女に入れあげる
数年ぶりに会った友達に、
――君は亡くなった奥さんの供養もせず、女に入れあげている
と言われて、唖然とした。酒席の酔った勢いのことだが、彼の本音がこもっていて、そうか、彼がそう言うということは、他もそうおもうむきも多いのだなと感じ、感慨があった。
私は基本的には無宗教なので、仏教で行われる供養などというものとは無関係である。
平成二十年に妻は没したが、火葬だけで葬式は行わなかった。墓もいらないとはおもったが、骨壺をいつまでも自宅に置いてもおけない。娘が墓を守るのはわたしだから、神奈川に求めてというので、平塚市に分譲墓を買い、納骨した。仏教ではないが、三回忌までは墓参りをした。その後は再婚を快く受けとめなかった娘と感情的な葛藤があり、神奈川に行かなくなり、自然墓とも遠くなった。しかし、墓の管理費は私が払いつづけている。
亡妻のことも、現在の同居人のことも、私の生き方、魂に関することで、他人がどうとらえようと自由だが、直接どうのこうの言われるのは正直不快だった。面と向かって当人に魂に属することを否定するに等しいことを言うのは失礼ではないか。その友達とは十七年前から疎遠になっていて、以後は数回しか会っていない。私のその後の人生の変転とはほとんど無関係だったのである。そういう人物に私の魂、心の有り様が分かるはずがない。私は敢えて反論しなかった。すると、私を煮え切らないやつだとでもおもったのか、ご大層に便箋八枚にも及ぶ手紙をよこして、同じ趣旨の非難を繰り返した。これで酒席の戯れ言では済まされなくなってしまった。反論しようかともおもったが、すれば私も彼と同じ土俵で相撲をとることになる。無視することに決め、彼とは今後一線を画することも決めた。
そして、それから一年余の時間が流れた。友達に言われたときには、かなり腹立たしいものを感じたことは事実である。
しかし、腹立ちは次第に薄れ、遙か遠いものになってしまっている。冷静に振り返ると、彼は彼なりに私のことをおもって、忠告してくれたのだろうから、そんなに腹を立てることもなかったのかもしれない、とおもう。今、彼にはむしろ感謝の念すら抱いている。
彼の言葉が私の半生を振り返るきっかけを与えてくれたからである。
辞書で調べてみると、女に入れあげるの「入れあげる」は、一、金を全部つぎこむ、二、勢いよく中にはいる、三、心をうちこむ、とある。
そうだなあ、と私は一人ごちたものである。
女というか、私にとって関わりが深かった、あるいは関わりが深い女性は、まずは母親であり、次に亡妻で、そして現在事実婚状態にある同居人である。
――今までを顧みると、確かに私はこの三人の女性に入れあげてきたし、入れあげている人生だなあ
というおもいを深くした。
母親は、これ以上はないほど、私を大切にし、可愛がり、愛してくれたとおもう。
亡くなったとき、通夜後の葬儀場で、親族休憩所兼遺体安置所というべき部屋で、その亡骸とともに一夜を過ごした。他の兄姉、私の妻も、引き上げてしまい、文字通り、母と二人だけで告別式前夜を過ごしたのである。おもい返すと、部屋の中に濛々と立ちこめる香の煙と匂いの印象ばかりが強烈である。
母の亡骸ははや腐爛の気配をただよわせていたが、それでも私は母が死んだとはおもえず、濛々とたち昇る香の煙と匂いにむせながら、その肉体の滅亡の行末を茫然と見据えようとしていた。一晩中むせていたためか香の煙と匂いは、母と私を隔てる嫌なものとして私の中で定着してしまった。そして、葬儀が済み、一日、二日、一週間、十日がたち、私の心の襞に染みついた香の嫌な匂いが薄れるうちに、私の中で、次第に母の魂が復活するのを確かな手応えで感じとることができたのである。
そして今、母は常に私の中に息づいて共にあると感じられる。母は死んでなどいず、あれからずっと生きているのである。いや、一旦は死んだものの、復活して私の中にあるといってもいい。普段意識することがあまりないのは、いつもは私の潜在意識のなかにいるからで、ふとした拍子に、たとえば雨に打たれる紫陽花に付着した滴のきらめきのようなものとして、あるいは紫系統の明るく優しい色合いとして立ち現れることもある。そのとき私は母の膝の上に抱かれていたときの甘美な安堵に満たされるのである。
亡妻も母親と同じような経過をたどったが、私の中に定着するのには二年の歳月が必要だった。母とは二十才のときまで共に生活したが、その後四十年近く遠方に離れていたのに比べて、亡妻とは四十年ともに暮らし、後半の二十三年間は病身であり、介護の末、身近で死を迎えたという違いがある。一年はふとしたはずみに涙ぐんでしまう状態がつづき、その後今の同居人と出会ったのだが、尚尾を引いていた。それが治まったのは二年を過ぎた頃である。そして現在は母とは微妙に違うが、母と同等に私の中に確かな存在として、息づいている。
