ハグ
食あたりかなにかで、愛猫チビが死んだ。
ペットとはいえ、一緒に生活していたのだから家族同然であり、その死の心痛沈鬱による打撃は計り知れない。殊に相方にその傾向が顕著で、
――可哀想でたまらないわ、もう猫を飼うのはやめましょうね
と、折りにふれて、繰り返していた。しかし、間もなく訪れてきた彼女の末娘が、
――わたしだって、この前きたときには、ミソ(飼猫)に死なれたばかりだったのよ。でも、うーんと可愛がってやったから、可哀想だとはおもったけど、仕方ないことだから、いつまでも引きづらないことにしたのよ
と言うのを聞いて、うなずけるものがあった。
チビがいなくなったからか、家の中といい、納屋といい、ネズミが我が物顔で運動会宴会を開く。昼間はともかくも、夜中にネズミに大騒ぎされると、神経にきしり、睡眠も影響を受ける。ある日、相方が階下でまるで強盗にでも襲われたようなただならぬ声を上げているので駆けつけると、大きなネズミが台所の流し台の上にいて、相方とばったり顔を見合わせてしまったのだという。
――ネズミがわたしをじっと見たのよ、そのときの二つの粘つくような不気味な目が網膜に焼き付いて、離れないわ、ああ、イヤだ、イヤだ
そういえば数年前チビが家出して、四十八日間いなかったことがある。その間、やはりネズミが家中を我が物顔で闊歩していたものだ。ネズミは天敵の猫を気配で察していることは明らかだった。
それからしばらくして訪れてきた相方の末娘が、友達の家で猫が四匹も生まれて貰い手がいなくて困っているのよ、どうかしら、という。
相方はまだそんな気にはなれない、というが、私は気持ちが動いた。
――貰い手がなくて困っているんじゃ、貰ってやってもいいんじゃないか。捨て猫になる可能性もあるんだし、それよりも、農家にはやはりネズミ対策としての猫は必要だよ。私も一年ぐらいは猫はいなくともいいかなとおもっていたけど、貰ってあげれば人助けにもなるし、我が家のためにもなるわけだから。チビは七年の命だったけど、十分に可愛がってやったんだから、いいんじゃないか。紗英(相方の末娘)ちゃんが言うように、いつまでも引きずらない方がいいと私もおもうようになったんだ
それから十日ほどして、紗英ちゃんが飼い主だという主婦とともにやってきた。紗英ちゃんが抱いている仔猫を見て、あれ、とおもった。仔猫にしてはいやに大きいなと感じたからだった。
――オスがいいと言ってたでしょ。生まれたばかりのはメスばかりなので、一年近くたってるけど、人なつっこくて、可愛い顔してるから、この子にしたんだけれど、どうかしら
微かに虎がはいった薄茶と白半々ぐらいで、尻尾が短い、目のくりっとした愛らしい猫である。一才近い猫でなつくか一抹の懸念を感じはしたが、せっかく我が家にやってきたのだから、何かの縁だろう。私は一目で気に入ったが、その日は相方が手がけているアロエのネットワーク関係の研修で埼玉の方に出かけていて不在だった。
――あらあ、可愛いい鳴き方ねえ
夜、帰宅した相方が、居間の隅の椅子の下に隠れている猫がか細く、ニ~、ニ~、鳴く声を聞いて、言った。
私が屈って摑み出して、抱くと必死にもがいて逃げようとする。あら、顔も可愛いわねえ、と言う。どうやら、相方も気に入ったようだった。
――名前なんてつけようかしら
――そうか、名前ねえ・・・
――コロ、ハナ、リンゴ・・・
――そうだ、ハグにしよう
と、私は言った。相方は月一回、アロエ関係のネットワークビジネスや人生哲学を学ぶ「酒井塾」に通っているのだが、ここ半年ぐらいは「自分をハグする」というテーマで講習を受けているのである。
その内容については後述するが、まず「ハグ」の意味を説明したい。
語源は英語のhugからきていて、辞書をひくと、抱きしめること、抱擁、とある。
――このところ、ずっと「自分をハグする」ということを習っているんだろ、それに「抱きしめる」「抱擁」の意味もステキだ、いいんじゃないか
相方はにっこり笑い、いい、いいわ、と即座に同意し、さっそく、ハグ、ハグと呼んで、仔猫を抱いた。しかし、ハグはもがいて相方の手から逃れ、また椅子の下に隠れてしまった。
――一年近くたっているんだから、慣れるのに時間がかかるかもしれないね。二、三日家の中に閉じ込めておけば大丈夫だろう
と、私は言った。
