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柿農園の日々

キャンプ場一本で

 コロナ禍の中にあって、世は大きく変わりつつあることを実感している。

 インバウンドが低迷しているとか、飲食業界が危機的状況にあるといった報道に接するが、このことは我が家も大いに関係しているといえる。

 3月に民宿にカナダから予約が入っていたのだがキャンセルが入ったあたりから、暗雲が立ち込め始めた。我が民宿は早くから営業自粛したのだが、4月末には三密になりにくいと思われるキャンプ場にまで町役場観光推進課から営業自粛の要請が入ったのだった。

 そして数ヶ月がたった現在、我が家は大きな決断をした。

 営業を休止していた民宿を事実上閉鎖することにしたのである。閉鎖するという意味は、予約仲介サイトの登録を削除するということなのだ。我が家は五つの予約仲介サイトに登録していた。そのそれぞれを、Airbnbは販売停止、Expediaは登録抹消、Yacation Stayは販売停止、楽天トラベルも販売停止にした。るるぶトラベルは登録削除のための書類が届くのを待っているところである。

 民宿の予約サイトの登録をやめるという決断をしたわけは、私達二人とも高齢になって、民宿もキャンプ場も運営するのは大変になってきていたので、この際布団の上げ下ろし、布団を干したりとより労力のかかる民宿の方をやめることにしたということである。キャンプなら受付時に説明するだけの応対で済み、布団干しも台所の片付けもない。コロナ感染リスクも民宿よりも格段に少ないということもある。

 まあ、およそ3年間だったが、世界対象のAirbnbやExpedia、Vacation Stayの三つのサイトに登録したおかげで、日本各地からだけではなく、アメリカ、カナダ、オーストラリア、台湾、ベトナム、中国などの各国からのお客さんを迎えることができたのはいい思い出になったと感じている。

 加えて、小中高生の農泊ツアーもやめることにした。先日、電話での要請に続いて、大田原ツーリズムの担当者が直接訪れた。受け入れ農家が10軒ほど足りないので1回だけでもいいから何とか受け入れてもらえないか、ということだったが、断った。この農泊ツアーは、入退村式会場までの車送迎、農業体験の指導、生活指導、加えて食事の用意などをしなければならず、夜もそばにいての見守りもあって、負担の大きさは民宿やキャンプ場の比ではないのである。そしてこのコロナ禍だから、感染防止に相当気を使わなければならないだろう。高齢の二人はこの際農泊ツアーは引退して若い人に譲ろうと話し合ったものだった。

 休業要請から約五か月がたちGo to トラベルキャンペーンなるものが始まって、我が家にも事業者登録が必要だなどのメールがひっきりなしに舞い込むが予約仲介サイトの登録を抹消か販売停止しているのだから登録の必要はない。煩わしさから解放されてよかったと胸をなでおろしている。

 幸いにもキャンプ場はコロナ禍がやや下火となり、また折からのキャンプブームも相まって、我がキャンプ場にもお客様が以前よりも入るようになっている。

 コロナ禍以前には、5月の連休、8月のお盆、10,11月の連休などにどっと予約が入る以外は閑古鳥が鳴いている状態だったのだ。だから、その連休にがっちり稼ごうとサイト数を増やすべくキャンプサイトの拡張整備を進めていたのだった。

 しかし、昨今我がキャンプ場の予約様相が一変した感がある。ゼロに近かった普段の土日曜日にも数組ないし10組程度の予約が入るようになったのである。

 ちなみにこの一文をしたためている10月17日(土)は雨なのに7組のお客さんが入った。次週の24日(土)にはすでに満杯の予約が入っている状態である。

 昨年とはちがってどうやらコンスタントにお客さんが見込まれるようである。

 ただ、まだコロナ禍が完全に収まったわけではなく、すくなくともワクチンが出来るまでは、状態が大幅に改善されそうではない。

 当分は販売数は現状維持とし、コロナ収束を見据えて狭いサイトを広くし、車もテントも楽に入れるようにするべく作業を進めることにした。

 現在林間サイトとなっている場所の木は、山法師などの植木なのだ。私がここに来た十年前は、ここは篠がはびこる藪で入るのもやっとという有様だったのを私が数年かけて切り開いた。どうしてここが植木なのかというと、相方が長いこと植木屋に貸していたからなのだ。私が来てから数年後、あまり土地の手入れをしない植木屋に業を煮やして返してもらうことにしたのだった。しかし、いきなり植木を移すことは出来ない、というので2年の猶予を与えて返却してもらった。その後そこに柿などを植え始めたが、現在の林間サイトの部分だけはしばらくは手入れができなかった。

 昨年そこに入ってみて、見るからに堂々とした三叉の大木があることを発見し、そのそばに道を通せば、農園の中のひとつの見せ場になると感じ、業者に入って貰ったのだった。

 現在はそこを更に整理し、藪という感じを一掃すべく作業を進めているのである。

 ここまで書いた時点で予定が狂う事態が出現した。

 というのは農泊ツアーのことだが、大田原ツーリズム社の担当者が再度訪ねてきて、困り果てたような顔をして、

――11月の10日の仙台からの中学生のツアーの説明会を昨日開催したのですが、ある方がどうしても受けられないというんですよ、それで何とか代わりに受けてもらえないか、とお願いに上がりました。ああ、社長に、小口さんなら送り迎えをこちらでやれば受けて貰えるかもしれないと説明して了解を取ってあります

 という。

 いろいろ聞くとコロナ禍を理由に受け入れを渋る農家が多く、やっとの思いで受け入れ農家を集めたのに、土壇場になって家族の病気を理由に断ってきた人がいて、他を当たってもどうにもならなかったというのである。

 相方はその担当者には世話になったし、送り迎えをしてもらえるなら一回だけという条件で受け入れてはどうか、というので、私も承諾した。一回だけとはいっても、困ったときにはまた来るかもしれないが、毎回ではないだろうからいいかと思ったのだ。

 私の知る限り周辺には四つのキャンプ場がある。そのうちの二つは公営で、よく手入れされた公園のようなキャンプ場である。

 あとの二つは私営だが、そのうちの一つは少なくとも2年前までは栄えていたのに、最近は予約サイトを見ると「プラン検討中」とあって予約を受け付けていないようなので不審に思っていた。そのわけが先日判明した。相方がその施設がある林間を通りかかると、あたり一帯篠が生い茂った藪と化していたという。要するに手入れされない状態になっていたのである。そこはキャンプ場だけではなく、バンガローなどもある大きな施設だから、もしかすると全面的に閉鎖しているわけではないのかもしれないが、キャンプ場はやっていないのは明らかである。

 もう一つは経営者が亡くなって以来、篠藪にはなってはいないがいつも車が一台止まっているだけで、お客が入っている様子がない。

 いつか報道でキャンプ場の後継者難という記事を読んだことがあるが、我が農園とて例外ではない。

 しかし、キャンプ場運営は遣り甲斐のある仕事だと思う。

 当農園のキャンプサイトからの田園風景はこの上もなく美しく、来られたお客さんのほとんどが目を見張り感嘆のおもいに打たれる様子が見て取れるのである。

――料金が格安で、野菜を頂けた上、サツマイモ掘りもできる。整備されてきれいなキャンプ場は多いが、こんなに自然が一杯あって、燃し木を集めて燃やしてもいいところなんてないですよ

 と母親らしい女性が言うと、小学3年生ぐらいの男の子が、

――バッタもトンボもチョウチョもいる、また来たいです

 と目をキラキラ輝かせながらいうのを聞くと、キャンプ場を始めてよかったなあ、改めてと思うのである。

 ともあれ、あと10年ぐらいは現役として、キャンプ場に夢を託して、改善を重ねながら運営していくつもりである。

2020年11月03日

iphone購入を機に

 私と同年代の高齢者の場合、スマホを持っているかいないか。使いこなせるかどうか、で、その人が世の流れに沿っているかどうかが分かる、とおもう。

 私は一年前まではスマホを持っていなかった。が、必要にかられて携帯をスマホに変えた。必要にかられたというのは、民宿とキャンプ場を運営するようになって、パソコンだけでは困ることが出てきたからある。

 例えば外出したとき民宿やキャンプの予約が入ってもすぐに対応できない。外国の宿泊予約サイトAirbnbでは対応が遅れると評価が下がってしまうということが分かった。それで、スマホを購入することに決めたのである。

 プロバイダに何がしかの月額料金を払い、宿泊予約サイトからのメールをパソコンだけではなく、スマホにも入るように登録した。これで、外出していてもスマホで確認してリアルタイムに対応することが可能になった。以後しょっちゅうパソコンに張りついている必要がなくなったのだった。

 私と同年代の高齢世代にはスマホは難しいという先入観が壁となって、特に必要性もないというおもいも重なって、導入しないというのが一般的だろう。しかし、時代はスマホの進化とともに移行していて、スマホが使いこなせなければ時代に乗り遅れてしまう。スマホを持ってみて、そう実感した。しかし、スマホを持っていない人にはそのことが分かっていない、とおもう。携帯電話を、要するにガラケーだが、持っていれば不都合はないとおもっているのかもしれないが、ガラケーは2026年には廃止になってしまうのだ。

 私の場合は幸いにもパソコンに親しんできたのでスマホの操作は数日でマスターすることが出来た。

 そして、スマホをそばにおけば、便利なことが多いことが次第に分かってきた。たとえば天気予報などおもいついたときすぐにチェックできる。分からない漢字があればすぐに検索に、例えば「なんかい」と入れれば「何回、何階、難解」と出てくるので、ああそうか、「難解」と書けばいい、と分かるのだ。辞書で調べるよりもずっと早いし、楽だ。調べたいことがあれば、電車の時刻表であれ、郵便番号であれ、目的地への道順であれ、外国のことであれ、調べられることは数限りなくある。小説も読めれば、映画も見られる。だからスマホを使いこなせれば格段に世界が拡がるのである。

 さて、私の同居人である相方がアロエのネットワークを手掛けていて、ここでもスマホがある基準となっている。

――スマホをある程度使いこなせなければ、ネットワークで成功することはむずかしい

 ということは確実に言えるようである。

 彼女が付き合っているネットワークである程度の実績を残している人は、例外なくスマホを使いこなしている。スマホを持っていない人など皆無である。相方のすぐ上のリーダーはスマホに加えてIpadを駆使して、グループの人たちのフォローに余念がないのだ。

 私の周囲のアロエの愛用者を見ると、スマホを持っている人は5人に1人の割合ぐらいしかいない。要するに高齢者が多いのだが、5人中4人はガラケーである。中にはガラケーすら持っていない人もいる。アロエを愛用していない人も同じような傾向だ。

 ガラケーの人と話しても通じないことが多い。ガラケーの人は昔ながらのこと縛られていて、そこから抜け出そうとはしない。だから新しい話題には疎いし、興味を示さない。誘っても新しいことに挑戦する人は少ない。誘うと嫌がる。嫌がるどころかそのことをきっかけに離れていく人すらいる。要するに保守的なのだ。

 しかし、このところ周辺に変化の兆しが見られる。

 相方のネットワークはコロナ感染騒動以来、インターネットでZoomというアプリを使ってのオンライン会議や集会となったのだが、これまではスマホに見向きもしなかった方が、スマホを購入したのである。必要にかられ、また、世の流れに遅れてはいけないと気づいたのだろう。

 相方自身はZoomをより利用しやすくと、iphoneとipadを両方購入した。そして、ネットワーク仲間に、スマホがいかに必要かつ重要かを熱を込めて説いたのだった。その心を込めた説得に、心動かされたに違いない。

 結果、一人の方はこんな世の先端をいく電子機器を使えるようになって嬉しいと嬉々として語り、以来Zoomでの集会に参加するようになったのだった。もう一人の方はまだ十分にはスマホを使いこなせてはいないが、メールやLINEというアプリを使って、相方としょっちゅう連絡を取るようになった。もう二人の方は近いうちにスマホでの集会に参加するようになるに違いない。
 
 ところで、私はというとスマホをAndroidからアップルのiphoneに変えた。

 iphoneで撮影したという映像をYouTubeで見て、こんなにきれいに撮れるのなら、iphoneを購入してもう一度、インターネットで歌の配信をやってみようか、という気になったからである。歌の配信は今はなくなってしまったのだがGoogle+というサイトで、5、6年前にも夢中でやったことがある。合わせて11万回再生されたのだから、結構な実績といえるだろう。

 が、手持ちのデジカメでの動画だったので、当然画質も音質も悪く、また、このサイトの運営に疑問を感じたりして、嫌気がさし1年ぐらいでやめてしまったのである。そのときはDTMつまりコンピーターミュージックのソフトを使ってカラオケを作り歌を吹き込んだのだが、今回は趣向を変え、語りとギター伴奏での歌をやろうということなのである。かくて、現在のところは、最先端を行っているというアップル社のiphone11 pro max という機種を購入した。

 この機種での画像は以前のデジカメとは比べようがないぐらい鮮明で問題はないのだが、音質が内臓マイクでは落ちるという。多くのYouTuberが外付けのマイクを使用していて、YouTubeには内臓マイクと外付けマイクの比較動画も多数アップされている。そこで私も約1万円のマイクを購入したのだが、歌声とギター伴奏は別々のものにしたいという欲が出てきた。ギター用は以前使っていたダイナミックマイクにして、声用にはコンデンサーマイクを購入すべく、現在どのマイクにするか検討中である。ダイナミックマイクの値段はいくらだったのかは覚えていないが、当時かなりの価格だったという記憶はある。

 並行してギター伴奏を練習している。

 そして、単なる弾き語りではなく、前段にエッセイ的な話も入れ、全部で10分前後の動画にしたいと思っているのである。

 ということで、スマホ購入を機に新たな挑戦をすべく、勉強奮闘中なのである。

2020年08月15日

新型コロナウイルス考

 私の母親がこんなことを言ったことをおもい出した。

――わたしの一番上の兄は教員だったが、結核に罹ってしまったの。そのせいで、わたしの家は「肺病まけ」と言われるようになったわ。それで、本来なら周りの村に嫁入りするのに、それができなくなり、この開拓の村に来ることになってしまったのよ

 「肺病まけ」とは肺病の血筋だという意味で、要するに差別用語である。母親が言ったことは、兄が結核になったため家族が結核の血筋というレッテルを張られてしまい、母親はそれ故に貧しい開拓の村の父の元に嫁ぐことになったということである。

 どうしてこんな母親の言葉をおもい出したのかというと、新型コロナウイルス感染者や医療従事者への差別や偏見が広がっているという報道に接したからである。

 先日緊急事態を延長するという安部首相の発言のなかにも、新型コロナウイルス感染者や医療従事者に対する偏見や差別が広がっているが、そういうことがあってはならない、というくだりがあった。つまり、政権レベルで問題視されるぐらい酷い状況といってもいいのだろう。

 今も昔も、感染症に罹った人への差別や偏見は変わらないのだな、というのが私の正直な感想である。

 私が小学生だった頃のこと、集落の外れのある家の離れに、8畳一間ぐらいの小さな小屋があって、そこに結核の患者が隔離されていたものだった。そこには近づいてはいけないと、言われていたが、怖いもの見たさで、近所の遊び仲間と一緒にそこを訪れたことがある。上がり框があったのかどうかは覚えていないが、雨戸や障子戸はあったとおもう。障子戸を開けて、布団に横になっている男と何か言葉を交わしたことは覚えているが、どんな言葉だったのかは記憶にない。

