夢にむかって

 若い頃は明確な目標はなく、ただ漠然と生きていたとおもう。

 ただ、漠然とではあるが、人が生きるということはどういうことなのか、よりよく生きるためにはどうしたらいいのか、この世界はどうなっているのか、宇宙の構造はどうなっているのか、というようなことを自分なりに解釈理解したいとおもい、哲学や思想、宗教、などの本を読んだが、ただ漫然と読み漁っただけなので、そのひとかけらさえも把握することはできなかった。

 ただ漠然と生きているということは、行き当たりばったりに生きているということで、息をついているから生きているというに等しく、支えるものが何もなく、不安だった。それでは上手く生きていくことはできない。内面的な精神葛藤や職場の人間関係の悩みなどが重なって、体調に異常をきたした。四回に渡る胃十二指腸潰瘍での入院を余儀なくされ、椎間板ヘルニヤを病み数年通院した。

 四度目の胃十二指腸潰瘍のときは胃の幽門近くに十円玉大の潰瘍があって、手術を勧められた。しかし、私は身体にメスを入れることに抵抗があった。医師がつぶやくように言った、
――潰瘍は大きいが深くはない、薬でも治せるが二ヶ月かかります、手術なら三週間で退院できますよ

 という言葉の前の部分に飛びついた。

――二ヶ月かかって結構です、薬でお願いします

 二ヶ月の入院の過程で、私は生活態度を大きく転換させた。それまでの生真面目といえるような態度を捨てることにしたのだ。十年ぐらいの間に十回以上胃十二指腸潰瘍に冒され、そのうちの四回が入院加療だったのである。このままではダメになり、その先には死があると本能的にかんじた。

 私は不良入院患者の仲間に入った。中には病院を抜け出して焼き肉を食べに行く豪の者もいたが、私はそこまではしないが、夜な夜な女性患者と話し込むとか、夜のドライブに連れて行ってもらうとか、ぐらいだったが、品行方正を捨ててみると肩の力が抜けて楽だった。病気にもいいことがすぐに身をもって認識できた。

――学校の先生のくせに

 そう蔭で言われ始めたのは分かったが、元の生真面目、品行方正に戻ることはなかった。
 二ヶ月でめでたく退院し、それまで飲まなかったアルコールも嗜むようになった。以来、胃十二指腸潰瘍から卒業し、二度と罹ったことはない。

――病気になったから、アルコールはやめるというのがふつうだよなあ、それが病気になったから酒を飲むなんて、あべこべだけど、斎藤君らしくて面白いよ

 と、友達に揶揄われたものである。

 私は酒を飲むことによって、十年来の病から解放されたことになるが、これは酒が治療薬となって病気を治したわけではない。酒によって肩の力がとれ、要するにストレスが解消され、結果として病気が治ったのである。

 このときもはっきりとどう生きればいいか分かったわけではなく、ただ今までの生き方ではどん詰まりになるということが分かっただけで、生真面目をやめてちょっと羽目を外してみただけだった。

 しかし、考えてみるとこれは私にとっては大きかったのかもしれない。

 私は世界や宇宙の構造を思考分析認識するといったことはとてつもないことで、自分の知力、能力を超え、不可能であることがわかった。

 それからは哲学書やお経などの堅苦しい読書はやめ、自分の出来ること、好きなことをやることに決めた。

 母親が夏目漱石全集という布表紙の分厚い本を持っていた。嫁入りのときに持ってきたのである。総ルビだったので、小学校一、二年のときに「坊ちゃん」や「吾輩は猫である」を読むことができた。「坊ちゃん」は面白くて何度も読んだが、「吾輩は猫である」は面白いのは前半の部分だけで、後は理解できなかった。他の作品は難しくて読めなかったが、自分もいつか小説を書きたいとおもったものである。

 そのおもいはずっと持ちつづけ、二十九才になってから書き始めたのだった。最初の頃は筆が進み、一晩に四百字詰原稿用紙50枚書けたことがある。後で読み直して全くダメなことが分かったが・・・。ペースとしては一日一、二枚ぐらい書くというのが私にとってはベストであるということがそのうちに分かってきた。

 振り返ってみると、原稿用紙100枚前後の作品が20編余ぐらいあり、それ以下の枚数のものが同数程度ぐらいだから、作品数としては少ない方かもしれない。

 夏目漱石を読んでこれぐらい私にも書けるかもしれないと小学生一、二年でおもったぐらいだから、短歌を詠むことが好きだった母親の血を引き継いで書く素質は持っていたのだろう。

 書き始めて十年後ぐらいに妻がアルツハイマー病に罹ってしまい、介護に入ったため、小説の執筆は断念した。小説の執筆には独特の集中力が必要で、介護しながらは無理と判断したからである。しかし、日記を書くかんじでいいエッセイは書きつづけた。介護の日々をホームページのブログに発表し、数年後本にまとめ二冊自費出版した。一冊目は100部でインターネットで販売し完売した。二冊目は500部で350部ほど売れた。

