亡妻を介護していた初期の頃は、アルツハイマーという不治の病でいずれは死がきて別れなければならないという悲壮感ばかりがあって、先のことは見通せず漠然とした不安におののいたことを覚えている。
当時ライフワークと位置づけて精魂を傾けていた小説を書くことを諦めた。私にとって小説の文章を書くということは独特の緊張感が必要で、介護しながらではその緊張感の持続は不可能で、無理と判断したからである。ただ、日記を綴る感じのエッセイの文章ならその緊張感はいらないので、気軽に書きつづけることにしたのだった。
しかし、本当に書きたいのは小説だという思いずっと持ちつづけた。そして、どういう形かは分からないがいつかは小説が書ける日が訪れるに違いないとも思っていた。いずれは確実にくるだろう妻の死ということが念頭にあったことは事実だが、意外な形でその日がやって来た。
妻が言葉を無くし、自ら動き回ることが出来なくなり、要するに寝たきりに近い状態になったからだった。言葉を無くしても言葉ではない対話は可能なのだが、表情を読み取るというような限られたものでしかない。また、動き回って目が離せないということもなくなった。世話といえば食事や入浴、トイレの介助だけであり、これも介護保険で介護ヘルパーにある程度任せることが出来るのである。要するに、それ以前は妻の世話にかかりきりだったのだが、寝たきりになったことで、すこしだけだが、私は自分の時間が持てるようになったのである。この寝たきり状態は約10年つづいた。
ある日、ヘルパーに妻を託し近所のスーパーで買い物をしてから本屋に立っ寄った。地方の出版物コーナーを眺めていると、「文芸栃木」という雑誌が目についた。手に取ってぺらぺらめくっていると、「文芸賞募集要項」というページが目にとびこんできた。
その年はとりあえず原稿用紙7枚以内だったか、エッセイに応募することにし、「涙」という作品を数日かかって書き上げた。選考委員の好みも影響するだろうから、当選は無理でも最終選考に残ればいいとおもったのだが、意外にも1位で当選しエッセイ部門の文芸賞を受賞した。
次の年には小説に応募すべく原稿用紙100枚以内ということで書き始めた。小説執筆は20年ぐらいの空白で、勘が鈍っていないか不安だったが、筆はとどこおりなく進んだ。二ヶ月ぐらいかかって書き上げたが、エッセイの当選作が掲載された「文芸栃木」を確かめてみると、小説の応募の枚数が変更になっていて50枚以内とある。いくら自分の時間が持てるといっても、新たに50枚の作品を書くには時間が足りなかった。結局次の年に100枚の作品を50枚に短縮して「野火の女」と題して応募した。作品に手応えは感じていたが、これも最終選考に残ることを目標にしたのだが、柳の下に二匹目の泥鰌がいたのである。エッセイにつづいて小説も当選という快挙を達成したのだった。
しかし、嚥下力が衰えていた妻がヘルパーの介助で食事をとっていたとき、食べ物が喉に詰まってしまったことが原因で亡くなった。23年間の介護だった。小説の授賞式のときには私は独り身になっていた。
小説が思う存分書ける境遇になったわけだが、配偶者を無くした喪失感は生半可なものではなく、私は精神的に、真っ暗いどん底の泥沼を這いつくばるような日々がつづいた。小説を書くどころの話ではなかった。なんとか立ち直るためには二年の月日が必要だったのだ。
妻が亡くなって半年たったころ、私の状態をおもんぱかってくれたのだろう、友達がきて盛んに女性がいるところ、要するにスナックとかカラオケとか、趣味の集まりとかだが、出て気晴らしするように促してくれた。
――どこそこにはいい女がいるぞ
そんな言い方だったのだが、とてもそんな気にはなれなかったが、その言葉は私の脳裏にこびりつくように残った。
ときに、なんということもないふとした拍子に涙が滲み、そのうちに溢れ出て止まらなくなってしまう、ということがつづいた。更に半年ほどたったある日、友達の言葉を突然ありありと思い出し、
――妻は亡くなってもういないのだ、いつまでもめそめそ泣いていても仕方ない、いくら泣いたところで妻は戻ってはこない、このままでは自分がダメになってしまう、こんなざまを妻だって喜ばないだろう、私も人生を終了にしてもいいのだが、簡単に死ぬわけにもいかない、やはり生きていかなければならないのだよ
と一人ごちた。そして、おもった。
