ブログ

サイト管理人のブログです。

いいね! していただけると、励みになります。よろしく~(^_^)

柿農園の日々

歓喜

 小雨が降っていた。午前中から本を読んだりYouTubeを見ていてずっと座り放しだった。

 身体を動かそうという気持ちになって、気になっていた作業をすることにした。キャンプサイトへの道の上り口に砂利を敷くことである。土建屋さんに設置してもらった生コンの先の急坂に、私が車の轍分の幅にコンクリートを入れたのだが、土を掘ってそこにコンクリートを流し込んだだけだったので、車が何台か通っただけで砕けてしまったのである。それでも車の滑り止めにはなっているので用は足りているのだが、見た目もよくないし、より完全で安全になるように砂利を入れたいと思っていたのだが、忙しさにかまけて数か月もそのままにしていた。

 外に出てみると、幸い雨はほぼやんでいた。丘の中腹にあるトイレの隣に積んである砂利を、そこまで往復して5台運んだ。

 相方は人生学習塾である「酒井塾」出席のために、埼玉に出かけていた。時計を見ると4時半で薄暗くなっている。7時頃に帰宅するのだ。彼女が酒井塾の時にはほぼカレーライスを作ることにしていた。一輪車を置き、坂のコンクリート部分から畑に降りて、ニンジン畑のニンジンの列を物色していると、中でふさふさした大きなニンジンの葉が目についた。葉の根元を見るとニンジンの頭の部分が見え、いかにも大きそうである。私はその根元の茎の部分を両手で掴み、ぐいとひいて抜きにかかる。手ごたえがあって、土のついた大きなニンジンが姿を現した。

 長さ20cmちょっとの大きなニンジンである。頭の部分は直径5cmぐらいはある。カレーに入れるのは、この一本で十分だ。薄暗くなっていても、色もよく、いかにも美味しそうだ。なにやらそこから後光がさしているかのようで、見入っているうちに、目に異変をかんじた。同時に、心臓の後ろのあたりがふわっと温かくなった。いろいろなおもいが蛍の光のようになって私のこころに矢継ぎ早に浮かんではかすめていく。

――いいニンジンができたなあ、きれいだなあ、力強いなあ、天の恵み、有難いなあ

 私は嬉しくなった。手や足も温かくなってくるのを覚えた。

 ここ二、三日読書やYouTubeを見て過ごしていた。

 相方から勧められたジョー・ヴィターレ「奇跡を起こす目覚めのレッスン」
を二度読んだ。YouTubeで「マーフィーの法則」2時間50分のものを何回かに分けて見た。天風会の講演1時間50分のものは一気に見た。いずれも潜在意識に関するものである。人が思い考えたことは潜在意識に入り、その通りに実現される。否定的に思い考えるとその通りになるから、願いは叶えられない。そういうことが分かりやすく説得力を持って述べられていた。また、感謝ということの重要性も繰り返して言われていた。私は感動を持ってそれらを読み、映像で見ていたので、感情的にかんじやすくなっていたのは間違いない。

 前の晩、神奈川県にいる娘としばらくぶりにメールのやり取りをしたこともあって、亡妻のことも脳裏をかすめ、

――妻には世話になった、長い介護だったが、そのおかげで自分は成長できたのだ、ありがとう、しばらく神奈川に行っていないが、これからは年に一、二度は行くことにしよう

 「目覚めのレッスン」には、感謝することを紙に列記すると効果がある、とある。あなたは神ではないが、あなたの中に神はある。あなたは神にはなれないが、神と一体にはなれる。感謝の念を抱いたときが神と一体になれるときなのだ。そのとき歓喜がくる。また、自身の能力が最大限に発揮できるのだ。そうあったのである。

 私は感謝している人や事象を紙に列記はしなかったが、脳裏に次々におもい浮かべ、感謝を繰り返したものだが、ニンジンの美しさ、しなやかさ、力強さ、を目の当たりにした瞬間、歓喜とともに、感謝のおもいがあふれ、感謝の事象が浮かんでは矢継ぎ早に通り過ぎていったのだった。私は嬉しさのあまりに感極まる状態になったのである。

 私は目頭にじわっと涙が盛り上がるのをかんじながら、自分の丈夫な肉体に、自分を生んでくれた母親に、父親に、娘に、息子に、今住んでいる土地に、同居している相方に、ありがとう、ありがとう、と独りごちた。それから抜いたニンジンを持って、道に上がり、一輪車の取っ手を持ち上げた。

2019年12月07日

我が家の作物づくり


 我が家では約40種類の作物を作っている。

米――コシヒカリ

野菜――ジャガイモ、サツマイモ、里芋、山芋、長ネギ、玉葱、ニンジン、ゴボウ、ナス、キュウリ、トマト、ミニトマト、ピーマン、シシトウ、唐辛子、大根、二十日大根、ブロッコリー、白菜、キャベツ、ニンニク、ニラ、パセリ、水菜、ホウレンソウ、カボチャ、スイカ、トウモロコシ、からし菜、小松菜、ウリ、チャヨーテ、ズッキーニ、タケノコ、カリフラワー、サヤエンドウ、南京豆、アズキ、枝豆、レタス、落花生、イチゴ、アスパラガス、ゴーヤ・・・などなど

果物――柿、梅、桃、プラム、梨、プルーン、リンゴ、マスクメロン、柚子

 と書きだしてみると、40種類どころか、50種類以上もあるではないか。こんなに作っていたんだと、改めて驚きをかんじる。

 このうち特に多く作っているのは、ジャガイモ、サツマイモ、里芋、柿、タケノコ、などである。

 ジャガイモは肉じゃがとかカレーライスとかによく使うので多くつくるのだが、毎年余ってしまう。サツマイモは私が好きで、今年は苗を2千本ぐらい植えたが、多分足りないとおもう。民宿やキャンプのお客さんに掘って貰ったこともあるが、乾燥芋にして農産物直売所に出すし、人にも大分進呈してしまった。来春前にはなくなって、おそらく買って食べることになるに違いない。里芋はそれほど食べないのだが、毎年多く作って余らせてしまうのである。

 柿は100本余あるが今年は異常気象のせいか多くが落ちてしまったが、本数が多いだけにそれなりにある。しかし、注文の予約が入っているので、去年のようには干し柿が作れないかもしれない。

 タケノコは竹藪が年々広がっているので、今年は相当数が出たのだが、来年も期待出来そうである。キャンプのお客さんが5月の連休毎日20組入っても大丈夫かもしれない。

 ところで首都圏在住のある知人がこんなことを言った。

――わたしは都会の人は農家の人と友達になっておくべきだとおもうわ

 どうして、と問うと、

――地震などの災害があったときや戦争が起こったときなど、都会では食料不足になるでしょう、そうなったときに農家の人に食べ物を融通してもらえるでしょうよ、もしそうした「つて」が全然なかったら、飢えてしまうじゃない

 なるほどとおもったが、我が家の生産量でどの程度の人の食料をまかなえるか考えてみた。継続的なら10人ぐらいか。短期的に、1週間とか10日なら、その倍の20人ぐらいか。

 農業を営む者のメリットとはなんなのか、改めて考えてみた。

 まず挙げられるのは、自分で作っているので、野菜など好きなだけふんだんに食べられるということである。例えば都会に住んでいたときには予算を考えてネギなど1、2本しか買わなかったが、今は一時に10本ぐらい抜いてきて、気にすることなく料理に使い、余れば捨ててしまう。そんな風だから、ざっと振り返ってみて、都会にいたときと比べると3倍ぐらいの量の野菜を食べているとおもう。

 また自分で作るのだから化学肥料を使わず、堆肥や有機肥料などで栄養価の高い作物を作ることができるし、そういう作物は美味しいのである。人の身体に害になる消毒剤や殺虫剤もあまり使わない。但し、葉物の白菜やキャベツなどは少量だけ使う。というのは芽が出てすぐのころは使わざるを得ないのだ。どうしてか。育つ前に虫に食われてぼん坊主になってしまう。要するに、食いつくされてなくなってしまうからである。人の身体に全く影響のないぐらいな最低限の消毒が必要な作物もあるということで、例えば大量に作るサツマイモは一度として消毒も殺虫剤もかけたことはない。ジャガイモも同じである。

 ネギはアブラムシがつきやすいのだが、ネギ農家のそばを通るとネギを買って食べる気がしなくなってしまう。それこそ大量の消毒液をネギに直接散布している光景を何度も目の当たりにしたからだ。聞くと、その農家の人はその売りに出すネギは食べず、自分は消毒剤をかけない別の曲がった貧弱なネギを食べているのだという。

 消毒剤をかけたネギは虫がつかないから、真っすくな見た目にはきれいなネギに育つのである。出荷農家にすれば見た目にきれいなネギしか売れないから、消毒剤をたっぷりかけざるをえない面もあるわけである。まあ、人の身体に害を与える量の消毒液はかけてはいないのだろうが、見た目にはあんなにかけていいのだろうかと心配不安になってしまう量なことは事実である。

 要するに、自分で作っているということは、身体の健康を考慮に入れて作物作りが出来るということである。
 
 次に言えることは、自分で作れば世の経済動向に影響を受けることはほとんどないことである。作物の値段は需要と供給の関係で、場合によっては乱高下する。例えば台風や気象異常などで作物の供給量が減れば、値段は高くなる。逆に天気がよくて収穫量が増えれば、値段は下がる。

 我が家は肉や魚介類は買うが、他は自身で賄える。高齢に入っているので肉や魚はほんの少ししか食べない。たとえそれらが値上がりしたところで家計への打撃はわずかである。

 東北大震災のとき私は母屋の2階にいたのだが、激しい揺れのためにピアノが左右に動き出したので、危険を感じ階段の上から下を見下ろす場所に逃げた。

 外を見ると、前の山の凹んだあたりから白い煙のようなものがどっと空に舞い上がるのが見えた。私はそのとき山が裂けたかのように目に映った。後でそれは地が揺れたため杉の花粉が大量に落ちて舞い上がったのだということが分かったのだったが。

 数時間後連絡が取れなかった相方が宇都宮からやっとのことで戻ってきた。途中で屋根が崩れていたり、墓石が倒れているのも多数見たという。

――うちは大丈夫かしら

 開口一番心配そうに言うので、家の周りを点検した。屋根瓦は落ちていないし、壁も大丈夫なようだった。母屋も離れも壊れているところはなかった。次の日墓石も確認したが倒れてはいなかった。要するに我が家に被害は確認できなかった。被害といえばいええるのは、母屋の玄関の靴箱が倒れたことだが、これは私が相方が帰宅する前に立てなおしてしまった。あと道路わきのブロック塀が少し壊れたが、これは軽微なもので修理できた。

 我が家の敷地は丘の麓にあるのだが、下が岩盤か何かで強固なのだろうとおもわれる。母屋は純日本風のしっかりした骨組みだし、離れも土台のコンクリートが頑丈な造りなので安定している。物凄い揺れだったのに被害がなかった由縁である。

 丘の麓といっても高台だから台風による水害はない。畑は斜面にあるので水はけがいいし、当然水害もない。数十年前に土砂崩れがあって、納屋が潰されたという被害を受けたが、そのときにおりた保険金で家の裏手の斜面の砂防工事をしたのだという。これは斜面の土が水を貯め込まないようにする工事で、雨が降るとすぐに染み込んだ水を排出してしまうようになっているのだ。だから、雨が降るとじきに幾つもある配管から水が流れ始めるのである。

 ということで、我が農園は当分は台風大雨地震などがあったとしても、大きな被害を受ける可能性は低いのかもしれない。

 まあ、これまでを振り返ってみると、何が起こるか分からないのが人生ではあるが、こと食べること、食生活に限っていうと、安心して作物づくりが出来るし、世の経済や政治の変動の影響もあまり受けることなく、今後とも安心して安定的な生活が営めそうである。

2019年11月15日

我が家の活性化

 サイトコントローラー「ねっぱん」のニュースメールで宿泊予約サイトAirbnbを知り、通常は登録料3万円のところ特別キャンペーン中は無料とあったので、登録の手続きをした。なかなか通知が来ず、一ヶ月かかったが無事登録できたのである。Airbnbはアメリカの会社で、英語での表記が多い。全世界に展開しているとあったので、これからは外国のお客さんが多いかもしれないと思ったが、意外にも七割ぐらいは日本人のお客さんである。テレビのコマーシャルも放映されているというので意識的にテレビを見ているとその通りだったので、納得した。

 今年に入って二食付きから朝食のみに、次いで食事無しの素泊まりにしてしまったということもあって、宿泊客が様変わりした。若者が多くなり、八割方ぐらいが二、三十代の若者である。宿の食事ではなく、好きなところで外食したりコンビニを利用するといった形で宿泊したいということなのだろう。

 つい二ヶ月前だが、Expediaという宿泊予約サイトの担当者から電話がかかってきて、登録して欲しいという。うちはすでに四つの宿泊サイトに登録している。るるぶトラベル、楽天トラベル、Vacation Stay、Airbnbの四つである。そういうと、そこにぜひ割り込ませて欲しい、という。柿農園様に登録していただければ、周辺の宿の登録の起爆剤になるかもしれないから、是非と繰り返す。合わせて五つになったら予約業務が複雑になってしまうかな、とおもったが、我が家は部屋が一つしかないのだし、サイトコントローラー「ねっぱん」で連携しているのだから大丈夫だろうとの判断で登録することにした。

 すると、程なく予約が入り、これも日本人である。意識してテレビコマーシャルを注視するとAirbnbだけではなくExpediaも出てくる。テレビで宣伝しているのだから、特に若い人は外国の予約サイトだと知っているわけである。AirbnbとExpediaから週に1組ぐらいの割合で予約が入る。なぜかこれまで入っていたるるぶトラベルと楽天トラベルからはぴたりという感じで予約が途絶えてしまった。宿泊代を少し高めに設定してあるVacation Stayはこれまでに2組入っただけだった。

 Airbnbは宿泊代金がほんの少しだが安めに、Expediaは期間限定だが10%引きに設定してある。予約がよく入る由縁だろう。

 一ヶ月ぐらい前にAirbnbを通してカナダから2泊の男性5人のお客さんが入った。19歳が二人、二人が二十代前半、一人が二十代後半と皆若い。軍人、科学者、車の整備士、といった職業で、観光目的ではなく、自動車レースの見学が目的なのだった。一日目は福島に行き、2日目は群馬に向かった。二十代の若者がはるばるカナダから観光ではなく、カーレース見学目的で来たというところに時代を感じた。カーレースの見学のために集まった仲間で普段は全く別々の生活で、この人とこの人は車で3日かかるほど離れているというので驚いた。カナダの広さを実感できる印象的な話だった。そんなところから来たからだろう、成田からレンタカーで我が柿農園まで来たのだが、道のりは分かりやすかったというので、近隣の地元住人とのスケールの桁違いの大きさを感じた。隣町なのに我が柿農園までの道は分かりにくくて困るという人が何人もいたからである。