私は相方が手がけているアロエ健康補助食品の愛用者にはなったが、そのネットワークビジネスのフォローは、積極的にではなく、来客があったとき、自己の愛用体験からその良さをそれとなくアピールするぐらいにすぎなかった。
しかし、相方に研修会学習会に出てみないか、と誘われて、たまにだが、出席するようになった。
相方が毎月出かける「酒井塾」は、アロエのネットワーク内である程度の実績がないと出席できないのだが、「酒井塾」の酒井満氏が別に主催する「潜在意識セミナー」なら、一般のひとも参加できるというので、行ってみることにした。
相方からあらかじめ聞いてある程度の知識は持ってはいたが、聞くと見るのでは大違いと改めて感じた。どこかで、情報の伝わる割合は、言語情報は七パーセント、聴覚情報は三十八パーセント、視覚情報五十五パーセントである、とあったが納得したものである。
埼玉浦和のパインズホテルに集まった受講者は千名で、会場の前に並んで待つ様子からして、熱気にあふれていることにまず驚かせられた。会場内に入ると、余る椅子は一つとしてなく、女性が大半で、男性は一割ぐらいか、女性の服装の華やかさ、顔の皮膚のつやの良さに、圧倒されるおもいがした。
そして、セミナーが始まるや静まり返り、少しのことも聞きもらすまいと酒井氏の話に聞き入るさまは、旺盛な学習意欲のあらわれであり、一種宗教的ともいえる熱意を感じ、これにも圧倒されたものである。
私が潜在意識について持っていた知識は――、
人間の意識の奥底には意識以上に大きな無意識の領域があって、これを潜在意識(仏教でいう阿頼耶識)と呼ぶが、人間を決定づけるのは、表層の意識ではなく、この潜在意識の方である。
何か願望をかなえるには、そのおもいが潜在意識の方に深く入らなければかなえられない。潜在意識におもいを入れるためには、強く、深く、繰り返し念じることである。
ということぐらいで、体系だったものではなく、未整理の漠然としたものにすぎなかった。
それが「潜在意識セミナー」に数回出席するうちに、次第に思考が整理されてきたように感じている。
そして、「自分をハグする」である。
酒井氏によると、自分の胸を赤ちゃんをやさしく抱くように両手で抱いて、自分の名前を言い、
――○○ちゃん、愛してるよ、ほんとに愛してるよ
とか、
――○○ちゃん、今まで大変だったね、苦労したね、でも、これからは大丈夫だよ、愛しているよ、大事におもっているよ、大好きだよ
というように念じること、これが「自分をハグする」の具体的な方法なのだ。そうすれば、そのひとの潜在意識が活性化されて、そのひとやその周囲で信じられないような奇跡が起こるのだという。
と記述すると、何か宗教的な秘技とか、いかがわしい呪文のように受け取るむきもあるかもしれない。しかし、そんなものではないことは、次の言葉で分かるはずである。
――何も、隣や、近くのひとを抱きなさいと言っているんじゃないですよ。そんなことやったら痴漢か、変質者とおもわれちゃいますからね。他の人じゃなくて、自分を抱くわけだから、何も怪しいことやるわけじゃないと分かるでしょう。それに、自分を抱くなんて、誰にでもできる簡単なことだし、お金も税金もかかりませんよ
これは考えたり分析したり論考して分かることではなく、実践し体験して分かることなのだともいう。
実際、「自分をハグする」ようになった私、相方、の周辺には、普通では起こりえない良いことや、信じられないようなふしぎなことが幾例も現れたのである。その内容については、後述したい。
「自分をハグする」ということでは、私もそれとは違うが、それに近いことを実践してきた。
私は亡妻を二十三年に渡って介護した経験を持っている。二十三年はそれほど短い期間ではない。
介護といえば、辛い、苦しい、大変、というイメージがつきまとっている。しかし、大変だとおもいながらの介護は本当に大変になって、辛く苦しくなって、へばってしまう。肩が凝り、腰が痛くなり、しまいには憂鬱、鬱状態がつづき、何もかにもが嫌になって、介護だけではなく、人生そのものが嫌になって、いっそ死んでしまった方がいいかもしれない、などと考え始める。
紆余曲折の末、私は弱く、いい加減で、無能力の自分というものを、そして不治の病である妻のアルツハイマー病を、加えて、世間の無理解を、要するに自分を含めたこの世の全てを認めることにしたのである。
