熟し柿

 我が柿農園の柿の木は百本余あるのだが、今年は数個から五、六十個の実をつけたのが九十本ぐらいある。つまり実をつけなかったのは十本ぐらいに過ぎなかったのだ。

 東京から農泊ツアーで来ていた女子中学生と一緒に、蜂矢柿の干し柿を作った。十個繋ぎを四連、納屋の軒下に吊るした。要するに40個の蜂矢柿を取ってきたわけだが、二つの竹籠に一杯だった。確か二本の柿の木から取って、取り切れなかったのだ。数十個成っている木もまだ大分ある。推定で女子中学生と取ったものの20倍ぐらいはありそうだから、800個は成っているのかもしれない。

 売って欲しい譲って欲しいという人が数人いるので、多分数日後にはなくなってしまいそうである。

 賑やかだった三名の女子中学生が帰った後、熟し柿を探した。熟し柿とは、柿が熟れ切って赤く柔らかくなった状態をいう。こうなるとじきに地に落ちてしまう。この熟し柿は甘くねっとりとして美味しいのである。柔らかくいたみやすいため、出荷はできない。だから市販はされていない。柿の木のある農家の人のみが味わうことができるものなのだ。私はこの熟し柿が大好きだ。

 今の時期は、この熟し柿がふんだんに取れる。柿畑の端からもぎり始めて、じきに竹籠が重くなった。数えてみると、八個あった。これ以上取っても食べきれないので、そこで中止。半分も取らなかったから、残りはそのうちに地に落ちてしまうか、カラスや小鳥が食べるのだろう。それでいい、とおもっている。

 柿を百本植えたというと、

――出荷するんですか

 という人が多かったが、私は、

――いや、出荷はしません

 と答えた。すると、不思議そうな顔で、

――なり始めたら食べきれないでしょう。それをどうするんですか

 と言う。

――人にあげるんです。他の野菜だって、ほとんど人にあげてしまうんですよ

――ふーん、もったいないなあ

――柿も同じで、取るのが大変なときはそのままにしておきます。そうすれば、カラスが食べるでしょう、ハハハ

 そんな言い方をすると、人は私を不審げに、あるいは呆れたような目をして見たものだが、出荷はしないものの、多少は売れるのだった。しかし、カラスに食べさせるというのはその通りになったようである。

 ともあれ、この熟し柿の甘さは格別だ。いろいろな方がケーキとか、羊羹とか、カステラとか、最中とか、甘いものを持ってきてくれるのだが、以前の私はこういうものが大好きだった。しかし、今は違う。頂くので食べるには食べるが、以前のような嬉しさはない。これらは砂糖をたっぷり使った甘さで、いわば人工的な加工を施した濃厚な美味しさで、最近の私は違和感を覚えてしまうのだ。

 これは熟し柿を食べながら特に感じるのである。熟し柿は、加工していない、自然のままの濃厚な甘さで、これが食べ物の本来の美味しさだと感じる。

 そしておもう。こういう自然のものを食べれは身体にいいが、加工した人工的な甘いものばかり食べていると身体によくない、糖尿病とか骨粗鬆症になってもおかしくない、といわれているが、それは実感として分かるのである。だから私は以前のように饅頭とか羊羹とかケーキをすすんでは食べなくなった。

 尤も、いくら身体にいい甘さだといっても、塾し柿は糖分が多いことは事実だから、食べ過ぎはよくない。私はこの旬の味の柿を多くても一日、二、三個にとどめることにしている。

 先日、宮城県の仙台市から来られたお客さんに、この熟し柿を進呈したところ、面白いことを言った。

――うちの方では、この熟し柿の赤く熟れて落ちる寸前のものを、「あんぽんたん」と言うんです

 私は、へえ、そうなんですか、と言いながら、クスリと笑ってしまった。このあたりでは、「あんぽんたん」とは、親しみもこもってはいるが、頭が悪いとか弱いとか、お人良しとか、といった意味合いの、人柄をからかい嘲り気味にいう場合に使われる言葉だからである。

2018年10月29日