 先日はやはりAirbnbを通してIT関係で東京に2年在住しているというアメリカの、21歳の女性、23歳と28歳の男性の3人の若者がやってきた。日光観光後我が柿農園に宿泊し、次の日は那須に向かったのだった。

 レンタカーとおぼしき車を運転してきたのは21歳の女性Reanneである。目の覚めるような美人である。ビューティフル、プリティ、キュートと言ったら、はにかむように笑って喜んでいた。

 そのReanneがAirbnbに書いてくれたレビューである。

「The farm and home are awesome, but the hosts are what make this place such an amazing stay. They were so friendly, and even though we arrived late at night, they were there to show us where everything was and give us tea and fresh fruit from their farm. The house is big and the bathroom is excellent as well. The air smells amazing from all the growing fruit nearby and the fruit (and veggies) taste awesome. Ms. Saito made us breakfast in the morning and it was delicious. It was the best breakfast I've had in Japan. The area around the house is beautiful. There's the farm. It's nice to see all the fruit trees growing. The forest around the area is full of tall trees that smell great. All in all, this place was amazing and I wish I could stay here again.」

(訳)

「農場と家は素晴らしいですが、ホストはこの場所を素晴らしい滞在にしています。 彼らはとてもフレンドリーで、夜遅くに到着しても、すべてがどこにあるかを見せてくれて、お茶と新鮮な果物をくれました。 家は大きく、バスルームも素晴らしいです。 空気は近くにある、すべての成長している果物から驚くほど匂いがし、果物(および野菜)の味は素晴らしいです。 斎藤さんは朝、朝食を作ってくれて、美味しかったです。 日本で食べた中で最高の朝食でした。 家の周辺は美しいです。 農場が広がっています。 すべての果樹が成長しているのを見るのは素晴らしいことです。 この地域の森は、匂いのする背の高い木でいっぱいです。 全体として、この場所はすばらしかったので、またここに泊まりたいです」

 私は周辺の景色も柿農園内も美しいと感じ、民宿のお客さんにもキャンプのお客さんにも、素晴らしい自然を提供できているという自信を持っているのだが、Reanneのレビューにアメリカ人である彼女の目に映った周辺や柿農園の自然の美しさ豊かさが表現されていて、感動した。
 

そういえばカナダの若者も、2人が買い物に行っている間、残りの3人を丘の上まで案内し、「やまびこ」を教えたところ、3人が口々に、

――ジャパン、ビューテフル

――ジャパン、ワンダフル

 と、叫んだものである。自分の彼女の名を叫んだ人もいて、微笑ましかった。
 地元の住人はこの地の良さがわからず、こんなところいいはずはない、とおもっているむきが多い。

――こんなところに来て、キャンプなんかやって、何が楽しいんでしょうね

 ある近隣の有力者の子息が我が家にやってきて実際に吐いた言葉である。「灯台元暗し」とは、こういうことをいうのだろう。

 しかし、カナダ人やアメリカ人でなく、日本人だって、都会から我が柿農園を訪れる人は、
――私たちはここの豊かな自然が素晴らしいから、お金を出して、はるばるやって来るのです

 というのである。

 要するに、曇りのない目で見れば、誰が見たって、柿農園も周辺の自然も美しいのである。

 ところで私のホームページの閲覧数が半年前までは一日20~30程度に過ぎなかった。ところがこの数か月ぐらい前からぐぐーっと伸びて一日30~40になり、この一、二ヶ月は40~50である。そして、直近は70とか80の日もあって驚いている。

 この閲覧数の伸びは、おそらくfacebookが関係しているのではないか、とおもう。それまではfacebookのアカウントは持ってはいたがあまり投稿はしなかったのだ。しかし、キャンプ場を開設してその宣伝のため、1回1万円をかけ2回広告を出したのである。そして、ほとんど毎日、Saitoh Kiyoakiと柿農園の二つのアカウントで投稿しはじめたのである。

 そして、AirbnbとExpediaの二つの宿泊予約サイトの登録である。Facebookや宿泊予約サイトを見た人の多くは私のホームページを確かめるのである。それはお客さんの何人かから直接聞いて確認している。

 加えてキャンプ予約専門サイト「なっぷ」である。今年の一月にキャンプ場を開設して、楽天トラベルに登録して、五月の連休に31組お客さんが入って順調だとおもっていたが、その後予約は二、三にとどまり、あれ、と不審と怪訝をかんじた。

 夏休みのお盆の時期民宿の方は満杯だったのに、キャンプの方は閑古鳥が鳴いていた。連日の暑さでキャンプに出掛けるのは敬遠した人が多いのかもしれない、とおもったが、もしかしたら、楽天はホテルや旅館の専用サイトだから、そのせいでキャンプ客は集まらないのかもしれない、と気がついた。

 そうこうしているうちに、サイトコントローラー「ねっぱん」のニュースメールが入った。キャンプ専門予約サイトTAKIBIと連携を開始したとあったので、すぐにTAKIBIに登録したいのだが、とメールしたのである。しかし、何日待っても返信が来なかった。そこで別のサイトを探すことにし、日本最大のキャンプ専門予約サイトと銘打った「なっぷ」を見つけた。

 ここはすぐに返信メールが来た。サイトコントローラーとは連携していないので、在庫数は楽天ときちっと分けるようにとあったので、「なっぷ」オートサイト11、フリーサイト5、楽天オートサイト5、フリーサイト5と振り分けて登録することにした。

 すると、日本最大のキャンプ専門予約サイトと銘打っているだけあって、すぐに予約が次々に入り始めたので、楽天は停止して、在庫数を全て「なっぷ」に移行した。現在オートサイト13、フリーサイト7で販売している。

 結果的には、私のホームページからの電話予約と合わせて、10月の12日13日の連休はほぼ満杯になった。楽天のときには最大で一日9組だったから、我がキャンプ場はオートサイトとフリーサイト合わせて在庫数20なのだから、約2倍の予約である。予想以上である。「なっぷ」の担当者が自信ありげに、予約は十分あるとおもいますよ、と言っていたが、その通りになったので驚いている。しかし、あいにくの台風19号の直撃である。

 12日分はすべてキャンセルされたが、台風の通過が予想される13日の方は、7組が残った。当然ながらキャンプは天候に左右されるということである。だが、今後が期待できそう予感がしている。

 ところで「なっぷ」の管理画面にはアクセス分析という項目があって、我がキャンプ場の閲覧数が日ごとに分かるようになっている。登録して間もない珍しさからか、一日の閲覧数が640なんてこともあって、多分このうちの一定数が我がホームページを閲覧したに違いない。

 また、アクセス数のランキングという項目もあって、119ある栃木県のキャンプ場のうちの順位が当初は80位だったのが、ぽーんと上がり、21位にランクされ、一時は6位なんてこともあったが、このところは20位前後で推移している。開設間もない個人運営のキャンプ場にしては善戦しているのではないだろうか。

 考えてみると、我がホームページを見たと農林水産省の職員が来訪したあたりから、我が家に「つき」が来たとおもうのである。

 キャンプ場北側のぬかるんでいた町道に砂利を敷いて欲しいと町役場の建設課に掛け合ったところ、農林水産省の来訪が「水戸黄門の印籠」となったに違いなく、即座に実施されたのだった。

 キャンプ予約サイトTAKIBIから返信メールが来なかったのも「つき」の一つかもしれない。TAKIBIは出来たばかりのサイトであり、もしTAKIBIに登録していたら、今のように多数の予約は入らなかったかったかもしれない。返信がなかったからこそ「なっぷ」を探したのだ。

 民宿の方も、「るるぶ」と「楽天」だけでは二ヶ月に一件ぐらいしか予約が入らなかったのに、Vacation StayとAirbnb登録で予約が飛躍的に増えた。加えてExpediaが割り込ませてほしいと飛び込んできたのである。すると矢継ぎ早に予約が入り始めたのだから、これも「つき」の一つに違いない。
 
 そして、最近それとは違う方面の話がまた舞い込んできたのである。

 やはり我がホームページを拝見したとあって、テレビ朝日の「人生の楽園」という番組を担当している者だが、取材をさせて欲しい、というメールが届いたのである。

 事前の調査「人生の楽園・質問書」のいくつもの項目を書き込むのに三日かかった。私の経歴、柿農園の特徴、これからの日程などなど。これを元に取材放映するかの判断を下すのだろう。この質問書と写真30枚程度を送ったところ、すぐに返信があった。

――なかなかタイミングが合わず、お声を掛けてから数年後の取材になった場合もありますので、引き続きのお付き合いをよろしくお願いします

 要するに、番組にするのには我が農園が適切かどうかは、すぐには判断できないということなのだろう。

 改めて番組を見たが、一日や二日の取材では不可能な構成だな、と感じた。ま、声が掛かっただけでも話の種になるし、宣伝材料に使えそうなので、それでよし、とし、あまり期待することなく待つこととしよう。

 ただ、我が家には今「つき」があるので、もしかしたら決まるのではないか、ともおもう。

 テレビの宣伝効果というものは抜群だから、もしも放映されたとしたら、柿農園はより上昇気流にのってしまうのかもしれない。

2019年10月17日

人生100年時代をどう生きるか

 前作「夢にむかって」で、若い頃は「どう生きたらいいか」「この世界や宇宙の構造がどうなっているのか」が分からなかった、と書いた。

 それから40~50年たった現在は、ほとんどそれらの解決がついたとおもっている。
 当時はやにくもに生きるばかりで、懸命ではあるが行き当たりばったりに生きていて、いつも焦燥に駆られ、不安におののいていた。

 40~50年という月日の間にそれなりに経験を積み、苦労し、その過程で分かることもあったということだ。「猿も学習する」というわけである。

 今にして分かることは、若い頃は物事を分析解析整理し理解しようとばかりしていたが故に分からなかったのだ、ということである。

 相方がアロエのネットワークを手掛けている関係で、私も人生哲学を学ぶようになった。というのは、相方が手掛けているネットワークは製品を伝えたり売ったりしてお金を稼ぐというだけではなく、夢を語り合ったり、人はどう生きるべきかを語ったり学ぶ場でもあるのである。

 私は相方に出会いすぐにアロエ製品を愛用するようにはなったが、ネットワークに関わるようになったのはずっと後である。相方はアロエ製品を愛用するようになったのは、身体が弱かったからであるが、ネットワークを手掛けるようになった一つの理由に、アロエのネットワークの成功者の一人である酒井満氏に憧れ、その酒井氏が主催している酒井塾に入会したいということがあったという。酒井塾に入会するには20年前当時、ネットワークの中での肩書を表すLCM以上でなければならなかったのだ。LCMとはネットワークでの収入が年間300万円以上あると与えられる称号なのだが、相方は見事それをクリアし酒井塾へ入会することが出来たのだった。

 酒井氏は若い頃から潜在意識について学んだ人である。43才のとき事業に失敗多額の負債を抱え死を決意する。そんな極限状態で、なんとかして欲しいと神に祈る。同時に、長年恨んでいた父親を許したのである。氏が言うには、この許しが潜在意識を大きく働かせることになった、というのだ。最後の家族旅行にと妻子を連れて大洗海岸にいったのだが、裸足で熱砂の上を歩いたことで足裏に火傷を負った。そのとき、アロエベラのゼリーを塗ったところ、一晩で火傷が治ってしまったのだった。アロエの凄さを目の当たりにしたわけである。それが神の導きだったのか、これだ、と頭の中で強く閃くものがあった。そのことがきっかけとなって、氏はアロエのネットワークと関わることになる。そして、自己の潜在意識を使い、アロエのネットワークで月収1千万円年収1億円を得るという目標をたて、達成してしまうのである。

 相方の勧めで私も酒井氏が主催する「潜在意識セミナー」に何度か出席した。それで、私も潜在意識に興味を持ち、本を何冊か読んだのである。そして、私の場合は中村天風の哲学に惹かれ、傾倒敬愛するに至る。

 まずは相方の本棚にあった「成功の実現」「心に成功の炎を」を数回、いや十回以上は読んだとおもう。次いで「盛大な人生」をAmazonから取り寄せた。これまでの読書とはまるで違って、その内容に圧倒された。言葉がびんびん心に響き、ぐいぐい脳髄に食い込んでくるかんじだった。この三冊は講演を書き起こしたものなのだが、中村天風の三部作といわれる。Amazonには中村天風の講演録や講演を録音したCDなどが何十冊もならんでいる。天風会の会員は100万人以上いるというから、有名な哲学者だったのである。相方の同級生には天風会の会員がいたり、ネットワークの仲間に天風の弟子が開く合気道の道場に連れて行ってもらったりしたというから、相方にとっては天風は身近な存在であったといってもいい。

 しかし、私の身近には天風を知っている人は皆無だったし、哲学や思想の本はかなり読んだが、天風のことを書いた本にも記事にも出会わなかった。要するに、私は天風哲学や、潜在意識とは無関係な範囲で生活していたのである。もし、若い頃天風や潜在意識の本に出会っていたとしたら、人生が大きく変わっていたかもしれないとおもう。しかし、それが私の人生なのであり、遅くはなったが今にして出会えただけでも幸運だといえるだろう。

 天風に出会って3年余り、その著作の八割方は詳しく何度も繰り返して読んだ。結果、不安や悩みは払拭され、生きることに逡巡することはなくなった。

 分析批判するだけでは理解はできない、疑ってばかりでは本質を見誤ってしまう、まずは一旦はそういうものだと飲み込んでみることが理解の早道である、と天風は言う。

 例えば、まず私が若い頃理解しようとしたこの世界はどうなっているのか、であるが、いくら分析理論だてようとしたって私の頭の能力では所詮無理だったのだ。

 宇宙も、この銀河系も、この世界も、創造主が作ったもので、無限である。

 一旦はそう呑み込み理解したことにした。ただ、私の想像力も無限であり、宇宙並み、いやそれ以上に大きいとも言えるのである。

 では、どう生きたらいいのか、であるが、これも天風が言うように、

――人は、人類の進化と向上に資するように生まれてきた

 のであるから、そのように生きていけばいい、というか、そのように生きていくべきなのである。そう心に決めた。すると、これまでの葛藤悩み逡巡は払拭され、肩から力が抜け楽になった。