すると私は肩の力が抜け、楽になった。なにごとも、なるようにしかならない。そのとき一番いいとおもったことを、気張らずにやっていこう、と心にきめた。そして、いつも笑って生活することにしたのである。
分析してみると、私が「自分を認めることにした」ことは、「自分をハグ(抱擁)すること」と相通じるものがあるだろう。
しかし、「自分をハグ(抱擁)する」のハグ(抱擁)には、愛するという能動的な積極性があるが、「自分を認める」には愛があるにはあるが、弱いものでしかない。
「自分を認める」は自分を救い、周囲を明るくする効果はあったが、自分や周囲に不思議な奇跡を引き起こすほどの力はなかったのである。
それは「愛」の力の違いによるものなのだろう。
ハグが来てから三日後、ハグは出ていったまま帰って来ず、何度も出て行った方向の山林の中を、どうか帰ってきてという祈りを込め、ハグ、ハグ! と大声で呼びかけながら探し回った。
私は猫好き派で、これまで七、八匹を飼ったが、そのうち三匹が家出をした。うち二匹は帰ってこなかった。家出した猫のほとんどは帰って来ない、というのが通例らしい。
五日たち八日たちして、落胆が強まったが、四十八日目に帰ってきたチビの例もあるので、内心ではまだまだとわずかな期待にしがみついていた。
熱いおもいが通じたのか、ちょうど十日目畑にいるハグとばったり出くわした。飛び跳ねたい気持ちを抑え、私は祈るように手を合わせ、天に感謝した。
新しい家や私や相方になじめず、出て行ったものの、人間の生活圏以外に、そうそう食べ物があるわけではない。飢えて、どうやら家周辺でうろついていたらしい。柿畑に捨てた生ゴミをあさったり、バッタや野ネズミなど食べて飢えをしのいでいたか、それほど痩せてはいない。
私の姿を見て、脱兎のごとく群れているコスモスの下に隠れた。しかし、私が、ハグ、と呼ぶと、ニー、と答える。嬉しさがじーんと胸にこみ上げてきた。近寄ると、密生しているコスモスの根元を移動してしまう。私は必死に、しかし、優しく、猫撫で声で、ハグ、ハグ、と呼びかけながら、身体を屈めて、コスモスの根元の間に、手を差し入れる。猫に、猫撫で声か、とふと笑ってしまう。ハグは返事はするものの、やはり逃げてしまう。大きなスズメ蜂が蜜を求めて何匹もコスモスの花から花へ飛んでいて、恐くて容易に近づけない。それに下手に捕まえようとすれば、ハグはまた山林の中へ逃げて行きかねない。山林は丘の尾根を越えて向こう側の箒川までつづいているのだ。中へ入ったら、アウトである。どうしたものか。
はっと、餌だ、と気がついた。納屋に猫缶があることを思い出し、ハグ、ハグ、と呼びかけながら、私は弾丸となって家に戻った。
おびき寄せ作戦だと、猫缶をハグの近くに差し出すが、やはり逃げてしまう。そこで、コスモスの外側に猫缶を置いて、私は少し離れた場所で、ハグ、ハグ、と呼びつづけることにした。ハグは、ニ~、ニ~、応えながら、そのうち好物の魚の匂いに気がついたのだろう。頭を出し、私の方をうかがいながら、身体をだし、猫缶ににじり寄る。そして、猫缶の魚をぺろぺろ舐めだしたとみるや、ウグ、ウニャ、ウン、ウ、ウニャー、というような声をだしながら、猫缶に頭を突っ込んで、中身をむさぼり喰い始めた。よほど腹をすかせていたのだろう。
私はほっと胸をなで下ろしたが、油断はできない。夢中で猫缶をむさぼるハグに近寄り、そっと背中を撫でる。大丈夫だ、うかがうように私を見るが逃げはしない。餌を与えたので安心したのか、何度撫でても嫌がらない。
中身を全部食べ、底まで舐め、ふっと猫缶の縁をくわえて、コスモスの根元に入っていくではないか。餌を隠し、確保しておこうとでもする行為なのか。私はハグがいじらしく、ますますいとおしくなった。
私はキャットフードがあることをおもいだし、またもや家に飛んで帰った。
今度は皿に山盛りにしたキャットフードを置き、ハグ、と呼びかけると、警戒することもなく、出てきてキャットフードを食べ始めた。
猫缶で腹いっぱいで、キャットフードは半分ぐらい食べてまたコスモスの下に入ってしまったが、私は放っておくことにした。猫缶を置いておけば、またここに戻ってくるだろう。私は安心して、家に戻った。