――こんにちは

 とか

――よく来てくれたね

 ぐらいの簡単な短いやりとりだったのかもしれない。

 四十代ぐらいの年齢だったか、男は痩せ細り、頬骨が突き出、頬が窪んで骨が浮き立っていた。手首も枯れた棒切れのように細い。私は瞬時に、学校の理科室にあった人体の骸骨模型をおもい浮かべた。ただ、眼球が微かに動き生きた表情を浮かべているところが、理科室の骸骨とは明らかに違っていた。しかし、異様さは疑いようがなく、私も遊び仲間も二度とそこを訪れることはなかった。その人は半年後ぐらいに亡くなったことを記億している。

 妻帯者だったような微かな記憶があるが、男は結核になったがために世に疎まれ母屋からかなり離れた小屋に隔離され、孤独のうちに世を去ったのである。
 
 さて、新型コロナウイルスであるが、当初はキャンプ場は空間が広く、3密(密閉、密集、密接)にはなりにくいとの判断から営業をつづけたのだが、町の観光課からの電話で、4月30日から営業自粛したのだった。キャンプ場は営業自粛要請の業種には入っていなかったので、町の観光課からの電話は筋違いにおもえたが、今にして営業自粛は正解だったと認識している。なぜかーー

近親の者が、言うには、

――東京神奈川方面からの若いお客さんが多いのだから、無症状でも感染していてコロナウイルスを持っているかもしれない、そういう人から感染しかねない

――もし、感染したら、エライことになってしまう

――たとえキャンプ場ではなくとも、温泉とか、コンビニなどで、キャンプに来た人から感染したとなったら、大問題になることは確実だ

 それはそうだ。周辺では隣の大田原市では八十代の女性が一人感染しただけなのだが、近辺の町まで含めて大騒動に発展した。

 女性は一人暮らしなのだが、近隣に住む家族のプライバシーまで明らさまに暴きたてられる始末である。

 女性が感染したのは私も訪れたこともあるとあるホテル内にあるスポーツジムと温泉なのだが、女性が利用した日の利用者は360名にのぼり、そのすべての利用者に対する追跡調査が行われた。そして、そのホテルも含め、女性がよく訪れるスーパーやホームセンターなど周辺の店全てが消毒を実施するなど、てんわやんわの大騒ぎになったのだった。女性がよく自転車に乗って町なかを行き来していたことや、近隣に住む女性の家族の職業や家族構成なども人々の話題の俎上にのせられた。

 ホームセンターやコンビニに勤める知人に話を聞く機会があったが、どの店でもぴりぴり神経をとがらせて対応しているとのことだった。幸いにもその後感染者は出ていないのだが、広い地域に拡がった感染への恐れや大々的な対応や噂はそのうちに女性やその家族も知ることとなるに違いない。そのときの本人や家族の驚きや衝撃は想像に難くない。今後長いこといたたまれないおもいのまま暮らさなければならないに違いない。

 そういうことを考えると、何事も起こらないうちにキャンプ場を休業してよかったと改めておもうのである。

 さて、今回の新型コロナウイルス襲来によって、もたらせられたものはいろいろあるが、多くの人が言っているように、世は大きく変わるだろうと私もおもう。

 その大きな事の一つに、人が集まることをよしとしない風潮が広がったことが挙げられる。

 相方は手掛けているアロエのネットワーク関連で、月に数回埼玉県や東京などの首都圏に出かけていたのが、新型コロナウイルス感染のリスクを避けるため、集会のほとんどがインターネットでのZoomというオンラインシステムを使うことになったのだった。私と同年代は当初はZoomの使い方に苦労したようだが、やり方をのみこんでしまえばどうということはない。

 我が家から首都圏までは車と電車を乗り継いで、片道約3時間かかる。朝8時ごろ出かけて集会に出席し、帰宅は夜の7時頃になってしまうのが常だった。要するにほぼ丸一日かかったわけだ。

 それがZoomなら家に居ながらの集会出席なのだから、長時間の往復も電車賃もチケット代もいらない。コロナ騒動がなければこうはならなかったのだから、怪我の功名といえるかもしれない。

 私も連れられて埼玉県大宮や横浜市での集会に出席したことがあるが、1000人とか2000人規模の大会だった。今後はそうしたホテルやイベント会場での開催の多くはオンラインに取って代られてしまうに違いない。この流れは後戻りはしないとおもわれる。

 ところで我が民宿であるが、2月に一組入ったのを最後に宿泊客は途絶えた。3月のカナダからの予約はキャンセルされた。4、5月からの小中高生の農泊ツアーも全てキャンセルである。今後も当分宿泊客は見込めないので、これを機に民宿は廃業して、キャンプ場と農業でいこうと話し合ったのだが、先日、「GO TO キャンペーン」なるものを報道で知った。これは、7月下旬から始まるもので、宿泊代の半額を国が補助するという。コロナで落ち込んだ観光業の活性化を促すもので、このため1兆円余の予算が計上されたのである。半額補助されれば旅行に行ってみようという人は増えるに違いない。キャンプ場も宿泊なので、補助がでるものなのかどうか、今の時点では分からない。
 
 そして我が家の生業の柱である農業についてだが、グローバル化で外国から安い農産物が入ってくるということで、農産物自給率がどんどん下がってしまい、私はいざというときには危ういとみていたが、案の定、その危険性の一端が垣間見られることになった。

 相方が買おうとしたが、スーパーの棚に小麦粉がなかったという。それでネットでいろいろ調べてみた。日本の食料自給率は37%であるという。そして、小麦の自給率は12%なのだった。これは相当に低く、品不足はここに原因があったのである。コロナの影響で輸出国が自国を優先して輸出を制限し、物流が滞ってもいて、外国から小麦が入ってこないため品薄に陥っているとのことだった。

大豆に至っては自給率は6%にすぎないから更に酷い。これではコロナに限らず、何かあったら外国から入ってこないではないか。今後豆腐など食べられない事態が考えられる。幸い主食であるコメは自給率が100%近く、備蓄米が相当あるからいいようなものだが、米の最大輸出国であるインドや第三輸出国ベトナムではコロナで輸出を制限し始めたという。店頭で米の値段が上がっている由縁である。

 ということで、自給率が37%しかない日本の食卓が危うい崖っぷちにあるということが、今回のコロナ騒動で明らかになったわけである。安く輸入出来るからといって、自国の農業をないがしろにしてきた日本の政策は非常に危険だということである。

 周囲を見渡すとどこの農家も高齢化がすすみ、私と同年代か上の世代がほとんどで、若い人がいない。農家の後継ぎがいないので、耕作放棄地が増え、それも食料自給率を下げる原因にもなっているのだ。

 ただ、もしかするとコロナなどの感染症に弱いことが明らかになった都会一極集中が見直され、今後は地方や農村に住む人が多少は増えるのかもしれない。オンラインを使えば地方や農村でも都会と変わらない仕事が可能だからである。それに、食料安全保障の観点から、国も今後は農業をこれまでよりも重視して補助金などを増やすのかもしれない。そうすれば、若い人も多少は農業に戻ってくるのではないか、とおもう。

 5月末の時点で、コロナは収束に向かい国の緊急事態宣言は解除されたが、県を跨いでの行き来の自粛はまだ解かれてはいない。感染の第2波、第3波の襲来も予想される。派遣社員の雇止めや、飲食業やホテル旅館などの従業員の解雇などが広がっていると報道されている。

 倒産する会社も相当でているようだ。100年に一度の、リーマンショック以上といわれる不景気風が吹きまくるのかもしれない。

 「カンセキ」というホームセンターで買い物をしたが、ざっと見たところマスクをしていない買い物客が三分の一はいた。マスクをしていない人には自然近づかないようにする自分に気がついた。報道では、外出する人の94%がマスクをしているというから、田舎の我が町では感染者が出ていないので、切実感が乏しい故かもしれない。

 数日前、訪問客と応対する相方の声が二階まで聞こえてきた。

――花売り?

――安くしとくよ、茨城から来たの

――ダメだよ、マスクもしないで

――大丈夫よ、茨城のワタシの町じゃコロナに罹った人なんかいないから

――何言ってんのよ、茨城県は栃木県の3倍もかかっているじゃない、ともかくこのあたりじゃマスクしないと嫌がれるわよ

――マスクはポケットに入ってるわ

 あとで聞くと、五十代ぐらいの浅黒い顔をした女性で、手押し車に紫陽花の花など載せてやってきたという。近くまで何人かで車できて、分かれて売り歩いているようだとのことだった。

 ここまで記してきたことからだけでも、社会の変革の波がきていることは明らかだろう。その波がどの程度の大きさなのかは今のところ分からない。
 

 数ヶ月後、半年後か、一年後かに、やがてその全容が見えてくるに違いない。

 

2020年06月01日

アロエパワーⅡ

 新型コロナウイルス感染が日本中に広がり、報道はこの話題一色の感がある。

 私も感染の広がり具合に注目し、テレビや新聞、インターネットで逐一状況を注視している。
 栃木県の片田舎である那珂川町の外れにある我が家は、「密閉、密集、密接」からは程遠い環境にある。隣家とは200mは離れているし、前を通る道路は、1日10台の車が通るか通らないぐらいである。しかし、コロナ感染の影響をもろに受けている。

 生業である民宿は三月に入っていた予約は全てキャンセルだった。4月から7月にかけて入ることになっていた小中高生の農泊ツアーも全て中止である。キャンプは3月までは順調に入っていたのだが、4月は予約ゼロ、5月の連休は3日と4日は満杯の予約が入っていたのだが、緊急事態宣言で予約のキャンセルが相次いでいる。多分四分の一か五分の一ぐらいになってしまうのかもしれない。

 キャンプ場は空間が広く、人と対するときはマスクをし、人との間を2m以上開ける、手洗いを励行し、ということを守れば感染のリスクは低いとおもわれるが、外出自粛が言われているのだから、キャンセル続出は当然である。

 我が家にとって打撃は大きいが、感染が終息するまでは致し方ないと諦めることにした。

 一ヶ月先になるのか、二ヶ月先なのか分からないが、いつかは終息するだろう。
 そのときを見据えて、お客さんがいない今、キャンプサイトの整備を進めることにした。 

 先日のことである。新設した区画に番号札を立てていると、

――すみません、ちょっとよろしいですか

 と、いう声がする。見ると、中年の夫婦とおぼしき男女が近づいてきた。

――こんなときで失礼とはおもいましたが、お宅様のブログを読ませていただき、トイレを見させていただきたく、埼玉から来ました

 お父さん、ほら、マスクをしなくちゃダメよ、と女性が脇から言う。男性はあわてて手にしていたマスクをするのが見える。

 私は男性との距離が2m以上あることを確かめて、

――どうぞ、見てくださって結構ですよ

 という。

 トイレ便槽用のタンクや微生物配合剤の話をひとしきりした後、二人は丘を降りていった。話したのはものの5分ぐらいの時間だった。

 これまでにも私の手作りトイレをわざわざ見に来た人がかれこれ5人ぐらいいた。キャンプに来た人の中にも、

――ブログにあったトイレを見るのを楽しみにしていました

 というようなことを言う人が何人もあったのである。

 一年ほど前に、素人同然の私が水洗トイレを自作する悪戦苦闘する様を綴った「水洗トイレを自作した」を柿農園のホームページのブログ欄に発表した。この一文は結構読まれて「キャンプ場経営を思いついた」に続いて閲覧数が多いことはグーグルのアナリティクスの閲覧数分析で把握していたのだが、何人もわざわざ、遠いところは和歌山県の方から訪れる方がいるに及んで、検索サイトを調べる気になった。

――水洗トイレ 自作

 と入れてみると、トップに私の「水洗トイレを自作した」が表示されるではないか。

 これで、メールでの問い合わせがあったり、わざわざ訪ねてくる人がいるというわけが分かったものである。

 さて、先の夫婦とおぼしき男女は、しばし水洗トイレのタンクをのぞき込んだりしていたが、そのうち車に乗り込むのが見えた。

 帰り際庭にいた相方とちょっと話し込み、私のブログを隅々まで読んでいることや、キャンプ場の広いことや景色のいいことに驚いたといい、コロナ騒動が終息した後にキャンプにぜひ来たいと言ったという。

 そして、

――お二人はどうしてそんなに元気なのですか

 と言ったとのことである。相方が、手掛けているFLP社のアロエ製品の話をし、

――私たちが高齢なのにキャンプ場をやるぐらい元気なのは、アロエジュースを飲んでいるからなのですよ

 と言ったところ、興味を示し、それを買いたい、と言い、1リットルのアロエジュースを1本持って帰っていったという。

 現在私75才、相方は77才である。

 この年齢だと、早い人は介護施設に入ったり、訪問介護を受けている。

 そういう中で、私は日々軽トラを駆使しキャンプサイトのあちこちに砂利を敷き、竹を切った竹杭を立てたり、枯れ松をチェーンソーで伐採するなどの肉体労働に明け暮れているのだ。相方はというと季節柄畑をうない野菜の種を蒔く作業をつづけているのである。これも鍬を使うなど楽とはいえない肉体労働だ。

 介護を受けないまでも、現役は引退してグランドゴルフなどの趣味に興じている同年代は多い。

 そんな中で、私共二人は、農業、民宿、キャンプ場運営といういわば事業に取り組んでいるのだから、バリバリの現役といっていいだろう。

 かといって二人とも若い頃から健康体だったかというと、決してそうではないのだ。

 私は現役時代は四度に渡る胃十二指腸潰瘍での入院治療を始め、椎間板ヘルニアでの一年に及ぶ通院加療を余儀なくされた。それにしょっちゅう風邪を引き、薬を乱用していたものだ。

 相方にしても、胃に穴が開いたり、痔の手術をしたり、何度も膝を痛めて仕事が出来ない期間があったりと、いろいろな病に冒された経験があるのである。

 それが高齢となった現在、歯科以外の病院には、相方が23年間、私は11年間行ったことがない健康体になったのだから、これは奇跡といっていいようなことかもしれない。

私は、健康は心と身体の両方が健全にならないと本物ではないと考えている。心の健康については別稿に譲ることにし、ここでは身体の健康について述べたい。

 私が幸運だったのは健康について専門家はだしの相方に出会ったことである。
 

私は現在の住居がある那珂川町の隣の大田原市の分譲住宅に住んでいたのだが、私の家の周辺にいた私の同年代の独り者は皆亡くなってしまったことを数年前に知り、愕然としたものである。相方に出会わず、もしそこに住みつづけていたとしたら、私も同じ運命をたどっていたかもしれない、と、ゾッとしたものだった。亡くなった原因を聞くと、脳梗塞、白血病、アル中、などである。

――男やもめに蛆が湧く

 ということわざがあるが、男の独り者は自己管理がおざなりになりがちなことを表していて、万年床で部屋は散らし放題、食事などもカップラーメンなどで済ませてしまい、淋しさをアルコールでまぎらわせる、といった生活になりがちなことをいっているのである。

 これでは病気になって当然だろう。妻が亡くなった後の私を振り返ってみると、おもい当たることばかりだった。

 相方に出会ってからは、三度の食事、それもしっかりと栄養のバランスを配慮して調理されたものを摂るようになったのに加えて、彼女が手掛けているアロエ製品のネットワークの製品の数々を摂取するようになったことは、私の健康にとって大きかった、と改めておもう。もちろん身の回りの整頓もするようになった。

 私は相方の家に移り住んでから、みるみる健康になったのだった。

 相方は言った。

――人には炭水化物、たんぱく質、脂質の三大栄養素の他、46種類の必須微量栄養素というものが必要なのよ
 
 46種類もの栄養素をここに記すことは出来ないが、極々微量だが必須だから絶対に必要な栄養素で、例え1種類でも欠けると身体に何らかの変調をきたし、場合によっては何らかの病気になってしまうのだという。

 これは一般的には流布していない知識で、私も相方に出会う前には全く知らなかった。

 例えば必須栄養素のうちのセレンが不足すると血液不良、細胞酸化、を引き起こす。カリウムが不足すると高血圧、腎臓障害。葉酸が不足すると、悪性貧血、口内炎、下痢などを引き起こす、等々。