――スナックに行って行きずりの女性と酒を飲んでも、ダンス教室でダンスを習っても、ハイキングサークルで山に行っても、私にとっては癒しにも、気晴らしにもならない
――生きていかなければならないのなら、気晴らしや遊びではなく、持続的に一緒に生活を共にする、パートナーがいた方がいいのではないか
そう心の中でおもって、何度かそのおもいをなぞっているうちに、そうしょう、という気持ちが強くなった。
それから数日だったか、十日ぐらいだったかは覚えていないが、行動を起こすのにそれほどの時間はかからなかった。私は一旦方向性を決めると逡巡することなく即実行するタイプである。
まずはインターネットの出会いサイトで相手を探したが、肉声ではない会話に限界と疑問を感じ、次いで電話帳で結婚相談所を探し出し数万円を払って登録した。
登録したその場で、世話役の女性が、私の経歴書を見て、あなたにぴったりのひとがいるんですが、と言われ、見合いが内定してしまったのには、さすがの私も戸惑いをかんじた。そんなに早く事が運ぶとは予想していなかったからである。
その相手とは二度会って話をしたところまではいい感じだったのだが、三度目に私の家に招くと、女性の態度が豹変した。私の家財道具にケチをつけたあげく、
――あら、こんな小さな家だったの、ここに二人で住むのはちょっとね
と、言い放ったのである。おやおや、見合いの相手の家にケチをつけるんだ、と呆れた。これが私の気持ちを冷やす決定打となった。私は彼女がとある市の市営住宅に住んでいることを知っていた。
――ほう、でもあんたは賃貸しだろ、これはいくら小さくたって持ち家だぜ、それにあんたが国民年金だということをオレは知ってるよ、パート勤めってこともね、でも、オレは共済年金で、国民年金の人の3倍はをもらってるぞ
そう、口から出かかったが、黙っていた。
次の日、結婚相談所の代表者に私から断りの電話を入れた。
次に、私から見合いを申し込んだ女性には、私が車を持っていないことを理由に断られた。車のあるなしで相手を判断するなんて、人格がいかにも軽いではないか。断られてよかったとおもったものである。
結婚相談所のハーティには3回しか出席しなかった。2回目だったか、パーティの後のカラオケに行ったとき、ある女性に抱きつかれたのには驚いた。要するに色仕掛けである。酔った勢いなのだろうが、風邪をひいているらしく咳をしながらだったので閉口した。咳をしたとき、その飛沫が私の顔にかかったのだ。私はすぐさま女性をどけて洗面所に駆けつけ顔を洗ったものである。他の人に聞くと、その女性は今までにも何人もの男性に同じようなことをしては断られていたという。私も丁重に断ったが、あとで私の言動のあれこれをあげつらう苦情を結婚相談所に申し立てたというが、結婚相談所では私にその旨知らせてくれただけだった。
私は数ヶ月で結婚相談所を退会することが出来た。現在の同居人である相方に出会ったからである。結婚相談所のパーティからの帰り道で偶然彼女に出会ったのだから、ある意味結婚相談所に登録したことがよかったといえるのである。結婚相談所に登録しなければ、そこには行かず、相方に会うこともなかったからである。私は見合いをした相手と破談したとき、なんのこれぐらい、少なくとも20人とは見合いしよう、それで相手が見つからなかったら、そのときは諦めて一人で生きようと自分に言い聞かせていた。そういう強いおもいが結婚相談所からの帰り道での彼女との出会いを引き寄せたのかもしれない、と今にしておもう。
ともあれ彼女は大きな家を持っていたが私の家を小さいなどとは言わなかったし、私が車を持っていないことなどふれもしなかった。もちろんいきなり抱きついたりもしなかった。自分のことしか考えていない風な結婚相談所で出会った女性とは違って、私がうつむき加減なのを見てとって、この人を元気にしてやりたいと思ったという。
彼女に出会ってから生活が一変した。
間もなく、荒れ果てた彼女の家の周囲や山林の手入れに通うようになったからである。それまでは分譲団地内を散歩するぐらいがせいぜいだったが、朝自転車で片道50分かけて行き、山林の生い茂った篠や蔦、雑草などを刈り、夕方自宅まで帰るという生活を始めたのだった。彼女所有の土地は4haと広く、荒れた部分は2haぐらいはあった。全て征伐するのには半年かかった。
