ギター弾き語り

 いつの頃からか、一度だけでいいから、ライブの舞台で、スポットライトを浴びながら、オリジナル演歌のギターの弾き語りをやりたいとおもっていた。

 東日本震災が起こる少し前、下野新聞に、大田原市の蔵の町で投げ銭ライブの出演者を募集しているという記事が出た。

 さっそく応募し出演が決まったが、震災が起こり会場の蔵の建物が壊れて中止になってしまった。結果的に半年後建物の庭で開かれ、十名ほどが出演した。聴衆は五十名前後だった。

 

 投げ銭ライブとは出演者の足下に箱が置かれ、芸が上手か、いいとおもったら、そこにお金を投げ入れるというものなのだ。

設置された小さな舞台に立ち、歌うことには緊張もせず、上気もしなかったが、ただ一円も入らなかったら惨めだなあと、そのことにドキドキしていた。しかし、五曲歌っているうちに、見ず知らずのひとが何人も、座席から立ってきて、足下の箱に百円玉やら五百円玉を入れてくれるのが見えた。ホッとするやら、じーんと嬉しさがこみ上げてくるのを覚えたものである。結果的に、私のギター弾き語りには五千円余が投げ入れられた。もっとも、うち二千円は、さくらというか、誰も投げなかったらと相方が入れてくれたものだった。全額震災被災地に寄付した。

 それ以外にも、朝市などの舞台で数回歌った。スポットライトはなかったが、ライブ出演の願いが叶ったので、満足した。あとは若いひとにまかせ、いい年のおじんは表舞台から去るべきと引退した。

 ただ、とある高齢者のデイサービス施設のギター伴奏のボランテアだけは頼みこまれて数年引退できなかったが、最近めでたく退くことができた。

 しかし、歌う機会がないかというと、以前よりも増えているのだ。

 というのは、我が家は相方がアロエのネットワークを手がけているので来客が多く、弾き語りをやって欲しいとの声がかかるからである。大抵一人か二人だけなのだが、先ほどは「奇跡の柿」が話題になり、それを見に、埼玉、東京、千葉から次々に客があり、普段はハクビシンとか狐ぐらいしか訪れない限界集落なのに、大袈裟にいうと、我が家は観光地なみの賑わいだと感じられるぐらいで、十一名ということもあった。

 大勢の聴衆でも私はあがることはないが、少人数が適当と心得ている。

私の歌はオペラのように朗々と唄うというのではなく、ど演歌のように過剰なほどビブラートをかけておもいいれたっぷりに男女の色模様、嘆き節を唄うというのでもない。

 自分や身近なひとの生活や、日常のひとこま、周辺の風景などを、クラシックギターの伴奏とともに、情感を込めて、静かに、優しく、ときに哀愁をただよわせ、ささやきかけるように表現する、といった歌なのである。

 そんな私の歌に涙ぐまれる方は多い。涙を誘うのは、ナイロン弦のクラシックギター(ガットギターともいう)の生伴奏が大きな役割を果たしているとおもわれる。

カラオケは音に電気的な処理が施されているため、楽器音→電気的処理→音響機器→空気の振動→耳の鼓膜を振るわせる、といった経路をたどる。しかし、ギターの生伴奏は、ギターの弦の振動→空気の震え→耳の鼓膜、というように、カラオケよりも直接的にギターの音がひとに届くのである。そこに大きな違いがある。

 それに声も、カラオケの場合、マイク→アンプ→スピーカとやはり電気的処理をしてからひとの耳に届くが、私のギター弾き語りは、声も聞き手の耳に直接響くのである。

 要するにカラオケは声も楽器音も、本来持っているひとの声の精気が、音響機器によって減殺されるか別の要素が加味されてしまうが、ギター弾き語りは、声もギターの音も、何も減殺されず、加味もされず、その持っているそのものがストレートに聞き手に届く、といっていい。

 私は歌は心である、とおもっている。だから、心を込めて唄う。歌い手の心が伝われば、聞き手は感動するのである。

 素人のど自慢で、歌は決して上手ではない歌い手に、ついホロリとさせられてしまうことがある。これは、歌い手の一生懸命さ、歌に込められた心が聞き手に伝わるからなのだとおもう。

 私は歌は上手だとはおもっていない。だから、下手なのだからよけい心を込めなければと、懸命に唄うことにしている。歌の心がどれだけ聞き手に伝わるのかを歌唱力というとすれば、私の歌に涙するひとが結構いることから、技巧は乏しくとも、歌唱力はそこそこあるのかもしれない、と自負している。

 相方は、言う、
――あなたは心を込めて唄うこともだけど、歌詞に魂を込めて、それこそドラマを作るように唄うから聞き手に伝わるのよ

 それは、自分が作詞、作曲した歌だから、心を込めやすいし、ドラマを形成しやすいとも言えるのかもしれない。

 さて、最近我が家に来られる方のほとんどは、歌に感動するタイプである。

 以前は明らかに歌など嫌いとか、関心がないという種類のひともいた。

 しかし、そういうひとにはこちらのおもいが波動となって伝わり、自然来なくなったということだ。類は類を呼ぶ、というか、「引き寄せの法則」が働いているということなのだろう。

 歌が嫌いとか関心のないひとの前で唄っても、おもいが伝わるはずがなく、無反応、あるいはマイナスの反応では、徒労感が残るばかりである。

 以前、相方の整体のお客さんに、どこぞの高校で音楽の臨時講師をやっていたというひとがいて、相方が聞いて貰ってというので、一曲歌ったところ、

――ギターはいい音ね

 と、吐き捨てるように、のたもうた。歌は下手、曲も大したことはないとはいえないので、ギターの音だけ褒める他なかったのだろうが、私は苦笑を感じるばかりだった。

 この方、わたしは音楽の専門家で、あなたよりも上なのよ、素人のあなたの歌なんかめじゃないわ、といわんばかりの態度がありありと出てもいた。もし私が注目を浴びる著名な歌手とかシンガーソングライターだったら、おそらくあんなコメントをすることはなかったに違いない。

 ま、こういう方には分かってもらわなくてもいいので、その場を早々に退散し、以後はその方が来ても決して顔を出さないようにした。

 この方に私の歌が響かなかったのは、この方の鎧っているプライドが邪魔したせいだとおもう。

 ひとは、社会的地位、名誉、学歴、経歴、金銭、財産、出生、など様々な鎧を背負っている。そして、どういうものを鎧っているかでひとを評価するひとには、私の歌は響かない、とおもう。自分の鎧を脱ぎ、ひとの鎧もないものとして判断するひとでないと、私の歌は理解できないし、感動もしないだろう。

 また、世の中には、感受性の豊かなひともいれば、そうでないひともいる。より伝わるのは感受性が強く鋭いひとの方だということは理の当然だろう。

 我が家にこられる方をそれとなく観察していると、何かに実績のある方ほど私の歌に涙されるようである。

 別な言い方をすると、私のごとき歌にも感動するような感受性の持ち主だからこそ成功できる、と言えるのかもしれない。

 私は歌では何の実績もない。ただ好きでやっていて、好きが高じて作詞、作曲も手がけるようになったのだ。ギターも誰に習ったわけでもなく、教則本を参考に自己流に練習しただけである。

 だから、自分で作った歌を密かに歌って楽しんでいるだけでいいのだが、ま、聞いてみたいという奇特なひとがいる以上、それは光栄なことなので、練習を重ね、よりよい歌、あるいは独奏演奏曲などを作るべく、精進している次第である。

2017年02月16日