 私は現役時代は亡妻の介護もあって、それなりの栄養の知識を持って、栄養のバランスを考えた食事を摂っていたつもりだったが、病気がちだったのは、必須微量栄養素のどれかが欠けていたのだろうとおもい当たった。

――現代の食品では46種類もの微量栄養素をまんべんなく摂るためには相当の量の食べ物を食べる必要があって、それは不可能だわ

――そこでアロエ製品の出番なのよ、たとえばアロエジュースには46種類の必須微量栄養素はもちろんのこと、合わせると約80種類の栄養素が入っているのよ

 私は相方の言うことを素直に信じた。
 
 私が現在摂取しているアロエ製品は多岐にわたる。

 血液にいいといわれるアレルギンと栄養を身体中に行き渡らせる役目をするというQ10を混ぜたアロエジュースをコップ一杯(100mlぐらいか)毎日飲んでいる。

 加えて、食べる抗生物質といわれるプロポリス2錠、食べる精力剤といわれるポーレン3錠、脳を活性化させて痴呆症を予防するといわれるアークテックCを3錠のんでいるのだ。

 その他身体に筋肉をつけるといわれるプロテイン入りのコーヒーを一日5、6杯は飲む。

 キャンプサイトの整備をしているので肉体労働の毎日であるが、飲後ものの30分もするとみるみる疲労が回復するエナジードリンクのブーストも一日一本飲んでいる。

 アロエ製品は決して安い商品ではない。たとえばアロエジュースは1リットル正価5940円である。ただし、相方はマネージャーという資格を持っているのでほぼ半額で買えるのだが。
 私が摂取しているものを月額に換算すると、マネージャー価格で約5万円になる。正価で買うとなると月約10万円なのだから、一般の方は驚かれるだろう。そして、

――とてもそんなお金は出せない

 とおもう方がほとんどかもしれない。

 しかし、例えば癌治療で入院して個室に入れば、部屋代だけで医療福祉大では1日1万5千円である。一か月45万円だ。近親に半年入院した人がいるが、部屋代だけで270万円払ったことになる。医療費を含めれば相当な額だったろう。

 それと比べれば、健康を保てる私のアロエ代月5万円は安いといえる。
 
 ともあれ、私は今自分の身体のパワーが全開しているかんじがしている。

先日のことだが、松の木を4本いっぺんに倒した。4本いっぺんにとはどういうことなのか――、

 キャンプ場の新たな区画を作る過程で直径30cmぐらいの松を切る必要があって、根元をチェーンソーで切ったのだが、倒れなかったのだ。見上げると上の方で蔓が隣の松の枝と絡み合っていて、その隣の松がひっぱる形になって倒れないのだということが分かった。やむなくその松も倒すことにしその根元も切った。

 ところがやはり倒れない。その松も別の松と蔓が絡んでいて同じようにひっぱっているのだった。その木も倒すことにして根元を切ったが、またしても倒れない。子細に観察すると、その松もちょっと離れている松と蔓がからみあっている。要するに、その1本の松の枝に絡みついている蔓が微妙に連結するように3本の松の枝に絡みついて、その3本を支える形になっているのだ。もし、その蔓が3本の松の重みに耐えられなくなって切れたとしたら、3本の松はどっと倒れるだろう。どの方向に倒れるかも分からない。もし、その下敷きになったらお陀仏だとおもうと、冷や汗が出る。

 しかし、いつまでも眺めているわけにもいかない。覚悟を決め、三本の松を支えている松を切ることにした。太さは15cmぐらいで、3本の松よりはぐっと細い。倒れる方向を見定め、倒れる方向の根元にチェーンソーで「く」の字型に切り込みを作る。そして反対側に慎重にチェーンソーの回転するチェーンをいれていく。

 木が倒れ始めたら、素早く逃げなければならない。倒れる途中だけではなく、倒れた後も油断は出来ないのだ。倒れる途中には上から折れた枝が落下してきたり、倒れた後は木が大きくバウンドして、その木に跳ね飛ばされる危険があるのだ。

 チェーンソーの回転歯が松の三分の二ぐらいまで切り込んだところで、松がゆっくりと傾き始めた。私はすぐにチェーンソーを持ったままそこから15mぐらい離れた場所まで避難した。

 メリメリというような音とともにブチッというような鈍い音がして、三本の松の大木がどっと地面に倒れ込むさまが目に入ってきた。

 何十本もの枝が地に激突してバチバチ、ブチブチッと折れ、3本の幹が地で何度かバウンドしてドドーン、バシーン、と大音響をたてる。辺りの空気が揺らぐと同時に足元の地が波打つようだった。ものの二、三秒が、私にはかなり長い時間にかんじられた。3本の大木はおもいおもいの方向を向いて地に横たわった。

 と、私の頭上の松の木の頭が大きく右に左に空を掃くように揺らいでいることに気がついた。その松は倒れた4本の松のどれかと蔓で繋がっていたのだろう。蔓が引っ張られて切れ、その反動で揺れているに違いない。大音響の中でのブチッという音は蔓が切れる音だったのだ。場合によってはその松がどこかで折れることもあり得たとおもうと、ゾッとした。

 現役時代は小学校の教師で、執筆が趣味で、鉛筆ぐらいしか持ったことがなかった私が鉛筆の代わりにチェーンソーで松の大木を伐採するなんて、以前は想像だにしなかったことである。ましてや、倒れた大木が大音響をたててバウンドする醍醐味を味わうことが出来るなんて。

 このとき私は自分の健康や身体のパワーの全開を、ダイナミックに躍動する生の歓びを実感したものである。

 相方に出会い、アロエ製品を摂るようになって、本当によかったと改めておもう次第である。


2020年04月25日

人生の楽園

 亡妻を介護していた初期の頃は、アルツハイマーという不治の病でいずれは死がきて別れなければならないという悲壮感ばかりがあって、先のことは見通せず漠然とした不安におののいたことを覚えている。

 当時ライフワークと位置づけて精魂を傾けていた小説を書くことを諦めた。私にとって小説の文章を書くということは独特の緊張感が必要で、介護しながらではその緊張感の持続は不可能で、無理と判断したからである。ただ、日記を綴る感じのエッセイの文章ならその緊張感はいらないので、気軽に書きつづけることにしたのだった。

 しかし、本当に書きたいのは小説だという思いずっと持ちつづけた。そして、どういう形かは分からないがいつかは小説が書ける日が訪れるに違いないとも思っていた。いずれは確実にくるだろう妻の死ということが念頭にあったことは事実だが、意外な形でその日がやって来た。

 妻が言葉を無くし、自ら動き回ることが出来なくなり、要するに寝たきりに近い状態になったからだった。言葉を無くしても言葉ではない対話は可能なのだが、表情を読み取るというような限られたものでしかない。また、動き回って目が離せないということもなくなった。世話といえば食事や入浴、トイレの介助だけであり、これも介護保険で介護ヘルパーにある程度任せることが出来るのである。要するに、それ以前は妻の世話にかかりきりだったのだが、寝たきりになったことで、すこしだけだが、私は自分の時間が持てるようになったのである。この寝たきり状態は約10年つづいた。

 ある日、ヘルパーに妻を託し近所のスーパーで買い物をしてから本屋に立っ寄った。地方の出版物コーナーを眺めていると、「文芸栃木」という雑誌が目についた。手に取ってぺらぺらめくっていると、「文芸賞募集要項」というページが目にとびこんできた。

 その年はとりあえず原稿用紙7枚以内だったか、エッセイに応募することにし、「涙」という作品を数日かかって書き上げた。選考委員の好みも影響するだろうから、当選は無理でも最終選考に残ればいいとおもったのだが、意外にも1位で当選しエッセイ部門の文芸賞を受賞した。

 次の年には小説に応募すべく原稿用紙100枚以内ということで書き始めた。小説執筆は20年ぐらいの空白で、勘が鈍っていないか不安だったが、筆はとどこおりなく進んだ。二ヶ月ぐらいかかって書き上げたが、エッセイの当選作が掲載された「文芸栃木」を確かめてみると、小説の応募の枚数が変更になっていて50枚以内とある。いくら自分の時間が持てるといっても、新たに50枚の作品を書くには時間が足りなかった。結局次の年に100枚の作品を50枚に短縮して「野火の女」と題して応募した。作品に手応えは感じていたが、これも最終選考に残ることを目標にしたのだが、柳の下に二匹目の泥鰌がいたのである。エッセイにつづいて小説も当選という快挙を達成したのだった。

 しかし、嚥下力が衰えていた妻がヘルパーの介助で食事をとっていたとき、食べ物が喉に詰まってしまったことが原因で亡くなった。23年間の介護だった。小説の授賞式のときには私は独り身になっていた。

 小説が思う存分書ける境遇になったわけだが、配偶者を無くした喪失感は生半可なものではなく、私は精神的に、真っ暗いどん底の泥沼を這いつくばるような日々がつづいた。小説を書くどころの話ではなかった。なんとか立ち直るためには二年の月日が必要だったのだ。

 妻が亡くなって半年たったころ、私の状態をおもんぱかってくれたのだろう、友達がきて盛んに女性がいるところ、要するにスナックとかカラオケとか、趣味の集まりとかだが、出て気晴らしするように促してくれた。

――どこそこにはいい女がいるぞ

 そんな言い方だったのだが、とてもそんな気にはなれなかったが、その言葉は私の脳裏にこびりつくように残った。

 ときに、なんということもないふとした拍子に涙が滲み、そのうちに溢れ出て止まらなくなってしまう、ということがつづいた。更に半年ほどたったある日、友達の言葉を突然ありありと思い出し、

――妻は亡くなってもういないのだ、いつまでもめそめそ泣いていても仕方ない、いくら泣いたところで妻は戻ってはこない、このままでは自分がダメになってしまう、こんなざまを妻だって喜ばないだろう、私も人生を終了にしてもいいのだが、簡単に死ぬわけにもいかない、やはり生きていかなければならないのだよ

 と一人ごちた。そして、おもった。

――スナックに行って行きずりの女性と酒を飲んでも、ダンス教室でダンスを習っても、ハイキングサークルで山に行っても、私にとっては癒しにも、気晴らしにもならない

――生きていかなければならないのなら、気晴らしや遊びではなく、持続的に一緒に生活を共にする、パートナーがいた方がいいのではないか

 そう心の中でおもって、何度かそのおもいをなぞっているうちに、そうしょう、という気持ちが強くなった。

 それから数日だったか、十日ぐらいだったかは覚えていないが、行動を起こすのにそれほどの時間はかからなかった。私は一旦方向性を決めると逡巡することなく即実行するタイプである。

 まずはインターネットの出会いサイトで相手を探したが、肉声ではない会話に限界と疑問を感じ、次いで電話帳で結婚相談所を探し出し数万円を払って登録した。

 登録したその場で、世話役の女性が、私の経歴書を見て、あなたにぴったりのひとがいるんですが、と言われ、見合いが内定してしまったのには、さすがの私も戸惑いをかんじた。そんなに早く事が運ぶとは予想していなかったからである。

 その相手とは二度会って話をしたところまではいい感じだったのだが、三度目に私の家に招くと、女性の態度が豹変した。私の家財道具にケチをつけたあげく、

――あら、こんな小さな家だったの、ここに二人で住むのはちょっとね

 と、言い放ったのである。おやおや、見合いの相手の家にケチをつけるんだ、と呆れた。これが私の気持ちを冷やす決定打となった。私は彼女がとある市の市営住宅に住んでいることを知っていた。

――ほう、でもあんたは賃貸しだろ、これはいくら小さくたって持ち家だぜ、それにあんたが国民年金だということをオレは知ってるよ、パート勤めってこともね、でも、オレは共済年金で、国民年金の人の3倍はをもらってるぞ

 そう、口から出かかったが、黙っていた。

 次の日、結婚相談所の代表者に私から断りの電話を入れた。

 次に、私から見合いを申し込んだ女性には、私が車を持っていないことを理由に断られた。車のあるなしで相手を判断するなんて、人格がいかにも軽いではないか。断られてよかったとおもったものである。

 結婚相談所のハーティには3回しか出席しなかった。2回目だったか、パーティの後のカラオケに行ったとき、ある女性に抱きつかれたのには驚いた。要するに色仕掛けである。酔った勢いなのだろうが、風邪をひいているらしく咳をしながらだったので閉口した。咳をしたとき、その飛沫が私の顔にかかったのだ。私はすぐさま女性をどけて洗面所に駆けつけ顔を洗ったものである。他の人に聞くと、その女性は今までにも何人もの男性に同じようなことをしては断られていたという。私も丁重に断ったが、あとで私の言動のあれこれをあげつらう苦情を結婚相談所に申し立てたというが、結婚相談所では私にその旨知らせてくれただけだった。

 私は数ヶ月で結婚相談所を退会することが出来た。現在の同居人である相方に出会ったからである。結婚相談所のパーティからの帰り道で偶然彼女に出会ったのだから、ある意味結婚相談所に登録したことがよかったといえるのである。結婚相談所に登録しなければ、そこには行かず、相方に会うこともなかったからである。私は見合いをした相手と破談したとき、なんのこれぐらい、少なくとも20人とは見合いしよう、それで相手が見つからなかったら、そのときは諦めて一人で生きようと自分に言い聞かせていた。そういう強いおもいが結婚相談所からの帰り道での彼女との出会いを引き寄せたのかもしれない、と今にしておもう。

 ともあれ彼女は大きな家を持っていたが私の家を小さいなどとは言わなかったし、私が車を持っていないことなどふれもしなかった。もちろんいきなり抱きついたりもしなかった。自分のことしか考えていない風な結婚相談所で出会った女性とは違って、私がうつむき加減なのを見てとって、この人を元気にしてやりたいと思ったという。

 彼女に出会ってから生活が一変した。

 間もなく、荒れ果てた彼女の家の周囲や山林の手入れに通うようになったからである。それまでは分譲団地内を散歩するぐらいがせいぜいだったが、朝自転車で片道50分かけて行き、山林の生い茂った篠や蔦、雑草などを刈り、夕方自宅まで帰るという生活を始めたのだった。彼女所有の土地は4haと広く、荒れた部分は2haぐらいはあった。全て征伐するのには半年かかった。

 どうしてそういうことになったのかというと、何度目かに訪れたとき、彼女が刈り払い機のエンジンを背負い、家の裏手の斜面の雑草を這いながら刈っていく様を目撃したからである。ご存知のように刈り払い機はエンジンでノコギリ歯を回転させる危険な道具といえる。それで急斜面の雑草を刈るのだから、まかり間違えたら大事故になりかねない。彼女が駆使するノコギリ歯が斜面をバウンドするようになるたびに、私は肝を冷やした。

――女手一人で、いつもこうやってたわけか、これはなんとかしてやらなければならないな

 と私はおもった。

――お金に余裕があれば、シルバー人材を頼んで刈ってもらえるのだけど

 そういう彼女に、私は、

――それじゃ、私がお抱えシルバーになってあげるよ
 と言った。

――そう、ありがとう、じゃ、わたしはあなたの何になったらいいかしら

――そうねえ、メイド喫茶のメイドにでもなってくれればいい

――ハハハ、それじゃ、メイドになって、一生懸命美味しいもの作って、食べさせてあげるわ

 冗談めかして、そんなことを言い合って、彼女の家に通い始めて三ヶ月ぐらいたったとき、同居することに決め、猫二匹を連れて今の家に移り住んだのである。

 彼女の長男夫婦が一緒に住んでいたとき、家を新築しその後離れを建てたというが、母屋は約60坪、離れも約40坪ある。長男夫婦が家を出、間もなく私が入ったわけだが、二軒の家の維持費は相当かかる。二人の年金では心もとない。

