奥さんへの感謝、など、とりたてて特別なことではなく、私が普段考えているようなことだった。もちろん、アロエのネットワークを広げることで成功したひとだから、話に力があり説得力があった。相方は十七年も酒井氏の塾に通っているが、もっと長く通っているひとも多いという。座は熱気があふれ、ある種宗教的色合いを帯びているようにも感じられるが、一回二千五百円というチケット代を払う。宗教とは明らかに違う。酒井氏はカリスマ性はあるが、教祖的ではなく、有能なビジネスマン風である。信仰ではなく、酒井氏の成功例を参考に、あるいは氏の話を聞いて刺激を受けることによって、ネットワークビジネスで成功をおさめたいというひとたちが集まってくるのである。

 相方がアロエについて常に言っていることは、

――伝えれば人を健康にすることが出来るのだから、世のためひとのためになる仕事なの

――人を健康に出来れば、医療費を抑制でき、今大変な状態にある国の財政にも貢献できる。つまり国のためにもなるってわけ

――もちろん伝えればその報酬としてボーナスをもらえる。当然自分は愛用しているのだから、健康を保ちつつ財布もうるおうのよ

――要するに、この仕事は人のため、自分のため、国のためにもなる仕事だから、やり甲斐があるのよ

――お金儲けのためだけ、自己の欲得勘定だけでこの仕事をしようとしても成功はしない

 私は若い頃胃十二指腸潰瘍で四度も入院し、三十三才のときの入院は二ヶ月にも及んだのだ。その他椎間板ヘルニアでも長期間通院したし、胃の薬をかなり飲みつづけた。私は医療機関に大分医療費を支払ったことになるが、それ以上に健康保険の医療費を相当費やしたともいえる。それが彼女と出会いアロエ製品を愛用しはじめてから、薬は飲まなくなり、病院には定期検診に行くだけとなった。アロエは決して安いとはいえないが、病気になって費やす医療費よりは大分格安だとおもう。そして何よりもアロエを愛用して健康になれば、薬を飲まなくなり病院にも行かなくなるのだから、確かにアロエは医療費の抑制に繋がるといえるだろう。 
 
 話が大分横道に逸れた。話を潜在意識に戻そう。

相方が言うところの潜在意識とは、自分がこうなりたいとか、目標をかなえたいということとかがあったら深く思うこと、それは表面的な顕在意識にとどまっているうちはかなうことはないが、潜在意識までとどけば必ずや叶うものだということなのだ。では、潜在意識までとどくのにはどのようにすればいいのか。それは、繰り返し、強く、深く思うこと。唱える、念じる。相方は紙に書くことが最も効果的だという。冒頭に記したが、相方は壁に貼って、それを日々読んでいるのはそのためなのだった。

私と出会うきっかけになったのは、息子が家を出て行って間もなくの頃、訪ねてきた末の娘が、何気なく発した、

――お母さん、一人じゃ寂しいでしょう、お茶のみ友だちでも作ったら

 という言葉だった。相方は胸に強く何かが萌すのを感じ、一念発起し、そうだ、と相手を見つけることに決め、その日の夜のうちに、さっそく大きな紙に、相手としての条件を十何ヶ条かを書き記した。一、知的で、二、優しくて、三、私を大切にしてくれる・・・というように。なぜ十何ヶ条もの条件をあげたかというと、以前二つだけにして失敗したことがあったからである。そのときは、一つは頭がよい、二つ目は目が大きい、にしたのだった。しかし、これは大きな間違いだったのだ。その条件通りの人が現れて結婚することができたのだが、その人は二つの条件は満たしていたものの、大酒飲みで、神経質で、優しさがなく、病弱で、私を大切にしてくれなかった、というのである。

――それは、亡くなった私の夫なの、ハハハ

 そう言って相方はいたずらっぽく笑う。

 さて以前のてつを踏まないように十何ヶ条も上げ、酒井塾で期限も何月何日までときちんと区切らないといけないと習ったので、三ヶ月以内と記して、寝室の天井に貼り、毎日寝る前に何度も読んで念じつづけたのだという。その結果はどうだったのか。

――三ヶ月の期限がせまる数日前、本当に今の主人と宇都宮駅で偶然出会ったのよ。潜在意識は偉大だからきっと奇跡を呼び寄せてくれると酒井さんはいつもいっているのだけど、これは事実なのよ。そして、私があげた条件は実は十六ヶ条だったのだけど、今の主人はほとんどの条件は合致していたものの、ただ一つだけ合わなかったことがあるワ、それはお金持ちではなかったことよ

 アロエのネットワークの集まりでそんな話をすると、座は笑いと驚きとどよめきで大いに盛り上がるのだという。

2017年10月07日

末期癌を克服した人に会った

 

 私はとある高齢者のためのデイサービス施設で以前ギター伴奏のボランテアをしていたことがあるのだが、男性の利用者が極端に少ないことに疑問を感じ、施設長にそのわけを聞いたことがある。

 女性が常時十人前後はいるのに、男性はたったの一人だったのだが、その一人の男性も他の施設に入所したとかで間もなくいなくなってしまった。その後しばらくしてやっと男性がまた一人利用するようになった。

 つまり、男性はいつも一割弱の状態なのである。

――地域に男性の高齢者は、一定割合いることはいるんですよ。でも誘っても来たがらないんですよ

――へえ、なぜなんでしょうね

――女ばかりのとこじゃ、とか、歌、輪投げ、なんてやっても、とか、要するに億劫なんでしょうねえ

 私は現在、O市で月一回開かれる高齢者向けの「歌声喫茶」に参加しているのだが、ここには常時五~八十代の方々が八十人前後集まるのだが、ざっと見回してみると、やはり男性は一割前後なのだ。

 また別に、私は月一回埼玉浦和で開かれる「潜在意識セミナー」にも出席するようになったのだが、ここは毎回千名という大人数が日本全国各地から集まってきて、三~八十代と幅広い年代なのだが、ここは男性の割合が尚少なくて二十人に一人ぐらいしかいない、つまり千人のうち男性は五十人しかいないという寂しさなのである。
 世は、女性ばかりが生き生きと人生を謳歌していて、陰で男性はしょぼくれて、鬱屈した人生を送っている、そんな感を深くする。
 そういった状況に、どうしてなのだろうと、おもうと同時に、男性よ、しっかりしろよ、と、私は言いたくなってしまう。
 男性よ、女性を見習え、着ている鎧を脱ぎ、身軽になり、本来のあなた自身に立ち返って、人生を楽しもうじゃないか。たった一回しかやれない人生なのだから・・・、と。
 
 先日、葉庭松男さくらさん夫妻が来訪され、一泊された。

 葉庭さくらさんは、相方がたずさわっているアロエベラ健康補助食品のネットワーク関係の実績のある先輩であることと、二十年前、スキルス胃癌にかかり余命いくばくもないと医師から宣告された夫の松男さんの命を救った、という話を聞かされていたので、お二方それぞれどんなひとなのだろうと興味は抱いていた。

 そして、今回の来訪のきっかけが、我が家の柿であると聞かされて、尚のこと興味を持った。

 

 ご夫婦は十年前にも一度一泊されたことがあって、相方によると、そのとき食べた我が家の柿の味が忘れられず、ぜひもう一度あの柿を食べてみたい、という松男さんのたっての願いが、我が家来訪のきっかけになったというのである。

 十年前は、私はまだ相方と出会っていなかったので、当然面識はない。

 まず感じたことは、柿を食べたくて、千葉という決して近くはないところからわざわざ栃木に来るなんて、何事にも億劫がって腰が重いのが一般的な高齢者にしてはめずらしい方だなあ、ということだった。

 熟れた蜂矢柿はつやつやして美しく、焼酎漬けにしても、干し柿にしても美味しい、栄養価の高い果実である。いかにも命の元、すなわち生命力の源になる食べ物と感じられる。私はその柿に惹きつける松男さんにも強い生命力が備わっていて、その生命力がスキルス胃癌という難病を克服することに繋がったのではないか、と推測した。