「潜在意識セミナー」で発表されたハグ効果に、冷蔵庫やパソコンが自然に直った、車のエンジンの故障が直った、といった類いの奇跡が数多くあったが、我が家でも壊れて使い物にならなくなって諦めていたエアコン二台が、ちょっとしたことで作動するようになったとか、水漏れするので買い換えなければならないかとおもっていた太陽光温水器がこれは少しの工夫で直った、ということがあった。
エアコンは一台十万円、太陽光温水器は二~三十万円はするものだから、修理することなく直ったことは経済的に大きい。
こんなことは私の「自分を認める」では起きない。より積極的な「自分をハグする」の愛の力だから起きた奇跡なのである。これは別に、エアコンや太陽光温水器に直接「直れ」と言ったり祈ったわけではない。ただ、私が、あるいは相方が「自分をハグする」を実践していた、愛の力で起こったことなのである。そして、これは私と相方だけに起きていることではなく、日本全国の「自分をハグする」を実践しているひとたちに共通して起こっていることなのだということも言っておきたい。
次に、家電品や生活物質ではない、植物についての奇跡について、述べてみたい。
秋の味覚である柿についての不思議な現象で、多くのひとに興味と感動を引き起こした。
我が家では裏手の斜面の畑に、今年五十本の柿の苗を植えたのだが、これまでのものと合わせて百本になった。
五月、相方のアロエ関係の友達に畑の一部をジャガイモ栽培のために貸したのだが、柿を百本にするためにこれから徐々に苗を植えていくのだと話したところ、じゃわたしにそのうちの五本をオーナーにして欲しいというので了解したのだ。するとその方は、ジャガイモの種をまいてから、一本の柿の木を抱いて、なにやら念じ始めた。何をやっているのか、早く柿の実がつくように愛の力を送っているのだという。そのときは、相方も私も面白いことやるなあ、とおもっただけだった。
しかし、柿の花の時期にその木だけびっしり成り花をつけたのだ。苗を植えて三年目だから、背丈一メートルにも満たない小さな木なのである。その時期は耕作やはびこる雑草退治に追われ、そんなこと頭の中からすぐ消えてしまった。
夏、柿の木に毛虫が這っていることに気づき、百本の木全てに殺虫剤を散布した。そのとき、例の木の成り花の元が膨らんで小さな実になっていることに気づいた。ヘー、成ったんだ、とおもったが、生育の悪い実は落ちてしまうものだから、そのときもそれほど気にかかったわけではない。
しかし、それから一週間たち、二週間たちするうちに、実が膨らみ、落ちてしまったのもあるが、数十個が柿の実として成長している。あれっ、と私のなかで驚きが生まれ、それは驚愕になり、えっ、これって凄いことじゃないか、と感嘆の声が自然私の口からもれた。
十月になって、柿がたわわに実をつけたのだが、一メートル足らずの小さな木に、一般的な蜂矢柿と同じぐらいの大きさと色つやの実が二十一個も下がったのだから、一種壮観とでもいうべき様相を呈したのである。
桃栗三年柿八年というが、柿は昨今は接ぎ木苗であることから四年目ぐらいから実をつける。三年目で百本の中でその木だけが実をつけて、しかもそれがオーナーの女性が抱いた木なのだから、女性が送った愛の力が作用して柿が実をつけたと考えるのが自然だろう。
身近なひとに話の種として提供すると、それは不思議、それは奇跡だわよ、と興味の的となり、わざわざ見にくるひとも出た。
十月の「潜在意識セミナー」の休憩時間のとき、主催者の酒井満氏と言葉を交わす機会があり、相方は何気なく柿のことを話したのだ。休憩時間が終わって、出席者のハグ体験の発表が始まったとき、いきなり酒井氏の口から相方の名が発せられるではないか。ええっ、と私はおもった。体験発表はあらかじめ根回しがあるらしいから。
突然名指しされた相方は、青天の霹靂で、何がなんだか分からないまま、壇上に駆けつけなければならなかった。
――さっきわたしに教えてくれた柿のことを話してください
千人の聴衆を前にして、上気し、激しく胸が鳴っている相方の耳元で、酒井氏は優しくそうささやいたという。
的確かつ率なくスピーチが出来たと私の耳には入ったが、相方は自分では何が何だか分からないまま話し終えた。胸をなで下ろしていると、酒井氏はまたも耳元で、
――もっと何かあるでしょ、それを話して