 費用捻出のため、私はいろいろ試行錯誤したものである。

 まず初めに採れた野菜を、大田原市の私の家の庭で売る「百円野菜の店」を開店した。当初は一日4000円売り上げて好調だったが、次第に売れなくなり、一ヶ月半たったとき、1日100円しか売れない日があって、閉店した。一段高い高台のような場所にある出入り口が少ない閉鎖的な分譲地で、顧客が限られているので売れなくなるのは当然と言えば言えたが、

――開くのも早かったけど、閉じるのも早かったわねえ

 と、彼女はわらったものである。

 次に手掛けたのは、竹藪と篠藪にある孟宗竹や矢竹に目をつけて、ネットショップで販売することだった。矢竹は横笛製作に使われるとネットにあったので、横笛愛好家向けにと思ったのだ。松の木で組み立てた大きな干し台で三ヶ月かかって矢竹を干したのだが、全く売れずネットショップは開店閉業となってしまった。

 採れた野菜を出荷するべくいくつもの農産物直売所に出向いたが、全て断られた。田舎には新参者排除の土壌が色濃く根付いている。新参者が入ると既存の会員の売れ行きが悪くなるからというのがその理由だった。数年前にやっと「ゆうゆう直売所」に出荷がかなったのは農村の高齢化で、会員が亡くなったり病気で出荷できなくなった人が何人も出て、空きが出来たからである。

 東京で整体院を開いている彼女のすぐ下の妹さんの好意で、整体機器を発送手数料を含め一台一万円という破格の金額で何十台も納屋に保管させてもらったこともある。これは助かった。

 とある学者の収集物を半年ほど預かって母屋の二階に保管してなにがしかの保管料を頂いたこともある。

 民宿の許可をとって開業をと保健所に出向いて説明をうけたこともあるが、当時の審査基準は厳しく、廊下の幅が1.5m以上という最低基準をクリアできないことが分かって諦めた。ただ、親戚、友人知人対象なら許可はいらないというので、つてを頼って宿泊客を集めた。

 そして、3年前大田原ツーリズム社の仲介で農家民宿の営業許可を取り、農泊ツアーの小中高生を受け入れるようになったのである。昨年からは、農泊ツアーだけではなく、宿泊予約サイトに登録して、一般のお客さんにも泊まっていただけるようになった。

 それから昨年キャンプ場を開設した。これは私も相方も高齢の域に入って、農泊ツアーも一般のお客さんの受け入れもいつまでもは出来ないなと感じたからである。

 お客さんのための食材の買い出し、調理、布団の上げ下ろし、洗濯物布団干し、などやることが多く、加えて農泊ツアーの場合は入退村式会場までの車での送迎まであるのだ。これは高齢者には過重で、昨年の5月の連休にはお客さんが一杯入って収入にはなったが、二人とも慣れないこともあって疲労困憊してしまったのだ。

 これがキャンプなら土地を貸すだけで、食事の用意も、布団の上げ下ろしも送迎もない。ただ、チェックインのときや農業体験希望の方の応対をするだけでいいのである。これなら二人がかなり高齢になるなるまでできるだろう、との判断で私が企画したのだ。

 昨年の10月キャンプ専門の予約サイト「なっぷ」に登録したところ、予約が劇的に増えた。それまでは農園内に道路を作るのに建設会社に依頼しただけで、あとはほとんど私の手作業で整備してきたのだが、最近重機に入って貰い、新たな道とキャンプの区画を増設した。キャンプサイトの面積も区画も倍増したのだが、5月の連休にはその区画の予約が全て埋まってしまったのには驚いた。現在はキャンプブームだとは聞いていたが、それを実感している。

 振り返ってみると、百円野菜の店から始まって、実にいろいろなことを試してみたものだな、とおもう。竹販売のネットショップまでは労力ばかり費やすだけで上手くいかなかったが、農家民宿あたりから「つき」がきて、やることの歯車ががっちり噛み合いだした感がある。

 現在は重機に入って貰ったあとの仕上げをしている。重機は土地を削って平らにしてはくれるが、木や竹の根を全て取ってはくれない。ちぎれて地から出ている根は多く、それは刈り払い機で刈らなければならない。根が太ければ刈り払い機では切れないからノコギリで切る他はないのだ。重機で削って作った道路にしても、砂利は敷かなければならない。また、曲がり角などは車がスムースに曲がれるように角を手作業で削らなければならない。仕上げの仕事は結構あるのだ。

 しかし、重機の能力はは抜群で、人が入れなかった場所を安々と開墾し、雑木林を縦断する道路を作ってくれた。

 来てくれたお客さんは皆さん見晴らしが素晴らしいとか、星がきれいだったと喜んでくださる。

――ネギを取っていいなんて嬉しいです

 農園ならではの収穫体験も好評だった。

 アメリカからのうら若い女性は、樹木も果樹園もいい香りがただよい、農園内はとても美しいとレビーを書いてくださった。カナダから来た若いお客さんは、やまびこを教えてあげると、丘の上で、両手を広げ、大声で、

――ジャパン、ビューティフル、ジャパン、ワンダフル !

と叫んだものだった。

 そんなことを思い出しながら、手入れのために丘の上に上ると、少し前までは雑然としていた樹木が整理されて、整然と林立している感じで気分がいい。相方は二十年以上も前、五百人が集う集会で、

――私の夢は裏山を憩いの丘にすることです

 と、スピーチしたことがあるというが、先日、丘の上から周囲を見渡し、しみじみと、

――長い時間はかかったけど、夢が現実のものになったわ、これは憩いの丘よね

 と言ったものである。

 私にしても、都会に出て間もなくの頃、

――これは違う、都会は人や物が溢れ混みすぎて、安らぎがない、いつかは田舎に帰ってゆったりと暮らしたい

 とおもい、それから50年余がたっているが、やはりおもったことはいつかはかなうものなのだな、と感じている。

 私は当年75才と高齢だが、ここに来た10年前にはぽよぽよのひ弱な身体だったのが、筋肉質の頑健といってもいい身体になったのは、健康については専門家といってもいい相方の作る健康食を食べ、理想的自然環境の中で肉体労働に明け暮れているからだろう。

 昨年の9月頃だったか、テレビ朝日の担当者からメールが入った。

――「人生の楽園」という番組を担当している者ですが、柿農園のホームページを拝見しました、取材をさせていただけないでしょうか

 というものだった。それからしばらく連絡がなかったが、先々月電話が入って、5月の連休の予約状況やタケノコがいつ頃出始めるのか、聞かれた。

――キャンプは満杯の予約です

――満杯とはどのくらいなんですか

――35区画ですから、一日100人以上は来るとおもいます

――それは大人数で凄いですね、タケノコは

――昨年は4月5日~5月15日ぐらいまでタケノコ狩りができましたが、今年は温かいのでもっと早まるかもしれません

――そうでしょうね、撮影は5日間入らせていただきます

 3月に入ったら打ち合わせの電話をくれるというので、待っているところである。

 偶然の成り行きで、相方の家に入り、若い頃抱いた田舎暮らしという願望が叶ったわけだが、開拓まがいの労働を10年余つづけ、キャンプ場を開設したことによって、荒れ地同然だった裏山が整然とした公園のような「憩いの丘」に生まれ変わり、私と相方の「人生の楽園」になったのだとおもうと、感慨深いものがある。

 いろいろ一生懸命に試行錯誤した甲斐があった。また、生きていてよかったと改めておもうのである。

2020年03月14日

人生100年時代をどう生きるか

 前作「夢にむかって」で、若い頃は「どう生きたらいいか」「この世界や宇宙の構造がどうなっているのか」が分からなかった、と書いた。

 それから40~50年たった現在は、ほとんどそれらの解決がついたとおもっている。
 当時はやにくもに生きるばかりで、懸命ではあるが行き当たりばったりに生きていて、いつも焦燥に駆られ、不安におののいていた。

 40~50年という月日の間にそれなりに経験を積み、苦労し、その過程で分かることもあったということだ。「猿も学習する」というわけである。

 今にして分かることは、若い頃は物事を分析解析整理し理解しようとばかりしていたが故に分からなかったのだ、ということである。

 相方がアロエのネットワークを手掛けている関係で、私も人生哲学を学ぶようになった。というのは、相方が手掛けているネットワークは製品を伝えたり売ったりしてお金を稼ぐというだけではなく、夢を語り合ったり、人はどう生きるべきかを語ったり学ぶ場でもあるのである。

 私は相方に出会いすぐにアロエ製品を愛用するようにはなったが、ネットワークに関わるようになったのはずっと後である。相方はアロエ製品を愛用するようになったのは、身体が弱かったからであるが、ネットワークを手掛けるようになった一つの理由に、アロエのネットワークの成功者の一人である酒井満氏に憧れ、その酒井氏が主催している酒井塾に入会したいということがあったという。酒井塾に入会するには20年前当時、ネットワークの中での肩書を表すLCM以上でなければならなかったのだ。LCMとはネットワークでの収入が年間300万円以上あると与えられる称号なのだが、相方は見事それをクリアし酒井塾へ入会することが出来たのだった。

 酒井氏は若い頃から潜在意識について学んだ人である。43才のとき事業に失敗多額の負債を抱え死を決意する。そんな極限状態で、なんとかして欲しいと神に祈る。同時に、長年恨んでいた父親を許したのである。氏が言うには、この許しが潜在意識を大きく働かせることになった、というのだ。最後の家族旅行にと妻子を連れて大洗海岸にいったのだが、裸足で熱砂の上を歩いたことで足裏に火傷を負った。そのとき、アロエベラのゼリーを塗ったところ、一晩で火傷が治ってしまったのだった。アロエの凄さを目の当たりにしたわけである。それが神の導きだったのか、これだ、と頭の中で強く閃くものがあった。そのことがきっかけとなって、氏はアロエのネットワークと関わることになる。そして、自己の潜在意識を使い、アロエのネットワークで月収1千万円年収1億円を得るという目標をたて、達成してしまうのである。

 相方の勧めで私も酒井氏が主催する「潜在意識セミナー」に何度か出席した。それで、私も潜在意識に興味を持ち、本を何冊か読んだのである。そして、私の場合は中村天風の哲学に惹かれ、傾倒敬愛するに至る。

 まずは相方の本棚にあった「成功の実現」「心に成功の炎を」を数回、いや十回以上は読んだとおもう。次いで「盛大な人生」をAmazonから取り寄せた。これまでの読書とはまるで違って、その内容に圧倒された。言葉がびんびん心に響き、ぐいぐい脳髄に食い込んでくるかんじだった。この三冊は講演を書き起こしたものなのだが、中村天風の三部作といわれる。Amazonには中村天風の講演録や講演を録音したCDなどが何十冊もならんでいる。天風会の会員は100万人以上いるというから、有名な哲学者だったのである。相方の同級生には天風会の会員がいたり、ネットワークの仲間に天風の弟子が開く合気道の道場に連れて行ってもらったりしたというから、相方にとっては天風は身近な存在であったといってもいい。

 しかし、私の身近には天風を知っている人は皆無だったし、哲学や思想の本はかなり読んだが、天風のことを書いた本にも記事にも出会わなかった。要するに、私は天風哲学や、潜在意識とは無関係な範囲で生活していたのである。もし、若い頃天風や潜在意識の本に出会っていたとしたら、人生が大きく変わっていたかもしれないとおもう。しかし、それが私の人生なのであり、遅くはなったが今にして出会えただけでも幸運だといえるだろう。

 天風に出会って3年余り、その著作の八割方は詳しく何度も繰り返して読んだ。結果、不安や悩みは払拭され、生きることに逡巡することはなくなった。

 分析批判するだけでは理解はできない、疑ってばかりでは本質を見誤ってしまう、まずは一旦はそういうものだと飲み込んでみることが理解の早道である、と天風は言う。

 例えば、まず私が若い頃理解しようとしたこの世界はどうなっているのか、であるが、いくら分析理論だてようとしたって私の頭の能力では所詮無理だったのだ。

 宇宙も、この銀河系も、この世界も、創造主が作ったもので、無限である。

 一旦はそう呑み込み理解したことにした。ただ、私の想像力も無限であり、宇宙並み、いやそれ以上に大きいとも言えるのである。

 では、どう生きたらいいのか、であるが、これも天風が言うように、

――人は、人類の進化と向上に資するように生まれてきた

 のであるから、そのように生きていけばいい、というか、そのように生きていくべきなのである。そう心に決めた。すると、これまでの葛藤悩み逡巡は払拭され、肩から力が抜け楽になった。

――欲を捨て、自分の出来る範囲で、世のため、人のために生きよう

 と、今はおもっている。

 具体的には、縁あって、相方と同居して、4haの広大な土地に住むようになって、キャンプ場まで開設したのだから、この土地を愛し、手入れに精を出そう。

 明けても暮れても雑草との戦いの毎日なのだが、きれいにした後の爽快感はかけがえのないものである。自然との交流に癒しを求めて来られる都会のお客さんのためにとおもうと作業は大変なものではなく、楽しく充実感があるものになっている。

 民宿の方は今年に入って食事無しの素泊まりにした。これは私も相方も高齢の域に入ったのだから、食材の準備、料理、片付けなど大変なので、寝具の準備片付け掃除だけの素泊まりにすることにしたということなのだ。それでお客が減ってもやむを得ないと考えたのだが、しかし、予想に反して逆にお客さんが増えたのには驚いた。

 そのわけはすぐに分かった。二、三十代の若いお客さんが多くなったからである。食事つきのときには四、五十代のお客さんだったのだ。

 我が柿農園は辺鄙な場所にあり、周辺に有名な観光スポットがあるわけでもない。食事無しで一泊約5000円で泊まれるのだから格安である。若い人は辺鄙でもスマホを駆使して簡単に来られるし、コンビニなどで食材を手に入れて気軽にしかも格安に泊まれる宿に魅力をかんじるのだろう。

 年代が高い方は有名な観光スポットや食事に惹かれるだろうから、我が柿農園はそういう点では不利なのだ。

 ということで、意図したわけではないのだが、我が柿農園の在り様が若い世代にヒットし、それがこれまでの層よりも多人数になったということなのだとおもう。何が幸いするか分からないものである。

 ところで、農泊ツアーの小中高校の生徒さんは十代、民宿のお客さんとキャンプのお客さんの八割方は二、三十代である。民宿とキャンプ場を開業する前は、私共二人と同年代前後つまり六、七十代のお客さんしか来なかったのだから、我が家を訪れる人はぐぐーっと若返ったことになる。当然のことながら、我が家の雰囲気は一変した。

 若い世代に私共の得た経験や、健康になるためにはどうしたらいいのか、より良く生きるにはどうしたらいいか、などを語りかけることにしているのだが、ほとんどの人が食い入るように聞いてくれるのである。これが高齢世代だと考え方が凝り固まっていて、聞く耳を持たない場合が多いのだ。若い世代は先入観がなく、素直な心で受け入れるからだろう。

 若い世代が増えたのは、天の采配だったのだろう。美しい自然の中の農園の特質を生かして、その若い世代に癒しや農業体験を味わって頂くと同時に、私共の経験や学習しつつある生き方を語って、これからの人生の参考にして貰いたい。

 そうおもうと、遣り甲斐と充実をかんじ、ますますやる気が出てくるのである。

2019年09月23日

夢にむかって

 若い頃は明確な目標はなく、ただ漠然と生きていたとおもう。

 ただ、漠然とではあるが、人が生きるということはどういうことなのか、よりよく生きるためにはどうしたらいいのか、この世界はどうなっているのか、宇宙の構造はどうなっているのか、というようなことを自分なりに解釈理解したいとおもい、哲学や思想、宗教、などの本を読んだが、ただ漫然と読み漁っただけなので、そのひとかけらさえも把握することはできなかった。

