自分にいい暗示をかける
振り返ってみると、おもったり、考えたりしたことは、その通りになっていることが分かる。
例えば私は妻と一緒になるとき、
――この人と添い遂げる
とおもったが、アルツハイマー病になり長い介護になったがそのおもいは変わらず、23年という長い介護を全うし、大田原赤十字病院で最期を看取った。最初の添い遂げるというおもいは終始変わらず、そのおもいは現実のものとなったのである。
若い頃は漠然とした都会への憧れがあり、東京消防庁に就職し、練馬区の三畳間のアパートに入って生活しはじめたとき、夜中まで窓の外が周りの電灯で明るく、また車や何らかの物音が絶えず聞こえ、それに慣れることが出来ず、じきにこれは違う、とかんじた。田舎は夜は暗くなり物音がしなくなるのが普通だったからである。
それから青山南町の消防庁寮に移ったのだが、そこは更に喧騒に溢れていて、私のストレスは頂天に達した。通勤の途上の電車の中で気がつくと吊革にぶら下がるようにして眠っていることがあって、腰痛も出てきた。身体の不調をかんじ、東京警察病院で診察を受けた。後で誤診だということが分かったのだが、鉄欠乏性貧血との診断で、腰痛の痛み止めの注射を腰に打たれた。結果的には胃十二指腸潰瘍だったのである。
この頃から自分には都会は向いていないとおもい始めたが、都会生活は三十年以上つづいた。いつか田舎に戻りたいとはっきりおもい始めたのは、妻の介護のために退職して教師生活にピリオドを打ってからからだった。
六十才になる少し前、新聞を見ていると還暦世代優遇ローンだったか何だか忘れてしまったが、要するに六十才以上を優遇する住宅ローンの広告が目についたのだ。おや、そんなものがあるのか。さっそく栃木県の足利銀行のホームページを紐解いた。やはりあった。
その頃、妻の介護をろくに手伝わない子供たちにいら立っていた。障害者手帳一級を取得し、介護保険と合わせて誰の手助けがなくとも妻を介護する態勢は整えていたが、心の隅にはもう少し家族の手助けがあればなあ、という気持ちは捨てきれずにいた。しかし、子供たちは私の気持ちなど理解しようともしないように見えた。そのくせ私には過大な期待をしている。六十才を越えたら私は自由に生きる、と心に決めた。子育てはもうとっくに終わっている。子供は子供、親は親、もう子供には縛られたくない。そうおもった。
足利銀行からいくら借りられるか、足利銀行の優遇ローンのページを詳細に調べた。私と妻の合算の年収が基礎になり、返済は79歳までに終わらなければならないので、最大19年返済になる。約1千万円借りられるようだ。そこまで調べてから、足利銀行の融資の担当者に直接電話して確認した。私の解釈に間違いはなかった。結果的には850万円の融資を受けた。
栃木の友達に電話して、土地を見て欲しいと頼んだ。インターネットで土地の目星はつけておいた。那須塩原市の実家近くは除外した。いろいろしがらみがあるので煩わしい。新幹線の那須塩原駅近くの100坪300万円、大田原市富士見の50坪300万円、大田原市大和久100坪250万円、などなど。実際に下見してくれた友達によると、新幹線近くの100坪と大田原市大和久100坪は広さはいいが不便だという。大田原市富士見は分譲地の中にあり、スーパーやコンビニが歩いて10分程度のところにあるという。当時住んでいた神奈川県秦野市の自宅は、敷地が42坪しかなかった。田舎では50坪は狭いとおもわれるようだが、私は十分だと踏んだ。予算も限られている。上下水道が完備していることも決め手となった。他の二つは100万円近くはする合併浄化槽を設置しなければならないが、ここは直接下水に流せるのだ。
土地の購入を決め、建築業者を田舎の甥に紹介してもらった。ここまで子供には内緒で進めた。そして、
――栃木に家を建て、息抜きに月2回ほど行きたい
と、娘に言った。どう反応したかは覚えていない。
それから半年ほどして栃木の家は完成に近づいた。私は一時たりとも手を離せない介護の身なので、業者まかせでそれまで一度も見に行くことは出来なかった。業者は不安を感じたようで、
――棟上げのときは都合をつけてぜひ現地においでください、一度は見ていただかないと
と言った。娘に妻を預け、現地に出向いた。
バス停から歩いて10分、閑静な分譲地であることも、小さいながらもしっかりした骨組みの家にも満足した。完成後は二週間に一度、妻を娘に託してそこに行って一泊した。