 一冊目は「あなたは不治の病人になぜそんなに冷たいのですか」という長い表題で、病人に冷たく無理解な世間や親族を告発するという怒りの書だった。二冊目は一冊目の余裕のなさや不寛容を反省し、また介護によって悟るところがあって、がらり正反対の内容といってもよい、「介護は楽しく」を上梓した。

 これが朝日新聞の真鍋弘樹記者の目にとまり、取材を受けた。一冊目よりも二冊目の「介護は楽しく」の方が一般受けはよかったのだが、真鍋記者は一冊目の方が作者の本音が出ていて面白かった、と言った。

 介護の様子が、広島の夫の介護をする妻の立場の方とともに、10日間にわたって朝日新聞社会面に連載された。読者の反響が大きく、多くの感想が真鍋記者の元に届いた。そのことがきっかけとなって、書籍化されることとなり、更に取材を受けた。

 「花を――若年性アルツハイマー病と生きる夫婦の記録」真鍋弘樹著朝日新聞社刊が何部発行され、どのくらい売れたのかは分からない。ただ、製薬会社「エイザイ」が主催するエイザイ賞だったか忘れてしまったが受賞したと聞いた。

――本来は広島の夫婦と斎藤さん夫婦が賞金を受けるべきだが、福祉関係に寄付したらとおもうのですが

 と、真鍋記者から連絡があった。私は了承した。

 雑誌「清流」と東京新聞に記事が掲載され、講演の依頼が入るようになり、「介護は楽しく」と題して、大田原市、宇都宮市、那須烏山市、さくら市などで、計20ヶ所ぐらいで話をした。東京国際フォーラムで開かれた訪問歯科医全国大会に招かれて、「家庭での口腔ケアについて」という内容で話したこともある。

 TBSニュース・イブニング5の取材も受けた。家に映写カメラマンが入って、丸二日間朝から晩までぶっつづけでカメラを回していた。そして、特集番組として15分間の映像にまとめられたのだった。なかで私のインタビューが何度か流れたのだが、上手く答えられない部分があったなあ、とおもっていたところ、プロデューサーは、

――いやいや、斎藤さんはめちゃくちゃ話がお上手ですよ、素人でこれだけ話せる方はそうはいないですよ

 と、いった。

 実際に放映されたテレビを見てかんじたのは、15分というのは結構長い時間だなあ、ということだった。

 介護というと、辛く、暗く、苦しく、重い、というとらえ方が一般的だとおもうが、私はあるときから「笑って介護する」と決めたのである。発想の転換というか、逆転の発想、である。結果、注目され、辛く、苦しい、だけではない、明るい、充実した日々を送ることが出来たのだった。

 好きなことのひとつである執筆のうち小説は書けなくなってしまったが、エッセイを書きつづけたおかげで、介護の様子が新聞や雑誌に載っただけではなく、書籍化までされ、またテレビでの放映に繋がったのだから、今振り返ってみると信じられないような気分である。そして何よりもよかったことはそのことで介護が辛く苦しいものではなく、明るく充実したものになったことである。

 私が笑っていれば妻も微笑んでいる。そういうことが体験を通して分かることが出来た。分かるまでには少し時間はかかったが、その過程で私は人間的に成長できたとおもうのである。もし、妻を介護しなかったとしたら、私は鼻っぱしらが強いだけの付き合いづらい嫌なやつで終わってしまったかもしれない。成長させてもらったという意味で私は亡妻に感謝しているのである。

 もう一つ、私の好きなことはギターである。

 子供の頃、友達の家で、自衛隊を除隊したばかりの友達のお兄さんが持ち帰ったギターをつま弾いているのを聞いて、その音色に衝撃を受けた。当時流行していた演歌の一節をポロンポロンとつま弾いただけだったが、哀愁をたたえた、甘く、優しく、切なく、私の耳の鼓膜を愛撫するかのような音色で、心に食い込んでくるようだった。私は一瞬のうちにギターの音色に魅了されてしまった。そのとき初めて心が痺れる感覚を味わった。

 それから数年後、四つ年上の兄が就職して、私にギターを買ってくれた。ギターを欲しがっても叶えられない私を可哀そうだとおもったのだろう。カルカッシギター教則本という本を買い、見よう見まねで弾き方を覚えた。それこそ楽譜の読み方も知らなかったのだから、「一から始める」を地から行ったわけである。教則本を見るだけで、誰にも教わることなく、全くの独学であり、それは今も変わらない。

 20才のとき東京消防庁に就職した。初任給17600円だったことを未だに忘れずにいる。数か月後その給料より高い20000円のギターを買った。半年後胃十二指腸潰瘍で東京警察病院に入院したのだが、病院にもギターを持っていって非常階段に腰かけて弾いていたことを覚えている。いかに私がギターに惚れ込んでいたかを示すエピソードだろう。