しかし、スキルス胃癌を克服してから、一念発起してハワイ大学に留学したと聞いていたので、向学心行動力のある方で、その一つの表れなのかもしれないが。それにしても柿とは面白い、と感じ、そのことだけで私は松男さんに好意を覚えた。

 さくらさんについては、アロエベラのネットワークでは相方よりもずっとランクは上位の方なのに、偉ぶったところなどみじんもない、グループに関係なく頼めばすぐにフォローに駆けつけてくれる献身的さに、彼女のみならず多くの方に信頼され尊敬されているとは聞いていた。

 松男さんのスキルス胃癌からの生還については、実際に本人から伺うと、改めて劇的な奇跡としかいいようのないものを感じ、感銘感動し胸が熱くなるのを覚えた。

 スキレス胃癌とは粘膜の下に隠れるように広がって自覚症状がほとんどないことから、発見が遅れがちで、症状が出たときには手遅れになってしまうことが多いのだという。

 松男さんの場合も、食欲が減退し、体重が減ったり、下痢が続くようになって、診察を受けたところ、胃の幽門近くに何か突起があるので、それを調べたところ癌細胞が見つかったのだ。それまでにも検査を受けていたのだが、異常はないとの診断だったのである。

 見つかった癌細胞を取るために、胃の三分の一を切除する手術をうけたのだが、その切り取った胃をあらためて調べてみると、胃の外側が全て癌であることがわかった。つまり、もう手の施しようがないほど癌が進行していたのである。

――手術はもうやりようがない、放射線治療も不可能です。出来るとすれば抗癌剤だけですが、でも、それもよくて半年ほど延命できるか、どうか・・・。お気の毒ですが、なにもしなければ、三ヶ月の命です

 これは、かかりつけの医院の医師、セカンドオピニオンも受けて、二つの大病院、の三者共通の見立てであったから、疑いようもない厳しい過酷な現実であることは確かなことだった。

 松男さん本人にとってもだが、妻のさくらさんにしても、その現実を受け止め、どうしたらいいのか決めるまでの心の動揺、葛藤、逡巡、などを想像すると、他人事ながら、察するに余りあり、私は胸が痛くなるのを感じるのである。

 結果的に、さくらさんは、夫の松男さんに、アロエベラの効用を改めて説いて、これで直しましょう、と勧めることにしたのだった。

――絶対に大丈夫よ、わたしはこれで、癌のひとを何人も助けているのよ、アロエベラとわたしを信じてね、これを飲んで、わたしと一緒に癌と闘っていきましょう、そして克服するのよ

 松男さんは、三つの医療機関から同じ見立ての余命三ヶ月との宣告を受け止め、もはやじたばたしたところで仕方がないと、死を覚悟した。数ヶ月余計に生きるよりは楽に死にたい。そうおもい抗癌剤の投与も断ったのである。

 そして、真剣熱心にアロエベラを勧めるさくらさんに、こう言った。

――そうだね、もうこうなっては栄養療法、免疫療法しかないものな、じゃ、よろしくね

 そうは言ったものの、松男さんは本当にはアロエベラの効用を信じたわけではなかったという。

 当時さくらさんは日の出の勢いでアロエのネットワークを広げていた時期だった。周囲から羨望と尊敬を受ける輝く存在だったのだ。というと、キャリアウーマンのばりばりした男まさりの女性をおもいうかべるかもしれない。しかし、実際にお会いしてみると、もの柔らかなおっとりした女性である。が、物言いに無駄がなく的確で、芯の強さがほの見えて、やはり実績がある方はどこか普通のひとにはないオーラをただよわせていると感じさせられたものである。おそらくはさくらさんは松男さんの心の中を察して、己の持っている全てのものを動員して、分かりやすく説明説得したのだろう。

 松男さんは、

――そういえばこれまで女房になにもしてやらなかったな、どうせ間もなく死ぬのだ、これまで何もしてやらなかった罪滅ぼしに、最初で最後になってしまうが、効用があるのかどうかわからないが、最後の女房孝行だ、アロエを摂取してみることにしよう

 と、内心でおもったのだった。

 私がお話のうちで心底心打たれたのは、松男さんが死を覚悟し、最後の女房孝行をしてから、死のうと決意したところである。これは見事であり、気高く、美しく、この心の動きは崇高でさえある。このとき、松男さんは優しい夫となり、益荒男となり、まっとうな一人の人間として峻厳に屹立したのではないか、と私はおもう。

 もちろん、さくらさんは嬉しいながらも気を引き締めて、松男さんを支えていく決意をしたに違いない。

 こんな夫婦愛を神(宇宙)は、暖かい微笑みで包み込んでくれないはずはないのである。

 アロエの効用は、私も体感経験しているので分かるのだが、疑いようもないものである。
私の場合は胃弱でひよわだったのだが、摂取を始めて二ヶ月後には明らかな変化が表れた。よく眠れるようになり、疲れにくくなり、何かじわじわと身体に満ちてくるものがあり、力がみなぎるように感じられ、並行して、頭も心も豊潤がもたされていくような感覚があったのである。

 

一日、アロエジュース百五十ミリリットル、プロポリス二錠、ポーレン四錠、というのが私の摂取量だったが、余命三ヶ月と宣告された松男さんの場合は当然これでは足りない。

毎日、アロエジュース一リットル、プロポリスとポーレンは、朝昼晩それぞれ九錠ずつ、これを一年間欠かさずつづけた。

ご存知のようにアロエ製品は薬ではなく、薬のように患部に直接働きかけて治すわけではない。飽くまでも栄養補助食品であり、必要な栄養素ならびに必須微量栄養素を身体の隅々まで行き渡らせて、身体の各部の細胞を元気にして、免疫力を高め、結果としてその免疫力で癌細胞を撲滅消滅させることを期待するものなのである。

さくらさんは祈るような気持ちで細心の注意を払って、栄養のバランスをとれる食事を手作りして、松男さんに食べてもらったに違いない。その上でのアロエ三点セットである。

その甲斐あって、松男さんの身体の細胞は次第に健康を取り戻し、同時に免疫力が高まり、身体の中に広がっていた癌細胞を徐々に消滅撲滅させていったに違いない。

アロエ製品は決して安い商品ではない。松男さんが摂取した量は相当な額になる。しかし、私の近親で大腸癌で半年近く大学病院の個室入院治療を受けた者がいるが、結局は亡くなった。個室料は一日一万五千円で、部屋代だけで何百万円にもなったろうし、医療費だって癌の種類にもよるが、自己負担額はそれほどではないにしても、健康保険から病院に支払われる額はやはり何百万円にもなったものとおもわれる。そういうことを考慮にいれれば、アロエ製品は必ずしも高いとはいえないのである。それに癌に立ち向かうのだから、お金を出し惜しんでいる場合ではないともいえる。

幸いだったことは、松男さんもさくらさんも銀行員であり、しかもさくらさんはアロエのネットワークの収入もあったので、アロエを十分に摂取しても大丈夫なだけの余裕があったのである。

どのあたりで快癒したのか聞き漏らしたが、もういいかと一年後アロエの摂取量を減らしたところ、腕にぽつぽつと斑点ができはじめたので、当初量に戻して、更に半年摂取した上で量を減らしたとのことである。

松男さんは、アロエ三点セットを摂取しながら、胃の三分の一切除の傷が癒え、勤務に耐えられるだけの体力が回復した時点で、退院し、勤務先の銀行の仕事に復帰した。

そして、余命三ヶ月告知から五年後、無事定年を迎えることができた。定年後も何らかの形で銀行やその関連会社で仕事をつづけるのが一般的なのだが、松男さんはきっぱりと退職する道を選んだ。

やりたいことがあったからである。実家が真珠の養殖漁業を手がけていて、真珠の研究がしたかった。ハワイ大学に留学したいとさくらさんに申しでると、さくらさんはそれをあっさりと承諾したので、松男さんは拍子抜けの感じがしたという。

――あんなにあっけなく、いいんじゃない、どうぞ、どうぞ、なんて言われるなんておもわなかったよ、あれ、外国に長期間行くのに、とめもしないで、何故いとも簡単に、認めるんだろう、ぼくがいなくなった方がいい、あるいはぼくが邪魔になったのだろうか、なんて勘ぐっちゃったよ