 ただ漠然と生きているということは、行き当たりばったりに生きているということで、息をついているから生きているというに等しく、支えるものが何もなく、不安だった。それでは上手く生きていくことはできない。内面的な精神葛藤や職場の人間関係の悩みなどが重なって、体調に異常をきたした。四回に渡る胃十二指腸潰瘍での入院を余儀なくされ、椎間板ヘルニヤを病み数年通院した。

 四度目の胃十二指腸潰瘍のときは胃の幽門近くに十円玉大の潰瘍があって、手術を勧められた。しかし、私は身体にメスを入れることに抵抗があった。医師がつぶやくように言った、
――潰瘍は大きいが深くはない、薬でも治せるが二ヶ月かかります、手術なら三週間で退院できますよ

 という言葉の前の部分に飛びついた。

――二ヶ月かかって結構です、薬でお願いします

 二ヶ月の入院の過程で、私は生活態度を大きく転換させた。それまでの生真面目といえるような態度を捨てることにしたのだ。十年ぐらいの間に十回以上胃十二指腸潰瘍に冒され、そのうちの四回が入院加療だったのである。このままではダメになり、その先には死があると本能的にかんじた。

 私は不良入院患者の仲間に入った。中には病院を抜け出して焼き肉を食べに行く豪の者もいたが、私はそこまではしないが、夜な夜な女性患者と話し込むとか、夜のドライブに連れて行ってもらうとか、ぐらいだったが、品行方正を捨ててみると肩の力が抜けて楽だった。病気にもいいことがすぐに身をもって認識できた。

――学校の先生のくせに

 そう蔭で言われ始めたのは分かったが、元の生真面目、品行方正に戻ることはなかった。
 二ヶ月でめでたく退院し、それまで飲まなかったアルコールも嗜むようになった。以来、胃十二指腸潰瘍から卒業し、二度と罹ったことはない。

――病気になったから、アルコールはやめるというのがふつうだよなあ、それが病気になったから酒を飲むなんて、あべこべだけど、斎藤君らしくて面白いよ

 と、友達に揶揄われたものである。

 私は酒を飲むことによって、十年来の病から解放されたことになるが、これは酒が治療薬となって病気を治したわけではない。酒によって肩の力がとれ、要するにストレスが解消され、結果として病気が治ったのである。

 このときもはっきりとどう生きればいいか分かったわけではなく、ただ今までの生き方ではどん詰まりになるということが分かっただけで、生真面目をやめてちょっと羽目を外してみただけだった。

 しかし、考えてみるとこれは私にとっては大きかったのかもしれない。

 私は世界や宇宙の構造を思考分析認識するといったことはとてつもないことで、自分の知力、能力を超え、不可能であることがわかった。

 それからは哲学書やお経などの堅苦しい読書はやめ、自分の出来ること、好きなことをやることに決めた。

 母親が夏目漱石全集という布表紙の分厚い本を持っていた。嫁入りのときに持ってきたのである。総ルビだったので、小学校一、二年のときに「坊ちゃん」や「吾輩は猫である」を読むことができた。「坊ちゃん」は面白くて何度も読んだが、「吾輩は猫である」は面白いのは前半の部分だけで、後は理解できなかった。他の作品は難しくて読めなかったが、自分もいつか小説を書きたいとおもったものである。

 そのおもいはずっと持ちつづけ、二十九才になってから書き始めたのだった。最初の頃は筆が進み、一晩に四百字詰原稿用紙50枚書けたことがある。後で読み直して全くダメなことが分かったが・・・。ペースとしては一日一、二枚ぐらい書くというのが私にとってはベストであるということがそのうちに分かってきた。

 振り返ってみると、原稿用紙100枚前後の作品が20編余ぐらいあり、それ以下の枚数のものが同数程度ぐらいだから、作品数としては少ない方かもしれない。

 夏目漱石を読んでこれぐらい私にも書けるかもしれないと小学生一、二年でおもったぐらいだから、短歌を詠むことが好きだった母親の血を引き継いで書く素質は持っていたのだろう。

 書き始めて十年後ぐらいに妻がアルツハイマー病に罹ってしまい、介護に入ったため、小説の執筆は断念した。小説の執筆には独特の集中力が必要で、介護しながらは無理と判断したからである。しかし、日記を書くかんじでいいエッセイは書きつづけた。介護の日々をホームページのブログに発表し、数年後本にまとめ二冊自費出版した。一冊目は100部でインターネットで販売し完売した。二冊目は500部で350部ほど売れた。

 一冊目は「あなたは不治の病人になぜそんなに冷たいのですか」という長い表題で、病人に冷たく無理解な世間や親族を告発するという怒りの書だった。二冊目は一冊目の余裕のなさや不寛容を反省し、また介護によって悟るところがあって、がらり正反対の内容といってもよい、「介護は楽しく」を上梓した。

 これが朝日新聞の真鍋弘樹記者の目にとまり、取材を受けた。一冊目よりも二冊目の「介護は楽しく」の方が一般受けはよかったのだが、真鍋記者は一冊目の方が作者の本音が出ていて面白かった、と言った。

 介護の様子が、広島の夫の介護をする妻の立場の方とともに、10日間にわたって朝日新聞社会面に連載された。読者の反響が大きく、多くの感想が真鍋記者の元に届いた。そのことがきっかけとなって、書籍化されることとなり、更に取材を受けた。

 「花を――若年性アルツハイマー病と生きる夫婦の記録」真鍋弘樹著朝日新聞社刊が何部発行され、どのくらい売れたのかは分からない。ただ、製薬会社「エイザイ」が主催するエイザイ賞だったか忘れてしまったが受賞したと聞いた。

――本来は広島の夫婦と斎藤さん夫婦が賞金を受けるべきだが、福祉関係に寄付したらとおもうのですが

 と、真鍋記者から連絡があった。私は了承した。

 雑誌「清流」と東京新聞に記事が掲載され、講演の依頼が入るようになり、「介護は楽しく」と題して、大田原市、宇都宮市、那須烏山市、さくら市などで、計20ヶ所ぐらいで話をした。東京国際フォーラムで開かれた訪問歯科医全国大会に招かれて、「家庭での口腔ケアについて」という内容で話したこともある。

 TBSニュース・イブニング5の取材も受けた。家に映写カメラマンが入って、丸二日間朝から晩までぶっつづけでカメラを回していた。そして、特集番組として15分間の映像にまとめられたのだった。なかで私のインタビューが何度か流れたのだが、上手く答えられない部分があったなあ、とおもっていたところ、プロデューサーは、

――いやいや、斎藤さんはめちゃくちゃ話がお上手ですよ、素人でこれだけ話せる方はそうはいないですよ

 と、いった。

 実際に放映されたテレビを見てかんじたのは、15分というのは結構長い時間だなあ、ということだった。

 介護というと、辛く、暗く、苦しく、重い、というとらえ方が一般的だとおもうが、私はあるときから「笑って介護する」と決めたのである。発想の転換というか、逆転の発想、である。結果、注目され、辛く、苦しい、だけではない、明るい、充実した日々を送ることが出来たのだった。

 好きなことのひとつである執筆のうち小説は書けなくなってしまったが、エッセイを書きつづけたおかげで、介護の様子が新聞や雑誌に載っただけではなく、書籍化までされ、またテレビでの放映に繋がったのだから、今振り返ってみると信じられないような気分である。そして何よりもよかったことはそのことで介護が辛く苦しいものではなく、明るく充実したものになったことである。

 私が笑っていれば妻も微笑んでいる。そういうことが体験を通して分かることが出来た。分かるまでには少し時間はかかったが、その過程で私は人間的に成長できたとおもうのである。もし、妻を介護しなかったとしたら、私は鼻っぱしらが強いだけの付き合いづらい嫌なやつで終わってしまったかもしれない。成長させてもらったという意味で私は亡妻に感謝しているのである。

 もう一つ、私の好きなことはギターである。

 子供の頃、友達の家で、自衛隊を除隊したばかりの友達のお兄さんが持ち帰ったギターをつま弾いているのを聞いて、その音色に衝撃を受けた。当時流行していた演歌の一節をポロンポロンとつま弾いただけだったが、哀愁をたたえた、甘く、優しく、切なく、私の耳の鼓膜を愛撫するかのような音色で、心に食い込んでくるようだった。私は一瞬のうちにギターの音色に魅了されてしまった。そのとき初めて心が痺れる感覚を味わった。

 それから数年後、四つ年上の兄が就職して、私にギターを買ってくれた。ギターを欲しがっても叶えられない私を可哀そうだとおもったのだろう。カルカッシギター教則本という本を買い、見よう見まねで弾き方を覚えた。それこそ楽譜の読み方も知らなかったのだから、「一から始める」を地から行ったわけである。教則本を見るだけで、誰にも教わることなく、全くの独学であり、それは今も変わらない。

 20才のとき東京消防庁に就職した。初任給17600円だったことを未だに忘れずにいる。数か月後その給料より高い20000円のギターを買った。半年後胃十二指腸潰瘍で東京警察病院に入院したのだが、病院にもギターを持っていって非常階段に腰かけて弾いていたことを覚えている。いかに私がギターに惚れ込んでいたかを示すエピソードだろう。

 四十代に入ってから、妻の行動の明らかな異変をかんじて病院に連れて行ったのだが、そのときはすでにアルツハイマー病が中度から重度の間といわれるぐらい病状は進行してしまっていたのだった。おとなしく内気で、これといった目標も生き甲斐もないようだったことが発症につながったのかもしれないとおもい、せめて何か趣味を持たせてやりたいといろいろやってもらったのである。その中で唯一興味を示したのがカラオケだった。しばらくは自分でカラオケ教室に通っていたのだが、そのうち一人では行けなくなり、迎えに行くと涙を見せるようになった。それならば私も一緒にいられるようにと入会したのである。当然私も歌う。唄っているうちに、人の作った歌ではなく、自分で作って歌いたいという気持ちが芽生えた。だから、妻を介護しなければ、作詞・作曲して自分で自作の歌を歌うようにはならなかったかもしれないのである。息子に聞くと、カラオケはパソコンで作れるというではないか。

 パソコンを買い、パソコン教室に入ったが2度ほど行ってやめてしまった。自力で覚えなければ身につかないと悟ったからである。カラオケを作るソフトを買い一ヶ月ほどでなんとか曲を作れるようになった。一ヶ月もかかってしまったというと、一ヶ月というのはめちゃめちゃ早いですよ、と言われたものである。

 歌作りでは私の場合は詞を作るのが時間がかかるのだ。詞を書くのは一日で書けることもあれば、一ヶ月かかることもある。しかし、詞さえあれば曲は15分もあれば出来てしまう。ギターをやっていたおかげで、コードを弾きながら言葉を口から出していくと同時にメロディが出てくるかんじなのだ。それを楽譜に書き起こす作業の方が時間がかかるのである。

 それをカラオケにするには、私の場合15~25種類の楽器を使う、たとえばバイオリン、フルート、ピアノ、チェロ、トランペット、等々・・・、その一つ一つの楽器の音を一音ずつパソコン内の楽譜に書き起こしていくのだ。だから一曲作るのに一週間ぐらいかかってしまう。一、二年夢中になって百数十曲作ったものだった。インターネットを通じて他人が作詞したものに曲をつけてやったりもしていたが、時間がかかるので、そのうちに馬鹿らしくなって、人のものに曲を付けることは止めてしまった。

 自分の歌のカラオケを作り、自分で歌ってインターネットにUPした。YouTubeではあまり聞かれなかったが、今はなくなってしまったがGoogle+サイトにUPしたところ信じられないぐらいの再生回数が表示されて、興奮したものである。合わせて11万回。私のプロヒールの閲覧数が一日で1万数千のこともあって、あららら、と驚き、慌てたぐらいだった。ライブに何度か出演したことがあるが、聴衆はせいぜい多くても20~30人程度だった。それが11万回余の再生である。数が何桁も違い、その多さが想像出来ないぐらいだった。しかし、あることから、再生回数の多い少ないは曲の良し悪しには関係ないということが分かって、急に意識が覚めてしまい、ほどなくインターネットにUPすることはやめてしまった。

 他に一時ボーカロイドという女性ロボット歌手といったらいいのか、合成の女性の声に私の歌を歌わせることをやってみたりしたこともあったが、これもやめて、今は元のギター弾き語りに戻って、相方のアロエのネットワーク関係のお客さんや農泊ツアーの生徒さんに聞いてもらっている。

 私は自身で作詞・作曲することも歌うことも好きなのだが、実はクラシック系統のギター曲を作ることも好きなのだ。

 私の中で、執筆はライフワーク、ギターは純粋に自分の楽しみ、という位置づけである。小説の執筆で長いこと目標としていることは、

――生きている間に自分の納得がいく作品を何編か書きたい

――チェホフばりの短編を10編ぐらいは書きたい

 ということである。

 そして、できれば文学好きの人に読んでもらいたい。

 ところでギターの弾き語りは少ないが喜んで聞いてくださるというか、涙ぐまれる方もあって、一定程度の評価があるとおもわれるのだが、クラシック系の曲は何人かの方に聞いていただいても、興味を示していただけないというか、歌のような手ごたえがなく、反応が鈍いのだ。しかし、私はときどき無性にクラシック系統の曲が作りたくなるのである。
 

 このところYouTubeで、クラシックのギター曲を聴くことが多い。何人もの三十代とおぼしき女性のギターリストが難易度の高い曲を、いとも簡単そうに弾きこなしているのに接すると、私にはそんなに難易度の高い曲は作れそうもないが、平易でもいいから、感動的な曲を作って弾きたい、というおもいに駆られるのである。

 それにしても、世界には、難しく、高度な、感動的なギター曲を難なく弾きこなしてしまう弾き手がなんと多いことか、と驚いてしまう。

 私も、自分の頭に浮かんだメロディを即興で難なく弾けるようにと、練習に励んでいる次第である。

 これは人に聴いてもらうためではなく、純粋に自分のために、といっていいのである。

2019年07月20日

自分にいい暗示をかける

 振り返ってみると、おもったり、考えたりしたことは、その通りになっていることが分かる。

 例えば私は妻と一緒になるとき、

――この人と添い遂げる

 とおもったが、アルツハイマー病になり長い介護になったがそのおもいは変わらず、23年という長い介護を全うし、大田原赤十字病院で最期を看取った。最初の添い遂げるというおもいは終始変わらず、そのおもいは現実のものとなったのである。

 若い頃は漠然とした都会への憧れがあり、東京消防庁に就職し、練馬区の三畳間のアパートに入って生活しはじめたとき、夜中まで窓の外が周りの電灯で明るく、また車や何らかの物音が絶えず聞こえ、それに慣れることが出来ず、じきにこれは違う、とかんじた。田舎は夜は暗くなり物音がしなくなるのが普通だったからである。

 それから青山南町の消防庁寮に移ったのだが、そこは更に喧騒に溢れていて、私のストレスは頂天に達した。通勤の途上の電車の中で気がつくと吊革にぶら下がるようにして眠っていることがあって、腰痛も出てきた。身体の不調をかんじ、東京警察病院で診察を受けた。後で誤診だということが分かったのだが、鉄欠乏性貧血との診断で、腰痛の痛み止めの注射を腰に打たれた。結果的には胃十二指腸潰瘍だったのである。

 この頃から自分には都会は向いていないとおもい始めたが、都会生活は三十年以上つづいた。いつか田舎に戻りたいとはっきりおもい始めたのは、妻の介護のために退職して教師生活にピリオドを打ってからからだった。