と言ったという。またしても不意打ちで、相方は焦ったが、とっさの機転で猫のことを話すことにした。「自分をハグする」を習っているので、最近もらったばかりの猫の名前をハグとつけました、といったら、会場は笑いとどよめきに満ち、
――そのハグが三日目に家出してしまったのです。それで一生懸命にハグをしていたら、十日たって戻ってきました。これもハグ効果のおかげだとおもいます
柿のこともだが、猫のハグのことも、大いに受ける結果となったのだった。
しかし、これらは植物や動物に関することである。私がそれよりも皆に伝えたいことは、ひとの心的、精神的な分野のことなのだ。
我が家の周辺でも「自分をハグする」は、アロエ愛用者であろうがなかろうが広がりを見せている。
あるカラオケ愛好家の女性は「自分をハグする」を実践するようになったばかりではなく、友達にも伝えるようになった。この方が栃木県北地区のカラオケ発表会に出演するというので、応援に出かけた。
出番が近づくにつれて、心臓の鼓動が頭の先まで響くほど高鳴り始めた。そうだ、ハグだ、とその方は閃いたという。胸を優しく抱いてハグしているうちに、落ち着いて、舞台でスポットライトを浴びても上気しなかった。
一緒に応援していたその方の友達が、
――わたしもう何年も彼女の歌を聴いているけど、これまでで一番感情がこもっていて、上手で、ステキだったわ
さも感心したようにいったものだ。ハグ効果はこんなところにも表れるのである。
次は、最近アロエ愛用者になった女性Kさんの話である。
Kさんの知り合いDさんは神経質で癇の高ぶりやすいひとで、したがってストレスの塊といってもいいような人生を送っていた。それが禍したのだろう、大腸癌を患い、手術の予後はぐずついていて、先行きを考えると不安や恐れ、怒り、葛藤で苛つき、つい周りのひと、ことに旦那さんに当たり散らしてしまうのよ、とこぼしていた。
Kさんはハグを教えるべく、「マクドナルド」に誘った。姿を現したDさんは痩せ細って、文字通り「骨と皮」の痛々しい身体で、聞くと五十キロ台だった体重が三十数キロに減ってしまったという。
――貴方に伝えたいことがあるのよ
と、Kさんは切り出した。何なの? と怪訝な顔をしたDさんに、こうしてね、と自分を抱いて、
――貴方もまねして、そう、優しく、赤ちゃんをだくように、そう、それでいいわ、そして、声は出さなくていいから、自分の名前をいいながら、○○、愛してるよ、うーんと愛してるよ、いっぱい愛してるよ、って言うのよ・・・
と、突然やつれたDさんの目に涙がみるみる盛り上がり、こぼれると見るや、オー、オー、と声を上げて泣き出した。Kさんは想定外の激しい反応に、おもわず周りを見回した。日曜日の午後で客は多く、湧き起こった嗚咽に二人のボックスに不審そうなまなざしを向けるひともいたが、Kさんはそのまま見守ることにした。少しして、Dさんは落ち着いて、手で目頭や頬を拭いながら、
――自分の手で胸を抱いた瞬間、すとーんと落ちてきたものがあったの、それで胸のあたりがほんのりと暖かくなってきて・・・、今までにこんな暖かいものに包まれたことがなかったから、たまらなくなって、涙があふれたの
――あなた、ずっと辛そうだったから、ハグのこと、そう、これは「自分をハグする」っていう方法なのよ、あるひとから教えてもらったの、わたしも楽になったから、あなたにも教えてあげたかったのよ
――ありがとう、これまで自分をダメだダメだと責めに責め、痛めつけてきたから、病気にもなったし、周りにも害毒を流してきた、それじゃいけない、というおもいが急に空から舞い降りてきた感じだったわ
――わたしもハグで、もっと自分を大事にしなきゃいけないって気づきをもらったの、これからは、あなたも自分を愛し、いとおしんでね、そして明るく生きていきましょうよ
二人はそれから、いろいろなことを一時間以上も語り合った。
そして、Dさんはやつれた骸骨に近い顔を少しだけ染めて、微笑み、何か期することがあるような表情をして、店を出ていったという。
ひょいと膝の上に跳び乗り、私の胸に顔をすり寄せていたが、体を丸め、あごを膝にのせて、ハグはゴロゴロのどをならし始めた。その耳元を指先でくすぐったりたり、頸筋を撫でてやると、ハグはますますうっとりした目をする。
なつかず十日間も逃げ歩いていたことなど嘘だったように、ハグは私にも相方にも甘えてすり寄るのである。