あら、そんなふうにおもったの。さくらさんは、笑いながら言った。

――わたしがあなたを邪魔扱いするわけがないじゃない。癌で余命宣告をされて、奇跡的に助かった命でしょ、これからはあなたに好きなことをして生きていって欲しいとおもったのよ、わたしはあなたがたとえ地球の裏側にいようとも、元気でいることさえ分かれば、それで満足なの、だから、どうぞ、って、言ったのよ

 結果的に、松男さんは、ハワイ、メキシコ、ベルギー・・・、というように、以後は世界各地に出かけた。滞在型旅行とでもいったらいいのか、短いときでも三ヶ月、長いときは七ヶ月もそこに住み着くようにして、見聞を広め、学習、研究したのである。世界中に友人知人ができた。またいつこっちにくるのか、と誘いの連絡が入るのだ。

 癌克服から二十年たち体調は悪くはないものの、数年前に左目に緑内障が発見され、少しずつ進行していることが実感され、海外にいくことは控えた方がいいとおもうが、ハワイ在住中にお世話になった方から、ぜひぜひとの誘いが入り、そこにもう一度だけ行かなければならないかな、と思案しているとのことである。

 癌が治ったという話を聞いたことはあるにはある。しかし、それはごく初期に発見された場合で、大抵は数年以内に死に至る病であるというのが私の認識だった。実際私の兄三人は、肺、大腸、食道の癌でいずれも一、二年で他界している。

 松男さんがかかったスキルス胃癌の五年生存率は10~20%しかないという。しかし、松男さんは余命三ヶ月と宣告されたのに、癌を完全に克服したのだから、奇跡としか言いようがないが、実際にお会いしてみると、特別な人というわけでもなく、ごく普通の方で、人なつっこい笑みを浮かべながら快活に話される。そんな方に、お会いできて、本当によかったなあ、とあらためて感じるのである。

 私がご夫妻と語り合って、ともすれば引き籠もり非活動的になりがちな私と同年代の方々を見るにつけ、松男さんは世界を股にかけて渡り歩くバイタリテイがあり、さくらさんはそれを許し動じない度量とおおらかさがを示しつつ、アロエの発展に寄与すべく活躍され、燦然と輝く姿を目の当たりにして、励まされ、私もまだまだやれる、やるべきだなという共感と心強さを感じた次第である。

2017年02月19日

ハグ

 食あたりかなにかで、愛猫チビが死んだ。

 ペットとはいえ、一緒に生活していたのだから家族同然であり、その死の心痛沈鬱による打撃は計り知れない。殊に相方にその傾向が顕著で、
――可哀想でたまらないわ、もう猫を飼うのはやめましょうね
 と、折りにふれて、繰り返していた。しかし、間もなく訪れてきた彼女の末娘が、
――わたしだって、この前きたときには、ミソ(飼猫)に死なれたばかりだったのよ。でも、うーんと可愛がってやったから、可哀想だとはおもったけど、仕方ないことだから、いつまでも引きづらないことにしたのよ
 と言うのを聞いて、うなずけるものがあった。

 チビがいなくなったからか、家の中といい、納屋といい、ネズミが我が物顔で運動会宴会を開く。昼間はともかくも、夜中にネズミに大騒ぎされると、神経にきしり、睡眠も影響を受ける。ある日、相方が階下でまるで強盗にでも襲われたようなただならぬ声を上げているので駆けつけると、大きなネズミが台所の流し台の上にいて、相方とばったり顔を見合わせてしまったのだという。
――ネズミがわたしをじっと見たのよ、そのときの二つの粘つくような不気味な目が網膜に焼き付いて、離れないわ、ああ、イヤだ、イヤだ
 そういえば数年前チビが家出して、四十八日間いなかったことがある。その間、やはりネズミが家中を我が物顔で闊歩していたものだ。ネズミは天敵の猫を気配で察していることは明らかだった。

それからしばらくして訪れてきた相方の末娘が、友達の家で猫が四匹も生まれて貰い手がいなくて困っているのよ、どうかしら、という。
 相方はまだそんな気にはなれない、というが、私は気持ちが動いた。
――貰い手がなくて困っているんじゃ、貰ってやってもいいんじゃないか。捨て猫になる可能性もあるんだし、それよりも、農家にはやはりネズミ対策としての猫は必要だよ。私も一年ぐらいは猫はいなくともいいかなとおもっていたけど、貰ってあげれば人助けにもなるし、我が家のためにもなるわけだから。チビは七年の命だったけど、十分に可愛がってやったんだから、いいんじゃないか。紗英(相方の末娘)ちゃんが言うように、いつまでも引きずらない方がいいと私もおもうようになったんだ

 それから十日ほどして、紗英ちゃんが飼い主だという主婦とともにやってきた。紗英ちゃんが抱いている仔猫を見て、あれ、とおもった。仔猫にしてはいやに大きいなと感じたからだった。
――オスがいいと言ってたでしょ。生まれたばかりのはメスばかりなので、一年近くたってるけど、人なつっこくて、可愛い顔してるから、この子にしたんだけれど、どうかしら
 微かに虎がはいった薄茶と白半々ぐらいで、尻尾が短い、目のくりっとした愛らしい猫である。一才近い猫でなつくか一抹の懸念を感じはしたが、せっかく我が家にやってきたのだから、何かの縁だろう。私は一目で気に入ったが、その日は相方が手がけているアロエのネットワーク関係の研修で埼玉の方に出かけていて不在だった。

――あらあ、可愛いい鳴き方ねえ
 夜、帰宅した相方が、居間の隅の椅子の下に隠れている猫がか細く、ニ~、ニ~、鳴く声を聞いて、言った。
私が屈って摑み出して、抱くと必死にもがいて逃げようとする。あら、顔も可愛いわねえ、と言う。どうやら、相方も気に入ったようだった。
――名前なんてつけようかしら
――そうか、名前ねえ・・・
――コロ、ハナ、リンゴ・・・
――そうだ、ハグにしよう
 と、私は言った。相方は月一回、アロエ関係のネットワークビジネスや人生哲学を学ぶ「酒井塾」に通っているのだが、ここ半年ぐらいは「自分をハグする」というテーマで講習を受けているのである。

 その内容については後述するが、まず「ハグ」の意味を説明したい。
 語源は英語のhugからきていて、辞書をひくと、抱きしめること、抱擁、とある。
――このところ、ずっと「自分をハグする」ということを習っているんだろ、それに「抱きしめる」「抱擁」の意味もステキだ、いいんじゃないか
 相方はにっこり笑い、いい、いいわ、と即座に同意し、さっそく、ハグ、ハグと呼んで、仔猫を抱いた。しかし、ハグはもがいて相方の手から逃れ、また椅子の下に隠れてしまった。
――一年近くたっているんだから、慣れるのに時間がかかるかもしれないね。二、三日家の中に閉じ込めておけば大丈夫だろう
 と、私は言った。

 私は相方が手がけているアロエ健康補助食品の愛用者にはなったが、そのネットワークビジネスのフォローは、積極的にではなく、来客があったとき、自己の愛用体験からその良さをそれとなくアピールするぐらいにすぎなかった。
 しかし、相方に研修会学習会に出てみないか、と誘われて、たまにだが、出席するようになった。
 相方が毎月出かける「酒井塾」は、アロエのネットワーク内である程度の実績がないと出席できないのだが、「酒井塾」の酒井満氏が別に主催する「潜在意識セミナー」なら、一般のひとも参加できるというので、行ってみることにした。

 相方からあらかじめ聞いてある程度の知識は持ってはいたが、聞くと見るのでは大違いと改めて感じた。どこかで、情報の伝わる割合は、言語情報は七パーセント、聴覚情報は三十八パーセント、視覚情報五十五パーセントである、とあったが納得したものである。
 埼玉浦和のパインズホテルに集まった受講者は千名で、会場の前に並んで待つ様子からして、熱気にあふれていることにまず驚かせられた。会場内に入ると、余る椅子は一つとしてなく、女性が大半で、男性は一割ぐらいか、女性の服装の華やかさ、顔の皮膚のつやの良さに、圧倒されるおもいがした。