――欲を捨て、自分の出来る範囲で、世のため、人のために生きよう

 と、今はおもっている。

 具体的には、縁あって、相方と同居して、4haの広大な土地に住むようになって、キャンプ場まで開設したのだから、この土地を愛し、手入れに精を出そう。

 明けても暮れても雑草との戦いの毎日なのだが、きれいにした後の爽快感はかけがえのないものである。自然との交流に癒しを求めて来られる都会のお客さんのためにとおもうと作業は大変なものではなく、楽しく充実感があるものになっている。

 民宿の方は今年に入って食事無しの素泊まりにした。これは私も相方も高齢の域に入ったのだから、食材の準備、料理、片付けなど大変なので、寝具の準備片付け掃除だけの素泊まりにすることにしたということなのだ。それでお客が減ってもやむを得ないと考えたのだが、しかし、予想に反して逆にお客さんが増えたのには驚いた。

 そのわけはすぐに分かった。二、三十代の若いお客さんが多くなったからである。食事つきのときには四、五十代のお客さんだったのだ。

 我が柿農園は辺鄙な場所にあり、周辺に有名な観光スポットがあるわけでもない。食事無しで一泊約5000円で泊まれるのだから格安である。若い人は辺鄙でもスマホを駆使して簡単に来られるし、コンビニなどで食材を手に入れて気軽にしかも格安に泊まれる宿に魅力をかんじるのだろう。

 年代が高い方は有名な観光スポットや食事に惹かれるだろうから、我が柿農園はそういう点では不利なのだ。

 ということで、意図したわけではないのだが、我が柿農園の在り様が若い世代にヒットし、それがこれまでの層よりも多人数になったということなのだとおもう。何が幸いするか分からないものである。

 ところで、農泊ツアーの小中高校の生徒さんは十代、民宿のお客さんとキャンプのお客さんの八割方は二、三十代である。民宿とキャンプ場を開業する前は、私共二人と同年代前後つまり六、七十代のお客さんしか来なかったのだから、我が家を訪れる人はぐぐーっと若返ったことになる。当然のことながら、我が家の雰囲気は一変した。

 若い世代に私共の得た経験や、健康になるためにはどうしたらいいのか、より良く生きるにはどうしたらいいか、などを語りかけることにしているのだが、ほとんどの人が食い入るように聞いてくれるのである。これが高齢世代だと考え方が凝り固まっていて、聞く耳を持たない場合が多いのだ。若い世代は先入観がなく、素直な心で受け入れるからだろう。

 若い世代が増えたのは、天の采配だったのだろう。美しい自然の中の農園の特質を生かして、その若い世代に癒しや農業体験を味わって頂くと同時に、私共の経験や学習しつつある生き方を語って、これからの人生の参考にして貰いたい。

 そうおもうと、遣り甲斐と充実をかんじ、ますますやる気が出てくるのである。

2019年09月23日

夢にむかって

 若い頃は明確な目標はなく、ただ漠然と生きていたとおもう。

 ただ、漠然とではあるが、人が生きるということはどういうことなのか、よりよく生きるためにはどうしたらいいのか、この世界はどうなっているのか、宇宙の構造はどうなっているのか、というようなことを自分なりに解釈理解したいとおもい、哲学や思想、宗教、などの本を読んだが、ただ漫然と読み漁っただけなので、そのひとかけらさえも把握することはできなかった。

 ただ漠然と生きているということは、行き当たりばったりに生きているということで、息をついているから生きているというに等しく、支えるものが何もなく、不安だった。それでは上手く生きていくことはできない。内面的な精神葛藤や職場の人間関係の悩みなどが重なって、体調に異常をきたした。四回に渡る胃十二指腸潰瘍での入院を余儀なくされ、椎間板ヘルニヤを病み数年通院した。

 四度目の胃十二指腸潰瘍のときは胃の幽門近くに十円玉大の潰瘍があって、手術を勧められた。しかし、私は身体にメスを入れることに抵抗があった。医師がつぶやくように言った、
――潰瘍は大きいが深くはない、薬でも治せるが二ヶ月かかります、手術なら三週間で退院できますよ

 という言葉の前の部分に飛びついた。

――二ヶ月かかって結構です、薬でお願いします

 二ヶ月の入院の過程で、私は生活態度を大きく転換させた。それまでの生真面目といえるような態度を捨てることにしたのだ。十年ぐらいの間に十回以上胃十二指腸潰瘍に冒され、そのうちの四回が入院加療だったのである。このままではダメになり、その先には死があると本能的にかんじた。

 私は不良入院患者の仲間に入った。中には病院を抜け出して焼き肉を食べに行く豪の者もいたが、私はそこまではしないが、夜な夜な女性患者と話し込むとか、夜のドライブに連れて行ってもらうとか、ぐらいだったが、品行方正を捨ててみると肩の力が抜けて楽だった。病気にもいいことがすぐに身をもって認識できた。

――学校の先生のくせに

 そう蔭で言われ始めたのは分かったが、元の生真面目、品行方正に戻ることはなかった。
 二ヶ月でめでたく退院し、それまで飲まなかったアルコールも嗜むようになった。以来、胃十二指腸潰瘍から卒業し、二度と罹ったことはない。

――病気になったから、アルコールはやめるというのがふつうだよなあ、それが病気になったから酒を飲むなんて、あべこべだけど、斎藤君らしくて面白いよ

 と、友達に揶揄われたものである。

 私は酒を飲むことによって、十年来の病から解放されたことになるが、これは酒が治療薬となって病気を治したわけではない。酒によって肩の力がとれ、要するにストレスが解消され、結果として病気が治ったのである。

 このときもはっきりとどう生きればいいか分かったわけではなく、ただ今までの生き方ではどん詰まりになるということが分かっただけで、生真面目をやめてちょっと羽目を外してみただけだった。

 しかし、考えてみるとこれは私にとっては大きかったのかもしれない。

 私は世界や宇宙の構造を思考分析認識するといったことはとてつもないことで、自分の知力、能力を超え、不可能であることがわかった。

 それからは哲学書やお経などの堅苦しい読書はやめ、自分の出来ること、好きなことをやることに決めた。

 母親が夏目漱石全集という布表紙の分厚い本を持っていた。嫁入りのときに持ってきたのである。総ルビだったので、小学校一、二年のときに「坊ちゃん」や「吾輩は猫である」を読むことができた。「坊ちゃん」は面白くて何度も読んだが、「吾輩は猫である」は面白いのは前半の部分だけで、後は理解できなかった。他の作品は難しくて読めなかったが、自分もいつか小説を書きたいとおもったものである。

 そのおもいはずっと持ちつづけ、二十九才になってから書き始めたのだった。最初の頃は筆が進み、一晩に四百字詰原稿用紙50枚書けたことがある。後で読み直して全くダメなことが分かったが・・・。ペースとしては一日一、二枚ぐらい書くというのが私にとってはベストであるということがそのうちに分かってきた。

 振り返ってみると、原稿用紙100枚前後の作品が20編余ぐらいあり、それ以下の枚数のものが同数程度ぐらいだから、作品数としては少ない方かもしれない。

 夏目漱石を読んでこれぐらい私にも書けるかもしれないと小学生一、二年でおもったぐらいだから、短歌を詠むことが好きだった母親の血を引き継いで書く素質は持っていたのだろう。

 書き始めて十年後ぐらいに妻がアルツハイマー病に罹ってしまい、介護に入ったため、小説の執筆は断念した。小説の執筆には独特の集中力が必要で、介護しながらは無理と判断したからである。しかし、日記を書くかんじでいいエッセイは書きつづけた。介護の日々をホームページのブログに発表し、数年後本にまとめ二冊自費出版した。一冊目は100部でインターネットで販売し完売した。二冊目は500部で350部ほど売れた。

 一冊目は「あなたは不治の病人になぜそんなに冷たいのですか」という長い表題で、病人に冷たく無理解な世間や親族を告発するという怒りの書だった。二冊目は一冊目の余裕のなさや不寛容を反省し、また介護によって悟るところがあって、がらり正反対の内容といってもよい、「介護は楽しく」を上梓した。

 これが朝日新聞の真鍋弘樹記者の目にとまり、取材を受けた。一冊目よりも二冊目の「介護は楽しく」の方が一般受けはよかったのだが、真鍋記者は一冊目の方が作者の本音が出ていて面白かった、と言った。

 介護の様子が、広島の夫の介護をする妻の立場の方とともに、10日間にわたって朝日新聞社会面に連載された。読者の反響が大きく、多くの感想が真鍋記者の元に届いた。そのことがきっかけとなって、書籍化されることとなり、更に取材を受けた。

 「花を――若年性アルツハイマー病と生きる夫婦の記録」真鍋弘樹著朝日新聞社刊が何部発行され、どのくらい売れたのかは分からない。ただ、製薬会社「エイザイ」が主催するエイザイ賞だったか忘れてしまったが受賞したと聞いた。

――本来は広島の夫婦と斎藤さん夫婦が賞金を受けるべきだが、福祉関係に寄付したらとおもうのですが

 と、真鍋記者から連絡があった。私は了承した。

 雑誌「清流」と東京新聞に記事が掲載され、講演の依頼が入るようになり、「介護は楽しく」と題して、大田原市、宇都宮市、那須烏山市、さくら市などで、計20ヶ所ぐらいで話をした。東京国際フォーラムで開かれた訪問歯科医全国大会に招かれて、「家庭での口腔ケアについて」という内容で話したこともある。

 TBSニュース・イブニング5の取材も受けた。家に映写カメラマンが入って、丸二日間朝から晩までぶっつづけでカメラを回していた。そして、特集番組として15分間の映像にまとめられたのだった。なかで私のインタビューが何度か流れたのだが、上手く答えられない部分があったなあ、とおもっていたところ、プロデューサーは、

――いやいや、斎藤さんはめちゃくちゃ話がお上手ですよ、素人でこれだけ話せる方はそうはいないですよ

 と、いった。

 実際に放映されたテレビを見てかんじたのは、15分というのは結構長い時間だなあ、ということだった。

 介護というと、辛く、暗く、苦しく、重い、というとらえ方が一般的だとおもうが、私はあるときから「笑って介護する」と決めたのである。発想の転換というか、逆転の発想、である。結果、注目され、辛く、苦しい、だけではない、明るい、充実した日々を送ることが出来たのだった。

 好きなことのひとつである執筆のうち小説は書けなくなってしまったが、エッセイを書きつづけたおかげで、介護の様子が新聞や雑誌に載っただけではなく、書籍化までされ、またテレビでの放映に繋がったのだから、今振り返ってみると信じられないような気分である。そして何よりもよかったことはそのことで介護が辛く苦しいものではなく、明るく充実したものになったことである。

 私が笑っていれば妻も微笑んでいる。そういうことが体験を通して分かることが出来た。分かるまでには少し時間はかかったが、その過程で私は人間的に成長できたとおもうのである。もし、妻を介護しなかったとしたら、私は鼻っぱしらが強いだけの付き合いづらい嫌なやつで終わってしまったかもしれない。成長させてもらったという意味で私は亡妻に感謝しているのである。

 もう一つ、私の好きなことはギターである。

 子供の頃、友達の家で、自衛隊を除隊したばかりの友達のお兄さんが持ち帰ったギターをつま弾いているのを聞いて、その音色に衝撃を受けた。当時流行していた演歌の一節をポロンポロンとつま弾いただけだったが、哀愁をたたえた、甘く、優しく、切なく、私の耳の鼓膜を愛撫するかのような音色で、心に食い込んでくるようだった。私は一瞬のうちにギターの音色に魅了されてしまった。そのとき初めて心が痺れる感覚を味わった。

 それから数年後、四つ年上の兄が就職して、私にギターを買ってくれた。ギターを欲しがっても叶えられない私を可哀そうだとおもったのだろう。カルカッシギター教則本という本を買い、見よう見まねで弾き方を覚えた。それこそ楽譜の読み方も知らなかったのだから、「一から始める」を地から行ったわけである。教則本を見るだけで、誰にも教わることなく、全くの独学であり、それは今も変わらない。

 20才のとき東京消防庁に就職した。初任給17600円だったことを未だに忘れずにいる。数か月後その給料より高い20000円のギターを買った。半年後胃十二指腸潰瘍で東京警察病院に入院したのだが、病院にもギターを持っていって非常階段に腰かけて弾いていたことを覚えている。いかに私がギターに惚れ込んでいたかを示すエピソードだろう。

 四十代に入ってから、妻の行動の明らかな異変をかんじて病院に連れて行ったのだが、そのときはすでにアルツハイマー病が中度から重度の間といわれるぐらい病状は進行してしまっていたのだった。おとなしく内気で、これといった目標も生き甲斐もないようだったことが発症につながったのかもしれないとおもい、せめて何か趣味を持たせてやりたいといろいろやってもらったのである。その中で唯一興味を示したのがカラオケだった。しばらくは自分でカラオケ教室に通っていたのだが、そのうち一人では行けなくなり、迎えに行くと涙を見せるようになった。それならば私も一緒にいられるようにと入会したのである。当然私も歌う。唄っているうちに、人の作った歌ではなく、自分で作って歌いたいという気持ちが芽生えた。だから、妻を介護しなければ、作詞・作曲して自分で自作の歌を歌うようにはならなかったかもしれないのである。息子に聞くと、カラオケはパソコンで作れるというではないか。

 パソコンを買い、パソコン教室に入ったが2度ほど行ってやめてしまった。自力で覚えなければ身につかないと悟ったからである。カラオケを作るソフトを買い一ヶ月ほどでなんとか曲を作れるようになった。一ヶ月もかかってしまったというと、一ヶ月というのはめちゃめちゃ早いですよ、と言われたものである。

 歌作りでは私の場合は詞を作るのが時間がかかるのだ。詞を書くのは一日で書けることもあれば、一ヶ月かかることもある。しかし、詞さえあれば曲は15分もあれば出来てしまう。ギターをやっていたおかげで、コードを弾きながら言葉を口から出していくと同時にメロディが出てくるかんじなのだ。それを楽譜に書き起こす作業の方が時間がかかるのである。

 それをカラオケにするには、私の場合15~25種類の楽器を使う、たとえばバイオリン、フルート、ピアノ、チェロ、トランペット、等々・・・、その一つ一つの楽器の音を一音ずつパソコン内の楽譜に書き起こしていくのだ。だから一曲作るのに一週間ぐらいかかってしまう。一、二年夢中になって百数十曲作ったものだった。インターネットを通じて他人が作詞したものに曲をつけてやったりもしていたが、時間がかかるので、そのうちに馬鹿らしくなって、人のものに曲を付けることは止めてしまった。