 六十才になる少し前、新聞を見ていると還暦世代優遇ローンだったか何だか忘れてしまったが、要するに六十才以上を優遇する住宅ローンの広告が目についたのだ。おや、そんなものがあるのか。さっそく栃木県の足利銀行のホームページを紐解いた。やはりあった。

 その頃、妻の介護をろくに手伝わない子供たちにいら立っていた。障害者手帳一級を取得し、介護保険と合わせて誰の手助けがなくとも妻を介護する態勢は整えていたが、心の隅にはもう少し家族の手助けがあればなあ、という気持ちは捨てきれずにいた。しかし、子供たちは私の気持ちなど理解しようともしないように見えた。そのくせ私には過大な期待をしている。六十才を越えたら私は自由に生きる、と心に決めた。子育てはもうとっくに終わっている。子供は子供、親は親、もう子供には縛られたくない。そうおもった。

 足利銀行からいくら借りられるか、足利銀行の優遇ローンのページを詳細に調べた。私と妻の合算の年収が基礎になり、返済は79歳までに終わらなければならないので、最大19年返済になる。約1千万円借りられるようだ。そこまで調べてから、足利銀行の融資の担当者に直接電話して確認した。私の解釈に間違いはなかった。結果的には850万円の融資を受けた。

 栃木の友達に電話して、土地を見て欲しいと頼んだ。インターネットで土地の目星はつけておいた。那須塩原市の実家近くは除外した。いろいろしがらみがあるので煩わしい。新幹線の那須塩原駅近くの100坪300万円、大田原市富士見の50坪300万円、大田原市大和久100坪250万円、などなど。実際に下見してくれた友達によると、新幹線近くの100坪と大田原市大和久100坪は広さはいいが不便だという。大田原市富士見は分譲地の中にあり、スーパーやコンビニが歩いて10分程度のところにあるという。当時住んでいた神奈川県秦野市の自宅は、敷地が42坪しかなかった。田舎では50坪は狭いとおもわれるようだが、私は十分だと踏んだ。予算も限られている。上下水道が完備していることも決め手となった。他の二つは100万円近くはする合併浄化槽を設置しなければならないが、ここは直接下水に流せるのだ。

 土地の購入を決め、建築業者を田舎の甥に紹介してもらった。ここまで子供には内緒で進めた。そして、

――栃木に家を建て、息抜きに月2回ほど行きたい

 と、娘に言った。どう反応したかは覚えていない。

 それから半年ほどして栃木の家は完成に近づいた。私は一時たりとも手を離せない介護の身なので、業者まかせでそれまで一度も見に行くことは出来なかった。業者は不安を感じたようで、

――棟上げのときは都合をつけてぜひ現地においでください、一度は見ていただかないと

 と言った。娘に妻を預け、現地に出向いた。

 バス停から歩いて10分、閑静な分譲地であることも、小さいながらもしっかりした骨組みの家にも満足した。完成後は二週間に一度、妻を娘に託してそこに行って一泊した。
 

 介護自体は「楽しく介護する」と標榜していたので、その言葉通りでつらいとはおもわなかったが、四六時中手が離せず、娘を頼まなければどこにも出かけらないことがつらいといえばいえた。二週間に一度にすぎないが、神奈川から離れて自由に羽ばたくように栃木に行けて一泊できたことは今振り返ってみても至福の時間だったとつくづくおもう。

 夏休みの時期に介護タクシーを頼んで、一ヶ月滞在の予定で大田原市の家に出向いた。ストレッチャーに妻を乗せて、四時間以上かかってやっと到着した。

 あらかじめ依頼しておいた介護ヘルパーが、次の日から来てくれた。神奈川と比べて道は広く、歩いて二、三分のところに公園もあって、神奈川と違い妻を抱えて散歩させるのも何の気兼ねなく出来た。小さくとも居間は17畳ある。これは雨の日に妻を歩かせるため広くとったのである。

 一週間生活して、神奈川には帰らず、栃木に居つづけることに決めた。第一の理由は介護タクシーに乗せて神奈川と栃木を行き来するのは、妻に負担が大きすぎるとかんじたことだ。妻をストレッチャーに載せてベルトで固定しての四時間余にもわたる移動である。痛ましすぎる。それに、介護は病人にも介護人にも、自然環境がいい栃木でするべきだ、とおもえた。電話すると二人の子供はそれぞれに強い言葉で私を非難した。何と言われようと、私は反論しなかった。しかし、私の決意は固かった。心の中で、

――俺は俺で生きる、お前たちの世話にはならない、お前たちももう俺を当てにせず、自分で生きろ

 そう呟いていた。

 3年後妻が亡くなって、兄の勧めに従って、淋しさをまぎらわせるために、当座は十日に一度ぐらい神奈川に出向いたが四、五度ぐらいであとは次第に足が遠のいて、そのうちに行かなくなってしまった。ある親族の連帯保証人になったがために神奈川の家がなくなってしまったということもあるが、現在の同居人と知り合い、やがてその家に移り住んだことが大きい。

 そして現在は全く神奈川に出向いていない。そうなってから、もう五年以上はたつ。
田舎に戻るとおもい考えたことは完全にその通りになったことになる。

ここまで書き綴る途中で、興味深い出来事が起こった。

というのは相方の妹さんのことだ。お腹がしばしば痛み、それもかなりな痛みだっだのだが、我慢して仕事をしていたのだという。しかし、先日七転八倒するような痛みに襲われて救急車を呼んだのである。検査を受けると、胆嚢に胆石があって、胆管に詰まっていたのだった。

 これまで病気らしい病気をしたことがない気丈な方だった。私と相方が一緒になったことを初めに喜んでくださった方で、何度もお会いしているが、勝ち気で気が強いという印象である。整体院を開いていて、私も腰を痛めたとき施術を受けたが、主として肘を使って身体の各部に圧を加え、筋肉の凝りを取って、身体のバランスを整えるという独特のやり方なのだった。1時間半にも渡る丁寧な施術で、私の腰痛はぐっと軽くなったものである。

 胆石を取る手術を受けると聞いて、当然当分は整体も出来ず、弱ってしまうだろうな、というのが私の感想だった。彼女は私よりも二つ年下だから七十代に入っている。七十代になれば肉体的な衰えは否めず、多くが病気をきっかけとしてぐっと弱ってしまうのである。相方は、他の二人の妹と見舞いに行く相談をしていた。

ところが、である。

見舞いになど来る必要はない、という。そして、手術を早めて貰い、明日に決まったという。ええーっ、と相方は驚いて、それでは手術が終わって適当な日を選んでの見舞いにしようと他の二人の妹と電話で相談をし直しはじめた。

 私もそういう方面には疎いので詳しくはわからないが、手術といっても一昔前とは違って、メスで切り開くというのではなく、口から内視鏡を入れて、胆管まで差し入れて何らかの方法で取り除くのかもしれない。例えば石を砕いてしまうとか溶かしてしまうとか。

 そうこうしているうちに、なんと手術当日の夕方、本人から電話がかかってきたのだ。

――手術終わったわ

 ええーっ、と相方は驚いて、

――もう? それで大丈夫なの

――平気よ、明日退院することになったわ

――ええっ、だって手術したばかりでしょ、本当なの

――ホントよ

――でも、術後は経過を見るから退院は三日後になるって言ってたじゃない

――それも早めてもらったのよ

――そんな・・・、

 相方は絶句してしまった。すると、

――姉ちゃん、ワタシ病気なんかじゃないから、たかが、胆管に石がつまっただけじゃない、その石を取ったら、終わりよ、病院なんかやることないから退屈で退屈で、居られないわよ、主治医に頼んだわ、整体の患者さんが待ってるから、早く退院させてくださいって、そしたら、経過をみないとというから、これだけ元気でぴんぴんしているんだから大丈夫よ、といったら、三食食べて何事もなければ退院してもいいです、これは病院の決まりなんですという。だから、夕食もう食べたわ、あと二食、明日の朝と昼食べて、明日の午後にはワタシ退院するわ

 相方はあっけにとられて聞き入るばかりだった。

 手術の前の日、相方が妹さんとスマホでの話の途中で、私に何か言ってやって、とスマホを手渡しされたのである。もしもし、大丈夫ですか、ととりあえず言ってみると、

――いや、酷い目にあいました

 と言うが、とても病人とはおもえない明るい張りのある声なので意表をつかれた。あ、この方めげてはいないな、と瞬間的にかんじた。酷い目というのは、お腹が痛くて七転八倒したことをいうのだろうが、それはもう過去のことになっていたのだろう。

 普通は胆石があると医師にいわれただけで、精神的に打撃を受けて、すっかり打ちのめされて、重病人になってしまう例が多い。それがたかが胆石だととらえ、取ってしまえば終わり、という。強いな、と私はおもい、感銘を受けた。

 後日譚である。

 救急搬送されて手荷物だけは連れ添いに持ってきてもらったものの、見舞いは辞退、聞きつけた数人が病室を訪れたが見舞い金の熨斗袋は全て返したというし、退院後タクシーを使おうとしたのだが、丁度病院前のバス停にバスが止まっていたので、そのバスに乗って帰宅したという。

 何という気丈だろう。

 そして、極めつきは、退院した翌日に、はや整体のお客さんを受け付けて施術したというのだから恐れ入る。相方が心配して電話してもいつも通りの明るさで、応対し、

――だって、あなた手術のとき麻酔したのでしょう

と、相方が言うと、

――それはしたわよ、でも、一日すれば麻酔なんか覚めるわよ

 と平然と答えたというから、痛快というか、あっぱれと言う外はない。こうなると豪傑である。

 ――たとえ肉体が病むとも、心まで病ますな

 言い回しは少し違うかもしれないが、私が敬愛する哲学者中村天風の言葉である。

 凡人は肉体が少しでも具合が悪くなると、めげてしまい精神的にまいってしまい、ますます具合が悪くなってしまうという例が多い。相方の妹さんは中村天風を知っているかいないかわからないが、天風がいうところの真理を身をもって実践しているといえる。

 なぜ凡人が具合が悪くなると精神的に落ち込んで更に悪くなってしまうのかというと、自分で自分に悪い暗示をかけてしまうからである。

 人に暗示を働きかけるものは、言葉、文字、行動、現象、などがあるが、要するに凡人は、胆嚢に石が出来てしまったということは大変なことだ、悪いことだ、更に悪くなってしまうかもしれない、というような自己暗示をかけてしまうのである。つまり自分で自分に悪くなるという暗示をかけているのだ。

 しかし、秀人は肉体が病んでもそれを更に悪くするような愚は犯さない。言葉は特に強烈な暗示力を持っているのだ。例え肉体が病んでも、秀人である相方の妹さんのような人は、胆石という凡人なら怖れる病気でも平然として、胆石がただ胆管につまっただけじゃない、ワタシ病気なんかじゃないから、見舞いに来る必要なんかないわよ、と言うのだから、これは自分で自分に強いプラスの暗示をかけているのである。病気が快方に向かい、治ってしまう由縁である。

 当文の当初の意図は、人がおもったり考えたりしたことはその通りになるということを、私のこれまでの半生のうちの幾つかの例を挙げて、実証したいと書き進めたのだが、その途中で相方の妹さんの話が飛び込んできたのである。

 衝撃的ないい話だったので、これは皆さまにも披露した方が、私のことなんかよりいいかもしれないと、方針を転換して記述した次第である。

 私のこの人と添い遂げるというおもいがそうなったのは、一貫終始自己暗示をかけつづけたからだし、田舎に戻るということも同じである。

 相方の妹さんも重病にもかかわらず、自分は病気ではないと暗示をかけて克服してしまったのだ。

 要はいい暗示をかければよくなるし、先の凡人のように悪い暗示をかければ悪くなってしまうのである。それが真理である。

2019年06月23日

開拓者魂

 私は那須塩原市(旧西那須野町)の三区町出身である。

 そこは那須野が原開拓の村で、私は明治時代に入植した先々代の末裔に当たる。そこの入植者の多くははるばる長野から来たと聞いているが、先々代はごく近隣の現矢板市の片岡からで、生粋の入植者とはちょっと違っていたようだ。

というのは、先々代はとある神社の神主の長男で後を継ぐわけだったが、妻と姑の折り合いが悪く、先々代は妻のために神職を弟に譲って、開拓の村に入植する道を選んだという。着の身着のままの入植者とは違って、いくばくかの財とともに入植したために、水車小屋を持ち、山栗を拾って町でそれを売り帰りにその日の米を買って帰るというような貧しい村人もいたというが、先々代の家族はそれなりの生活が出来たようだった。

この先々代は村の中央に位置する光尊寺という寺の建立に尽力、ために実家のお墓は墓所真ん中奥の一等地を与えられたという。寺には大きな銀杏の樹があって、子供の頃、報恩講という秋に行われる寺の行事に連れられていかれたとき、鐘が突かれるたびにゴーンというその響きの空気振動によって、銀杏の実つまりギンナンがバラバラと落ちたことがいまだに印象深く脳裏に刻み込まれている。

先々代の息子つまり私にとっての祖父は村会議員も務め、困っている人がいると、自分が困っても物を与えてしまうような豪快な性格だったという。母はその祖父に「デビ」と呼ばれたという。デビとは当地では普通額が出っ張っているという侮蔑と揶揄いの言葉なのだが、祖父は息子の嫁に親しみを込めた愛称として使ったのかもしれない。母はデビと呼ばれても、嫌だった様子はなく、祖父には可愛がられたと懐かしそうに述懐したものである。

さて、私は開拓の入植者の末裔であることを普段意識することはないが、折に触れてその血筋を意識することがある。

――斎藤君はおとなしそうな顔をしているが、おもい切ったことをやる、やることが大胆だよ、西那須野の開拓の人にはそういう人が多い気がする。俺のような旧村の人間にはとてもできないことを斎藤君は平気でやるものな

 大田原市の佐久山地区生まれのある友人の言である。

 彼の祖母は佐久山城主に仕える腰元だったとのことで、要するに生粋の旧村の生まれなのだ。

 まだ二十代初めの頃のことで、それまでは私は開拓の村と旧村を比較して見るということはなかったが、彼の言以来意識するようになったのである。

 彼がいうところの私の大胆さというのは、東京消防庁に就職したのに一年で辞め、大学に入りなおして教員の免許をとり、生家から通える学校に就職したのにそれもあっさり辞めて、横浜に行って結婚したことなどを指しているようだった。

 当時はどうともおもわなかったが、東京消防庁を辞めるときも親をはじめとして何人もの人からもったいない何故やめるといわれたし、学校もなかなか入れない地区に就職出来て羨ましがられたものなのに何で、と多くの人から不審がられたものだ。

 横浜に行って結婚しても落ち着くことはなかった。学校を辞めて植木屋になろうとしたが、うまくいかず、学習塾を開いた。しかし、個人でやっているうちはよかったが、人を雇って大規模にしようとして失敗した。後でわかったことだが、私立の学校を横領でクビになった男を雇ってしまい、この男の出鱈目な教え方に苦情が殺到、アルバイトの学生には急に休まれたりもして、塾生が急減し始めた。結局始めた進学塾は二年しかつづかなかった。私は単独ならかなり能力を発揮できるのだが、人材を見極めるとか、人を使う能力、そして自身の経営力はゼロに近いと悟らざるを得なかった。

 安定が一番との妻の願いを聞き入れ、再び教師として東京都に就職した。このころから小説を書き始めた。

 今は下火であまりお目にかかることもなくなってしまったが、小説同人雑誌が隆盛の頃で、ここからプロの作家が多数巣立ったものだ。私も書き始めて間もなく、当時権威のあった文藝春秋社の文学界の同人雑誌評のベスト5のトップに2度あげられた。デビューのチャンスだったのだが、力んでしまい、そのあとがつづかなかった。二番手三番手の文学賞はいくつか貰ったが、それどまりだった。