 そして、セミナーが始まるや静まり返り、少しのことも聞きもらすまいと酒井氏の話に聞き入るさまは、旺盛な学習意欲のあらわれであり、一種宗教的ともいえる熱意を感じ、これにも圧倒されたものである。
 私が潜在意識について持っていた知識は――、
 人間の意識の奥底には意識以上に大きな無意識の領域があって、これを潜在意識(仏教でいう阿頼耶識)と呼ぶが、人間を決定づけるのは、表層の意識ではなく、この潜在意識の方である。

 何か願望をかなえるには、そのおもいが潜在意識の方に深く入らなければかなえられない。潜在意識におもいを入れるためには、強く、深く、繰り返し念じることである。
 ということぐらいで、体系だったものではなく、未整理の漠然としたものにすぎなかった。
 それが「潜在意識セミナー」に数回出席するうちに、次第に思考が整理されてきたように感じている。

 そして、「自分をハグする」である。
 酒井氏によると、自分の胸を赤ちゃんをやさしく抱くように両手で抱いて、自分の名前を言い、
――○○ちゃん、愛してるよ、ほんとに愛してるよ
 とか、
――○○ちゃん、今まで大変だったね、苦労したね、でも、これからは大丈夫だよ、愛しているよ、大事におもっているよ、大好きだよ
 というように念じること、これが「自分をハグする」の具体的な方法なのだ。そうすれば、そのひとの潜在意識が活性化されて、そのひとやその周囲で信じられないような奇跡が起こるのだという。

 と記述すると、何か宗教的な秘技とか、いかがわしい呪文のように受け取るむきもあるかもしれない。しかし、そんなものではないことは、次の言葉で分かるはずである。
――何も、隣や、近くのひとを抱きなさいと言っているんじゃないですよ。そんなことやったら痴漢か、変質者とおもわれちゃいますからね。他の人じゃなくて、自分を抱くわけだから、何も怪しいことやるわけじゃないと分かるでしょう。それに、自分を抱くなんて、誰にでもできる簡単なことだし、お金も税金もかかりませんよ

 これは考えたり分析したり論考して分かることではなく、実践し体験して分かることなのだともいう。
 実際、「自分をハグする」ようになった私、相方、の周辺には、普通では起こりえない良いことや、信じられないようなふしぎなことが幾例も現れたのである。その内容については、後述したい。

 「自分をハグする」ということでは、私もそれとは違うが、それに近いことを実践してきた。
 私は亡妻を二十三年に渡って介護した経験を持っている。二十三年はそれほど短い期間ではない。
介護といえば、辛い、苦しい、大変、というイメージがつきまとっている。しかし、大変だとおもいながらの介護は本当に大変になって、辛く苦しくなって、へばってしまう。肩が凝り、腰が痛くなり、しまいには憂鬱、鬱状態がつづき、何もかにもが嫌になって、介護だけではなく、人生そのものが嫌になって、いっそ死んでしまった方がいいかもしれない、などと考え始める。

紆余曲折の末、私は弱く、いい加減で、無能力の自分というものを、そして不治の病である妻のアルツハイマー病を、加えて、世間の無理解を、要するに自分を含めたこの世の全てを認めることにしたのである。
すると私は肩の力が抜け、楽になった。なにごとも、なるようにしかならない。そのとき一番いいとおもったことを、気張らずにやっていこう、と心にきめた。そして、いつも笑って生活することにしたのである。
分析してみると、私が「自分を認めることにした」ことは、「自分をハグ(抱擁)すること」と相通じるものがあるだろう。

しかし、「自分をハグ(抱擁)する」のハグ(抱擁)には、愛するという能動的な積極性があるが、「自分を認める」には愛があるにはあるが、弱いものでしかない。
「自分を認める」は自分を救い、周囲を明るくする効果はあったが、自分や周囲に不思議な奇跡を引き起こすほどの力はなかったのである。
それは「愛」の力の違いによるものなのだろう。

ハグが来てから三日後、ハグは出ていったまま帰って来ず、何度も出て行った方向の山林の中を、どうか帰ってきてという祈りを込め、ハグ、ハグ! と大声で呼びかけながら探し回った。

私は猫好き派で、これまで七、八匹を飼ったが、そのうち三匹が家出をした。うち二匹は帰ってこなかった。家出した猫のほとんどは帰って来ない、というのが通例らしい。
五日たち八日たちして、落胆が強まったが、四十八日目に帰ってきたチビの例もあるので、内心ではまだまだとわずかな期待にしがみついていた。

熱いおもいが通じたのか、ちょうど十日目畑にいるハグとばったり出くわした。飛び跳ねたい気持ちを抑え、私は祈るように手を合わせ、天に感謝した。
新しい家や私や相方になじめず、出て行ったものの、人間の生活圏以外に、そうそう食べ物があるわけではない。飢えて、どうやら家周辺でうろついていたらしい。柿畑に捨てた生ゴミをあさったり、バッタや野ネズミなど食べて飢えをしのいでいたか、それほど痩せてはいない。

私の姿を見て、脱兎のごとく群れているコスモスの下に隠れた。しかし、私が、ハグ、と呼ぶと、ニー、と答える。嬉しさがじーんと胸にこみ上げてきた。近寄ると、密生しているコスモスの根元を移動してしまう。私は必死に、しかし、優しく、猫撫で声で、ハグ、ハグ、と呼びかけながら、身体を屈めて、コスモスの根元の間に、手を差し入れる。猫に、猫撫で声か、とふと笑ってしまう。ハグは返事はするものの、やはり逃げてしまう。大きなスズメ蜂が蜜を求めて何匹もコスモスの花から花へ飛んでいて、恐くて容易に近づけない。それに下手に捕まえようとすれば、ハグはまた山林の中へ逃げて行きかねない。山林は丘の尾根を越えて向こう側の箒川までつづいているのだ。中へ入ったら、アウトである。どうしたものか。

はっと、餌だ、と気がついた。納屋に猫缶があることを思い出し、ハグ、ハグ、と呼びかけながら、私は弾丸となって家に戻った。
おびき寄せ作戦だと、猫缶をハグの近くに差し出すが、やはり逃げてしまう。そこで、コスモスの外側に猫缶を置いて、私は少し離れた場所で、ハグ、ハグ、と呼びつづけることにした。ハグは、ニ~、ニ~、応えながら、そのうち好物の魚の匂いに気がついたのだろう。頭を出し、私の方をうかがいながら、身体をだし、猫缶ににじり寄る。そして、猫缶の魚をぺろぺろ舐めだしたとみるや、ウグ、ウニャ、ウン、ウ、ウニャー、というような声をだしながら、猫缶に頭を突っ込んで、中身をむさぼり喰い始めた。よほど腹をすかせていたのだろう。

私はほっと胸をなで下ろしたが、油断はできない。夢中で猫缶をむさぼるハグに近寄り、そっと背中を撫でる。大丈夫だ、うかがうように私を見るが逃げはしない。餌を与えたので安心したのか、何度撫でても嫌がらない。

中身を全部食べ、底まで舐め、ふっと猫缶の縁をくわえて、コスモスの根元に入っていくではないか。餌を隠し、確保しておこうとでもする行為なのか。私はハグがいじらしく、ますますいとおしくなった。
私はキャットフードがあることをおもいだし、またもや家に飛んで帰った。
今度は皿に山盛りにしたキャットフードを置き、ハグ、と呼びかけると、警戒することもなく、出てきてキャットフードを食べ始めた。
猫缶で腹いっぱいで、キャットフードは半分ぐらい食べてまたコスモスの下に入ってしまったが、私は放っておくことにした。猫缶を置いておけば、またここに戻ってくるだろう。私は安心して、家に戻った。