 自分の歌のカラオケを作り、自分で歌ってインターネットにUPした。YouTubeではあまり聞かれなかったが、今はなくなってしまったがGoogle+サイトにUPしたところ信じられないぐらいの再生回数が表示されて、興奮したものである。合わせて11万回。私のプロヒールの閲覧数が一日で1万数千のこともあって、あららら、と驚き、慌てたぐらいだった。ライブに何度か出演したことがあるが、聴衆はせいぜい多くても20~30人程度だった。それが11万回余の再生である。数が何桁も違い、その多さが想像出来ないぐらいだった。しかし、あることから、再生回数の多い少ないは曲の良し悪しには関係ないということが分かって、急に意識が覚めてしまい、ほどなくインターネットにUPすることはやめてしまった。

 他に一時ボーカロイドという女性ロボット歌手といったらいいのか、合成の女性の声に私の歌を歌わせることをやってみたりしたこともあったが、これもやめて、今は元のギター弾き語りに戻って、相方のアロエのネットワーク関係のお客さんや農泊ツアーの生徒さんに聞いてもらっている。

 私は自身で作詞・作曲することも歌うことも好きなのだが、実はクラシック系統のギター曲を作ることも好きなのだ。

 私の中で、執筆はライフワーク、ギターは純粋に自分の楽しみ、という位置づけである。小説の執筆で長いこと目標としていることは、

――生きている間に自分の納得がいく作品を何編か書きたい

――チェホフばりの短編を10編ぐらいは書きたい

 ということである。

 そして、できれば文学好きの人に読んでもらいたい。

 ところでギターの弾き語りは少ないが喜んで聞いてくださるというか、涙ぐまれる方もあって、一定程度の評価があるとおもわれるのだが、クラシック系の曲は何人かの方に聞いていただいても、興味を示していただけないというか、歌のような手ごたえがなく、反応が鈍いのだ。しかし、私はときどき無性にクラシック系統の曲が作りたくなるのである。
 

 このところYouTubeで、クラシックのギター曲を聴くことが多い。何人もの三十代とおぼしき女性のギターリストが難易度の高い曲を、いとも簡単そうに弾きこなしているのに接すると、私にはそんなに難易度の高い曲は作れそうもないが、平易でもいいから、感動的な曲を作って弾きたい、というおもいに駆られるのである。

 それにしても、世界には、難しく、高度な、感動的なギター曲を難なく弾きこなしてしまう弾き手がなんと多いことか、と驚いてしまう。

 私も、自分の頭に浮かんだメロディを即興で難なく弾けるようにと、練習に励んでいる次第である。

 これは人に聴いてもらうためではなく、純粋に自分のために、といっていいのである。

2019年07月20日

自分にいい暗示をかける

 振り返ってみると、おもったり、考えたりしたことは、その通りになっていることが分かる。

 例えば私は妻と一緒になるとき、

――この人と添い遂げる

 とおもったが、アルツハイマー病になり長い介護になったがそのおもいは変わらず、23年という長い介護を全うし、大田原赤十字病院で最期を看取った。最初の添い遂げるというおもいは終始変わらず、そのおもいは現実のものとなったのである。

 若い頃は漠然とした都会への憧れがあり、東京消防庁に就職し、練馬区の三畳間のアパートに入って生活しはじめたとき、夜中まで窓の外が周りの電灯で明るく、また車や何らかの物音が絶えず聞こえ、それに慣れることが出来ず、じきにこれは違う、とかんじた。田舎は夜は暗くなり物音がしなくなるのが普通だったからである。

 それから青山南町の消防庁寮に移ったのだが、そこは更に喧騒に溢れていて、私のストレスは頂天に達した。通勤の途上の電車の中で気がつくと吊革にぶら下がるようにして眠っていることがあって、腰痛も出てきた。身体の不調をかんじ、東京警察病院で診察を受けた。後で誤診だということが分かったのだが、鉄欠乏性貧血との診断で、腰痛の痛み止めの注射を腰に打たれた。結果的には胃十二指腸潰瘍だったのである。

 この頃から自分には都会は向いていないとおもい始めたが、都会生活は三十年以上つづいた。いつか田舎に戻りたいとはっきりおもい始めたのは、妻の介護のために退職して教師生活にピリオドを打ってからからだった。

 六十才になる少し前、新聞を見ていると還暦世代優遇ローンだったか何だか忘れてしまったが、要するに六十才以上を優遇する住宅ローンの広告が目についたのだ。おや、そんなものがあるのか。さっそく栃木県の足利銀行のホームページを紐解いた。やはりあった。

 その頃、妻の介護をろくに手伝わない子供たちにいら立っていた。障害者手帳一級を取得し、介護保険と合わせて誰の手助けがなくとも妻を介護する態勢は整えていたが、心の隅にはもう少し家族の手助けがあればなあ、という気持ちは捨てきれずにいた。しかし、子供たちは私の気持ちなど理解しようともしないように見えた。そのくせ私には過大な期待をしている。六十才を越えたら私は自由に生きる、と心に決めた。子育てはもうとっくに終わっている。子供は子供、親は親、もう子供には縛られたくない。そうおもった。

 足利銀行からいくら借りられるか、足利銀行の優遇ローンのページを詳細に調べた。私と妻の合算の年収が基礎になり、返済は79歳までに終わらなければならないので、最大19年返済になる。約1千万円借りられるようだ。そこまで調べてから、足利銀行の融資の担当者に直接電話して確認した。私の解釈に間違いはなかった。結果的には850万円の融資を受けた。

 栃木の友達に電話して、土地を見て欲しいと頼んだ。インターネットで土地の目星はつけておいた。那須塩原市の実家近くは除外した。いろいろしがらみがあるので煩わしい。新幹線の那須塩原駅近くの100坪300万円、大田原市富士見の50坪300万円、大田原市大和久100坪250万円、などなど。実際に下見してくれた友達によると、新幹線近くの100坪と大田原市大和久100坪は広さはいいが不便だという。大田原市富士見は分譲地の中にあり、スーパーやコンビニが歩いて10分程度のところにあるという。当時住んでいた神奈川県秦野市の自宅は、敷地が42坪しかなかった。田舎では50坪は狭いとおもわれるようだが、私は十分だと踏んだ。予算も限られている。上下水道が完備していることも決め手となった。他の二つは100万円近くはする合併浄化槽を設置しなければならないが、ここは直接下水に流せるのだ。

 土地の購入を決め、建築業者を田舎の甥に紹介してもらった。ここまで子供には内緒で進めた。そして、

――栃木に家を建て、息抜きに月2回ほど行きたい

 と、娘に言った。どう反応したかは覚えていない。

 それから半年ほどして栃木の家は完成に近づいた。私は一時たりとも手を離せない介護の身なので、業者まかせでそれまで一度も見に行くことは出来なかった。業者は不安を感じたようで、

――棟上げのときは都合をつけてぜひ現地においでください、一度は見ていただかないと

 と言った。娘に妻を預け、現地に出向いた。

 バス停から歩いて10分、閑静な分譲地であることも、小さいながらもしっかりした骨組みの家にも満足した。完成後は二週間に一度、妻を娘に託してそこに行って一泊した。
 

 介護自体は「楽しく介護する」と標榜していたので、その言葉通りでつらいとはおもわなかったが、四六時中手が離せず、娘を頼まなければどこにも出かけらないことがつらいといえばいえた。二週間に一度にすぎないが、神奈川から離れて自由に羽ばたくように栃木に行けて一泊できたことは今振り返ってみても至福の時間だったとつくづくおもう。

 夏休みの時期に介護タクシーを頼んで、一ヶ月滞在の予定で大田原市の家に出向いた。ストレッチャーに妻を乗せて、四時間以上かかってやっと到着した。

 あらかじめ依頼しておいた介護ヘルパーが、次の日から来てくれた。神奈川と比べて道は広く、歩いて二、三分のところに公園もあって、神奈川と違い妻を抱えて散歩させるのも何の気兼ねなく出来た。小さくとも居間は17畳ある。これは雨の日に妻を歩かせるため広くとったのである。

 一週間生活して、神奈川には帰らず、栃木に居つづけることに決めた。第一の理由は介護タクシーに乗せて神奈川と栃木を行き来するのは、妻に負担が大きすぎるとかんじたことだ。妻をストレッチャーに載せてベルトで固定しての四時間余にもわたる移動である。痛ましすぎる。それに、介護は病人にも介護人にも、自然環境がいい栃木でするべきだ、とおもえた。電話すると二人の子供はそれぞれに強い言葉で私を非難した。何と言われようと、私は反論しなかった。しかし、私の決意は固かった。心の中で、

――俺は俺で生きる、お前たちの世話にはならない、お前たちももう俺を当てにせず、自分で生きろ

 そう呟いていた。

 3年後妻が亡くなって、兄の勧めに従って、淋しさをまぎらわせるために、当座は十日に一度ぐらい神奈川に出向いたが四、五度ぐらいであとは次第に足が遠のいて、そのうちに行かなくなってしまった。ある親族の連帯保証人になったがために神奈川の家がなくなってしまったということもあるが、現在の同居人と知り合い、やがてその家に移り住んだことが大きい。

 そして現在は全く神奈川に出向いていない。そうなってから、もう五年以上はたつ。
田舎に戻るとおもい考えたことは完全にその通りになったことになる。

ここまで書き綴る途中で、興味深い出来事が起こった。

というのは相方の妹さんのことだ。お腹がしばしば痛み、それもかなりな痛みだっだのだが、我慢して仕事をしていたのだという。しかし、先日七転八倒するような痛みに襲われて救急車を呼んだのである。検査を受けると、胆嚢に胆石があって、胆管に詰まっていたのだった。

 これまで病気らしい病気をしたことがない気丈な方だった。私と相方が一緒になったことを初めに喜んでくださった方で、何度もお会いしているが、勝ち気で気が強いという印象である。整体院を開いていて、私も腰を痛めたとき施術を受けたが、主として肘を使って身体の各部に圧を加え、筋肉の凝りを取って、身体のバランスを整えるという独特のやり方なのだった。1時間半にも渡る丁寧な施術で、私の腰痛はぐっと軽くなったものである。

 胆石を取る手術を受けると聞いて、当然当分は整体も出来ず、弱ってしまうだろうな、というのが私の感想だった。彼女は私よりも二つ年下だから七十代に入っている。七十代になれば肉体的な衰えは否めず、多くが病気をきっかけとしてぐっと弱ってしまうのである。相方は、他の二人の妹と見舞いに行く相談をしていた。

ところが、である。

見舞いになど来る必要はない、という。そして、手術を早めて貰い、明日に決まったという。ええーっ、と相方は驚いて、それでは手術が終わって適当な日を選んでの見舞いにしようと他の二人の妹と電話で相談をし直しはじめた。

 私もそういう方面には疎いので詳しくはわからないが、手術といっても一昔前とは違って、メスで切り開くというのではなく、口から内視鏡を入れて、胆管まで差し入れて何らかの方法で取り除くのかもしれない。例えば石を砕いてしまうとか溶かしてしまうとか。

 そうこうしているうちに、なんと手術当日の夕方、本人から電話がかかってきたのだ。

――手術終わったわ

 ええーっ、と相方は驚いて、

――もう? それで大丈夫なの

――平気よ、明日退院することになったわ

――ええっ、だって手術したばかりでしょ、本当なの

――ホントよ

――でも、術後は経過を見るから退院は三日後になるって言ってたじゃない

――それも早めてもらったのよ

――そんな・・・、

 相方は絶句してしまった。すると、

――姉ちゃん、ワタシ病気なんかじゃないから、たかが、胆管に石がつまっただけじゃない、その石を取ったら、終わりよ、病院なんかやることないから退屈で退屈で、居られないわよ、主治医に頼んだわ、整体の患者さんが待ってるから、早く退院させてくださいって、そしたら、経過をみないとというから、これだけ元気でぴんぴんしているんだから大丈夫よ、といったら、三食食べて何事もなければ退院してもいいです、これは病院の決まりなんですという。だから、夕食もう食べたわ、あと二食、明日の朝と昼食べて、明日の午後にはワタシ退院するわ

 相方はあっけにとられて聞き入るばかりだった。

 手術の前の日、相方が妹さんとスマホでの話の途中で、私に何か言ってやって、とスマホを手渡しされたのである。もしもし、大丈夫ですか、ととりあえず言ってみると、

――いや、酷い目にあいました

 と言うが、とても病人とはおもえない明るい張りのある声なので意表をつかれた。あ、この方めげてはいないな、と瞬間的にかんじた。酷い目というのは、お腹が痛くて七転八倒したことをいうのだろうが、それはもう過去のことになっていたのだろう。

 普通は胆石があると医師にいわれただけで、精神的に打撃を受けて、すっかり打ちのめされて、重病人になってしまう例が多い。それがたかが胆石だととらえ、取ってしまえば終わり、という。強いな、と私はおもい、感銘を受けた。

 後日譚である。

 救急搬送されて手荷物だけは連れ添いに持ってきてもらったものの、見舞いは辞退、聞きつけた数人が病室を訪れたが見舞い金の熨斗袋は全て返したというし、退院後タクシーを使おうとしたのだが、丁度病院前のバス停にバスが止まっていたので、そのバスに乗って帰宅したという。

 何という気丈だろう。

 そして、極めつきは、退院した翌日に、はや整体のお客さんを受け付けて施術したというのだから恐れ入る。相方が心配して電話してもいつも通りの明るさで、応対し、

――だって、あなた手術のとき麻酔したのでしょう

と、相方が言うと、

――それはしたわよ、でも、一日すれば麻酔なんか覚めるわよ

 と平然と答えたというから、痛快というか、あっぱれと言う外はない。こうなると豪傑である。

 ――たとえ肉体が病むとも、心まで病ますな

 言い回しは少し違うかもしれないが、私が敬愛する哲学者中村天風の言葉である。

 凡人は肉体が少しでも具合が悪くなると、めげてしまい精神的にまいってしまい、ますます具合が悪くなってしまうという例が多い。相方の妹さんは中村天風を知っているかいないかわからないが、天風がいうところの真理を身をもって実践しているといえる。

 なぜ凡人が具合が悪くなると精神的に落ち込んで更に悪くなってしまうのかというと、自分で自分に悪い暗示をかけてしまうからである。

 人に暗示を働きかけるものは、言葉、文字、行動、現象、などがあるが、要するに凡人は、胆嚢に石が出来てしまったということは大変なことだ、悪いことだ、更に悪くなってしまうかもしれない、というような自己暗示をかけてしまうのである。つまり自分で自分に悪くなるという暗示をかけているのだ。