介護自体は「楽しく介護する」と標榜していたので、その言葉通りでつらいとはおもわなかったが、四六時中手が離せず、娘を頼まなければどこにも出かけらないことがつらいといえばいえた。二週間に一度にすぎないが、神奈川から離れて自由に羽ばたくように栃木に行けて一泊できたことは今振り返ってみても至福の時間だったとつくづくおもう。
夏休みの時期に介護タクシーを頼んで、一ヶ月滞在の予定で大田原市の家に出向いた。ストレッチャーに妻を乗せて、四時間以上かかってやっと到着した。
あらかじめ依頼しておいた介護ヘルパーが、次の日から来てくれた。神奈川と比べて道は広く、歩いて二、三分のところに公園もあって、神奈川と違い妻を抱えて散歩させるのも何の気兼ねなく出来た。小さくとも居間は17畳ある。これは雨の日に妻を歩かせるため広くとったのである。
一週間生活して、神奈川には帰らず、栃木に居つづけることに決めた。第一の理由は介護タクシーに乗せて神奈川と栃木を行き来するのは、妻に負担が大きすぎるとかんじたことだ。妻をストレッチャーに載せてベルトで固定しての四時間余にもわたる移動である。痛ましすぎる。それに、介護は病人にも介護人にも、自然環境がいい栃木でするべきだ、とおもえた。電話すると二人の子供はそれぞれに強い言葉で私を非難した。何と言われようと、私は反論しなかった。しかし、私の決意は固かった。心の中で、
――俺は俺で生きる、お前たちの世話にはならない、お前たちももう俺を当てにせず、自分で生きろ
そう呟いていた。
3年後妻が亡くなって、兄の勧めに従って、淋しさをまぎらわせるために、当座は十日に一度ぐらい神奈川に出向いたが四、五度ぐらいであとは次第に足が遠のいて、そのうちに行かなくなってしまった。ある親族の連帯保証人になったがために神奈川の家がなくなってしまったということもあるが、現在の同居人と知り合い、やがてその家に移り住んだことが大きい。
そして現在は全く神奈川に出向いていない。そうなってから、もう五年以上はたつ。
田舎に戻るとおもい考えたことは完全にその通りになったことになる。
ここまで書き綴る途中で、興味深い出来事が起こった。
というのは相方の妹さんのことだ。お腹がしばしば痛み、それもかなりな痛みだっだのだが、我慢して仕事をしていたのだという。しかし、先日七転八倒するような痛みに襲われて救急車を呼んだのである。検査を受けると、胆嚢に胆石があって、胆管に詰まっていたのだった。
これまで病気らしい病気をしたことがない気丈な方だった。私と相方が一緒になったことを初めに喜んでくださった方で、何度もお会いしているが、勝ち気で気が強いという印象である。整体院を開いていて、私も腰を痛めたとき施術を受けたが、主として肘を使って身体の各部に圧を加え、筋肉の凝りを取って、身体のバランスを整えるという独特のやり方なのだった。1時間半にも渡る丁寧な施術で、私の腰痛はぐっと軽くなったものである。
胆石を取る手術を受けると聞いて、当然当分は整体も出来ず、弱ってしまうだろうな、というのが私の感想だった。彼女は私よりも二つ年下だから七十代に入っている。七十代になれば肉体的な衰えは否めず、多くが病気をきっかけとしてぐっと弱ってしまうのである。相方は、他の二人の妹と見舞いに行く相談をしていた。
ところが、である。
見舞いになど来る必要はない、という。そして、手術を早めて貰い、明日に決まったという。ええーっ、と相方は驚いて、それでは手術が終わって適当な日を選んでの見舞いにしようと他の二人の妹と電話で相談をし直しはじめた。
私もそういう方面には疎いので詳しくはわからないが、手術といっても一昔前とは違って、メスで切り開くというのではなく、口から内視鏡を入れて、胆管まで差し入れて何らかの方法で取り除くのかもしれない。例えば石を砕いてしまうとか溶かしてしまうとか。
そうこうしているうちに、なんと手術当日の夕方、本人から電話がかかってきたのだ。
――手術終わったわ
ええーっ、と相方は驚いて、
――もう? それで大丈夫なの
――平気よ、明日退院することになったわ
――ええっ、だって手術したばかりでしょ、本当なの
――ホントよ
――でも、術後は経過を見るから退院は三日後になるって言ってたじゃない
――それも早めてもらったのよ
――そんな・・・、
相方は絶句してしまった。すると、