「潜在意識セミナー」で発表されたハグ効果に、冷蔵庫やパソコンが自然に直った、車のエンジンの故障が直った、といった類いの奇跡が数多くあったが、我が家でも壊れて使い物にならなくなって諦めていたエアコン二台が、ちょっとしたことで作動するようになったとか、水漏れするので買い換えなければならないかとおもっていた太陽光温水器がこれは少しの工夫で直った、ということがあった。
エアコンは一台十万円、太陽光温水器は二~三十万円はするものだから、修理することなく直ったことは経済的に大きい。
こんなことは私の「自分を認める」では起きない。より積極的な「自分をハグする」の愛の力だから起きた奇跡なのである。これは別に、エアコンや太陽光温水器に直接「直れ」と言ったり祈ったわけではない。ただ、私が、あるいは相方が「自分をハグする」を実践していた、愛の力で起こったことなのである。そして、これは私と相方だけに起きていることではなく、日本全国の「自分をハグする」を実践しているひとたちに共通して起こっていることなのだということも言っておきたい。

次に、家電品や生活物質ではない、植物についての奇跡について、述べてみたい。
秋の味覚である柿についての不思議な現象で、多くのひとに興味と感動を引き起こした。
我が家では裏手の斜面の畑に、今年五十本の柿の苗を植えたのだが、これまでのものと合わせて百本になった。

五月、相方のアロエ関係の友達に畑の一部をジャガイモ栽培のために貸したのだが、柿を百本にするためにこれから徐々に苗を植えていくのだと話したところ、じゃわたしにそのうちの五本をオーナーにして欲しいというので了解したのだ。するとその方は、ジャガイモの種をまいてから、一本の柿の木を抱いて、なにやら念じ始めた。何をやっているのか、早く柿の実がつくように愛の力を送っているのだという。そのときは、相方も私も面白いことやるなあ、とおもっただけだった。

しかし、柿の花の時期にその木だけびっしり成り花をつけたのだ。苗を植えて三年目だから、背丈一メートルにも満たない小さな木なのである。その時期は耕作やはびこる雑草退治に追われ、そんなこと頭の中からすぐ消えてしまった。

夏、柿の木に毛虫が這っていることに気づき、百本の木全てに殺虫剤を散布した。そのとき、例の木の成り花の元が膨らんで小さな実になっていることに気づいた。ヘー、成ったんだ、とおもったが、生育の悪い実は落ちてしまうものだから、そのときもそれほど気にかかったわけではない。
しかし、それから一週間たち、二週間たちするうちに、実が膨らみ、落ちてしまったのもあるが、数十個が柿の実として成長している。あれっ、と私のなかで驚きが生まれ、それは驚愕になり、えっ、これって凄いことじゃないか、と感嘆の声が自然私の口からもれた。
十月になって、柿がたわわに実をつけたのだが、一メートル足らずの小さな木に、一般的な蜂矢柿と同じぐらいの大きさと色つやの実が二十一個も下がったのだから、一種壮観とでもいうべき様相を呈したのである。

桃栗三年柿八年というが、柿は昨今は接ぎ木苗であることから四年目ぐらいから実をつける。三年目で百本の中でその木だけが実をつけて、しかもそれがオーナーの女性が抱いた木なのだから、女性が送った愛の力が作用して柿が実をつけたと考えるのが自然だろう。
身近なひとに話の種として提供すると、それは不思議、それは奇跡だわよ、と興味の的となり、わざわざ見にくるひとも出た。

十月の「潜在意識セミナー」の休憩時間のとき、主催者の酒井満氏と言葉を交わす機会があり、相方は何気なく柿のことを話したのだ。休憩時間が終わって、出席者のハグ体験の発表が始まったとき、いきなり酒井氏の口から相方の名が発せられるではないか。ええっ、と私はおもった。体験発表はあらかじめ根回しがあるらしいから。
突然名指しされた相方は、青天の霹靂で、何がなんだか分からないまま、壇上に駆けつけなければならなかった。

――さっきわたしに教えてくれた柿のことを話してください
 千人の聴衆を前にして、上気し、激しく胸が鳴っている相方の耳元で、酒井氏は優しくそうささやいたという。
的確かつ率なくスピーチが出来たと私の耳には入ったが、相方は自分では何が何だか分からないまま話し終えた。胸をなで下ろしていると、酒井氏はまたも耳元で、
――もっと何かあるでしょ、それを話して
 と言ったという。またしても不意打ちで、相方は焦ったが、とっさの機転で猫のことを話すことにした。「自分をハグする」を習っているので、最近もらったばかりの猫の名前をハグとつけました、といったら、会場は笑いとどよめきに満ち、
――そのハグが三日目に家出してしまったのです。それで一生懸命にハグをしていたら、十日たって戻ってきました。これもハグ効果のおかげだとおもいます
 柿のこともだが、猫のハグのことも、大いに受ける結果となったのだった。

しかし、これらは植物や動物に関することである。私がそれよりも皆に伝えたいことは、ひとの心的、精神的な分野のことなのだ。
我が家の周辺でも「自分をハグする」は、アロエ愛用者であろうがなかろうが広がりを見せている。

あるカラオケ愛好家の女性は「自分をハグする」を実践するようになったばかりではなく、友達にも伝えるようになった。この方が栃木県北地区のカラオケ発表会に出演するというので、応援に出かけた。
出番が近づくにつれて、心臓の鼓動が頭の先まで響くほど高鳴り始めた。そうだ、ハグだ、とその方は閃いたという。胸を優しく抱いてハグしているうちに、落ち着いて、舞台でスポットライトを浴びても上気しなかった。
一緒に応援していたその方の友達が、
――わたしもう何年も彼女の歌を聴いているけど、これまでで一番感情がこもっていて、上手で、ステキだったわ
 さも感心したようにいったものだ。ハグ効果はこんなところにも表れるのである。

 次は、最近アロエ愛用者になった女性Kさんの話である。
 Kさんの知り合いDさんは神経質で癇の高ぶりやすいひとで、したがってストレスの塊といってもいいような人生を送っていた。それが禍したのだろう、大腸癌を患い、手術の予後はぐずついていて、先行きを考えると不安や恐れ、怒り、葛藤で苛つき、つい周りのひと、ことに旦那さんに当たり散らしてしまうのよ、とこぼしていた。

 Kさんはハグを教えるべく、「マクドナルド」に誘った。姿を現したDさんは痩せ細って、文字通り「骨と皮」の痛々しい身体で、聞くと五十キロ台だった体重が三十数キロに減ってしまったという。
――貴方に伝えたいことがあるのよ
 と、Kさんは切り出した。何なの? と怪訝な顔をしたDさんに、こうしてね、と自分を抱いて、
――貴方もまねして、そう、優しく、赤ちゃんをだくように、そう、それでいいわ、そして、声は出さなくていいから、自分の名前をいいながら、○○、愛してるよ、うーんと愛してるよ、いっぱい愛してるよ、って言うのよ・・・

 と、突然やつれたDさんの目に涙がみるみる盛り上がり、こぼれると見るや、オー、オー、と声を上げて泣き出した。Kさんは想定外の激しい反応に、おもわず周りを見回した。日曜日の午後で客は多く、湧き起こった嗚咽に二人のボックスに不審そうなまなざしを向けるひともいたが、Kさんはそのまま見守ることにした。少しして、Dさんは落ち着いて、手で目頭や頬を拭いながら、
――自分の手で胸を抱いた瞬間、すとーんと落ちてきたものがあったの、それで胸のあたりがほんのりと暖かくなってきて・・・、今までにこんな暖かいものに包まれたことがなかったから、たまらなくなって、涙があふれたの
――あなた、ずっと辛そうだったから、ハグのこと、そう、これは「自分をハグする」っていう方法なのよ、あるひとから教えてもらったの、わたしも楽になったから、あなたにも教えてあげたかったのよ
――ありがとう、これまで自分をダメだダメだと責めに責め、痛めつけてきたから、病気にもなったし、周りにも害毒を流してきた、それじゃいけない、というおもいが急に空から舞い降りてきた感じだったわ
――わたしもハグで、もっと自分を大事にしなきゃいけないって気づきをもらったの、これからは、あなたも自分を愛し、いとおしんでね、そして明るく生きていきましょうよ
 二人はそれから、いろいろなことを一時間以上も語り合った。
そして、Dさんはやつれた骸骨に近い顔を少しだけ染めて、微笑み、何か期することがあるような表情をして、店を出ていったという。

