老人斑が消えた

 六十才を越えたころ、主として手の甲に茶褐色の斑点が出てきて、年をとったなと自覚した。

 その頃は妻の介護をしていて自宅にずっといたので、身なりも無頓着で、介護に関する講演を頼まれても作業服と作業用のズボンで出かけて、世話役の女性に、それで講演されるのですか、と呆れられもしたが平気だった。

 妻が亡くなり、六十四才にして婚活を決意し、とある結婚相談所に登録した。エチケットとして身なりを整え、顔のシミをファンデーションで隠してパーティに出席した。手の甲は女性には見せないようにした。その結婚相談所には四ヶ月在籍したが、そこでは成婚とならず、その結婚相談所からの帰り道で今の相方に偶然出会ったのである。
 

 そして、彼女の家に入る形で同居してから、はや十年近い歳月が流れた。

 彼女が人生哲学を学ぶ人だったことから私も影響を受けて、哲学書を読むようになった。哲学は文学と深い繋がりがある。私は文学をやっていたことから、そのことが分かった。文学をやっていたから、すんなりと哲学に入ることが出来たし、なじむのも早かったのかもしれない。

 彼女は身だしなみには細心の注意を払う人で、当然身体のメンテナンスも欠かさない。人生哲学を学ぶために、とある塾やセミナーを常時受講していた。それは今も変わらず、月に数度埼玉県の大宮や浦和に通っている。

 現在の住所栃木県那珂川町から埼玉までは電車を乗り継いで、片道四時間弱はかかる。それを毎月数度、それももう二十年以上続けているのだから、学習意欲の程がわかるだろう。しかし、彼女が言うには、北海道や九州から日帰りで通っている人もいるというから、驚きである。飛行機があるので、それも可能なのだ。上には上がいるのだ。私なんか近い方なのよ、と彼女は言った。

 話を元に戻して、私は漠然とだが、人は中身が大事で、外見は二の次だと考えていたが、彼女は、

――人はまず外見から入るべき、とセミナーで習ったわ

 と言う。

――粗末な身なりをしていたら、いくら内面的に高貴であったとしても、そうは見られず、バカにされるわ

――反対に、たとえ教養がなく、中身が乏しいとしても、立派な服装をまとっていれば、人はひとかどの人物と見て、バカにしたりせず、それなりの対応をするものなのよ

――靴は常に磨いておくこと、ボロ靴や汚れた靴を履いて出かけてはいけない、足元を見られるという言葉があるだろう、人は靴を見てその人を判断する、ということだ、そう父親にいつもうるさく言われていたわ

 彼女の言うことには説得力があって、いちいち納得したものである。

 しかし、外見、見た目をいくら整えたところで、中身が伴わなければ見掛け倒しと言われても仕方ないだろう、ともおもう。ま、外見も大事には違いないが、それよりも中身で勝負したい、と私としては結論ずけた。

 ところで、手や顔のシミだが、これは外見ではあるが、年とともに増える。加えて皺も。これはありがたくないとおもう。手や顔は外見とはいっても、服や靴とは違って身体の一部である。年々年をとるのは仕方がないことだが、顔や手が老人染みることは内心では嫌だなあと感じていた。鏡に映る顔や白髪を見るたびに、老人化ということを突きつけられるおもいがするからである。

 ところが、異変が起こった。

 まずは顔の右目の横にあったシミが消えたのである。彼女と同居して2年ぐらいしてからだ。いきなり消えたわけではなく、徐々に、である。そして、あるときほとんどなくなっていることに気づいたのである。左頬からこめかみにかけてある大きなシミの方は残っているが

、これも大分薄くなったのだ。

 これは、自然にそうなったわけではなく、またファンデーションでカモフラージュしたわけでもない。私の身体が若返り、身体各部の細胞が活性化したからに他ならない。

 そして、それから四、五年たった現在、今度は手の甲の老人斑がなくなったことに気がついた。いや、まだ残ってはいるのだが、以前はびっしりといった感じで数十個はあって、いかにも老人臭いといった雰囲気を醸していたのだが、今はちょっと見た目には分からないぐらいで、よく見ると薄っすらと数個あるのみになっているのだ。しかも、皮膚につやが戻っているので、以前の老人臭さが消えているのだった。

 これは画期的なことではないだろうか。私は当年73才である。あと2年で後期高齢者の範囲に入るのだ。なのに顔のシミや手の甲の老人斑が消えるなんて、自分でも信じられないぐらいである。あり得ないことが起こったのだ。たかがシミ、たかが老人斑かもしれないが、これは飛び上がって万歳を叫んでもいいぐらい嬉しいことである。

 私は数年前から「七十代の青春」と題してエッセイを書いているのだが、本編もそのうちの一編のつもりなのだ。内容的にも題名にふさわしいといえるだろう。ある意味、この年にして本当に青春が蘇ったといえるのかもしれない。

 これは、私の心と身体が健康になったおかげなのだ。

 人生の三大不幸は、病気、貧乏、煩悶、といわれる。

 私は至って健康で風邪すらひかないのだからから、今のところは一つ目の病気とは縁遠い。そこそこの年金を貰い、彼女と農家民宿など開いているから貧乏でもない。

 人生の目標を定め、農業生活を生き甲斐と感じ、歓びを持って日々過ごしているので、三つ目の煩悶もない。

 哲学を学ぶようになったおかげで気持ちがぐっと安定した。心と身体は密接な関係があるので、心が安定すれば身体もよい影響を受ける。身体も健康になった由縁である。

 

2018年07月13日