――姉ちゃん、ワタシ病気なんかじゃないから、たかが、胆管に石がつまっただけじゃない、その石を取ったら、終わりよ、病院なんかやることないから退屈で退屈で、居られないわよ、主治医に頼んだわ、整体の患者さんが待ってるから、早く退院させてくださいって、そしたら、経過をみないとというから、これだけ元気でぴんぴんしているんだから大丈夫よ、といったら、三食食べて何事もなければ退院してもいいです、これは病院の決まりなんですという。だから、夕食もう食べたわ、あと二食、明日の朝と昼食べて、明日の午後にはワタシ退院するわ
相方はあっけにとられて聞き入るばかりだった。
手術の前の日、相方が妹さんとスマホでの話の途中で、私に何か言ってやって、とスマホを手渡しされたのである。もしもし、大丈夫ですか、ととりあえず言ってみると、
――いや、酷い目にあいました
と言うが、とても病人とはおもえない明るい張りのある声なので意表をつかれた。あ、この方めげてはいないな、と瞬間的にかんじた。酷い目というのは、お腹が痛くて七転八倒したことをいうのだろうが、それはもう過去のことになっていたのだろう。
普通は胆石があると医師にいわれただけで、精神的に打撃を受けて、すっかり打ちのめされて、重病人になってしまう例が多い。それがたかが胆石だととらえ、取ってしまえば終わり、という。強いな、と私はおもい、感銘を受けた。
後日譚である。
救急搬送されて手荷物だけは連れ添いに持ってきてもらったものの、見舞いは辞退、聞きつけた数人が病室を訪れたが見舞い金の熨斗袋は全て返したというし、退院後タクシーを使おうとしたのだが、丁度病院前のバス停にバスが止まっていたので、そのバスに乗って帰宅したという。
何という気丈だろう。
そして、極めつきは、退院した翌日に、はや整体のお客さんを受け付けて施術したというのだから恐れ入る。相方が心配して電話してもいつも通りの明るさで、応対し、
――だって、あなた手術のとき麻酔したのでしょう
と、相方が言うと、
――それはしたわよ、でも、一日すれば麻酔なんか覚めるわよ
と平然と答えたというから、痛快というか、あっぱれと言う外はない。こうなると豪傑である。
――たとえ肉体が病むとも、心まで病ますな
言い回しは少し違うかもしれないが、私が敬愛する哲学者中村天風の言葉である。
凡人は肉体が少しでも具合が悪くなると、めげてしまい精神的にまいってしまい、ますます具合が悪くなってしまうという例が多い。相方の妹さんは中村天風を知っているかいないかわからないが、天風がいうところの真理を身をもって実践しているといえる。
なぜ凡人が具合が悪くなると精神的に落ち込んで更に悪くなってしまうのかというと、自分で自分に悪い暗示をかけてしまうからである。
人に暗示を働きかけるものは、言葉、文字、行動、現象、などがあるが、要するに凡人は、胆嚢に石が出来てしまったということは大変なことだ、悪いことだ、更に悪くなってしまうかもしれない、というような自己暗示をかけてしまうのである。つまり自分で自分に悪くなるという暗示をかけているのだ。
しかし、秀人は肉体が病んでもそれを更に悪くするような愚は犯さない。言葉は特に強烈な暗示力を持っているのだ。例え肉体が病んでも、秀人である相方の妹さんのような人は、胆石という凡人なら怖れる病気でも平然として、胆石がただ胆管につまっただけじゃない、ワタシ病気なんかじゃないから、見舞いに来る必要なんかないわよ、と言うのだから、これは自分で自分に強いプラスの暗示をかけているのである。病気が快方に向かい、治ってしまう由縁である。
当文の当初の意図は、人がおもったり考えたりしたことはその通りになるということを、私のこれまでの半生のうちの幾つかの例を挙げて、実証したいと書き進めたのだが、その途中で相方の妹さんの話が飛び込んできたのである。
衝撃的ないい話だったので、これは皆さまにも披露した方が、私のことなんかよりいいかもしれないと、方針を転換して記述した次第である。
私のこの人と添い遂げるというおもいがそうなったのは、一貫終始自己暗示をかけつづけたからだし、田舎に戻るということも同じである。
相方の妹さんも重病にもかかわらず、自分は病気ではないと暗示をかけて克服してしまったのだ。
要はいい暗示をかければよくなるし、先の凡人のように悪い暗示をかければ悪くなってしまうのである。それが真理である。