ひょいと膝の上に跳び乗り、私の胸に顔をすり寄せていたが、体を丸め、あごを膝にのせて、ハグはゴロゴロのどをならし始めた。その耳元を指先でくすぐったりたり、頸筋を撫でてやると、ハグはますますうっとりした目をする。
なつかず十日間も逃げ歩いていたことなど嘘だったように、ハグは私にも相方にも甘えてすり寄るのである。

2017年02月11日

私の瞑想法


 布団に入って、気持ちが落ちついた頃、ゆっくりと心の中で声を出して、繰り返す。

――愛・・・、感謝・・・、歓び・・・、希望・・・

 これは、私の日々生活していく上での信条のようなものである。
以前はただ漫然と行き当たりばったりに生きていて、真面目ではあったが、いつも何かに追い立てられて、心が安まることがなかった。

これらの言葉には力がある。その力は私を癒やし、快適にし、力づけてくれる。心の中でとなえているうちに、私の気持ちはより一層静まり、落ちつき、揺るぎなくなっていくのである。

――日々あらゆる面で、私は益々よくなっている・・・、

と、繰り返して口の中で、つぶやくこともある。ゆっくりゆっくり二十回は繰り返すことにしている。そうしていると、本当に自分がそうなっているように実感できるのだ。私は心の底からリラックスし、手足がほんのりと温かくなり、そのうちに眠ってしまうことが多い。

そして、この一年ぐらい前からは、自分の胸に手を当て、

――清昭(私の名)の、心、身体、魂、を愛している・・・、

とか、

――清昭を愛している・・・、

と自分に言い聞かせる、ということも取り入れている。これは、要するに、自分を認め、受け入れ、大事に思っている、ということの表明なのである。

これらのことは、初めて聞いたひとには奇異に感じられるかもしれない。そういうひとに説明して分かってもらいたいという気持ちはあるが、説明してもなかなか分かっては貰えないだろうとも思う。

別な言い方をすると、これらのことは説明して分かることではなく、やってみてはじめて分かることだからである。頭で理解することではなく、実践してはじめて肉体で体得できることなのだ、といってもいい。

付随して呼吸ということがある。
座禅とか瞑想とかに興味があり、勉強し、実践したひとは腹式呼吸ということを学んだはずである。

私の場合は、布団に入って少ししたら、一、二、三、四、で息を吐き、息を吐ききったところで肛門をきゅっと締めるのだ。そして、五、六、と息を吸う。このとき呼吸は腹式で、吐くときはお腹を凹ませながら、吸うときはお腹を膨らませながら、空気を吐いたり、吸ったりするのである。これをゆっくりゆっくり五、六回行う。そして、肛門を締めるのはそこまでで、あとは呼吸だけ自然に続けるのだ。そして、先に述べた言葉を心の中で言い始めるのである。

どうしてそんなことをするかというと、身体にいいからである。
もう二年半ぐらい続けているが、私はすっかり健康になった。身体に痛いところもないし、風邪をひいたことすらない。

現役時代は、毎年必ずといっていいほど風邪をひいたし、半年ぐらい治らなかったことすらある。あちこちが痛み、いろいろな薬を服用し、ビタミン剤などのサプリメントを愛用したが、効いたという実感はまるでなかった。

腺病質で、胃十二指腸潰瘍で四度入院、椎間板ヘルニアで数年通院、と医者には大分世話になった。しかし、このところは医療機関を訪れるのは検診を受けるだけにとどまっている。
あるとき、ひとと話していて、

――身体だけは丈夫ですから、

 と、ふと言葉にしたことがある。
以前だったら考えられないことで、ああ、自分はそんなことを何気なく口にするぐらい健康になったんだ、と感慨があったものである。

実際、農業は肉体労働だから毎日それなりの力仕事をするが、若い頃のように疲れないし、疲れても休めば回復するのである。


私の瞑想法は、古今東西の思想家、哲学者の本を読み、そのうちの六人の思想哲学を咀嚼吟味し、私なりに解釈、色づけして、取り入れ、自分のものにしたのである。
ユング、エミール・クーエ、ブリストル、ネヴィル・ゴタード、中村天風、酒井満、がその人である。

2017年02月09日

顔に農薬を浴びた

我が家の作物作りの基本は、無農薬有機肥料による農業である。
 安心安全なものを食べたいからである。

 

 現在の家に住みつく前、半年間大田原市の私の家から今の相方の家まで自転車で通っていたことがある。八年前のことだ。距離にして約十キロ、片道五十分かかった。

うららかなある春の日、田畑が拡がる田園風景のなかを気分良くペタルを漕いでいた。

動力噴霧器で道路脇の作物を消毒している六十代ぐらいの男性がいるのが目に入った。風が少しあった。嫌な予感がして、早く通り過ぎようとしてペタルを強く踏んだのだが、次の瞬間顔に少なからぬ飛沫を感じた。男性は私の姿が目に入らなかったのだろう。何気なくホースの向きを変えたのだと思う。私は五十メートルぐらい行って、自転車を止めた。自転車を倒して、小川にかけよってかがみ込んで、流れの水をすくってはバシャバシャ顔にかけることを繰り返した。顔を手で拭って、倒れている自転車を起こして、動力噴霧器で作物に農薬を噴霧しつづけている男の方を見た。男は農薬を私にかけてしまったことなど気がついていないようだった。私は目が痛むこともないし、顔の皮膚にも異変はないようなので、そのまま自転車に乗ってその場を離れた。まともにではなく、噴霧の流れのそがれを少し浴びた程度だったと判断した。小川が近くにあったことで、すぐに処置できたことも幸いだった。男に苦情を言ったところでどうなるわけでもなく、男とのやりとりを考えると面倒で、黙って立ち去ることを選んだのだ。その後身体になんの異変もなかったから、事なきをえたのだ。ただ、農薬を顔に浴びたときの言いしれぬ不気味と怖気が、私の感覚に深く刻みこまれた。

その頃、団地の一角にある私の家の庭で、百円野菜の店を開いたことがある。相方の家で採れた野菜を並べて売ったのである。

ネギを手にした初老の白髪の女性が、
――こういうネギがいいのよね
という。泥つきの曲がったネギで十本百円にしたのだが、美味しいことは確かであっても、見た目は決していいとは言えない。女性のいわんとする意味がつかみかねていると、

――これ、消毒なんかしてないでしょう
――ええ、無農薬です
――そんな感じね、それにおいしそう

――うちの野菜は、米ぬかや堆肥などの有機肥料をたっぷり使っているから、柔らかくて甘みがあって、美味しいですよ
――わたし、農家生まれなのよ
――ああ、そうなんですか
――だから、スーパーで売っているネギなんか、買って食べる気になれないのよ
――ほう、どうしてですか
――農薬をすっごくかけるもの。実家でも、そうだったから知ってるのよ。
――・・・・
――でも、今でも実家でネギもらうのよ
――?
――出荷するネギじゃなく、お宅のみたいな農薬をかけないネギ
――それは・・・
――あら、知らなかったの
 女性の表情が悪戯っぽい色を帯びる。
――農薬がかかった野菜は身体によくないから、出荷する農家だって普段食べるものは、脇の方で別に作ってるお宅のような無農薬ものなのよ

――じゃ、身体に悪いものを出荷してるってことですか
――そういうこと。これって、このあたりの常識よ。でも、お宅のネギのようなの出荷したら売れないから仕方ないわ。売れるのはこんな曲がったり、葉に黄色っぽい枯れが入ったものじゃなく、見た目がきれいなものだもの。それこそ虫がいたりしたら大ごとになってしまうから。だから、大量に農薬をかける。肥料だって、病気にならないような化学肥料を多く使うのよ
――ふーん、そういうことなのか