どうしてそういうことになったのかというと、何度目かに訪れたとき、彼女が刈り払い機のエンジンを背負い、家の裏手の斜面の雑草を這いながら刈っていく様を目撃したからである。ご存知のように刈り払い機はエンジンでノコギリ歯を回転させる危険な道具といえる。それで急斜面の雑草を刈るのだから、まかり間違えたら大事故になりかねない。彼女が駆使するノコギリ歯が斜面をバウンドするようになるたびに、私は肝を冷やした。
――女手一人で、いつもこうやってたわけか、これはなんとかしてやらなければならないな
と私はおもった。
――お金に余裕があれば、シルバー人材を頼んで刈ってもらえるのだけど
そういう彼女に、私は、
――それじゃ、私がお抱えシルバーになってあげるよ
と言った。
――そう、ありがとう、じゃ、わたしはあなたの何になったらいいかしら
――そうねえ、メイド喫茶のメイドにでもなってくれればいい
――ハハハ、それじゃ、メイドになって、一生懸命美味しいもの作って、食べさせてあげるわ
冗談めかして、そんなことを言い合って、彼女の家に通い始めて三ヶ月ぐらいたったとき、同居することに決め、猫二匹を連れて今の家に移り住んだのである。
彼女の長男夫婦が一緒に住んでいたとき、家を新築しその後離れを建てたというが、母屋は約60坪、離れも約40坪ある。長男夫婦が家を出、間もなく私が入ったわけだが、二軒の家の維持費は相当かかる。二人の年金では心もとない。
費用捻出のため、私はいろいろ試行錯誤したものである。
まず初めに採れた野菜を、大田原市の私の家の庭で売る「百円野菜の店」を開店した。当初は一日4000円売り上げて好調だったが、次第に売れなくなり、一ヶ月半たったとき、1日100円しか売れない日があって、閉店した。一段高い高台のような場所にある出入り口が少ない閉鎖的な分譲地で、顧客が限られているので売れなくなるのは当然と言えば言えたが、
――開くのも早かったけど、閉じるのも早かったわねえ
と、彼女はわらったものである。
次に手掛けたのは、竹藪と篠藪にある孟宗竹や矢竹に目をつけて、ネットショップで販売することだった。矢竹は横笛製作に使われるとネットにあったので、横笛愛好家向けにと思ったのだ。松の木で組み立てた大きな干し台で三ヶ月かかって矢竹を干したのだが、全く売れずネットショップは開店閉業となってしまった。
採れた野菜を出荷するべくいくつもの農産物直売所に出向いたが、全て断られた。田舎には新参者排除の土壌が色濃く根付いている。新参者が入ると既存の会員の売れ行きが悪くなるからというのがその理由だった。数年前にやっと「ゆうゆう直売所」に出荷がかなったのは農村の高齢化で、会員が亡くなったり病気で出荷できなくなった人が何人も出て、空きが出来たからである。
東京で整体院を開いている彼女のすぐ下の妹さんの好意で、整体機器を発送手数料を含め一台一万円という破格の金額で何十台も納屋に保管させてもらったこともある。これは助かった。
とある学者の収集物を半年ほど預かって母屋の二階に保管してなにがしかの保管料を頂いたこともある。
民宿の許可をとって開業をと保健所に出向いて説明をうけたこともあるが、当時の審査基準は厳しく、廊下の幅が1.5m以上という最低基準をクリアできないことが分かって諦めた。ただ、親戚、友人知人対象なら許可はいらないというので、つてを頼って宿泊客を集めた。
そして、3年前大田原ツーリズム社の仲介で農家民宿の営業許可を取り、農泊ツアーの小中高生を受け入れるようになったのである。昨年からは、農泊ツアーだけではなく、宿泊予約サイトに登録して、一般のお客さんにも泊まっていただけるようになった。
それから昨年キャンプ場を開設した。これは私も相方も高齢の域に入って、農泊ツアーも一般のお客さんの受け入れもいつまでもは出来ないなと感じたからである。
お客さんのための食材の買い出し、調理、布団の上げ下ろし、洗濯物布団干し、などやることが多く、加えて農泊ツアーの場合は入退村式会場までの車での送迎まであるのだ。これは高齢者には過重で、昨年の5月の連休にはお客さんが一杯入って収入にはなったが、二人とも慣れないこともあって疲労困憊してしまったのだ。
これがキャンプなら土地を貸すだけで、食事の用意も、布団の上げ下ろしも送迎もない。ただ、チェックインのときや農業体験希望の方の応対をするだけでいいのである。これなら二人がかなり高齢になるなるまでできるだろう、との判断で私が企画したのだ。