 ちょうどその頃妻が病を得てしまい、介護に入っていかなければならなかったことも重なったのだが、しかし、それがデビューできなかった原因ではないとおもっている。要するに当時文学的な行き詰まりを打開できなかったということなのだ。

 それから約三十年がたったが、やっとというか力みがとれ、自分なりの文章が書けるようになったな、とかんじる。このブログのいくつかを読み直してみても、そうおもえるのである。

 ところで開拓者の末裔としての血を意識するようになったと書いたが、七十年余の半生は「新たなる挑戦」の連続だったとおもえるからである。

 那須野が原の開拓者は、不毛な那須野が原を切り開き、そこに新たな田畑を作り出したのである。その血筋を改めて意識したのは、十年前現在の住居に相方と同居するようになった前後である。

 当時相方所有の土地は荒れ果てていた。日々の食用に当てるための田畑はともかく、屋敷外の竹藪、雑木林、あぜ道、など雑草や篠や蔦類がはびこり、荒涼としていたのである。要するに相方一人では屋敷周辺の手入れで精一杯だったのだ。交際をはじめて間もなくの頃、彼女が刈払い機を背負って斜面を這うようにして雑草を刈っていく様に、度肝を抜かれた。

ご存知のように刈払い機はエンジンでのこぎり歯を回転させて、雑草を刈るのである。平地だって危険な作業なのだ。それが急斜面である。私は回転するのこぎり歯が何かに当たったり、バウンドしてしまわないかとハラハラしなから見守った。そして、これは何とかしてやらなければ、とおもったものである。

 その頃はまだ同居するつもりはなかったので、大田原市の自分の家から自転車で片道50分かけて通った。朝作業を始め、夕方大田原の自宅に戻る。手始めに屋敷裏手の篠がはびこる200坪ほどの角場を下刈り始めた。篠だけではなく灌木、太い蔦類などが絡み合ってジャングル化していたので、一日一二メートルしか進めない。結局そこを刈り終えるのに一ヶ月ぐらいかかってしまった。

 その途中で開拓者魂が目覚めたのだとおもう。ついでだから、全部やってしまおうと決意し、まずは丘の上にある墓所までの道の篠を刈り始めた。そう、道に篠が生え茂っていたのだから、「道なき道」になってしまっていたのだ。雑木林の下刈り、といっても篠藪と化していた山林全体を退治したといっていい。私は作業しながら、これは開拓だな、とおもった。開拓者の末裔が開拓魂に駆られて土地を開墾している、とはっきりと意識した。

 そして、篠退治を始めて二ヶ月たったころだとおもうが、大田原市から自転車で通うことをやめ、彼女の家に移り住んだのである。もう1時間半もかけて往復するのは無駄だ、と考えたのだ。

 結局土地全体をやり終えるのに半年かかった。

――これだけやるのは大変だったでしょう

 と、言った人は多い。それに対して、私は、

――大変だ、とおもえば、大変になってしまうんです、だから、私は大変だとはおもわないことにしているんです

 と応えることにしている。別の言い方をすると、大変と口にしたと同時に大変になってしまうのだ。ではどうおもい、どう口にすればいいのか。

――楽しい、嬉しい

 でもいいし、

――遣り甲斐がある

 でもいい。そうおもい、そう口にすれば、そうなるということなのだ。

 ともあれ、開拓者の末裔である私はときに開拓者魂が目を覚まし、それは「新しい挑戦」という形で発現するのである。

 私は直接的には聞いていないのだが、今年の初め頃、相方は四十代の中国人のお客さんにこう言われたのだという。

――小口さん、米野菜を作って、民宿やってるだけで、満足していたんじゃだめですよ、発想の転換をするべきです、パソコンだってスマホだって、今は一年じゃなく、半年で変わってしまう時代でしょう、私は日本に来てイオンに勤めたが辞めました、イオンにいたって、長年働いてせいぜい支店長止まりですからね、でもワタシは発想の転換をして、貿易会社を始めたのです、中国人の爆買いに目をつけました、中国人がわざわざ日本に来て爆買いをするんだから、わざわざ日本に来なくていいように、ワタシが買って中国に送って売るのです、今私はその会社の社長です、ハハハ

 なるほど、と私はおもい、その中国人に刺激を受けた。

 考えてみると、私は常に発想の転換を図ってきたようにおもう。

 キャンプ場のすぐ隣の楓林の東側に推定数千本の矢竹があるのだが、矢竹は横笛に向いているとのことだったので、横笛愛好家向けネットショップ「竹農園」をオープンしたのもそうだし、植木屋に貸していた土地を全部返してもらい、柿を100本余植えて、竹農園を柿農園に改名したのもそうだった。

 そして、閃きによって柿農園の丘の上にキャンプ場を開設したのもそうである。

 ところで旧村と開拓村との違いであるが、最近こんなことがあった。地域の役員が何らかの書類を持って訪ねてきた。この人は五十代ぐらいで、旧家の御曹司である。要するにれっきとした旧村生まれといっていいが、相方がキャンプ場の話をすると、こう言ったという。

――そうですか、そんなにお客さんが入ったのですか、しかし、都会の人はどうしてこんなとこでキャンプなんかやって楽しいんでしょうね

 要するに、この方はこの地の良さがまるで分っていないのである。自分たちが住む地の良さが分からなければキャンプに来る人達の気持ち、楽しさも、嬉しさも想像できないたろう。旧弊やしがらみに曇った旧態依然の視点でしか見られないから、この地の素晴らしい豊かな大自然の美しさに気づかないのである。当然この地でキャンプすることの意味など理解できないわけなのだ。

 こういう旧弊やしがらみにどっぷりつかっている人には、私が言うところの新しい発想も、中国人が言うような発想の転換も出来ないに違いない。

 冒頭で友人が言ったところの旧村生まれと開拓の村生まれの違いとは、前者は旧弊や田舎のしがらみにどっぷり漬かってしまっているためにそれに捉えられ身動きが出来ない、要するに自由な発想ができないのだ。それに比べて、後者は既得権益もなければ守るべきものもないので身軽で、動きやすく、新たな挑戦が出来る。皆が皆そうではないだろうが、そういう傾向があるということなのだとおもう。

 ともあれ、開拓者魂で発想した我がキャンプ場は五月の連休予想を越えた入場者で賑わい、現在夏のキャンプの季節に向けて、整備しているのだが、民宿の方にははるばるカナダから予約が入り、キャンプ場もぼちぼち予約が入り始めている。

 キャンプサイトに移植した芝も青く芽が吹き、道に蒔いた芝の種も間もなく芽吹くものとおもわれる。

 二年後ぐらいになってしまうだろうが、全面芝生の丘の上のキャンプサイトや道路をイメージしながら、農作業や整備にいそしむ毎日である。

 

2019年06月10日

カラスと蛇

耕運機で畑を耕し始めると、どこからともなくカラスが飛んできて、すぐそばに舞い降りる。そして、耕運機が耕した畑の土を突っつき始めるのである。一羽のこともあれば二羽のこともある。

 このカラスは私に慣れているというか、私が追い払ったりせず危害を加える恐れがないので安心して近寄るのだろう。場合によっては一メートルぐらいのそばまで来るのである。何をしているのかというと耕運機が土を掘り返したときに出てくる虫やカエルを啄んでいるのである。

 私はカラスが舞い降りると、おー、来たか、と口の中で呟くだけで仕事を続ける。近寄ってくるから可愛いが愛玩するというわけではない。よく見ると、頭も羽も黒く、目は不気味に鋭く、上嘴が下向きに湾曲していて黒光りしている。このカラス私が生ゴミを捨てたあと気配を感じてふっと後ろを振り返ると、もう捨てたばかりの生ゴミをほじくり返していたりする。そんなとき私はぎょっとしてしまうのである。

 うちの愛猫クーは猫としては珍しく、散歩に出ると私の後を追うようについてくることがある。黒猫なのだが、愛犬モモも茶色が混じってはいるか黒い。愛犬モモは散歩に出ると元気がいいので、私が引くというよりも私が引っ張られるようなかんじになってしまう。

 いつか、相方が笑いながら、

――清昭(私の名)さんは桃太郎じゃないけど、家来として犬と猫とカラスをひきつれているのね、どれも黒いから笑っちゃうわ

 という。

――猫とカラスは私の後をついてくるけど、犬は違うよ、犬が私をひきつれているようなもんだもの、ハハハ

 私もいたずらっほく言ったものである。

  カーン、コーン、というような声がすることがある。キツツキである。朝方とか昼頃で、あれ今頃キツツキかと不審をかんじ、周囲を見回すと、電線にカラスが止まっているのが見える。キツツキではなく、カラスがキツツキの真似をして鳴いていたのである。九官鳥やカラスが人間や他の鳥の真似をするという話は聞いたことがあるが、実際に聞いたのは初めてて、私は珍しさに驚くと同時に、てっきりキツツキだとおもったのにカラスだったので思わず笑ってしまったものだった。カラスはどれも似たような顔をしているので断言はできないが、多分よく私のそばにくるカラスである。それからというもの、キツツキというかカラスのキツツキの真似をよく耳にするようになった。キツツキの鳴き声は独特であり、カラスにとっても印象深く真似をするようになったのかもしれない。

 相方と一緒にサツマイモの苗を植える畑を耕していたとき、

――あれ、蛇が死んでるわ

 という。見ると長さ1mぐらいのシマヘビが頭をひっこめた感じで動かないでいる。

 白っちゃけた色でぴくりともしないので死んでいるのかもしれないとおもったが、そのまま作業をつづけた。次の日そこに行ってみると、同じ場所に同じ格好でヘビがいた。そこは畑の端だがサツマイモの苗を植えるところなので、やむなくトウグワをヘビの下に入れて移動するべく持ち上げた。すると、ヘビが動いた。死んでいるわけではなかったのだ。ヘビを畑の外に出した。動きは鈍く、死んではいないが弱っているようだ。元気ならにょろにょろ這ってどこかへ逃げるだろうに、私に出された場所で動かなくなってしまった。私はそのまま作業をつづけ、一時間ぐらいしてからまたそこに行ってみた。ヘビはそのままで腹の一部が何かを飲み込んでいるのだろう、ぽっこり膨らんで、太陽の光にてらてら光っている。太陽の光に晒されたままでは、干からびて完全に死んでしまうかもしれない。私は作業で抜いた根っこつきの草を、ヘビの腹や身体が隠れるようにかぶせてやった。

 動物にも人間にも自然治癒力が備わっている。人間は薬を飲んだり手術をしたりして病気を治す方法を持っているが、動物は自然治癒力に頼るしかないといってもいい。

 我が家の犬も猫も何らかの原因で体の具合が悪くなると、例えば食欲がなくなって元気がないというときはひたすら蹲ってじっとしている。そして、自然に食欲が出元気になるのを待つのである。すると、一日二日たち三日もすると徐々に食べるようになり、元の元気を取り戻すのだ。

 畑に行ってヘビがいるあたりを通るとき何度かどうしているか確かめた。すると、二日たったときヘビの姿がなかった。ヘビもうちの犬猫のように私がかぶせてやった草の陰でひたすら体力が戻るのを待っていたのだろう。シマヘビは田んぼや畑のカエルやモグラや虫などを食べて生きているのだ。人間は蛇というと目の敵にするが、農家にとっては有難い生き物なのである。私はシマヘビが生き返ったらしいことにホッとするものをかんじ、ヘビがじっとしていたあたりを見回してから畑の作業にかかったものである。

 ヘビなど半年ぐらいは見なかったのに五月に入ってから目にするようになり、復活したシマヘビを合図のように立て続けに蛇にお目にかかるようになった。

 サツマイモを育てるのにマルチと呼んでいるのだが、黒いビニルを土にかぶせる。これは草が生えるのを防ぐためのものである。しかし、雑草の繁殖力は凄まじく、ビニルが古くなってもろくなって少しでも穴が開こうものなら、そこから頭を出し繁殖するのである。その畑はビニルを惜しんで古いものを使ったものだから、穴が一杯あったらしく、雑草の繁殖が甚だしく、まるで荒れ地のようになっていた。こうなるとビニルなど張らなかった方がよかったとおもえるぐらいである。なぜかというと、ビニルを張ったままでは耕運機で耕せないから、張ったビニルを取らなければならない。ビニルをはぎ取ろうにも雑草の根がはびこっているので破れてしまう。だから、雑草を抜いたり、土を剥いだり、破れたビニルを草の根からはぎ取ったりと、ひどく手間のかかる作業になってしまった。

 その作業の最中ビニルを剥いだとき、ヘビがとぐろを巻いていた。私は吃驚して声をあげてしまったが、ヘビも驚いたようだ。温かいビニルの中で冬眠していたのか、あわてて身を起こして、穴の中に潜り込んでいった。長さ一メートル弱ぐらい、復活シマヘビよりもやや小ぶりのシマヘビだった。一、二秒で尻尾まで見えなくなった。

 それから次の畑でも、マルチの下に長さ五十センチぐらいのシマヘビが潜んでいた。この日は一日で二匹のシマヘビにお目にかかったことになる。

 マルチを剥がすために雑草の根や土との格闘を終え、耕運機を持ってきて、そこを耕し始めた。すると例のカラスがどこからともなくやってきて、いつものように耕運機が掘り起こした土を突っつき始めた。私が使っている耕運機はミニ耕耘機で小さい。小回りは効くのだが、馬力がない。土をより深く掘り起こすため、私は取っ手に乗りかかるようにしながら運転するのだ。と、何か微かな異変をかんじた。耕運機の下の、私の足元にヘビが姿を現し、ぐにゃぐにゃ身もだえしている。やってしまったか、と心がチクリと痛むがどうにもならない。耕運機のスクリューが土の中にいたヘビを掘り起こしてしまったのである。耕運機のスクリューはいわば鋭い刃物である。まともに蛇の体に当たったとしたら、体は真っ二つに裂けてしまうだろう。通り過ぎて振り返って見ると、ぐにゃぐにゃしていたヘビはすぐに土の中に潜り込んでいく。しかし、尻尾が十センチぐらい出た状態で動かなくなり、その尻尾がピクピク小刻みに震えている。耕運機のスクリューにまともには当たらなかったが、体のどこかをかすめたかして傷を負ったに違いない。

 悪い予感がよぎる。カラスがヘビに気づかないか。私は耕耘機を止めた。そして見ていると、案の定、カラスがふるえているヘビの尻尾の方に行った。私はまずいことになったな、とおもいながら見ていた。ヘビは傷ついて体を痙攣させているぐらいだからカラスに食べられてしまうかもしれない。憐れだとおもうが動物の世界は弱肉強食だからどうにもならないとおもう。

 カラスがヘビの尻尾を咥えて引っ張る。カラスは人間と同じように足を踏ん張っている。五センチぐらい引っ張りだされてしまったが、何とか堪えたらしく、それ以上は蛇の体は姿を現さない。カラスは気を取り直してもう一度引っ張ろうとする。しかし、動かない。カラスは二度三度と引っ張るが、ヘビは必死に耐えているようだ。そのうちにカラスはダメだとおもったか、飽きてしまったのか、咥えていたヘビの尻尾を離した。すると、ヘビの尻尾がするすると土の中に入っていく。カラスは諦めたらしく、そこから離れ飛んでいってしまった。ヘビは最後の力を振り絞ったのだろう。私はホッとしたものをかんじながら、ヘビが潜った土のあたりをあらためて眺めた。

 そして、また畑を耕す作業に戻った。

 

2019年05月27日

柿農園を訪れる人々

 相方がアロエベラジュースのネットワークを手掛けている関係で、これまでも我が家を訪れる人は多かった。

 但し、私たち二人が高齢なので、そのほとんどはネットワーク関係の同年代か幾分若い六、七十代の人たちだった。それも近隣ではなく、東京や埼玉など首都圏から来られるのである。