 百円野菜の店は、一ヶ月半ほどでやめてしまった。あまり売れなかったからである。
それから程なくして、今の相方の家に移り住んで、田畑の仕事をやるようになったのだが、初老の女性とのネギについてのやりとりは、食の安全ということを考えるきっかけになった。
都会で生活していた頃、「自然食品の店」という類いの店をあちこちで見かけた。栃木県大田原市に移住してからも、住居の近隣にもあることにすぐ気づいた。
農薬やある種の化学肥料が人間の健康に悪影響を及ぼすということは、よく言われることである。
初老の女性との対話以後、周辺のネギ農家を自然注意深く観察するようになった。今はネギ農家も機械化されていて、畑を畝うのはもちろんのこと、育ちつつあるネギに土を盛り上げるのも、肥料を撒くのも、消毒剤を散布するのも、専用の機械なのだった。広い畑で消毒薬を撒いている場面に何度か遭遇したが、確かに女性がいったように、大量の消毒液を、ええっ、あんなに、と呆れてしまうぐらいにネギにふりかけるのである。私は見ていて胸が苦しくなるのを感じた。

 

農薬使用量や化学肥料の使用基準というものがあって、おそらくその基準値の範囲で使用しているのだろう、と思う。しかし、私の見た目には、食べ物になる作物にあんなに農薬をかけていいのだろうか、と疑問を感じないではいられなかった。確かにあれだけ農薬をかければ、虫はつかないだろうし、見た目の良いきれいな作物ができるのかもしれない。

そう感じるのは私だけではなく、農薬をかけているネギ農家の人自身さえも、それを食べないというのだから、何をかいわんやである。
以後、私はスーパーなどで野菜を買う気がしなくなってしまった。もっとも自身で作っているのだから、買う必要もないわけだが・・・。
食に対する不安が、無農薬、有機栽培の作物から作った安全食品ということをうたい文句にする「自然食品の店」が支持されるいわれなのだろう。
私が都会にいた頃そうだったように、多くの人が作物にどんな肥料や農薬が使われているのか知らずに、店で食べ物を買っているに違いない。

我が家では基本的に農薬を使わない。
農薬を使わないと虫が発生することは避けられない。ではどのようにして虫を撃退するのか。
たとえば葉もの、白菜や小松菜などには防虫ネットをかぶせて、虫がたかるのを防ぐのだ。それでも、たとえばブロッコリーやキャベツなどには虫がつく。それは、手でとる他はないのだ。

こういうやり方だから、大量生産はできない。夫婦二人で作れる範囲でやっている。
肥料も、自作の堆肥や、米糠、油かす、豚糞、などだ。
うちのものは皆美味しいと言われるが、土地が斜面で水はけがいいのと、この有機肥料のおかげだと、私は思っている。

一時は市場や道の駅などに出荷しようとしたのだが、いろいろと規制が多く面倒なので、やめてしまった。

虫がつくのは、虫が安全安心ということが本能的に分かるからだろう。

虫と同じというか、安全安心の食べ物を自身が食べられることが一番と考えている。

限られた少人数の方に食べてもらって喜ばれていたのだが、頑張って作る作物の量を少しだけ多くし、その輪をちょっとだけ増やせればと思い、畑の手入れを始めた次第である。

2017年02月06日

爆弾ジュース

花園さん、アロエ、どのくらい飲んでたの、と相方が携帯電話を持って言っている。私は傍らの腰の高さまで育ったトマトの苗や、そばの竹藪の七、八メートルになって枝を出しはじめているタケノコを見るとはなしに眺めていた。

――それじゃ足りないわよ、そんなに少なくては・・・

 トマトは二週間ぐらい前に植えたもので、もうビニールの屋根をつけなければならない時期で、二人でその作業をしている途中だった。タケノコは一ヶ月前に出たものなのだがその成長はめざましく、背丈はもう大人の竹と肩を並べていて、あとは出た枝が葉を広げれば大人の仲間入りなのだ。

――爆弾ジュースやってみなさいよ、抗癌剤をやるのよね、その前に試してみるのもいいんじゃないかしら・・・

 トマトもだが、近くにあるサツマイモもジャガイモも間もなく実をつけるだろう、とおもいながら、相方の向こうにある今年植えた柿の苗に目をやる。桃栗三年柿八年というが、最近の柿の苗は接ぎ木なので、三、四年で実をつけるのだ。今相方が電話で話している女性は、サツマイモやジャガイモが食べられるようになる頃はともかく、我が家の柿が実をつけたとしても、招いてそれを見てもらうことも食べてもらうこともできないだろうな、とおもいながら、聞くとはなしに相方の電話の声に耳を傾けていた。

 先日の午後のことである。テーブルの上の相方の携帯電話に着信があって、私が取り上げて、出向いて、庭にいた相方に手渡したのだった。相手方は花園由美子という名であることは、携帯の着信画面に表示されたのですぐに分かり、知人であることも見て取れた。

――あら、お久しぶり、お元気・・・

 快活な相方の声がすぐに、沈むのが分かった。

――それで、どこを取ったの、そう大腸、そういえばアメリカに行ったとき、あなたひどく便秘してたわよね・・・

 相方の親身になって寄り添うようないつもの声音が、悲痛な響きを帯びるのが分かる。
私は家の中に戻り、花園由美子という女性は大腸癌を手術して、なにやら相談事があって、相方に電話してきたのだなとおもいながら、二階の階段を上りはじめた。パソコンでインターネットやらメールを一通りチェックし、ワードで綴りつつある文章を少しの間練り、階下の居間まで戻った。すると、相方が携帯電話を閉じているところだった。私が庭で彼女に携帯電話を手渡してから、かれこれ一時間近くたっていた。相方の長電話は珍しいことではない。アロエ製品のネットワークを手がけているので、そのグループや仲間との連携、お得意さんの接客のためなどに、携帯電話は必需品で、長く話し込むことも多いのである。

花園由美子は近隣の市に住む六十五才のアロエのネットワークの仲間で、以前はよく一緒に勉強会などを開いていたのだが、あることがきっかけで、二人に感情的なわだかまりが生まれ、次第に疎遠になってしまった。そのうちに思い出すこともなくなって、気がつくと十年の歳月が流れてしまっていたことに、私が手渡した携帯電話の着信画面を見たときに気がついたのだという。一時は親密になり、アメリカに本社があるFLP社の視察研修旅行である「ふるさとセミナー」に一緒に出かけたこともあったほどだったのだ。そのとき花園由美子がひどく便秘していたことを思い出した。便秘は腸に悪く、放置すると様々な病気の原因になるのである。よく聞くと、まず検診で心臓付近に動脈瘤が発見され、手術でそれを除去したのだが、その治療の過程で大腸癌も見つかったのだという。すでに肝臓や肺にも転移していて、ステージ四なのだった。彼女は病気になっても相談や愚痴をこぼすひともなく、アロエ関係のグループのリーダーからはもう何年も連絡がない。ふと数年だけだが親しく交流した相方を思い出し、もしかしたら元気がもらえるかもしれないと電話したのである。

とある病院の看護師をしている花園由美子は神経質で癇性で、マイナス指向タイプで、よく愚痴をこぼしていたという。神経質な性格はストレスを溜めやすく、私の兄三人もやはり神経質で、長兄は肝臓癌から肺に転移、次兄は大腸癌、三兄は食道癌、になり、いずれも闘病の末他界している。ストレスは癌だけではなく、いろいろな病気を引き起こす元凶であると私は考えている。

まだ存命の姉ももう一人の兄も、物事に頓着しないタイプで、ある種おおらかで神経質ではないことは確かだ。私はというと神経質なところもなくはないのだが、おおむねおだやかに暮らしていて、嫌なことがあっても、次にはそこは避けて通るようにこころがけている。だから、意地が焼けたり、腹を立てたりすることは少ない。要するに、ストレスは溜めないようにしているのだ。愚痴はみっともないので、こぼさない。私はここ六年は、風邪一つひいたことがない健康体である。
花園由美子の夫は植木職人なのだが、数年前にハシゴから転落し腰骨を折って救急車で搬送された。手術は成功したが、長期の入院を余儀なくされ、莫大ともいえる費用が必要な上、夫は収入の道を絶たれた。看護師の仕事は夜勤もある激務である。そこに夫の介護と心労が重なった。医師に動脈瘤だと言われたとき、長いこと感じていた経済的不安、激務による肉体的疲労や情緒不安定、そこからくるストレスのせいだと、自分でも納得した。