 しかし、秀人は肉体が病んでもそれを更に悪くするような愚は犯さない。言葉は特に強烈な暗示力を持っているのだ。例え肉体が病んでも、秀人である相方の妹さんのような人は、胆石という凡人なら怖れる病気でも平然として、胆石がただ胆管につまっただけじゃない、ワタシ病気なんかじゃないから、見舞いに来る必要なんかないわよ、と言うのだから、これは自分で自分に強いプラスの暗示をかけているのである。病気が快方に向かい、治ってしまう由縁である。

 当文の当初の意図は、人がおもったり考えたりしたことはその通りになるということを、私のこれまでの半生のうちの幾つかの例を挙げて、実証したいと書き進めたのだが、その途中で相方の妹さんの話が飛び込んできたのである。

 衝撃的ないい話だったので、これは皆さまにも披露した方が、私のことなんかよりいいかもしれないと、方針を転換して記述した次第である。

 私のこの人と添い遂げるというおもいがそうなったのは、一貫終始自己暗示をかけつづけたからだし、田舎に戻るということも同じである。

 相方の妹さんも重病にもかかわらず、自分は病気ではないと暗示をかけて克服してしまったのだ。

 要はいい暗示をかければよくなるし、先の凡人のように悪い暗示をかければ悪くなってしまうのである。それが真理である。

2019年06月23日

開拓者魂

 私は那須塩原市(旧西那須野町)の三区町出身である。

 そこは那須野が原開拓の村で、私は明治時代に入植した先々代の末裔に当たる。そこの入植者の多くははるばる長野から来たと聞いているが、先々代はごく近隣の現矢板市の片岡からで、生粋の入植者とはちょっと違っていたようだ。

というのは、先々代はとある神社の神主の長男で後を継ぐわけだったが、妻と姑の折り合いが悪く、先々代は妻のために神職を弟に譲って、開拓の村に入植する道を選んだという。着の身着のままの入植者とは違って、いくばくかの財とともに入植したために、水車小屋を持ち、山栗を拾って町でそれを売り帰りにその日の米を買って帰るというような貧しい村人もいたというが、先々代の家族はそれなりの生活が出来たようだった。

この先々代は村の中央に位置する光尊寺という寺の建立に尽力、ために実家のお墓は墓所真ん中奥の一等地を与えられたという。寺には大きな銀杏の樹があって、子供の頃、報恩講という秋に行われる寺の行事に連れられていかれたとき、鐘が突かれるたびにゴーンというその響きの空気振動によって、銀杏の実つまりギンナンがバラバラと落ちたことがいまだに印象深く脳裏に刻み込まれている。

先々代の息子つまり私にとっての祖父は村会議員も務め、困っている人がいると、自分が困っても物を与えてしまうような豪快な性格だったという。母はその祖父に「デビ」と呼ばれたという。デビとは当地では普通額が出っ張っているという侮蔑と揶揄いの言葉なのだが、祖父は息子の嫁に親しみを込めた愛称として使ったのかもしれない。母はデビと呼ばれても、嫌だった様子はなく、祖父には可愛がられたと懐かしそうに述懐したものである。

さて、私は開拓の入植者の末裔であることを普段意識することはないが、折に触れてその血筋を意識することがある。

――斎藤君はおとなしそうな顔をしているが、おもい切ったことをやる、やることが大胆だよ、西那須野の開拓の人にはそういう人が多い気がする。俺のような旧村の人間にはとてもできないことを斎藤君は平気でやるものな

 大田原市の佐久山地区生まれのある友人の言である。

 彼の祖母は佐久山城主に仕える腰元だったとのことで、要するに生粋の旧村の生まれなのだ。

 まだ二十代初めの頃のことで、それまでは私は開拓の村と旧村を比較して見るということはなかったが、彼の言以来意識するようになったのである。

 彼がいうところの私の大胆さというのは、東京消防庁に就職したのに一年で辞め、大学に入りなおして教員の免許をとり、生家から通える学校に就職したのにそれもあっさり辞めて、横浜に行って結婚したことなどを指しているようだった。

 当時はどうともおもわなかったが、東京消防庁を辞めるときも親をはじめとして何人もの人からもったいない何故やめるといわれたし、学校もなかなか入れない地区に就職出来て羨ましがられたものなのに何で、と多くの人から不審がられたものだ。

 横浜に行って結婚しても落ち着くことはなかった。学校を辞めて植木屋になろうとしたが、うまくいかず、学習塾を開いた。しかし、個人でやっているうちはよかったが、人を雇って大規模にしようとして失敗した。後でわかったことだが、私立の学校を横領でクビになった男を雇ってしまい、この男の出鱈目な教え方に苦情が殺到、アルバイトの学生には急に休まれたりもして、塾生が急減し始めた。結局始めた進学塾は二年しかつづかなかった。私は単独ならかなり能力を発揮できるのだが、人材を見極めるとか、人を使う能力、そして自身の経営力はゼロに近いと悟らざるを得なかった。

 安定が一番との妻の願いを聞き入れ、再び教師として東京都に就職した。このころから小説を書き始めた。

 今は下火であまりお目にかかることもなくなってしまったが、小説同人雑誌が隆盛の頃で、ここからプロの作家が多数巣立ったものだ。私も書き始めて間もなく、当時権威のあった文藝春秋社の文学界の同人雑誌評のベスト5のトップに2度あげられた。デビューのチャンスだったのだが、力んでしまい、そのあとがつづかなかった。二番手三番手の文学賞はいくつか貰ったが、それどまりだった。

 ちょうどその頃妻が病を得てしまい、介護に入っていかなければならなかったことも重なったのだが、しかし、それがデビューできなかった原因ではないとおもっている。要するに当時文学的な行き詰まりを打開できなかったということなのだ。

 それから約三十年がたったが、やっとというか力みがとれ、自分なりの文章が書けるようになったな、とかんじる。このブログのいくつかを読み直してみても、そうおもえるのである。

 ところで開拓者の末裔としての血を意識するようになったと書いたが、七十年余の半生は「新たなる挑戦」の連続だったとおもえるからである。

 那須野が原の開拓者は、不毛な那須野が原を切り開き、そこに新たな田畑を作り出したのである。その血筋を改めて意識したのは、十年前現在の住居に相方と同居するようになった前後である。

 当時相方所有の土地は荒れ果てていた。日々の食用に当てるための田畑はともかく、屋敷外の竹藪、雑木林、あぜ道、など雑草や篠や蔦類がはびこり、荒涼としていたのである。要するに相方一人では屋敷周辺の手入れで精一杯だったのだ。交際をはじめて間もなくの頃、彼女が刈払い機を背負って斜面を這うようにして雑草を刈っていく様に、度肝を抜かれた。

ご存知のように刈払い機はエンジンでのこぎり歯を回転させて、雑草を刈るのである。平地だって危険な作業なのだ。それが急斜面である。私は回転するのこぎり歯が何かに当たったり、バウンドしてしまわないかとハラハラしなから見守った。そして、これは何とかしてやらなければ、とおもったものである。

 その頃はまだ同居するつもりはなかったので、大田原市の自分の家から自転車で片道50分かけて通った。朝作業を始め、夕方大田原の自宅に戻る。手始めに屋敷裏手の篠がはびこる200坪ほどの角場を下刈り始めた。篠だけではなく灌木、太い蔦類などが絡み合ってジャングル化していたので、一日一二メートルしか進めない。結局そこを刈り終えるのに一ヶ月ぐらいかかってしまった。

 その途中で開拓者魂が目覚めたのだとおもう。ついでだから、全部やってしまおうと決意し、まずは丘の上にある墓所までの道の篠を刈り始めた。そう、道に篠が生え茂っていたのだから、「道なき道」になってしまっていたのだ。雑木林の下刈り、といっても篠藪と化していた山林全体を退治したといっていい。私は作業しながら、これは開拓だな、とおもった。開拓者の末裔が開拓魂に駆られて土地を開墾している、とはっきりと意識した。

 そして、篠退治を始めて二ヶ月たったころだとおもうが、大田原市から自転車で通うことをやめ、彼女の家に移り住んだのである。もう1時間半もかけて往復するのは無駄だ、と考えたのだ。

 結局土地全体をやり終えるのに半年かかった。

――これだけやるのは大変だったでしょう

 と、言った人は多い。それに対して、私は、

――大変だ、とおもえば、大変になってしまうんです、だから、私は大変だとはおもわないことにしているんです

 と応えることにしている。別の言い方をすると、大変と口にしたと同時に大変になってしまうのだ。ではどうおもい、どう口にすればいいのか。

――楽しい、嬉しい

 でもいいし、

――遣り甲斐がある

 でもいい。そうおもい、そう口にすれば、そうなるということなのだ。

 ともあれ、開拓者の末裔である私はときに開拓者魂が目を覚まし、それは「新しい挑戦」という形で発現するのである。

 私は直接的には聞いていないのだが、今年の初め頃、相方は四十代の中国人のお客さんにこう言われたのだという。

――小口さん、米野菜を作って、民宿やってるだけで、満足していたんじゃだめですよ、発想の転換をするべきです、パソコンだってスマホだって、今は一年じゃなく、半年で変わってしまう時代でしょう、私は日本に来てイオンに勤めたが辞めました、イオンにいたって、長年働いてせいぜい支店長止まりですからね、でもワタシは発想の転換をして、貿易会社を始めたのです、中国人の爆買いに目をつけました、中国人がわざわざ日本に来て爆買いをするんだから、わざわざ日本に来なくていいように、ワタシが買って中国に送って売るのです、今私はその会社の社長です、ハハハ

 なるほど、と私はおもい、その中国人に刺激を受けた。

 考えてみると、私は常に発想の転換を図ってきたようにおもう。

 キャンプ場のすぐ隣の楓林の東側に推定数千本の矢竹があるのだが、矢竹は横笛に向いているとのことだったので、横笛愛好家向けネットショップ「竹農園」をオープンしたのもそうだし、植木屋に貸していた土地を全部返してもらい、柿を100本余植えて、竹農園を柿農園に改名したのもそうだった。

 そして、閃きによって柿農園の丘の上にキャンプ場を開設したのもそうである。

 ところで旧村と開拓村との違いであるが、最近こんなことがあった。地域の役員が何らかの書類を持って訪ねてきた。この人は五十代ぐらいで、旧家の御曹司である。要するにれっきとした旧村生まれといっていいが、相方がキャンプ場の話をすると、こう言ったという。

――そうですか、そんなにお客さんが入ったのですか、しかし、都会の人はどうしてこんなとこでキャンプなんかやって楽しいんでしょうね

 要するに、この方はこの地の良さがまるで分っていないのである。自分たちが住む地の良さが分からなければキャンプに来る人達の気持ち、楽しさも、嬉しさも想像できないたろう。旧弊やしがらみに曇った旧態依然の視点でしか見られないから、この地の素晴らしい豊かな大自然の美しさに気づかないのである。当然この地でキャンプすることの意味など理解できないわけなのだ。

 こういう旧弊やしがらみにどっぷりつかっている人には、私が言うところの新しい発想も、中国人が言うような発想の転換も出来ないに違いない。

 冒頭で友人が言ったところの旧村生まれと開拓の村生まれの違いとは、前者は旧弊や田舎のしがらみにどっぷり漬かってしまっているためにそれに捉えられ身動きが出来ない、要するに自由な発想ができないのだ。それに比べて、後者は既得権益もなければ守るべきものもないので身軽で、動きやすく、新たな挑戦が出来る。皆が皆そうではないだろうが、そういう傾向があるということなのだとおもう。

 ともあれ、開拓者魂で発想した我がキャンプ場は五月の連休予想を越えた入場者で賑わい、現在夏のキャンプの季節に向けて、整備しているのだが、民宿の方にははるばるカナダから予約が入り、キャンプ場もぼちぼち予約が入り始めている。

 キャンプサイトに移植した芝も青く芽が吹き、道に蒔いた芝の種も間もなく芽吹くものとおもわれる。

 二年後ぐらいになってしまうだろうが、全面芝生の丘の上のキャンプサイトや道路をイメージしながら、農作業や整備にいそしむ毎日である。

 

2019年06月10日

カラスと蛇

耕運機で畑を耕し始めると、どこからともなくカラスが飛んできて、すぐそばに舞い降りる。そして、耕運機が耕した畑の土を突っつき始めるのである。一羽のこともあれば二羽のこともある。

 このカラスは私に慣れているというか、私が追い払ったりせず危害を加える恐れがないので安心して近寄るのだろう。場合によっては一メートルぐらいのそばまで来るのである。何をしているのかというと耕運機が土を掘り返したときに出てくる虫やカエルを啄んでいるのである。

 私はカラスが舞い降りると、おー、来たか、と口の中で呟くだけで仕事を続ける。近寄ってくるから可愛いが愛玩するというわけではない。よく見ると、頭も羽も黒く、目は不気味に鋭く、上嘴が下向きに湾曲していて黒光りしている。このカラス私が生ゴミを捨てたあと気配を感じてふっと後ろを振り返ると、もう捨てたばかりの生ゴミをほじくり返していたりする。そんなとき私はぎょっとしてしまうのである。

 うちの愛猫クーは猫としては珍しく、散歩に出ると私の後を追うようについてくることがある。黒猫なのだが、愛犬モモも茶色が混じってはいるか黒い。愛犬モモは散歩に出ると元気がいいので、私が引くというよりも私が引っ張られるようなかんじになってしまう。

 いつか、相方が笑いながら、

――清昭(私の名)さんは桃太郎じゃないけど、家来として犬と猫とカラスをひきつれているのね、どれも黒いから笑っちゃうわ

 という。

――猫とカラスは私の後をついてくるけど、犬は違うよ、犬が私をひきつれているようなもんだもの、ハハハ

 私もいたずらっほく言ったものである。

  カーン、コーン、というような声がすることがある。キツツキである。朝方とか昼頃で、あれ今頃キツツキかと不審をかんじ、周囲を見回すと、電線にカラスが止まっているのが見える。キツツキではなく、カラスがキツツキの真似をして鳴いていたのである。九官鳥やカラスが人間や他の鳥の真似をするという話は聞いたことがあるが、実際に聞いたのは初めてて、私は珍しさに驚くと同時に、てっきりキツツキだとおもったのにカラスだったので思わず笑ってしまったものだった。カラスはどれも似たような顔をしているので断言はできないが、多分よく私のそばにくるカラスである。それからというもの、キツツキというかカラスのキツツキの真似をよく耳にするようになった。キツツキの鳴き声は独特であり、カラスにとっても印象深く真似をするようになったのかもしれない。