 四十代に入ってから、妻の行動の明らかな異変をかんじて病院に連れて行ったのだが、そのときはすでにアルツハイマー病が中度から重度の間といわれるぐらい病状は進行してしまっていたのだった。おとなしく内気で、これといった目標も生き甲斐もないようだったことが発症につながったのかもしれないとおもい、せめて何か趣味を持たせてやりたいといろいろやってもらったのである。その中で唯一興味を示したのがカラオケだった。しばらくは自分でカラオケ教室に通っていたのだが、そのうち一人では行けなくなり、迎えに行くと涙を見せるようになった。それならば私も一緒にいられるようにと入会したのである。当然私も歌う。唄っているうちに、人の作った歌ではなく、自分で作って歌いたいという気持ちが芽生えた。だから、妻を介護しなければ、作詞・作曲して自分で自作の歌を歌うようにはならなかったかもしれないのである。息子に聞くと、カラオケはパソコンで作れるというではないか。

 パソコンを買い、パソコン教室に入ったが2度ほど行ってやめてしまった。自力で覚えなければ身につかないと悟ったからである。カラオケを作るソフトを買い一ヶ月ほどでなんとか曲を作れるようになった。一ヶ月もかかってしまったというと、一ヶ月というのはめちゃめちゃ早いですよ、と言われたものである。

 歌作りでは私の場合は詞を作るのが時間がかかるのだ。詞を書くのは一日で書けることもあれば、一ヶ月かかることもある。しかし、詞さえあれば曲は15分もあれば出来てしまう。ギターをやっていたおかげで、コードを弾きながら言葉を口から出していくと同時にメロディが出てくるかんじなのだ。それを楽譜に書き起こす作業の方が時間がかかるのである。

 それをカラオケにするには、私の場合15~25種類の楽器を使う、たとえばバイオリン、フルート、ピアノ、チェロ、トランペット、等々・・・、その一つ一つの楽器の音を一音ずつパソコン内の楽譜に書き起こしていくのだ。だから一曲作るのに一週間ぐらいかかってしまう。一、二年夢中になって百数十曲作ったものだった。インターネットを通じて他人が作詞したものに曲をつけてやったりもしていたが、時間がかかるので、そのうちに馬鹿らしくなって、人のものに曲を付けることは止めてしまった。

 自分の歌のカラオケを作り、自分で歌ってインターネットにUPした。YouTubeではあまり聞かれなかったが、今はなくなってしまったがGoogle+サイトにUPしたところ信じられないぐらいの再生回数が表示されて、興奮したものである。合わせて11万回。私のプロヒールの閲覧数が一日で1万数千のこともあって、あららら、と驚き、慌てたぐらいだった。ライブに何度か出演したことがあるが、聴衆はせいぜい多くても20~30人程度だった。それが11万回余の再生である。数が何桁も違い、その多さが想像出来ないぐらいだった。しかし、あることから、再生回数の多い少ないは曲の良し悪しには関係ないということが分かって、急に意識が覚めてしまい、ほどなくインターネットにUPすることはやめてしまった。

 他に一時ボーカロイドという女性ロボット歌手といったらいいのか、合成の女性の声に私の歌を歌わせることをやってみたりしたこともあったが、これもやめて、今は元のギター弾き語りに戻って、相方のアロエのネットワーク関係のお客さんや農泊ツアーの生徒さんに聞いてもらっている。

 私は自身で作詞・作曲することも歌うことも好きなのだが、実はクラシック系統のギター曲を作ることも好きなのだ。

 私の中で、執筆はライフワーク、ギターは純粋に自分の楽しみ、という位置づけである。小説の執筆で長いこと目標としていることは、

――生きている間に自分の納得がいく作品を何編か書きたい

――チェホフばりの短編を10編ぐらいは書きたい

 ということである。

 そして、できれば文学好きの人に読んでもらいたい。

 ところでギターの弾き語りは少ないが喜んで聞いてくださるというか、涙ぐまれる方もあって、一定程度の評価があるとおもわれるのだが、クラシック系の曲は何人かの方に聞いていただいても、興味を示していただけないというか、歌のような手ごたえがなく、反応が鈍いのだ。しかし、私はときどき無性にクラシック系統の曲が作りたくなるのである。
 

 このところYouTubeで、クラシックのギター曲を聴くことが多い。何人もの三十代とおぼしき女性のギターリストが難易度の高い曲を、いとも簡単そうに弾きこなしているのに接すると、私にはそんなに難易度の高い曲は作れそうもないが、平易でもいいから、感動的な曲を作って弾きたい、というおもいに駆られるのである。

 それにしても、世界には、難しく、高度な、感動的なギター曲を難なく弾きこなしてしまう弾き手がなんと多いことか、と驚いてしまう。

 私も、自分の頭に浮かんだメロディを即興で難なく弾けるようにと、練習に励んでいる次第である。

 これは人に聴いてもらうためではなく、純粋に自分のために、といっていいのである。

2019年07月20日