相方も転移したステージ四では助からないな、と感じたという。

私にも癌のひとにはアロエを勧められないとよく言っていた。特に、アロエを飲めば癌に効くなどとは絶対に言ってはならない。それはそうなのだ。アロエはあくまでも健康補助食品であって、治療薬ではないのだから。食べ物だけでは摂れない、あるいは摂りにくい、不足している栄養素を補完して、身体の細胞を活性化し、免疫力を高めるものなのである。免疫力が高まれば、その免疫力で癌細胞を撲滅できる場合があるわけだ。アロエの大会などで、アロエを愛用して癌が消えたという体験談によく接するが、これはアロエが薬のように癌をやっつけたわけではなく、アロエが身体を健康にし、その結果免疫力が高まり、その免疫力のおかげて癌が消えたり縮小するということなのである。

前日の電話ではまだ語り尽くせないことがあり、また電話していいですか、と前園由美子がいうので、明日三時ぐらいなら、と返事したが、三時になってもこないので、やりかけていたトマトのビニル屋根の設置のつづきをやり始めていたところだったのだ。

――爆弾ジュースと言ったって、ゆみちゃん、分からないでしょ

 と相方はつづけた。

――FLP社の蜂蜜は知ってるわよね、あの容器は二百㏄ぐらいなの、あれにアロエをたっぷり入れて、そこにプロポリスとポーレンを十個ずつ入れて、よく振って混ぜ合わせるの、それを三つ用意して冷蔵庫の中に保管しておくのよ、それが爆弾ジュース、アロエ爆弾ジュースとでもいった方がいいかもね、それを、朝昼晩に飲むのよ

 私は相方と生活をともにするようになってから、朝と夕、アロエをコップ半分ぐらい、プロポリス一個、ポーレン三個、を必ず飲んでいる。相方は身体の血液は全部入れ替わるのに四ヶ月はかかるから、飲んで変化が表れるのはそれぐらいはかかるのよ、すぐに効用があるとはおもわないで、と言ったが、私の場合は二ヶ月を過ぎた頃から、明らかな変化を実感したものだ。何というか、身体の奥底から力がみなぎってくるような、とでもいったらいいのか。疲れなくなり、皮膚につやが出て・・・。

 そして、その後加えて、プロテイン、アルギニンを摂取するようになった。プロテイン、アルギニン、とも、相方と二人で月に二缶は空けている。二人とも健康体なのだから、これだけアロエ製品を愛用していれば、ますますの健康が約束されることは間違いないだろう。鬼に金棒とは、こういうことをいうのだ、と私はおもっている。相方はよく、わたしは七十代はもちろんのこと、八十代の黄金時代を迎えるのよ、といって意気軒昂なのだが、私も負けずに、九十才までは現役で執筆をつづけると宣言しているのである。

――ゆみちゃん、爆弾ジュース飲んだからといって、癌がよくなるとはいえない、でも、もしかしたら、奇跡が起きてよくなるかもしれない、よくなった例をわたしはいっぱい知ってるわ、まず、自分はよくなるって決めるのよ、そして、絶対によくなるって、念じるの、ゆみちゃん、たった一回の人生じゃない、あなた、これまで人のために一生懸命生きてきたでしょう、でも、それじゃだめ、これからは自分のために、自分に賭けるのよ、癌なのだからもしかしたらダメなのかもしれない、でも、やらないでダメだったというよりも、やってみてダメなら寿命運命だったと諦めがつくでしょ、お金が大変なら、たとえ一週間でも十日でもいいから、やってよくなる方に賭けてみるのよ

 相方の口調は熱を帯びる。ときに笑い、涙ぐみ、相手の話を聞くために、黙り、うなずき、感嘆し、相づちをうつ。そして、噛んでいい含めるように繰り返し、説得をつづけるのが分かった。話が長引くようなので、私は植えた柿の苗を見回ることにした。しばらくして、遠くからトマト畑の方を見ると、相方が身振り手振り話している姿が見てとれた。いつものことだが、心底昔の仲間に同情して、寄り添い、出来れば救ってやりたいと願っているのだなあ、と感じ入ったものである。

 夕食のとき、花園由美子との電話の話になった。

――ゆみちゃん、声を上げて笑ったのよ、電話かけてきたときには、今にも消え入りそうな声で、水鳥さん、助けて、話聞いてくれる、なんていって、泣いたひとがよ

――ふーん

――そして、何だか気持ちが楽になって、身体に少しだけど力が戻ってきたような気がするって、だれにも打ち明けて相談できるひとがいなくて、あなたに電話して、本当によかったって・・・、わたし正直転移している癌はむずかしいとおもってるけど、励ますしかないとそれこそ必死だったわ、それで一時でもいいから元気だしてもらえれば、それでいいと、爆弾ジュースを一生懸命試してみたらって勧めたのよ、まあ、経済的なことがあるから、どうなるか、一応やってみるっては言ってたけど

――あなたも、なんだか、ガハハって、笑ってたね、ハハハじゃなく

――そう、アメリカにいったとき、あのひと気難しがりやで、なんでも四角ばってやらなきゃ気がすまないから、やることがのろいのよ、それでどこかで皆は待たされていたのよ、そしたらやっと来て、いきなり、出たあ、と言うのよ、何がってきいたら、あのひと便秘で何日も苦しんでたのだけど、トイレに籠もってて、皆を待たせてたの、それでやっとうんちが出たってことなの、五十センチも長いの出たって言ったので、皆で大笑いしたことがあったのよ、わたしそのことを思い出したから、さっき途中で言ったら、あら、そんなこと覚えててくれたのって、大笑いになったの、五十センチのうんちなんて言ったら、忘れるわけないでしょ、って言って、二人で笑いに笑ったってわけ
 

私は、笑いは人を癒やす力がある、一回の笑いは癌細胞を一つ消滅させる、という言葉をどこかで読んだことをおもいだした。

 この話には後日譚がある。

 花園由美子は相方に爆弾ジュースを勧められて、父親が残してくれた金の延べ棒をおもいだした。夫の介護、自分の大腸癌、経済的不安、などに追い立てられて、それまでは金の延べ棒があったなんて頭をかすりもしなかったのだが、相方と話しているうちに、ああ、そうだ、とふと脳裏をよぎったのだ。

 父親は母が病死した後間もなく再婚したのだが、花園由美子は母を裏切り捨てたと憎んでいて、それもストレスの一因だった。しかし、その父親が死の間際に彼女を呼んで、何か困ったことがあったときにこれを売って用立てろと、金の延べ棒を手渡してくれたのだ。そのことをおもいだしたのである。

 花園由美子は押し入れの奥にしまい込んでおいた金の延べ棒を探し出すと、やはり看護師をしている娘に、相方に電話で爆弾ジュースを勧められたことを話したのである。娘は、それはやってみるべきよ、とすぐに賛成した。娘は病院を休み、母親である花園由美子の面倒をみていたのだった。娘はさっそく換金してきてくれ、すぐにアロエジュースとプロポリス、ポーレンを買えるだけ注文してくれた。

――あなたにいわれたように爆弾ジュースを作って、飲んだのよ、
そしたら、すぐに身体の底からかっかっかっかと熱くなってきたの、こんな感覚ってはじめてだったわ、そして、身体に力が戻ってきたような感じがする・・・

 そう相方に言ったという。もしかしたら、もしかするかもしれないわよ、と相方は嬉しそうに言ったが、そうかもしれないが、そうそう奇跡が起こるはずもなく、ゼロだった確率が、ゼロではなく、一二パーセントに上がったにすぎないだろう、と私はおもった。しかし、相方の電話は花園由美子というひとに生きる希望を与えたことは確かだ。

 相方はいつも、なにかにつけて親身にならないではいられない人で、よくこうした人助けをするのある。

2017年02月04日