 相方と一緒にサツマイモの苗を植える畑を耕していたとき、

――あれ、蛇が死んでるわ

 という。見ると長さ1mぐらいのシマヘビが頭をひっこめた感じで動かないでいる。

 白っちゃけた色でぴくりともしないので死んでいるのかもしれないとおもったが、そのまま作業をつづけた。次の日そこに行ってみると、同じ場所に同じ格好でヘビがいた。そこは畑の端だがサツマイモの苗を植えるところなので、やむなくトウグワをヘビの下に入れて移動するべく持ち上げた。すると、ヘビが動いた。死んでいるわけではなかったのだ。ヘビを畑の外に出した。動きは鈍く、死んではいないが弱っているようだ。元気ならにょろにょろ這ってどこかへ逃げるだろうに、私に出された場所で動かなくなってしまった。私はそのまま作業をつづけ、一時間ぐらいしてからまたそこに行ってみた。ヘビはそのままで腹の一部が何かを飲み込んでいるのだろう、ぽっこり膨らんで、太陽の光にてらてら光っている。太陽の光に晒されたままでは、干からびて完全に死んでしまうかもしれない。私は作業で抜いた根っこつきの草を、ヘビの腹や身体が隠れるようにかぶせてやった。

 動物にも人間にも自然治癒力が備わっている。人間は薬を飲んだり手術をしたりして病気を治す方法を持っているが、動物は自然治癒力に頼るしかないといってもいい。

 我が家の犬も猫も何らかの原因で体の具合が悪くなると、例えば食欲がなくなって元気がないというときはひたすら蹲ってじっとしている。そして、自然に食欲が出元気になるのを待つのである。すると、一日二日たち三日もすると徐々に食べるようになり、元の元気を取り戻すのだ。

 畑に行ってヘビがいるあたりを通るとき何度かどうしているか確かめた。すると、二日たったときヘビの姿がなかった。ヘビもうちの犬猫のように私がかぶせてやった草の陰でひたすら体力が戻るのを待っていたのだろう。シマヘビは田んぼや畑のカエルやモグラや虫などを食べて生きているのだ。人間は蛇というと目の敵にするが、農家にとっては有難い生き物なのである。私はシマヘビが生き返ったらしいことにホッとするものをかんじ、ヘビがじっとしていたあたりを見回してから畑の作業にかかったものである。

 ヘビなど半年ぐらいは見なかったのに五月に入ってから目にするようになり、復活したシマヘビを合図のように立て続けに蛇にお目にかかるようになった。

 サツマイモを育てるのにマルチと呼んでいるのだが、黒いビニルを土にかぶせる。これは草が生えるのを防ぐためのものである。しかし、雑草の繁殖力は凄まじく、ビニルが古くなってもろくなって少しでも穴が開こうものなら、そこから頭を出し繁殖するのである。その畑はビニルを惜しんで古いものを使ったものだから、穴が一杯あったらしく、雑草の繁殖が甚だしく、まるで荒れ地のようになっていた。こうなるとビニルなど張らなかった方がよかったとおもえるぐらいである。なぜかというと、ビニルを張ったままでは耕運機で耕せないから、張ったビニルを取らなければならない。ビニルをはぎ取ろうにも雑草の根がはびこっているので破れてしまう。だから、雑草を抜いたり、土を剥いだり、破れたビニルを草の根からはぎ取ったりと、ひどく手間のかかる作業になってしまった。

 その作業の最中ビニルを剥いだとき、ヘビがとぐろを巻いていた。私は吃驚して声をあげてしまったが、ヘビも驚いたようだ。温かいビニルの中で冬眠していたのか、あわてて身を起こして、穴の中に潜り込んでいった。長さ一メートル弱ぐらい、復活シマヘビよりもやや小ぶりのシマヘビだった。一、二秒で尻尾まで見えなくなった。

 それから次の畑でも、マルチの下に長さ五十センチぐらいのシマヘビが潜んでいた。この日は一日で二匹のシマヘビにお目にかかったことになる。

 マルチを剥がすために雑草の根や土との格闘を終え、耕運機を持ってきて、そこを耕し始めた。すると例のカラスがどこからともなくやってきて、いつものように耕運機が掘り起こした土を突っつき始めた。私が使っている耕運機はミニ耕耘機で小さい。小回りは効くのだが、馬力がない。土をより深く掘り起こすため、私は取っ手に乗りかかるようにしながら運転するのだ。と、何か微かな異変をかんじた。耕運機の下の、私の足元にヘビが姿を現し、ぐにゃぐにゃ身もだえしている。やってしまったか、と心がチクリと痛むがどうにもならない。耕運機のスクリューが土の中にいたヘビを掘り起こしてしまったのである。耕運機のスクリューはいわば鋭い刃物である。まともに蛇の体に当たったとしたら、体は真っ二つに裂けてしまうだろう。通り過ぎて振り返って見ると、ぐにゃぐにゃしていたヘビはすぐに土の中に潜り込んでいく。しかし、尻尾が十センチぐらい出た状態で動かなくなり、その尻尾がピクピク小刻みに震えている。耕運機のスクリューにまともには当たらなかったが、体のどこかをかすめたかして傷を負ったに違いない。

 悪い予感がよぎる。カラスがヘビに気づかないか。私は耕耘機を止めた。そして見ていると、案の定、カラスがふるえているヘビの尻尾の方に行った。私はまずいことになったな、とおもいながら見ていた。ヘビは傷ついて体を痙攣させているぐらいだからカラスに食べられてしまうかもしれない。憐れだとおもうが動物の世界は弱肉強食だからどうにもならないとおもう。

 カラスがヘビの尻尾を咥えて引っ張る。カラスは人間と同じように足を踏ん張っている。五センチぐらい引っ張りだされてしまったが、何とか堪えたらしく、それ以上は蛇の体は姿を現さない。カラスは気を取り直してもう一度引っ張ろうとする。しかし、動かない。カラスは二度三度と引っ張るが、ヘビは必死に耐えているようだ。そのうちにカラスはダメだとおもったか、飽きてしまったのか、咥えていたヘビの尻尾を離した。すると、ヘビの尻尾がするすると土の中に入っていく。カラスは諦めたらしく、そこから離れ飛んでいってしまった。ヘビは最後の力を振り絞ったのだろう。私はホッとしたものをかんじながら、ヘビが潜った土のあたりをあらためて眺めた。

 そして、また畑を耕す作業に戻った。

 

2019年05月27日

柿農園を訪れる人々

 相方がアロエベラジュースのネットワークを手掛けている関係で、これまでも我が家を訪れる人は多かった。

 但し、私たち二人が高齢なので、そのほとんどはネットワーク関係の同年代か幾分若い六、七十代の人たちだった。それも近隣ではなく、東京や埼玉など首都圏から来られるのである。

 当地は限界集落といってもいい鄙びた村で、道を通る車さえ日に数台あるかないかぐらいなのだ。だから、車がひっきりなしに出入りしている我が家は目立って、新興宗教でも始めたのではないかという噂がたったぐらいである。

 そして、三年前大田原ツーリズム社からの農泊ツアーの小中高生を受け入れるようになり、次いで二年前から宿泊予約サイトに登録してから一般のお客さんも入るようになった。
 小中高生はとびきり若い十代の若者だし、一般のお客さんも若い方が多いのだ。これで我が家の来訪者の平均年齢がぐっと下がった。

 一般のお客さんは八割方が二十代~四十代の若者である。これは、我が柿農園が鉄道の駅から離れた辺鄙な場所にあることが関係している。

 私たちの同年代だと車を運転して来る例はあまりない。JRの電車で来る場合宇都宮線の野崎駅下車でタクシーで30分かかり、料金も約6千円と高いので相方がいつも車で迎えに行っていた。昨年から高齢になったのでもう迎えには行けないと宣言したところ、電車で来訪する人はぐっと減った。どうしても来たいという人は、車の運転が出来る人を頼んで来られるようになった。

 車を運転が出来る人が高齢者の場合、我が家にまっすぐ来られずに、道に迷ってしまい、途中まで迎えに行くことがしばしばだった。

しかし、若者は場所が辺鄙であろうがなかろうが関係ないようだ。情報を収集し興味を持ったり、必要性をかんじれば行動するのだろう。そして、こちらで何の説明をしなくとも、スムースに我が家に到着するのである。到着の時間が分かれば迎えに出るのだが、あるときなど気がついて外に出たところ、ちゃんと車庫に車が入っていて、ドアを開けてお客さんが下りられるところだったので、あっけにとられおもわず笑ってしまったぐらいである。

 高齢者と若者との違いはどこからくるのか――

私と同年代はまずパソコンができない。携帯もジジババもので、スマホを使いこなす人は少ない。だからネットの使い方など分からないのだ。車にカーナビがついていても、それを使いこなせない人が多いのである。道に迷ってしまう由縁である。

それに比べて、若者はスマホを駆使して、ネットを検索し、常に最新情報を得ている。我が家のような辺鄙な場所でもスマホの道案内アプリで最短の道順を把握し、道に迷うことなくやってくるのである。

さて、我が柿農園では、キャンプ場をオープンし、4月27日に初めてのお客さんが入った。
10連休中に計33組、連泊されたお客さんもいるので、大人子供を含めのべ約160名のお客さんがキャンプ場に宿泊された。ほとんどが二~四十代の若い人で、五十代以上は一割程度か。半数は子供で乳幼児も多かった。車で来るのでキャンプに乳幼児も同伴出来るんだ、と私は初めて知ったおもいだった。

民宿の方も9日間お客さんが入った。三組で計13名のお客さんだった。一組は6泊された。我が柿農園始まって以来の長期宿泊である。のべ人数にすると計43名である。

キャンプと民宿を合わせるとのべ約200名のお客さんが来られたのだから、かなりの賑わいで、私共二人は大忙しだった。食べている暇がなく、きちんと食事がとれなかったせいで、連休最終日お腹が凹んでいるいることに気がついた。体重計に乗ってみると55kgしかない。普段は58~59kgだから3~4kg減ったわけだ。相方もやはり3~4kg瘦せたという。こんなに急に瘦せるのはいけないと、それからはきちんと食べることにしたところ、一週間もしないうちに二人とも元に復した。

200名余のお客さんが入ったというと、皆さん、えーっ、そんなに、と驚かれる。私からしてきちんと数えてみて、そうなることに気づいて驚いたぐらいだから無理からぬことである。

――そんなにお客さんが入って、人を雇わないで二人だけで対応したの?

――それはそうだよ、人なんか雇えない

――それだけの人数を、二人だけでやったなんてスゴいじゃない

 言われてみればそうだが、民宿は素泊まりか朝食付きだけだし、キャンプは食事無しだから出来たのである。今後は民宿も素泊まりのみにすることにしたので、食事を作らないで済む。その分楽かもしれない。

 200名からのお客さんの対応は初めてのことで、勝手が分からないことが多い分気疲れした。また、動き回るのに余計な力が入ってしまい、体力的にきつかったことは事実である。

――キャンプで出たゴミはどうしたらいいですか

 という問い合わせがあった。そのときは気軽に、燃えるゴミ、燃えないゴミ、生ゴミ、の三つに分別して出してください、と言ってしまった。ゴミを持ち帰るのは大変だろうし、面倒だろうとおもったからである。しかし、多くのキャンプ場がゴミは持ち帰りとしているところが多いとお客さんから聞いた。

 ネットで調べてみると、ゴミ出し禁止つまりゴミは持ち帰りというところが多いため、キャンパーもいろいろ工夫しているようである。

 〇食材は野菜中心で必要最低限にし、なるべくゴミはださない

 〇燃えるものは燃やしてしまう、生ゴミは細かく砕いて燃やしてしまう
などなど・・・。

 一番お客さんが入った日は9組だったのだが、ゴミが大量に出、一輪車で四回も往復して運ばなければならなかった。キャンプサイトは丘の上なのだから、高齢の身としては坂道の四往復は結構きつい。3~4kgも体重が減った由縁である。今後はゴミ収集は体力的に無理だな、とかんじた。

 それにキャンプで出た大量のゴミを集落のゴミ収集所に出すのは気が引ける。この日はゴミ収集所がうちで出したゴミで満杯になってしまったのだ。そのうち苦情が出るかもしれない。

 それで、ゴミについてはネット情報を元に、今後は、つぎのようにお願いすることにしたい。

◎燃えるゴミは燃やしてください

◎生ゴミ用バケツを用意しておきますので、ビニル袋などは取り除いて生ゴミのみを入れてください(土の中に埋めます)

◎その他の燃えないゴミはお持ち帰りください
 
 農泊ツアーの学生生徒さんは、東京横浜川崎埼玉などの首都圏だけではなく、大阪広島九州などの小中高生だった。日本だけではなく、アメリカ、台湾、ベトナムから、大学生、日本語学校の学生さんが入ったこともある。国際色豊かといってもいいだろう。

 この10連休中には民宿に中国の方が宿泊され、キャンプ場にはマレーシア、韓国の方も入られた。

 我が柿農園のホームページは最近外国の方の閲覧も多くなっている。アメリカ、イギリス、フランス、デンマーク、スエーデン、ブラジル、香港、中国、韓国、インド、・・・。

多分宿泊予約サイト「楽天ライフル」を通してbooking.com、それに「Airbnb」に掲載されたからだとおもわれる。2年後に東京オリンピックを控えていることもあり、近い将来これらの国々からもお客さんが入るのかもしれない。

ところで、一二ヶ月前、農林水産省の方から、

――柿農園のホームページを見た、取材をしたいのだが

 と電話が入った。了承すると十日後ぐらいに、二人の方が見えた。農林水産省宇都宮支局の職員だという。柿農園でやっている内容を取材して、本省に報告するといい、作っている作物や民宿の様子や年収に至るまで詳しく聞かれた。そして、

――柿を町のブランドとして認定してもらうといいですよ
 とか、

――いろいろな補助制度があるので、町に出向いて聞いたり調べたりして、可能な補助があったら利用した方がいいですよ

 とアドバイスしてくれたのである。

 考えてみると、キャンプはテントサイトを貸すだけで、シャワーも風呂もないから、お客さんは温泉に入り、食材を買ったり、食事処で食事をしたり、土産物を買ったりと、周辺で何らかの消費をするわけで、柿農園として間接的に町に貢献しているし、これからも貢献できるわけである。

 柿農園は広く、とても私だけでは手入れが行き届かない。テントサイト北側の楓林の周りは荒れ地となっているのだが、ここを整備出来ればきれいな公園にも花畑にもなりえる。キャンプ場と合わせて素晴らしい観光地となるのではないか、とおもうのである。