我が家は裏手に東西に延びる山並み――といっても高さ五十メートル程度の丘並といった方がいいか――を背負っており、前方にはやはり低い山並みが東西にのび、山並みと山並みのほぼ真ん中を幅二メートルぐらいの川がまっすぐに貫いて流れる。その土手を愛犬モモを引いて歩くことがある。妻は、ふっとその清らかな流れの川面のまぶしい光や爽やかなせせらぎや、あるいは青空を悠然と飛ぶ頸のほっそりした白鷺となって立ち現れる。また、ほんのりと赤味がかったあかるい橙の色合いとして訪れることもある。
母と暮らしたのは二十年、亡妻とは四十年の結婚生活だった。
そして、今の同居人とは八年の同棲であるが、現在進行形であり、これからどんどん年数は増えていくことは間違いない。
私は三十才の頃から小説、エッセイの執筆にいそしみ、ライフワークとして生涯取り組んでいこうと心に決めた。
そして、自分では意識してはいなかったのだが、私の著作の多くに目を通した今の同居人は、読んだほとんどの作品に母親が顔を出し、私が母親っ子であり、母親を慕い愛していることが歴然と表れているのだという。
母親は夏目漱石全集をもって父の元に嫁いだ。だから、総ルビがふってあった「坊ちゃん」や「吾輩は猫である」に小学校低学年の頃から親しむことができた。
また、母は大学ノート二冊分にびっしりと短歌を残した。農業や身辺のこと、また私を含めた我が子や孫達のことが詠われている。その一首一首を読んでみると親子だから当然のことだが、私と感受性が共通というか瓜二つだということが分かった。私は母の胸に抱かれているような懐かしさに涙ぐみながら読みすすめた。
ざっと見て千数百首あるうちから三百首ぐらいを選んで、「光る繭」「春の足音」の二冊の歌集を、私が編纂し、跋も書いて出版した。母は、
――いい冥土への土産が出来た
という言い方をして悦んでくれたものである。
妻は文学とは縁がなく、私の著作は読まなかったが、私は妻との生活、介護、そして妻をめぐることから着想して、多くの作品を書いた。四十年一緒に暮らし、介護が長かったこともあり、当然母を書いたものよりは比べものにならないぐらい作品数は多い。妻の病は不治だったので介護は困難を極め、故に、私はやわな精神を鍛えられ、いくらかはまっとうな人間になることができたのではないか、とおもっている。
さて、現在進行形の相方については、作品だけではなく、歌が加わった。
いつか、わたしのことどうおもっているのよ、という問いかけに、
――ここに来て作った歌は、ここでの生活、あるいはあなたのことを歌ったものだし、書いている作品も全てがあなたをめぐることばかりだよ。平安時代の古今和歌集、鎌倉時代の新古今集に詠まれている恋歌と同じような気持ちで書いているといってもいい
と、言ったものである。
実際、現在は、これまでとは比較できないぐらいな速さで、作品を量産しつつあるのだ。単なる読み物ではなく、文学に昇華した作品にしたいと、頭に鉢巻きをして日々執筆しつづけている。
先に「私は三人の女性に入れあげてきたし、あるいは入れあげている」人生だなあ、と書いたが、母や妻についての作品、または、相方についての歌や作品を書いたことを見ただけでも、入れあげのほどが分かっていただけるのではないだろうか。
しかし、「女に入れあげる」という友達の言葉のみを、私の人生に当てはめることについては、いささかの異論がある。ま、分かりやすく、ほぼ的を射ているので、それでいいとはおもう。
しかし、「女に入れあげる」は俗で、いささか品位に欠ける響きがある。そして、友達の言い回しからすると、性欲の意味あいが込められていたようにも感じられる。
だとすれば、それは、私の中にある、母や妻や相方に対する気持ちとは大分違うと言いたい。
では、どんな言葉が、私と、母や妻や相方を繋ぐにふさわしいか、よくよく考えてみた。そして、
――慈しみ、いとおしく愛する
という言葉に行き着いた。
ちょっときれいすぎる高尚な言葉、言い回しかもしれない。しかし、私が母や妻におもいを寄せる気持ちは、この言葉に限りなく近いものだと、断言できる。
今の相方とは現在進行形の生きた対象であり、母や妻がモノクロームの映像だとすると、極彩色のカラーのダイナミックな3D立体動画であり、母や妻とは一緒くたにはできないが、この言葉のように接したいとおもっていることだけは確かなことなのである。