 当地は限界集落といってもいい鄙びた村で、道を通る車さえ日に数台あるかないかぐらいなのだ。だから、車がひっきりなしに出入りしている我が家は目立って、新興宗教でも始めたのではないかという噂がたったぐらいである。

 そして、三年前大田原ツーリズム社からの農泊ツアーの小中高生を受け入れるようになり、次いで二年前から宿泊予約サイトに登録してから一般のお客さんも入るようになった。
 小中高生はとびきり若い十代の若者だし、一般のお客さんも若い方が多いのだ。これで我が家の来訪者の平均年齢がぐっと下がった。

 一般のお客さんは八割方が二十代~四十代の若者である。これは、我が柿農園が鉄道の駅から離れた辺鄙な場所にあることが関係している。

 私たちの同年代だと車を運転して来る例はあまりない。JRの電車で来る場合宇都宮線の野崎駅下車でタクシーで30分かかり、料金も約6千円と高いので相方がいつも車で迎えに行っていた。昨年から高齢になったのでもう迎えには行けないと宣言したところ、電車で来訪する人はぐっと減った。どうしても来たいという人は、車の運転が出来る人を頼んで来られるようになった。

 車を運転が出来る人が高齢者の場合、我が家にまっすぐ来られずに、道に迷ってしまい、途中まで迎えに行くことがしばしばだった。

しかし、若者は場所が辺鄙であろうがなかろうが関係ないようだ。情報を収集し興味を持ったり、必要性をかんじれば行動するのだろう。そして、こちらで何の説明をしなくとも、スムースに我が家に到着するのである。到着の時間が分かれば迎えに出るのだが、あるときなど気がついて外に出たところ、ちゃんと車庫に車が入っていて、ドアを開けてお客さんが下りられるところだったので、あっけにとられおもわず笑ってしまったぐらいである。

 高齢者と若者との違いはどこからくるのか――

私と同年代はまずパソコンができない。携帯もジジババもので、スマホを使いこなす人は少ない。だからネットの使い方など分からないのだ。車にカーナビがついていても、それを使いこなせない人が多いのである。道に迷ってしまう由縁である。

それに比べて、若者はスマホを駆使して、ネットを検索し、常に最新情報を得ている。我が家のような辺鄙な場所でもスマホの道案内アプリで最短の道順を把握し、道に迷うことなくやってくるのである。

さて、我が柿農園では、キャンプ場をオープンし、4月27日に初めてのお客さんが入った。
10連休中に計33組、連泊されたお客さんもいるので、大人子供を含めのべ約160名のお客さんがキャンプ場に宿泊された。ほとんどが二~四十代の若い人で、五十代以上は一割程度か。半数は子供で乳幼児も多かった。車で来るのでキャンプに乳幼児も同伴出来るんだ、と私は初めて知ったおもいだった。

民宿の方も9日間お客さんが入った。三組で計13名のお客さんだった。一組は6泊された。我が柿農園始まって以来の長期宿泊である。のべ人数にすると計43名である。

キャンプと民宿を合わせるとのべ約200名のお客さんが来られたのだから、かなりの賑わいで、私共二人は大忙しだった。食べている暇がなく、きちんと食事がとれなかったせいで、連休最終日お腹が凹んでいるいることに気がついた。体重計に乗ってみると55kgしかない。普段は58~59kgだから3~4kg減ったわけだ。相方もやはり3~4kg瘦せたという。こんなに急に瘦せるのはいけないと、それからはきちんと食べることにしたところ、一週間もしないうちに二人とも元に復した。

200名余のお客さんが入ったというと、皆さん、えーっ、そんなに、と驚かれる。私からしてきちんと数えてみて、そうなることに気づいて驚いたぐらいだから無理からぬことである。

――そんなにお客さんが入って、人を雇わないで二人だけで対応したの?

――それはそうだよ、人なんか雇えない

――それだけの人数を、二人だけでやったなんてスゴいじゃない

 言われてみればそうだが、民宿は素泊まりか朝食付きだけだし、キャンプは食事無しだから出来たのである。今後は民宿も素泊まりのみにすることにしたので、食事を作らないで済む。その分楽かもしれない。

 200名からのお客さんの対応は初めてのことで、勝手が分からないことが多い分気疲れした。また、動き回るのに余計な力が入ってしまい、体力的にきつかったことは事実である。

――キャンプで出たゴミはどうしたらいいですか

 という問い合わせがあった。そのときは気軽に、燃えるゴミ、燃えないゴミ、生ゴミ、の三つに分別して出してください、と言ってしまった。ゴミを持ち帰るのは大変だろうし、面倒だろうとおもったからである。しかし、多くのキャンプ場がゴミは持ち帰りとしているところが多いとお客さんから聞いた。

 ネットで調べてみると、ゴミ出し禁止つまりゴミは持ち帰りというところが多いため、キャンパーもいろいろ工夫しているようである。

 〇食材は野菜中心で必要最低限にし、なるべくゴミはださない

 〇燃えるものは燃やしてしまう、生ゴミは細かく砕いて燃やしてしまう
などなど・・・。

 一番お客さんが入った日は9組だったのだが、ゴミが大量に出、一輪車で四回も往復して運ばなければならなかった。キャンプサイトは丘の上なのだから、高齢の身としては坂道の四往復は結構きつい。3~4kgも体重が減った由縁である。今後はゴミ収集は体力的に無理だな、とかんじた。

 それにキャンプで出た大量のゴミを集落のゴミ収集所に出すのは気が引ける。この日はゴミ収集所がうちで出したゴミで満杯になってしまったのだ。そのうち苦情が出るかもしれない。

 それで、ゴミについてはネット情報を元に、今後は、つぎのようにお願いすることにしたい。

◎燃えるゴミは燃やしてください

◎生ゴミ用バケツを用意しておきますので、ビニル袋などは取り除いて生ゴミのみを入れてください(土の中に埋めます)

◎その他の燃えないゴミはお持ち帰りください
 
 農泊ツアーの学生生徒さんは、東京横浜川崎埼玉などの首都圏だけではなく、大阪広島九州などの小中高生だった。日本だけではなく、アメリカ、台湾、ベトナムから、大学生、日本語学校の学生さんが入ったこともある。国際色豊かといってもいいだろう。

 この10連休中には民宿に中国の方が宿泊され、キャンプ場にはマレーシア、韓国の方も入られた。

 我が柿農園のホームページは最近外国の方の閲覧も多くなっている。アメリカ、イギリス、フランス、デンマーク、スエーデン、ブラジル、香港、中国、韓国、インド、・・・。

多分宿泊予約サイト「楽天ライフル」を通してbooking.com、それに「Airbnb」に掲載されたからだとおもわれる。2年後に東京オリンピックを控えていることもあり、近い将来これらの国々からもお客さんが入るのかもしれない。

ところで、一二ヶ月前、農林水産省の方から、

――柿農園のホームページを見た、取材をしたいのだが

 と電話が入った。了承すると十日後ぐらいに、二人の方が見えた。農林水産省宇都宮支局の職員だという。柿農園でやっている内容を取材して、本省に報告するといい、作っている作物や民宿の様子や年収に至るまで詳しく聞かれた。そして、

――柿を町のブランドとして認定してもらうといいですよ
 とか、

――いろいろな補助制度があるので、町に出向いて聞いたり調べたりして、可能な補助があったら利用した方がいいですよ

 とアドバイスしてくれたのである。

 考えてみると、キャンプはテントサイトを貸すだけで、シャワーも風呂もないから、お客さんは温泉に入り、食材を買ったり、食事処で食事をしたり、土産物を買ったりと、周辺で何らかの消費をするわけで、柿農園として間接的に町に貢献しているし、これからも貢献できるわけである。

 柿農園は広く、とても私だけでは手入れが行き届かない。テントサイト北側の楓林の周りは荒れ地となっているのだが、ここを整備出来ればきれいな公園にも花畑にもなりえる。キャンプ場と合わせて素晴らしい観光地となるのではないか、とおもうのである。

 そこで、那珂川町役場農林振興課に出向き、三つのことを依頼したり、説明を聞いた。

〇柿を町のブランドとして認定してもらえないか 

〇キャンプ場の北側の町道がぬかるむので砂利を敷いてもらえないか

〇キャンプ場の整備や山林の手入れのための補助制度はないのか

 柿のブランド化については大量出荷が出来なければ、難しいという。町道に砂利を敷くのは担当が建設課なので、建設課の方で実地を視察の上検討するとのことである。三つ目の補助制度については農林推進課で可能なものがあるかどうか調べて後日知らせてくれることになった。
 

どれも公的な資金つまり税金を使うのだから、審査制限は厳しいだろうと予測していたが、農林水産省の職員に勧められたと言ったからか、対応してくれた職員は3人だったがどの職員も丁重で丁寧に説明してくれた。

 感触としては町道の泥濘に砂利を敷く件が通るかな、とかんじられたがどうなるか。この案件は依頼が多く、順番に処理しているが、すぐにというわけにはいかない、というようなことを言っていた。こちらとしてはすぐにでなくともやってもらえれば「御の字」なのだ。

 キャンプ場の整備や山林の手入れは難しいのかもしれないが、キャンプ場が町に貢献していると言っただけでも意味があったとおもうのである。

2019年05月21日

直接の声


 柿農園キャンプ場は開設したばかりであり、また個人経営なので、まだまだ整備が行き届かず、整備されたキャンプ場と比べるとかなり見劣りがするかもしれない。

 しかし、それ故のよさもあるはずである。

――整備されて至れり尽くせりの施設だと、感動がないし、新しい発見もないわ、でも、ここは他にはない目新しいものがあって楽しいです

二日目に入られたお客さんの声である。私はきちんと整備されているよりもなんでもありの未整備な我が柿農園のようなキャンプ場を喜ばれるお客さんもいるに違いないとおもっていたので、やはりと意を強くしたものだった。他にも、同じようなことを言われたお客さんは何人もおられた。

――タケノコ掘りができるキャンプ場なんて嬉しいわ、湯がいたタケノコご馳走様、とてもおいしかったです

――敷地が広く、歩き切れなかったです、また来て行けなかったところも歩いてみたいでわ

――子供がのびのび遊べるので喜んでいます

――今の田植えは機械なので数時間で終わってしまうとのこと、偶然に田植えに出会えてラッキーでした、子供が田植え機に乗せてもらって喜んでいます、普段は絶対に出来ないいい経験をさせてもらいました、友達はハワイやグアムに行ったけど、ぼくはここに来られてよかった、帰ったら田植え機に乗ったと自慢するんだと言っています

 我が柿農園のホームページに、

「農園独自の発見があるかとおもいます、お子様は喜ばれるかもしれません」

 と書きましたが、あるお子さんはまだ帰りたくないとべそをかき、あるお子さんはまだここにいたいといって車に乗らず困りました、とお客さんが途方に暮れたように言っているのを聞きました。

 二泊した別の小学生の女のお子さんが、わざわざ私のところに来て、

――これから他のキャンプ場に行くのよ、わたしはここにいたいって言ったのだけど、キャンセル料がかかるからって・・・

 と言ったものだった。

 さて4月28日大雨が降った。私にとっては予想外の事態が起こった。予想外というのは、キャンプ場や道がぬかるんで車がスリップしたり泥濘に車輪がはまり込んでしまったことである。

 我が家の車は「アクア」である。このアクアで道を通ったりキャンプ場に行って乗り回したりして確かめたつもりでいた。肥料を頼んだ業者の2t車が出入りしても大丈夫だったので「よし」としていたのである。今にしておもえばアクアは小型である。ところが来られた多くのお客さんの車は大型だった。アクアとはまるでちがう。土地の表面が軟弱だと車が重いので轍が深く出来るわけだ。道もテントサイトも元は畑だったので、もともと土地は軟弱だったところに予想以上の大雨でたっぷり水を吸い込んで更に軟弱になり、泥濘ができるし、滑りやすくなってしまったのである。

東北大震災のとき周囲の家屋は屋根が崩れたり建物が傾いたりしたところが多かったが、我が柿農園は母屋も離れもかすり傷一つ負わなかった。これは土地の表面は軟弱でも、土地の下は岩盤か何かで地盤が強固なせいだとおもわれるのだが・・・。

 お客さんの車が大型なのは、キャンプ用品を積載するので当然といえばいえる。今の若い方はスマホで最新の情報を得て行動されるようだ。天気予報で当地の大雨を把握し、キャンセルされるのではないかとおもわれた。

ところが、実際に来られて道やキャンプ場の悪条件を確かめ、キャンセルされた方がお二方おられたのと、予定を早めて帰られた方が二組あっただけで、その他の方は皆さん来られたのである。このことも予想外だった。

――このぐらいの雨なんか平気ですよ、せっかくですから楽しませていただきます

 そう言って、悪路を上っていかれた方がいたのには驚いた。この方は二組の予約だったが、キャンセルすることなく二泊された。ただ、この二組のうちの片方の方の車は小型で悪路の坂を上れず、柿農園の庭に車を止めて、一輪車でテント用品を上まで運ばれたのである。本当にキャンプが好きな方なんだな、と感動を覚えたものだった。

 ともあれ、雨に備えて、道路はスリップした部分は生コンを入れ、他も砂利を敷くべく業者に依頼しました。テントサイト北側に20台程度の駐車場を新設し、テントサイトには急には無理ですが、徐々に芝を植え、一二年後には全面芝生にする予定です。

――斜面は辛いものがあります、せめてテントを張る部分だけでも平らにしていただけるとありがたい

 と言われた方もいる一方、

――斜面のせいで枕なしで寝られて快適でした、高い方を頭にして横になればいいのですよ

 と言われた方もいたのは面白い。私としては今後夏場に向けてテントを張る部分だけでもある程度平らにしたいとおもっている。

 テントサイトの西側の木の間にテントを張られたお客さんが、

――いやァ、下がチクチクするので見ると篠が生えている。ハサミで切るのに大分時間がかかりました。それでいいかなと寝たんですが、夜中にまたチクチクして目が覚めてしまった。朝見ると、雨で篠の芽が育ってシートを持ち上げていたんですよ。植物の生命力ってスゴいですね

 と言われる。そこは私が刈り払い機で刈ったのだが、刈り切れないで残った篠があったのだ。

――手入れが行き届かず申し訳ありません

 そう言うと、そばで奥さんが、

――いいんですよ、そんなことも楽しいです、いい思い出が出来ました

 トイレのことを言われるお客さんが多かった。

――ブログ読みました。これが三ヶ月もかかって自作されたトイレなんですね、まわりの楓の木が味がありますね、それにしても自分でトイレが作れるんですね、そのことに驚きました


 私の「農園ブログ」は結構読まれていることは、私が使用しているホームページのソフトの会社「JUST.SYSTEM」とgoogleのanalyticsのアクセス解析によって把握していたが、閲覧数が分かるだけでどのように読まれているのかはわからなかった。

 しかし、今回キャンプや民宿で宿泊されたお客さんから直接生の声、感想をお聞きすることが出来た。これは何よりも参考になり、また嬉しいことでした。今後の励みにもなります。

――楽天トラベルのキャンプ場のプランの文がよかったです。あれを読んでどんなところなのか、来たくなったのです、そういう方多いとおもいますよ

 そう言っていただいて、とても嬉しかった。

 ちなみに、私のブログで一番読まれているのは「末期癌を克服した人に会った」です。これが圧倒的に多く、次いで「ハグ」です。世の中癌で悩む人や家族が多く、そういう方が検索で探しだされるのかな、とおもいます。

 連休が終わって、柿農園のホームページの閲覧数が増えているのは、キャンプに来られた方やその知り合いの方が興味を持っていただいたのかもしれませんね。

 

2019年05月10日
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