 そこで、那珂川町役場農林振興課に出向き、三つのことを依頼したり、説明を聞いた。

〇柿を町のブランドとして認定してもらえないか 

〇キャンプ場の北側の町道がぬかるむので砂利を敷いてもらえないか

〇キャンプ場の整備や山林の手入れのための補助制度はないのか

 柿のブランド化については大量出荷が出来なければ、難しいという。町道に砂利を敷くのは担当が建設課なので、建設課の方で実地を視察の上検討するとのことである。三つ目の補助制度については農林推進課で可能なものがあるかどうか調べて後日知らせてくれることになった。
 

どれも公的な資金つまり税金を使うのだから、審査制限は厳しいだろうと予測していたが、農林水産省の職員に勧められたと言ったからか、対応してくれた職員は3人だったがどの職員も丁重で丁寧に説明してくれた。

 感触としては町道の泥濘に砂利を敷く件が通るかな、とかんじられたがどうなるか。この案件は依頼が多く、順番に処理しているが、すぐにというわけにはいかない、というようなことを言っていた。こちらとしてはすぐにでなくともやってもらえれば「御の字」なのだ。

 キャンプ場の整備や山林の手入れは難しいのかもしれないが、キャンプ場が町に貢献していると言っただけでも意味があったとおもうのである。

2019年05月21日

直接の声


 柿農園キャンプ場は開設したばかりであり、また個人経営なので、まだまだ整備が行き届かず、整備されたキャンプ場と比べるとかなり見劣りがするかもしれない。

 しかし、それ故のよさもあるはずである。

――整備されて至れり尽くせりの施設だと、感動がないし、新しい発見もないわ、でも、ここは他にはない目新しいものがあって楽しいです

二日目に入られたお客さんの声である。私はきちんと整備されているよりもなんでもありの未整備な我が柿農園のようなキャンプ場を喜ばれるお客さんもいるに違いないとおもっていたので、やはりと意を強くしたものだった。他にも、同じようなことを言われたお客さんは何人もおられた。

――タケノコ掘りができるキャンプ場なんて嬉しいわ、湯がいたタケノコご馳走様、とてもおいしかったです

――敷地が広く、歩き切れなかったです、また来て行けなかったところも歩いてみたいでわ

――子供がのびのび遊べるので喜んでいます

――今の田植えは機械なので数時間で終わってしまうとのこと、偶然に田植えに出会えてラッキーでした、子供が田植え機に乗せてもらって喜んでいます、普段は絶対に出来ないいい経験をさせてもらいました、友達はハワイやグアムに行ったけど、ぼくはここに来られてよかった、帰ったら田植え機に乗ったと自慢するんだと言っています

 我が柿農園のホームページに、

「農園独自の発見があるかとおもいます、お子様は喜ばれるかもしれません」

 と書きましたが、あるお子さんはまだ帰りたくないとべそをかき、あるお子さんはまだここにいたいといって車に乗らず困りました、とお客さんが途方に暮れたように言っているのを聞きました。

 二泊した別の小学生の女のお子さんが、わざわざ私のところに来て、

――これから他のキャンプ場に行くのよ、わたしはここにいたいって言ったのだけど、キャンセル料がかかるからって・・・

 と言ったものだった。

 さて4月28日大雨が降った。私にとっては予想外の事態が起こった。予想外というのは、キャンプ場や道がぬかるんで車がスリップしたり泥濘に車輪がはまり込んでしまったことである。

 我が家の車は「アクア」である。このアクアで道を通ったりキャンプ場に行って乗り回したりして確かめたつもりでいた。肥料を頼んだ業者の2t車が出入りしても大丈夫だったので「よし」としていたのである。今にしておもえばアクアは小型である。ところが来られた多くのお客さんの車は大型だった。アクアとはまるでちがう。土地の表面が軟弱だと車が重いので轍が深く出来るわけだ。道もテントサイトも元は畑だったので、もともと土地は軟弱だったところに予想以上の大雨でたっぷり水を吸い込んで更に軟弱になり、泥濘ができるし、滑りやすくなってしまったのである。

東北大震災のとき周囲の家屋は屋根が崩れたり建物が傾いたりしたところが多かったが、我が柿農園は母屋も離れもかすり傷一つ負わなかった。これは土地の表面は軟弱でも、土地の下は岩盤か何かで地盤が強固なせいだとおもわれるのだが・・・。

 お客さんの車が大型なのは、キャンプ用品を積載するので当然といえばいえる。今の若い方はスマホで最新の情報を得て行動されるようだ。天気予報で当地の大雨を把握し、キャンセルされるのではないかとおもわれた。

ところが、実際に来られて道やキャンプ場の悪条件を確かめ、キャンセルされた方がお二方おられたのと、予定を早めて帰られた方が二組あっただけで、その他の方は皆さん来られたのである。このことも予想外だった。

――このぐらいの雨なんか平気ですよ、せっかくですから楽しませていただきます

 そう言って、悪路を上っていかれた方がいたのには驚いた。この方は二組の予約だったが、キャンセルすることなく二泊された。ただ、この二組のうちの片方の方の車は小型で悪路の坂を上れず、柿農園の庭に車を止めて、一輪車でテント用品を上まで運ばれたのである。本当にキャンプが好きな方なんだな、と感動を覚えたものだった。

 ともあれ、雨に備えて、道路はスリップした部分は生コンを入れ、他も砂利を敷くべく業者に依頼しました。テントサイト北側に20台程度の駐車場を新設し、テントサイトには急には無理ですが、徐々に芝を植え、一二年後には全面芝生にする予定です。

――斜面は辛いものがあります、せめてテントを張る部分だけでも平らにしていただけるとありがたい

 と言われた方もいる一方、

――斜面のせいで枕なしで寝られて快適でした、高い方を頭にして横になればいいのですよ

 と言われた方もいたのは面白い。私としては今後夏場に向けてテントを張る部分だけでもある程度平らにしたいとおもっている。

 テントサイトの西側の木の間にテントを張られたお客さんが、

――いやァ、下がチクチクするので見ると篠が生えている。ハサミで切るのに大分時間がかかりました。それでいいかなと寝たんですが、夜中にまたチクチクして目が覚めてしまった。朝見ると、雨で篠の芽が育ってシートを持ち上げていたんですよ。植物の生命力ってスゴいですね

 と言われる。そこは私が刈り払い機で刈ったのだが、刈り切れないで残った篠があったのだ。

――手入れが行き届かず申し訳ありません

 そう言うと、そばで奥さんが、

――いいんですよ、そんなことも楽しいです、いい思い出が出来ました

 トイレのことを言われるお客さんが多かった。

――ブログ読みました。これが三ヶ月もかかって自作されたトイレなんですね、まわりの楓の木が味がありますね、それにしても自分でトイレが作れるんですね、そのことに驚きました


 私の「農園ブログ」は結構読まれていることは、私が使用しているホームページのソフトの会社「JUST.SYSTEM」とgoogleのanalyticsのアクセス解析によって把握していたが、閲覧数が分かるだけでどのように読まれているのかはわからなかった。

 しかし、今回キャンプや民宿で宿泊されたお客さんから直接生の声、感想をお聞きすることが出来た。これは何よりも参考になり、また嬉しいことでした。今後の励みにもなります。

――楽天トラベルのキャンプ場のプランの文がよかったです。あれを読んでどんなところなのか、来たくなったのです、そういう方多いとおもいますよ

 そう言っていただいて、とても嬉しかった。

 ちなみに、私のブログで一番読まれているのは「末期癌を克服した人に会った」です。これが圧倒的に多く、次いで「ハグ」です。世の中癌で悩む人や家族が多く、そういう方が検索で探しだされるのかな、とおもいます。

 連休が終わって、柿農園のホームページの閲覧数が増えているのは、キャンプに来られた方やその知り合いの方が興味を持っていただいたのかもしれませんね。

 

2019年05月10日

水洗トイレを自作した

ひょんなきっかけからキャンプ場を開くこととなった。

 ひょんなきっかけとは、農家民宿である我が柿農園を宿泊紹介サイトに登録したところ、インターネットのYahooやMSNなどのニュースサイトの広告欄に我が柿農園がときに載ることがあって、そのときサンタヒルズという同じ那珂川町にあるキャンプ場が同時に表示されることがあったのである。

 何度か表示されてから、以前一度だけそのサンタヒルズの喫茶室を訪れたことを思い出した。

我が家の周辺にはコンビニもなければスーパーもない。私は現役時代は東京で小学校教員をしていたのだが、勤めの帰りには喫茶店に寄り、コーヒーを飲みながら小説を書くのを日課としていた。そんな話をすると相方がサンタヒルズには喫茶室があって宿泊しなくとも入れるわよ、という。それでそこをのぞいてみる気になったのだった。同じ町内でもそこまでは遠く、また我が家以上に辺鄙な場所で、小説を書くのにふさわしい喫茶室のようには感じられなかったので、二度と訪れることはなかった。

私はサンタヒルズのホームページを紐解くことにした。

見ると、コテージ、バンガロー、キャンプ場などがあって、かなり大きな施設であることが分かった。

キャンプ場は25区画あって、夏場の土日曜日の予約は満杯状態である。ふと、我が柿農園の丘の上をキャンプ場にしたらどうだろう、というおもいが閃いた。サンタヒルズは我が柿農園と周辺は田畑や山林ばかりというのは同じだが、サンタヒルズが平坦な山林の中にあるのに比べて、我が柿農園には丘があって、その丘の上が平坦で、そこからは田園風景が見下ろせるのである。これはサンタヒルズ以上にキャンプ地に向いているのではないか、とおもったのである。

かくて農園内にキャンプ場を開設することに決めたのだが、その辺のいきさつは「キャンプ場経営を思いついた」に詳しく記述してあるので繰り返しません。

さて、ここではキャンプ場に自作で水洗トイレを設置することにしたいきさつを綴りたい。
キャンプ場の開設を決めてホームページに載せたところ、間もなく福島県から下見に来た人があって、トイレはレンタルトイレを設置するつもりだというと、曰く、

――仮設トイレですか、あれは汚くて臭いがするので、殊に女性の方に嫌がられますよ、水洗じゃないと・・・

 確かに私も仮設トイレに何度か入ったことがあるが、不潔さと臭いに辟易した記憶がある。かといって、水洗トイレ設置となると、費用が相当に嵩むだろう。

 ネットで調べてみると仮設トイレのレンタルなら四ヶ月で4万円で済むが、水洗トイレとなると、合併浄化槽だけで5人槽15~20万円とある。一坪の建物を建てて30~50万円、トイレの便器や洗浄便座だけでも10万円はする。あわせると安く見積もっても70万円ぐらいはかかってしまう。

 いろいろ検討した結果、水洗トイレを建物を含めて自作で建立することに決めたのである。

 というのは、我が家には杉林があって、その杉材を使って自分で建物を建てれば安価に仕上げられる、ということが大きな決め手となった。そのとき私の頭にあったのは、10万円前後で収めるということだった。

 合併浄化槽は高価なので浄化して下水に流すのではなく、自然浸透式にする。

自然浸透について何らかの規制があるか調べてみると、私が生まれた那須塩原市の条例では、

処理装置と他の施設等の外周間の距離は次のとおりとすること。

• 隣地境界まで1メートル以上
• 建築物まで1メートル以上
• 井戸その他の水源まで水平距離30メートル以上

とある。

 私がトイレを設置しようとしている場所は、隣地と100mはあるし、我が家の母屋とは測ってみたら70mぐらい。町営の水道を引いているので井戸はない。他の水源もない。

ということで、自然浸透式トイレの設置には何の問題もないことが分かった。

自然浸透式にするにしても、汚水をよりクリーンに処理して地に戻したいということで、キャンプ場までの道を造成したとき、頼んだ業者に重機で1m四方深さ1.5mぐらいの穴を二つ掘ってもらった。この二つの穴をコンクリートで固めて水槽にし、バクテリアを培養し、そこを通してある程度浄化して、自然浸透させるという作戦を考えた。

しかし、ある知人と話している過程で、コンクリートは水が染み通ってしまうということが分かった。その知人がホームセンターに行けば大きなタンクを売っているから、それを使ったら、という。

ネットで検索して、500リットル1万3千円というのを探しだした。この二つを掘ってある穴に埋設するつもりだったが、このタンクは農業用のもので地中に埋設は出来ないとあった。

そこで穴に入れるだけで周囲をブロックで保護して使用することにした。結果的には500リットルタンクを三つ取り寄せた。一つ目は汚水を貯める、二つ目はエアーポンプで空気を送りバクテリアを培養して浄化する、三つめは触媒を入れて二つ目とは違ったバクテリアを培養して、更に浄化する、そして、それを地下に浸透させる。という方針をたてた。場合によっては、業者に汲み取ってもらうことも可能な作りにしたのである。

水洗トイレは便器、洗浄便座のセットをネットで最安値3万9千円というのをみつけた。メーカーものの三分の一以下の値段である。これでちゃんと作動するのか一抹の不安を覚えたが、レビューを読むと安いがきちんと働くというようなことが何件も書いてあったので購入を決めた。

運送の過程で便器が割れてしまうというハプニングがあったが、間もなく代替品が届いたのでホッとした。

水道接続も問題なく出来、試してみると便器の水流も不具合がなく、洗浄便座も良好に作動する。いくら最安値の水洗トイレセットでもきちんと動作することを確認した。

と書くと簡単だったとおもわれるかもしれないが、私はトイレ設置など知識もなければ経験もないすぶの素人である。手探りで、三ヶ月余かかってやっと完成したというのが本当のところだった。一番不安だったのは床下の配管である。床下といっても建物も立てるのだから、建物の土台作りのときから配管も考慮に入れた。水道管を引いてもらうとき、トイレの配管の大体の場所も決めた。

しかし、建物の土台を組み立てた後が悪戦苦闘の連続だった。というのは土台が低く、その下に入ることは出来ないので、床を張る前に配管を済まさなければならない。配管を済ませてから便器を取り付けたものの便器と床下のVU管との接続が上手くいかない。便器が床から5cmぐらい浮いてしまうのだ。ここで、便器とVU管の接続の部品が合わないのは、要するに運送中に割れた便器の代替品として送られてきた便器が当初のものと別物だったということが分かったのである。

それに合う接続の部品を取り寄せるとなると、一二週間はかかってしまうだろう。便器の構造を子細に点検し、VU管とVU管を連結する部品なら便器の下部の放出口にピッタリ嵌ることが分かった。これで便器の放出口とVU管を連結させることにした。嵌め込むだけでは外れてしまうおそれがある。外れたりゆるんだりすれば、悪臭の原因となりかねない。接続部分に丹念に接着剤を塗りこんだ。それから、VU管は30cm下から汚水タンクに向かって湾曲するのだが、この部分にコンクリート片をあてがい土で埋めてしっかり固定した。これで便器の放出口とVU管の接続部分が外れることはないだろう。