昨年の10月キャンプ専門の予約サイト「なっぷ」に登録したところ、予約が劇的に増えた。それまでは農園内に道路を作るのに建設会社に依頼しただけで、あとはほとんど私の手作業で整備してきたのだが、最近重機に入って貰い、新たな道とキャンプの区画を増設した。キャンプサイトの面積も区画も倍増したのだが、5月の連休にはその区画の予約が全て埋まってしまったのには驚いた。現在はキャンプブームだとは聞いていたが、それを実感している。
振り返ってみると、百円野菜の店から始まって、実にいろいろなことを試してみたものだな、とおもう。竹販売のネットショップまでは労力ばかり費やすだけで上手くいかなかったが、農家民宿あたりから「つき」がきて、やることの歯車ががっちり噛み合いだした感がある。
現在は重機に入って貰ったあとの仕上げをしている。重機は土地を削って平らにしてはくれるが、木や竹の根を全て取ってはくれない。ちぎれて地から出ている根は多く、それは刈り払い機で刈らなければならない。根が太ければ刈り払い機では切れないからノコギリで切る他はないのだ。重機で削って作った道路にしても、砂利は敷かなければならない。また、曲がり角などは車がスムースに曲がれるように角を手作業で削らなければならない。仕上げの仕事は結構あるのだ。
しかし、重機の能力はは抜群で、人が入れなかった場所を安々と開墾し、雑木林を縦断する道路を作ってくれた。
来てくれたお客さんは皆さん見晴らしが素晴らしいとか、星がきれいだったと喜んでくださる。
――ネギを取っていいなんて嬉しいです
農園ならではの収穫体験も好評だった。
アメリカからのうら若い女性は、樹木も果樹園もいい香りがただよい、農園内はとても美しいとレビーを書いてくださった。カナダから来た若いお客さんは、やまびこを教えてあげると、丘の上で、両手を広げ、大声で、
――ジャパン、ビューティフル、ジャパン、ワンダフル !
と叫んだものだった。
そんなことを思い出しながら、手入れのために丘の上に上ると、少し前までは雑然としていた樹木が整理されて、整然と林立している感じで気分がいい。相方は二十年以上も前、五百人が集う集会で、
――私の夢は裏山を憩いの丘にすることです
と、スピーチしたことがあるというが、先日、丘の上から周囲を見渡し、しみじみと、
――長い時間はかかったけど、夢が現実のものになったわ、これは憩いの丘よね
と言ったものである。
私にしても、都会に出て間もなくの頃、
――これは違う、都会は人や物が溢れ混みすぎて、安らぎがない、いつかは田舎に帰ってゆったりと暮らしたい
とおもい、それから50年余がたっているが、やはりおもったことはいつかはかなうものなのだな、と感じている。
私は当年75才と高齢だが、ここに来た10年前にはぽよぽよのひ弱な身体だったのが、筋肉質の頑健といってもいい身体になったのは、健康については専門家といってもいい相方の作る健康食を食べ、理想的自然環境の中で肉体労働に明け暮れているからだろう。
昨年の9月頃だったか、テレビ朝日の担当者からメールが入った。
――「人生の楽園」という番組を担当している者ですが、柿農園のホームページを拝見しました、取材をさせていただけないでしょうか
というものだった。それからしばらく連絡がなかったが、先々月電話が入って、5月の連休の予約状況やタケノコがいつ頃出始めるのか、聞かれた。
――キャンプは満杯の予約です
――満杯とはどのくらいなんですか
――35区画ですから、一日100人以上は来るとおもいます
――それは大人数で凄いですね、タケノコは
――昨年は4月5日~5月15日ぐらいまでタケノコ狩りができましたが、今年は温かいのでもっと早まるかもしれません
――そうでしょうね、撮影は5日間入らせていただきます
3月に入ったら打ち合わせの電話をくれるというので、待っているところである。
偶然の成り行きで、相方の家に入り、若い頃抱いた田舎暮らしという願望が叶ったわけだが、開拓まがいの労働を10年余つづけ、キャンプ場を開設したことによって、荒れ地同然だった裏山が整然とした公園のような「憩いの丘」に生まれ変わり、私と相方の「人生の楽園」になったのだとおもうと、感慨深いものがある。
いろいろ一生懸命に試行錯誤した甲斐があった。また、生きていてよかったと改めておもうのである。