こうして一番不安だった床下の汚水排水の配管もなんとかクリアした。VU管と500リットルタンクの接続もドリルで穴を開けて接着剤で固定出来た。床とタンクの穴はホームセンターで買ったドリルを使った。ドリルでの穴開けも初体験だったが、失敗することなくクリアした。

ここで最も気をつけなければならなかったのは高低差かもしれない。便器よりもタンクが高かったら汚水は流れない。途中のVU管もだんだん低くなっていかなければならない。これは目分量では分かりずらい。相方の亡くなった旦那さんは大工だったので、水平という高低差を測る器具が倉庫に眠っていた。この水平を置けば高低差が一目瞭然である。シンプルな作りの器具で、水玉が上がった方が高く、そうでない方が低いというものなのだ。幸いトイレの設置場所は丘の中腹なので、高低差がはっきりしていてやりやすかった。

さて、同時進行で進めたのが1.5坪の建物の建設である。トイレは畳一枚の広さ、つまり0.5坪があれば出来るのだが、屋根の関係で畳3枚の大きさにした。

畳一枚の建坪では建物が安定しないだろうと考えた。背の高い人もいるのだから、高さは2mはないといけない。最終的には屋根にのぼってトタン板を張らなければならない。屋根が小さくては安定しないに違いない。なにせ私は素人で、バラック小屋は建てたことはあるが、きちんとした建物は初めてである。

結果的に屋根の高さは2m10cmとなった。トタン板を張るとき、初めは屋根に上らず北側から脚立で上半身だけ出して張っていったのだが、半分までいったとき、どうしても屋根の骨組みの上にのぼってやらなければならなくなった。しかし、怖くて上れない。梯子から手を離して屋根に移るとき、周りに手で掴むところがないので、恐怖にかられてしまうのである。

見かねた相方が靴じゃダメよ。屋根に上るなら地下足袋がいいわ、という。地下足袋を買ってきて、梯子をのぼって屋根に這い上がろうとするが、やはり怖くてダメなのだ。建物自体は直径20cmぐらいの杉の丸太を土台として敷き、柱も同じ太さのものにし、建物がぐらつかないように、要所に太く大きな鉄の斜交いを打ち込んだ。その上、北、西、南各壁面に斜めに直径10cmぐらいの杉の丸太を斜交いとして釘で打ち付けたのだ。だから建物はびくともしない。しかし、恐怖感はどうにもならないのである。上に上がってしまえば平気なのだろうが、どうしたものか思案した。見ると、建物の西側近くに山法師という植木が立っている。

植木といっても高さ10mぐらいはある。それに上って屋根に移れないか。やってみたが、建物はびくともしないが、斜めに傾いている山法師は私の体重で余計に傾いでしまう。とても乗り移るどころではない。

 次に試したのは、脚立をその山法師に立てかけ縛り付けて、その脚立から屋根に乗り移るという作戦だった。これが簡単に成功したのは、脚立の一番上に乗ったとき山法師の幹を手で掴んでいられたからである。これで恐怖を覚えることなく、脚立の上に立って、またいで楽々と屋根に乗り移ることが出来たのだった。私は嬉しくて内心で、ヤッター! と叫んでしまったぐらいである。

 壁面は合板のベニヤ板を張った。これで周りに茶色のペンキを塗って終わりにするつもりだったのだが、

――どうせここまでやったのだから、丸太を生かしてログハウス風にしたらどうかしら

 と相方がいう。

 自分で使うだけなら、バラック小屋風でも構わないが、対象がお客さんだから、気合を入れて相方の考えを受け入れることにした。

 柱や屋根の骨格には杉材を使ったのだが、杉を伐採して杉皮を剥かなければならなかった。そうしないと数年で虫食まれてしまうという。これは大変な作業で、時間もかかった。外壁には虫食まれにくい、見た目もいい堅木である楓を使うことに決めた。というのは昨年の夏の台風で倒れた木があったからである。我が家の楓林の楓は公園などで見かける楓とは違って、すらりと高い。相方によると50年以上前にそこを植木屋に貸したときに植木屋が苗を植えたのだが、あまり売れずに残っていたものだという。植木屋から返されて以来そこは荒れ放題で、人が足を踏み入れたことがない場所だった。3年前、あるきっかけがあって二人でそこに行ってみて、楓の巨木が100本ぐらいある壮観に驚いたものである。その後、私が周囲を刈り払い機で篠や笹をきれいに刈ってそこに入れるようにした。その作業に10日ぐらいかかったと記憶している。

 そのうちの7、8本、それも高さ30m以上ある大木が根こそぎ台風の突風に煽られて倒れてしまったのである。周りの楓をへし折ったりして、折り重なって倒れている。そのうちの一番大きな楓は倒れたとき私の背よりも高く根が地からむき出てしまった。突風のすざましさを彷彿とさせる無残な光景である。片付けようかとおもうが、私の背丈よりも高く折り重なっているし、しなっている木もある。どこかを切ったとすると崩れて下敷きになりかねない。しなっている木に弾き飛ばされる危険もある。当分はそのままにして様子を見ることにした。その木を使おうかと考えたのだ。しかし、子細に観察すると、どこから手をつけても危険なことは明らかだった。枯れてしまうまで待つ他はない。

 結局、別の立て込んで立っている細い楓を間伐して使うことにしたのだが、それは正解だった。というのは、細いと言っても私の大腿ぐらいの太さはあり、2mの長さに切っても、一輪車で運ぶのに二本がやっとぐらいの重さがあるのだった。倒れている楓はその2、3倍の太さがあるのだから、切ったとしても運ぶことなど出来なかった。

 切っては運び切っては運びした楓を、建物の壁面に横に下から順番に打ち付けていった。

打ち付けるだけでは殺風景なので入り口の扉の近くに、私なりの飾りをつけた。丸太と丸太の間をくり抜いて、短い丸太を挟むことを屋根の下まで続けたのである。この作業はまる二日かかった。

 農業用貯水タンクを三つも買ったり、床材はちょっといいものを使った。それに、釘やネジ類などが予想以上にかかり、10万円とはいかなかったが、総工費は20万円以内で収まったのだから、まずまずとおもっている。

これで一応の完成としたのだが、

――バラック小屋よりは、少しはログハウス風のトイレになったかなァ

と、自分で悦に入っている次第である。

春先の農業は畑を耕したり種蒔きの準備でやることは限りなくあり、その合間を縫っての作業だったので、たった1.5坪のトイレ作りに三ヶ月かかってしまったのだった。

ところで、お客さんの当園内での万が一の事故やケガにそなえて、東京海上日動火災保険KKのキャンプ場保険に加入することにした。電話すると、担当者が、

――入場者数によって保険加入の金額が決まるのですが、新規開設でまだ実績がないので、見込みで年間1000人にしときますね

という。

――えっ、そんなに

と驚いてしまった。

しかし、

――それがキャンプ場保険の裁定基準の最低の人数なんです

へえ、とおもったが、言われた意味が間もなく分かった。

我が柿農園キャンプ場の、間もなく始まる5月の連休中の予約が開設後ほどないにもかかわらず、4月15日現在で大人子供含めて100人に近い数字なのである。連泊される方もいるので、延べ人数にすればとうに100人は越えているのだった。出来たばかりでまだ知名度が低いのにこの数字なのだから、夏場はもっと増えるだろうし、世に知れ渡れば、来年再来年になれば、年間1000人ぐらいはいくのかもしれない、とおもえてきた。

現在のところはオートサイト16区画だけに設定してあるのだが、丘の上は広く、雑木林を間伐して整備すれば、区画数をもっと増やすことが出来そうなのだ。夏までにフリーサイトを5~10区画増設しよう、という気になった。

保険の担当者の言葉に発奮して、入場者年間1000人あるいはそれ以上を目指して、キャンプ場の整備に尽力しようと、あらためて決意した。

2019年04月16日

乾燥芋に色を塗ってる? なんて言われた

 大田原ツーリズム社のツアー客を受け入れを初めて以来、民宿の集客に精魂を傾けてきたが、昨年末から我が家の目標とするものがちょっと変わった感がある。

 というのは農作物の出荷先が決まったからである。

 私がこの地に来て以来、ずっと出荷先を探していたのだが、我が家が那珂川町の外れであることが主な要因で、どこの直売所に行っても地区外として断られてしまった。それが相方が以前一緒に仕事をしたことがある女性がパートをしている直売所に立ち寄ったことがきっかけで、急遽そこに出荷できるようになったのだ。

 ちょうど干し柿があり、乾燥芋を作り始めていたときだったので、それを出してみたのだが、干し柿も乾燥芋も加工食品ということで届が必要だという。すぐに保健所に出向いた。審査か検査があるのかと思ったが、ただ注意事項が記されているパンフレットを渡され、口頭で注意事項を説明されたのと、書類一枚に住所氏名などを書いて提出しただけで済んでしまった。

 干し柿も乾燥芋も出したものは数日で全て売れてしまうことが分かった。大根やカブ、水菜などの葉物なども出してみたが、これらはあまり売れなかったので、当面は乾燥芋と干し柿を主として出荷することに決めたのである。

 出したものは全て売れたので、結構な収入になり、今後の計算がたつことになった。予測不可能な民宿の集客に躍起にならなくともよくなったのである。これは気楽だ。我が農園には4haもの土地があるのだから、本来生業のメインは農業であるべきだったのだ、とおもう。
 出荷し始めて必ずや何かしら問題が出てくるだろうと予測していたが、案の定三つクレームがあった。一つは切り干し大根に干しシイタケを混ぜたものに苦情があった。シイタケ栽培農家かららしい。シイタケを出荷している相方の妹さんから大量のシイタケを頂いたものだった。文句をつけた人は、我が家でシイタケを売ると自分のものに影響する、要するに自分のものが売れなくなる恐れがあると思ったのだろう。直売所側ではその苦情をを受け入れ、今後は混ぜないで、干し大根は干し大根だけで、シイタケはシイタケとして出してください、という。消費者によっては混ぜたものが欲しいという人もいるだろうに、とおもったが、出荷始めて間もないので、おとなしく引き下がることにした。

 もう一つは乾燥芋についてである。我が家では最初350gを300円でだしたのだが、やはり乾燥芋を出している高齢女性が相方に、

――うちは250gを300円にしている、お宅のは安すぎるわ

 と言ったという。うちのがよく売れるので妬んだのだろう。面倒なので、同じ300円はやめにして、以後は500g を500円で出すことにした。これでもよく売れることは続いた。そのうち我が家の乾燥芋がよく売れるわけが分かった。

 直売所のパートの複数のレジの女性が、相方に、

――お宅の乾燥芋を名指しで、買いに来られる方がいるわ

 と言った。

 クレームの極め付きは、相方が乾燥芋を売り場に並べていると、同じ乾燥芋を出荷に来た別の高齢女性に、

――お宅の乾燥芋、色がいいから、色を塗ってだしているんじゃないのかって、皆で言っていたのよ

 と言われたという。

――とんでもない、色なんか塗らないわよ

 言われてみて、改めて並べられている他の乾燥芋と比べてみると、我が家のは透き通るような上品な、いかにも美味しそうな黄色である。他のはそう言っては申し訳がないが、鼠色のや黒味がかったのや、黄色でもくすんだものや、で、我が家のような鮮やかさがないのである。

 我が家の乾燥芋の売れ行きがいいのを妬み心から、色を塗っているのかなどと難癖をつけたのだろうが、名指しに買いにくるというのは色がいいからというよりも美味しいからだろう、とおもう。

 相方はつづけて、

――うちでは無農薬で有機肥料をたっぷり入れて育てているから、色がいいのよ、色を塗るなんてとんでもありません

 すると、くだんの高齢女性は、不思議そうに、

――へえ、肥料なんて入れてるの

――そうよ、油粕、米糠、牛糞、それに木の葉の堆肥もたっぷり入れてるわ

――そうなの、サツマイモ大きくなりすぎるから肥料は入れない方がいいっていわれてるから、うちでは入れないわ

――あら、そう

 相方はなるほど肥料をやらないからその高齢女性の乾燥芋は黒ずんだような色をしているんだと納得したが、それ以上は何も言わずに直売所を後にした。

 私は肥料を入れない方がいいなんて、変なことを言うなあ、とおもい、ネットで調べてみた。

 サツマイモは痩せた土地でも育つという記述はあったが、農林水産省のホームページのサツマイモ栽培の方法を見ると、肥料は化成肥料なら窒素、リン酸、カリの割合が1:10:10のもの、または家畜の堆肥でもいいとあった。要するに肥料をやらない方がいいとはどこにも書いていなかった。

 相方によると、この地域ではサツマイモは痩せた土地の方がいいとか、肥料をやると甘味がなくなってしまう、と昔言われたことがあって、高齢女性はそれが頭にこびりついてしまっているのではないか、という。どうやらそういった風評をいまだに信じている人が多いのかもしれない。

 今の時代は農協で指導を受けるとか、ちょっとネットで調べれば分かることなのに、昔ながらの間違った情報を鵜呑みにして、学習しようとしない人が多いということなのだろう。
 
 そして問題なのが、こういった人のやっかみ妬む心である。

 くだんの高齢女性の、我が家の乾燥芋は色を塗っているんじゃないか、という言葉の裏にあるのは、我が家が乾燥芋に色を塗るという悪事を働いてよく売れるようにしている、ということである。難癖をつけて我が家を貶めようとする下心が透けて見える。

 私はおもう。どうしてこういう人は、

――いい色ですね、そんな色になるのはどんな育て方をしているんですか

 とか、

――おいしそうな色ですね、素晴らしいわ

 と、褒めたり、肯定したりできないのだろうか、と。

 先のシイタケ農家にしてもしかり、

――切り干し大根にシイタケを混ぜればおいしいかもしれないですね
 とか、

――調理の手間が省けていいかも

 という言い方をすればその人の品格が上がるとおもうのだが・・・

 ともあれ、この問題は我が家を名指しで買いに来る人が何人もあったということで、勝負がついたといえるだろう。もし、品質が悪いものだったら名指ししてまで買いにはこないに違いないからである。美味しいからこそよく売れるのだ。適切な肥料を施し、愛情をこめて栽培しているからこそ美味しいサツマイモが育つし、色のよい乾燥芋が作れるのである。

 クレームがあろうがなかろうが、我が家はきちんと会員費を払い会員になったのである。何を言われようが気にせず誇りを持って堂々と出荷しよう、と二人で確認し合ったものだった。

2019年02月12日
» 続きを読む